このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ござ いません。
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wear4(前編)

 


 

 

 過去のひところ…セルゲーム前の1年弱ほどこの家から去っていた間、ベジータには時刻や曜日などまったく関係はなかった。その頃の彼の日常ときたら辺境をふらふらと訓練して渡り歩き、腹が減ってきたら適当に何か食い散らかして、適当に水など浴び、眠くなったらそのへんで寝るといった生活だったので、彼が仇敵と固執する『カカロット』のその頃の暮らしぶりに比べたら格段に粗野で非文明的なありさまだった。
 この星に来た当時に世界一の大富豪の家に運良く居着いた彼だったが、家の娘に手を付けて(或いは付けられて)子供ができたせいで彼なりに気まずくなってそこをあとにしそんな生活に身を投じていたのだったが、それでもまた戻ってきてしまったのはそんな非文明的生活に飽き飽きしてきたせいもあったろう。ここにいればうまいものはたらふく出てくるし、清潔な湯を好きな時に浴びられるし、着るものはかごに放り込んでおけば自分で洗わずともちゃんとプレスされて戻ってくるし、快適この上ない。なんといっても彼は王子様育ちだったし、星を失って後もフリーザの元を出奔するまでそんな日常の些末事は機械任せや人任せにして暮らしてきたからだ。

 そんなわけでこの巨大な家に戻ってきて7年…と言ってもずっと居着いているわけではなくやはりこの家に来た当時と同じく重力室にこもるかしばらく他所で訓練してくるかを繰り返しているのだったが…すっかり彼にも地球人の生活リズムというものが染み付いてしまった。3度の食事、起床就寝の時間、7日で一巡りする曜日のサイクル。

  「ねー、パパ、もう終わりにしようよー、金曜日だよ、7時半だよ、アニメ始まっちゃう!」
 100Gの重力の中、ベジータは汗だくの額の真ん中にシワを寄せて振り返った。振り返った先には8つになった一人息子が、重力室の床に四つん這いになって息をつきながら見上げてきている。

  「甘ったれたこと言うな!」
 「だってぇ、ずーっと見てるんだよ!予告見たけど、すっごく気になる回なんだもん!先週からずっと楽しみにしてたんだから!見ないと学校でだって…」
 「学校は休んでるところだろうが!武道会で勝ちたくはないのか貴様」

 まっすぐに髪を切りそろえたいかにもお坊ちゃん的な息子の後頭部に一発食らわせてやろうとした瞬間だった。「いいかげんにしなさい!」 

  部屋の外部コンソールから強制的に重力がオフされて、ベジータの内臓はヒュンと飛び上がったような気がした。ヒュンとなったのはスピーカーから流れてきた怒鳴り声のせいもあったろう。「朝っぱらからずーっと篭もりっきりよ、もう晩ごはんの時間!武道会迫ってるから焦ってるのはわかるけど、いい加減にしてふたりとも出てきなさい!」

 この外部コンソールをこのように扱えるのは認証物理キーを持っているただ一人である。がちり、とロック解除の音がして、その声の主が憤然として入ってきた。そしてベジータと息子にふわふわのタオルが投げつけられた。
 「ああ助かった。ママサンキュー」
 「ちゃんと汗拭いてねトランクス。そのままソファとか座らないで頂戴よ」
 嬉しげに重力室から駆け出していく息子を苦虫を噛み潰した顔で目で追っていると、鼻先に妻のブルマの青い瞳がつきつけられた。この夫婦はほとんど背丈が同じだったので、向きあえば自然ベジータと同じ目の高さに相手の目がくるのだった。

  「やっと仕事終わって帰ってきたってのにまだやってるとかバカじゃないの。二人で朝から晩まで修行でさ。つまんないったらありゃしないわ。チチさんに一日早く来てもらえばよかった」
 強気な光を宿した青い瞳が怒りを込めてベジータを批難した。ベジータはこの、母星ではありえないような青い瞳を見るといつも落ち着かないような気持ちになる。それは下世話な言い回しをすればムラムラするという意味もあるし、かなわないという意味合いでの居心地の悪さでもあるし、でも見ていたいような気分でもあったりする。はじめてこの瞳にそんな感想を抱いたのがいつからだったかもはや忘れてしまったが、ともかくベジータはこの瞳には弱かったので、視線をそらして頭からタオルを被ってやり過ごそうとした。
 それを見て妻はふん、と鼻を鳴らし、踵を返して捨て台詞を残していった。「あと9日だから追い込みなのもわかるけどさ、あまり試合前に無理したら疲れがたまるだけなんだからね。あーあ、ご飯食べて寝よ寝よ。明日も休日出勤だわ」

