このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ござ いません。
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 東の439地区は大陸の東エリアと南エリアを区切る山脈帯の一番東の山塊のふもとにあって、四方を山に囲まれたごく小さな盆地状の高地である。故に緯度の割には冷涼だが、夏は時折フェーン現象が起きてかなり暑くなる。冬は冬でかなり冷える。この冬は特に、例年ならあまりちらつかない雪もちょくちょく舞うほどで、この地にへばりつくように田畑を耕して住む年寄りたちの身骨を芯まで冷えさせている。
 悟飯はそんな村のほとんど唯一の幼い子供だったので村の年寄りたちに非常に可愛がられていた。今も、隣家の老夫婦が揃って風邪を引いているというので、母親に言われて差し入れなど持って行った後にそこの家の犬たちを村を1周散歩させてきて餅を駄賃にもらって帰途についたばかりだった。
 わんわん、と巻き尾を振りながら吠える茶色の短毛の犬たちに手を振って、よく晴れた夕暮れの空を振り仰ぐ。そこに山から吹き下ろしてくる風が吹き付けてきて、思わず母親手編みのマフラーに今日の昼に散髪してもらった黒髪を埋めるようにして首を引っ込めた。舗装もされてない、軽トラの轍のついた道を、自分の長い影を追いかけるようにして歩く。自分の影は、同じ年頃の遊び相手のいない悟飯にとっていつも外遊びでの大切な道連れだった。
 そばの生け垣には柊が白い花をとげとげの葉に隠れるように咲かせていた。その横にはまだ硬い蕾だけれども、沈丁花の丸い花むれの姿。
 こんなに寒いけれどももう2月なかば。随分陽も長くなってきた。もうすぐ春だ。
 悟飯は微笑み、暮れなずむ影の向こうに台所の明かりを灯している我が家へ向かった。今日は修行も休みの日曜。家で、両親が待っている。今晩は確か餃子とか言っていた。また、家族3人総出で餃子をいっぱい包むのだ。
 父親が二ヶ月近く前まで宇宙に行っていて長く不在だったころにはそんなことも心底楽しめなかったことを思い、ふふ、と白い息をマフラーから漏らして、幼子はスニーカーを鳴らして道を急いだ。はやく帰ろう。平凡な幸福を取り戻した、あの白い丸い家へ。

 大量の餃子をぺろりと父親とともに平らげ風呂に入り、上がってくると晩のアニメの時間である。今(学校にまともに行っているなら)まだ小学1年生の悟飯にとっては、日曜は朝から楽しみにしているアニメをいろいろ見られるという意味でも嬉しい曜日だ。日頃は勉強勉強とうるさい母親だが、『日曜日はお休み』という確固たる信念があるためかこの日ばかりは厳しくは言われない。
その母親は夕食後のこの時間には大量の洗い物をしている。父親は悟飯の今腰を下ろしたソファの手前のじゅうたんに座り込み、珍しく本など開いて難しい顔をしている。父親はどういう風の吹き回しだか、今『クルマのメンキョ』をとるために修行を午前中で切り上げて毎日教習所通いをしているのだった。
 「どう?木曜の試験うかりそう?おとうさん」アニメがエンディング後のCMになったところで悟飯は後ろから本を覗き込んで話しかけてみた。
 「わかんねぇ」どんな難敵に向かい合った時よりも弱り果てたような顔で父親はぼやいた。「標識覚えるので精一杯だ。よくこんなんみんな覚えてウンテンしてるよな、えれーよ」
 「そのくらい覚えてるのが大人として当たり前だぞ、悟空さ。車運転する人ばかりじゃなくて歩行者だってちゃんとそれ見て歩いてんだからな。悟飯ちゃんにちょっとお勉強の仕方でも教えてもらうといいんだべ」母親が手をタオルで拭き拭き、笑顔で振り返って父親のことをからかってきた。お風呂は、と母親が問い、父親がおう、と応える。そんな、昔…と言っても3年ほど前の、あのカメハウスに父子で行った日以来だけど…そう、昔と同じ夕食後の団欒の光景だ。

  「そういうわけだから、今週は木曜日までおらが着いて午前中も学科の猛特訓だ。ピッコロに悟空さは修行お休みするって伝えといてけろ」
 父親は風呂に入りに行き、母親がソファの前のテーブルに甘くしたホットミルクを出してくれながら自分もアニメのあとのドラマを見るためにじゅうたんに腰を下ろした。サイドボードから手荒れのために塗りこむハンドクリームを取り出し、白い指に広げている。
 母親は続けた。「木曜はおらも応援に行ってやるだ。一発で合格すればいいんだけどな」
 どうだろう、と悟飯は思った。あの調子だと何回か落ちることになるのではないか。ただでさえ次の3年後の人造人間とやらとの戦いに向けて一刻を惜しんで修行に励みたい時期なのに、父親はそんなことにかまけていていいのだろうか。
 「そんなこと、な」母親はどこか意味ありげに父親がテーブルに置いていった教本をめくって笑った。「悟飯がいつも言ってるでねえか、おとうさんはいざとなったらすごいんです、って。だったらきっと大丈夫だべさ…免許取ったら、どっか連れてってもらおうな」
 「うん」
 「さ、悟飯ちゃんは明日も修行だべ、温かくしておやすみ」
 促されて子供部屋に入り、ベッドの中で図書館で借りてきた本を寝転がりながら読んでいると、ぬくぬくとして眠気が襲ってきた。明かりを消して再度ベッドに潜り込む。母親がつくった、中綿入りの柔らかい生地をキルト風にステッチした、いささかもう子供っぽすぎる感じの温かいベッドの上掛け。そして羽布団、暖かな毛布。窓の外では、カーテンの隙間から、冬の冴え冴えとした星々を吹き飛ばすかのような勢いで風が鳴り裏の笹の葉をざわめかせ、雲の切れ端を暗闇へと流していく不吉なような様が覗いている。

  でも、ここなら安心。温かい。ここなら大丈夫。あの荒野での日々、あんなにも帰りたかった、この家ならば。

  ドアの向こうの居間の方から、風呂から上がってきたのだろう父親が、母親とふざけあっているような楽しげな声がうっすら聞こえてくる。半月ほど前まで…父親が帰ってきてから一ヶ月近くも、母親が機嫌をいたく損ねていて聞くこともかなわなかった楽しげな両親の会話。悟飯はそっと枕にもう一度熱くなりかけた目元を埋めて優しい息をついた。
 幸福。この幸福が、どうか、どんな病にも侵されず、3年後も、その先も、ずっとずっと続きますように。

 


 

 この時代免許取得はかなり簡便になっていて、タイヤ走行の車であればこの辺の人はだいたいそのへんの田舎道で練習して教習所に行き審査してもらい、簡単な学科試験を受けて免許をもらって帰ってくるといったあんばいだったが、夫が取ろうとしているのはチチが普段乗っている反重力機構付きのいわゆるエアカー免許だった。覚えることや空をとぶために気を配るべきことが多いために少し教習や学科も時間が余分にかかるし難しい物になっている。より高度が高いところを飛べるスカイカーやフライヤーはもっと難しいからそれに比べれば簡単なものだったが、それでも夫は普通の人がのべ10時間かそこらの実技と学