 最近あの女は機嫌が悪い、と、シャワーの湯を止めて、広い額を流れ落ちる雫の中でベジータはまた苦虫を噛んだ顔をした。武道会に出場することを決めて以来重力室で鍛え直す必要があったので、彼にしては珍しく長いことどこにもよそに出かけずに訓練していた。そのせいであの女は調子に乗っているのだ、とも思った。もう自分がすっかりこの家に居着いて飼いならされたと思っていやがるのだ。

 週末だからなんだというのだ。アニメとやらがなんだというのだ。晩飯の時間がなんだというのだ。なんでそんな時間の単位に訓練を縛られなければならないのだ。
 風呂から上がり、自室の巨大な窓から外を見る。4月も末の西の都は、盛りにかかってきた春の美しさに浮かれ、あちこちでライブやらコンサートやらのイベントが開かれている。夜景にいつもより彩りを添える様々な色の照明はこの都のはずれの巨大な建物の高みからもよく見えた。建物の広大な庭には、丹精されたバラがそろそろ開き始め、麗しい青い香りを添えようとしていた。庭のあちこちにライトアップされてそびえ立つ椰子のシルエットが、誇らしそうに星の少ない空を見上げている。

 栄えている街。それを見ると、未だにベジータはおのれの何処かでそれをめちゃくちゃにしてやりたくなる衝動が疼くのを感じる。おのれが壊してきた幾つもの星の都を思う。崩れ去る白く高い建物。満月を背に闇の中に焔を噴き上げ燃え上がる街。その中を逃げ惑う人々。それを踏み鳴らして歩く大猿の影。

 おのれは、おのれはそのようなものだったはずだ。それがどうだ。なぜ、この都に感じるそのような衝動に、罪悪感を抱かねばならない。
コーラの入ったコップがあっけなく骨太の手の中で崩れ、微小な泡が指の上を騒ぎベジータから逃げ惑うように零れ伝っていく。己がこのようになってしまったのはいつからだ、とベジータはいつも自問する。そしてすぐ答えに行き着く。それは間違いなく、一度死んで生き返ってこの星に暮らすようになってからだと。

  一度死んでいた間のことはベジータは身体を得ていなかったせいかよく覚えていなかったのだが、身体を得て界王の星とやらで修行していた連中の弁によると、あの世とやらは昼も夜もなく、食べても食べずともよく、寝ても寝ずともよく、その気になれば果てしなく修行に打ち込めるところなのだという。その割にあまり力をつけていなかったのだから信憑性は疑わしいところだったが、もしその言が本当だとするとだ。
 最近ベジータはおそれ始めている。武道会の日が近づいてくるにつれ焦っている。来週戻ってくるはずのあの男はそれこそばかみたいに鍛え三昧の7年を送っているのではないか、と。明日こちらに来るという、あの騒がしくて気の強い妻女の束縛から逃れて、サイヤ人の本能の赴くままに。

 そんなのに、自分は勝てるのだろうか。この世は、この星は、強くなりたいという心を萎えさせる。あの男の息子がサイヤ人の血を引きあそこまで強くなっておきながらまったく精進を忘れてしまったように。

 


  「全くやんなっちゃうわ、ほっとくと本当に朝から晩までなんですもの」

  肩パッド入りのブルーグレーのジャケットを脱衣室の籠に落とし入れながらブルマはまだぶりぶりと怒っていた。部屋を分けているせいもあって、結局ゆうべはあれから顔を合わせなかったし、あの馬鹿王子ときたら今朝もろくに目を合わせようとしないでさっさと朝食を食べ終わったらまた息子を重力室に引っ張りこむ始末だ。

  「まあまあ。それは悟空さだってそうだったべ。サイヤ人ときたらホントに修行に熱中したら昼も夜も無いんだからなあ。やんなっちまうべな」

 連れ…孫悟空の妻のチチが高い襟の服のボタンを外しながら笑った。そうね、とブルマはそのいかにも田舎臭いおっとりとした口調に何処か気抜けしながら笑って相槌を打った。ブルマが先日、自分が若い頃から通っている高級エステを紹介してやろうかとこの7年来の友人に電話で誘ったので、土日泊まりがけで遊びに来たのだった。休日出勤のあとの予約だったので会社に来てもらってそこから一緒に出かける予定だったのに、なかなか仕事が片付かなかったために予約もずらしてしばらく社長室で待たせる羽目になってしまったのだけど。

 

 来週日曜日、つまり8日後が、もうだいぶん久方ぶりの天下一武道会である。それに合わせて前々日の金曜午後から5日間の休みを取ると決めているために、現在社長の任にあるブルマは今しゃかりきに働いている最中だ。休みの間の会社の面倒はある程度今は会長となっている父親に任せることにしているけれど、元来ブルマは仕事を人任せにするということが苦手だったから、なるべくやれる仕事は片付けていこうと思っている。だからこの1週間はずっと遅くまでの残業続きだった。
 そのくたびれた体から窮屈なダークグレーのスーツ、胸元の空いた光沢あるシャツ、特注のグレーモカ色の下着、ガーターに止められたパンティストッキングと衣類を次々と引っこ抜き、あっという間に素っ裸になったブルマは脱衣所の反対の壁に陣取った友人を見た。なんだかんだ、やっぱり、いや、意外と若いな、というのを思った。
 長く伸ばした髪はつやつやと(さっきカットの時濡らされて更にトリートメントスプレーを掛けられたせいもあるだろうけど)暖色の明かりに照らされ、白い背中に流されている。いつも体を包んでいるゆったりとした袖の下衣を落とした肩には飾り気もない上品なすみれ色のブラジャーの紐が黒髪の隙間からのぞいていて、その薄い布地は無駄な肉のない背中から意外と豊かな前方の膨らみに続いているのだった。いつもこの豊かな髪をぴっちりとひっつめて、この肢体を詰め襟の禁欲的な服の奥に隠してしまっているというのは、同性から見てもなにかどうにも惜しいことをしている気がした。

 

 「ああ、いいお湯だ、極楽だべ。この後マッサージと全身トリートメントだか、楽しみだなあ。ありがと、ブルマさん、こんないいとこ紹介してくれて」
 「いいのよ、もう来週だしね、孫くんに会えるの。綺麗にしとかなきゃあ。明日は服とかも買いに行きましょ」
 ふふ、とサイドから垂れた黒髪を掻きあげて照れくさそうに友人は大理石の浴槽の角向かいで笑った。「一人だけこんな贅沢して、悟飯と悟天に悪い感じだべ」
 「あの子たちも頑張ってる?」
 「んだ。今日明日と二人で山にこもって最後の猛特訓だべ。来週は試合前だし体回復させるために少しずつメニュー減らしてかねえといけねえしな…悟空さも今頃あの世で修行しまくってんだろなあ」

 とおくとおく、はるか遠くにいるそのひとの名を口にする時、もう40の坂が見えてきたはずの友人の瞳はうっとりと少女のように輝き、湯に含まれるバラやら何やらの香りも相まって背景にさながらお花を背負っているようだった。その、酵素入りの湯を白い手で掬ってはたいている頬が赤いのは、湯の温度のせいばかりではあるまい。

 「孫くんも男冥利に尽きるわよねえ、まだこんなに愛してもらってんだから」
 ブルマは豊かな胸を天井に突き出しながらなかば嘆息気味に言った。浴槽の角向かいで、赤くしていた頬がさらに赤くなった。「何だべ急に。やな人だなあ」
 「だってそうじゃない。会えるその一夜にかけてこんなに胸ときめかせちゃってさ。まるで初夜の前の花嫁さんみたいよ。
ね、初めてのときってどうだったのよ?やっぱり孫くんたらなんにも知らなかった?チチさんがリードしたの?」

 湯をかき分けて隣ににじり寄り、のぼせんばかりに真っ赤になりながらもぼそぼそと白状する友人を至近距離で見ながらつくづく改めて思う。ああ、あの生意気な少年だった男は未だにこんなに愛されてるのだと。
 そう思うとなんだか嬉しいんだか哀しいんだかよくわからないような感情がブルマの湯の中の胸の裡に湧き上がってきたのだったが、とりあえずケラケラと、武道会終った晩が楽しみねえ、いっぱいかわいがってもらいなさい、と肩を叩いて笑い飛ばしてやった。風呂から上がってオイルマッサージを受けながらぼんやりと眠気に曇った頭でブルマはなお考える。このうっすらと広がる哀しみの正体は何なのだろう。

  多分、それは、数奇なことに同じ宇宙人を愛しながらも自分だけが幸せな日々を暮らしていることの後ろめたさから来ているのだろうと思う。世界に冠たる大企業の社長はそう自己分析した。だが、

  幸せ?

  たしかに、自分は、自分たちは、そうなのだろうか?

 仕事し過ぎで疲れているのだ、とブルマは長いまつげをきつく伏せた。この考えは、疲れていると定期的にブルマの中で頭をもたげる悪魔の囁きのようなものだ。忘れよう、とりあえず、一週間後に楽しいイベントが終わるその日までは。

  閉じた視界の向こう、甘い爽やかなオイルの香りに混じって、カーテンを隔てた隣でエステティシャンのお若いですねえというお世辞にはしゃぐ友人の声がうっすらと聞こえてくる。体にかけられたタオルの感触がなんだかいつもより違和感で、身を委ね切るような気にはなかなかなれなかった。

 


 

 その晩、『騒がしくて気の強い』のが来ているとわかっていたためベジータとしてはあまりそちらの方面に近づきたくなかったのだが、自室のある階の手洗いに行った帰りにその辺をウロウロとしているカカロットの妻女にうっかりと行き会ってしまったのだった。

 「ああ、助かった。ほんとこの家広いだな、いっつも迷っちまう。ベジータさんのこと探してたんだべ」

  ベジータは一瞬目を瞬いた。カカロットの妻女ときたら、家からわざわざ持ってきたのだか知らないけれどもいかにも着慣れた風の淡い光沢のある杏色のパジャマにグレーの薄手のカーディガンを羽織って、いつもかたくまとめている髪も下ろして、まるで自宅のようにくつろいだ格好だったからだ。一瞬、だれだこれは、と思ってしまったというのもある。ともかくベジータは眉を顰めて顔を取り繕い、なんでまた自分などのことを探していたのか、とぶっきらぼうな口調で問うた。なんでも1階のメインリビングで二人で酒をかっくらっていたらブルマがすっかり寝こけてしまったから部屋に連れて行ってやってほしいというのだった。ブルマの部屋があるのはこの3階だったので。

 仕方ないのでベジータは真夜中なので光量を落としている廊下を先導して歩き出した。ここで勝手に寝かせておけと突き放すのは簡単だったが、そうするとなんだかこの女の夫であるあのカカロットと比べられて低く見られるんじゃあるまいなとか考えたからだ。何度かこの女はこの家に今日みたいに遊びに来ることがあったけれども、そういう意味でベジータはこの女と顔つき合わせるのが苦手だった。後ろからフラフラと千鳥足でついてくるこの女が。

 

 ダイニングの続き部屋になっている、広いリビングの端の方のバーカウンターに近い一角では、会長婦人が丹精している観葉植物の鉢たちの間に置かれたローソファの上で、果たしてベジータの方の妻女が短い髪を乱して正体もなくひとり寝こけていた。側によると濃いブランデーの香りがした。
 「だいぶお疲れなみてえだな。社長さんも大変だ」
 そばに膝を立てたカカロットの方の妻女がブルマの顔を覗き込みながらさも同情したようにつぶやいた。余計なお世話だ、となんとなく悪態をつきたくなったベジータだったが、ふん、と鼻を鳴らしてブルマのからだの反対側から同じように膝をついた。抱えあげようかと手を伸ばそうとした刹那、不意にカカロットの妻女が黒い眼差しをベジータにまっすぐに向けてきた。

 「ベジータさんも、ずいぶん、悟空さに会うの楽しみにしてくれてるんだってな」
 「なっ」

 酒を飲んでも居ないのにベジータは真っ赤になった。どうせこの女が電話ででもべらべら喋ったのだ、と足元に寝っ転がる肢体を憎々しげに見下ろすと、コロコロと黒髪の女が笑った。「うちの悟天ちゃんがな、トランクスくんがそう言ってたって。あと何日だ、とか言ってニヤニヤしてるって」

 あいつか!ベジータは突っ立った黒髪を打ち振って、絨毯に尻をついた。明日は今日より倍のメニューでしごいてやる!
 照れ隠しにそばのグラスを煽るとそれは飲み残しの水割りで、喉の奥を年代物の木樽の芳醇な香りが駆け抜けていった。ベジータはそんなに蒸留酒に強い方ではなかったので、喉の奥で微かに咳をした。
 「おらもな、すっげえ楽しみだ…おんなじだな、あくしゅ」
 「馬鹿か」なおも喉の奥で咳をしながら差し出された白い手にそっぽをむいて悪態をつき、ベジータは脇からブルマを抱え上げた。

 2階に客間があるため、黒髪の女はベジータのあとを雛鳥のようについてきた。酔っ払っているせいか、室内履きを履き忘れてペタペタと裸足で、目をこすりながら。時刻は午前1時半。
 ブルマはベジータの背の上で、すうすうと安らかな寝息を立てている。それがうなじに当たってくすぐったく、ここのところ月のものやら忙しいやらでご無沙汰だったためにベジータは妙な衝動が現れないように気を張って歩く羽目になった。うふふ、と後ろから少女みたいな笑い声がした。
 「なかよしだなあ。なかよしなのはイイことだべ。おらも悟空さにはやく抱っこしてもらいてえなー」

 相当酔っ払っていやがるな、と苦虫を噛み潰しながら薄ら暗い廊下を歩く。過ぐる年ブルマが社長になった頃それまで住居と同じ建物にあった本社機能を別に移したためこの巨大な本棟は一家だけのものになったのだが、そのがらんとした空間に横たわる深夜のしじまの中、酔っぱらいはなおもとりとめのない話を続けてきた。明日はブルマと服を買いに行くだの、新しい料理にチャレンジしてみるけどうまくいくだろうかだの。

 「やかましい」ついに閉口してベジータは振り返って文句を垂れた。「いい歳して浮かれやがって。当日めかしこんでドレスなんて着てくるんじゃないぞ、見てるこちらが恥ずかしい」
 「やっぱそうだべかなぁ〜」思ったより近くにあった黒い瞳に、みるみる涙が溜まってくる。この女に対してもほぼ同じ背の高さのためにまともに目撃してしまったベジータは狼狽した。狼狽して赤面してフォローになってるのだか怪しいフォローを入れた。
 「そういうのは、家に帰ってから存分に見せてやればいいんだ」

 長い黒いまつげでぱちぱちと涙をはじいたあと、酔っぱらいは廊下に響かんばかりの声で笑った。
 「ベジータさんもあの頃に比べたら隨分優しくなったもんだべ。覚えてるだぞおら、昔おめえおらのこと殺そうとしてただろ」

  さっきの水割りのアルコールが少し回っていたのか多少ほのぼのしてたような心持ちにいきなり冷水をぶっかけられた気がした。ベジータの唇はかすかに震えた。さっきとは別の意味で狼狽している自分がいる。その狼狽を自覚したことに狼狽している自分がいる。
 そうだ、おのれはそのようなものだったはずだ。自分は、昔、この星に来た頃にこの女の夫にどうしてもかなわないことに苛つき、このままなら歯牙にもかけられないだろうことに苛つき、いっそこの女を穢せば、殺せば、本気になって闘い殺し合えるかとまで思い詰めたのだった。そう思って一度、この女の前に現れたことがあったのだった。その時には結局危害を加えるはるか前にその企てはくじけてしまったのだったが。

  大声を出してしまいそうになったが、かろうじて思いとどまったのは背中で柔らかいガウンに身を包んで眠っているブルマの重みとその体温のせいだった。反撃はぼそりと小声で行われるに過ぎなかった。
 「そんなわけがあるか。また武道会でカカロットのことを、昔のように完膚なきまでに叩き潰してやる。覚悟しておけ」
 「はいはい、でも悟飯ちゃんにはお手柔らかにな」子供でもあやすかのように5つも下の女は天井の照明に黒髪に輪を作りながら微笑した。「悟空さもきっと楽しみにしてるべさ。でも悟空さは負けねえだ。あの世で修行しまくって、きっともんのすごく強くなってるだ」
 「貴様…」
 「そうでなければ、おらが許さねえ、おらをほっぽってその道を選んだんだもの」

 微笑が消え、ゾッとするような低い声が長い前髪の隙間から流れてきた。エレベーターが折り良く着き、一行は無言のままそれに乗り込んだ。2階でひらひらと手を振り女はまた微笑を浮かべて降りていったが、ベジータは半ば呆然として閉扉ボタンも押さずにエレベーターに残されたままだった。

 

 ベジータの胸の裡に、密かにわだかまっていた恐怖がはっきり形をなしたのはこの時だった。昔どうしても超サイヤ人になれず焦っていたあの頃のように、どうあってもおのれはあの下級戦士に追いつけないのではないのか、と。
 あの頃は、あの男がサイヤ人の概念にない『愛』とか言うものを得たからこそではないかと疑った。そして自分も試してみた。が、どうだ。自分はそれで強くなれたか。しかと強くなったと胸を張って言えるか。ぬるま湯につかっただけではないのか。
 そして今、あの男はそのぬるま湯から脱して、再び現れようとしている。それも、けして自分と戦うのだけが目的ではない。組み合わせ次第では戦えないかもしれない。おれは、あいつが他のものと戦ってその力を楽しそうにひけらかすのをただ指を咥えて見ているだけかもしれないのだ…!

  絶対的強者という点で言えば『カカロットの息子』である悟飯が現実には立ちはだかっているはずだったのに、どういうわけだかベジータが徹頭徹尾ライバル視しているのはあくまで『カカロット』本人だった。悟飯自身がどうも強くなる気がなくて父親よりもさらに暖簾に腕押し柳に風状態だったというのもあるし、自分よりはるか年少のものを付け狙うのも大人げないとベジータ自身が思っていたせいもあろう。『カカロット』はベジータの5歳年少だったが、目の前にあらわれたときには既におとなだった。己が攻め込んだはずの星を抱え、家族を抱え、守るべきものだと傲然と反逆してくる憎むべきあいてだった。
 自分と同じ星に産まれ、同じ民族の血を引いている。だが血統で言えば天と地ほどの差があるはずだった。サイヤ人が数千年営々と築いてきた、決定的な差が。だが最後の純血であるあの男は革命者のようにそれを覆したのだ。数千年の強さへの妄執をあざ笑うかのように。サイヤ人すべてへの侮辱かのように。それならそれらしくこちらを叩き潰せばいいものを、憐れみをかけて助命し、下に見て、この星を守る手駒扱いまでして!

 「ん…?どうしたの…ベジータ」
 ベジータが背中のブルマを放り落としたのは、ブルマの部屋の寝台ではなくて自分の部屋の寝台だった。苛立ち紛れにめちゃくちゃに組み敷きたい気分だった。
 だが、またすぐ安らかに寝息を立てはじめた『妻』を見ると、その気持は急激に萎えてしまった。ここでこの女を犯したところでなんになる。それをしたら、自分は戦う前からあの男に、一人の男としても決定的に負けてしまう気がした。

  ベジータは大きな寝台の隅の方でタオルケットをかぶった。ぬるま湯に浸かっていると自認してはいるものの彼はなお孤独だった。このような内心を、他ならぬ『カカロット』本人にしか吐露できないのが、ベジータにとっての何よりの悲劇だった。 

 

 戻ってくるあの男が得るのは、家族挙げての歓待だ。溢れんばかりのあの女の情愛だ。勝負に勝って、あの女手ずからの馳走をたらふく食い、あのパジャマに隠された細身ながらも柔らかく肉づいているであろう肢体を思うさま組み敷き一夜を明かして、いかにも幸福そうにそのまま帰ってゆくあの男の勝ち誇った顔が脳裏に浮かぶようだった。
 その傲慢にはどうしても土をつけてやらなければ収まらない。どうにかして闘い、このような自分に決着をつけなければ、この先にもある長いおのれの人生に禍根ばかりが残ってしまう。

 

 どうすれば、おれは、もとのおれに戻ってあいつと闘えるのか。どうすればもとに戻って、またあの女に宣言したように完膚なきまでにあいつを叩きのめせるのか。

 タオルケットを頭からかぶって広い額の中で彼はひたすら思いつめる。しかし、もとに戻るためにかつてのように周りのものに直接手をかけようと企むには、すでにベジータは多くのものをこの星で背負いすぎていたのである。

 

 (後編に続く)



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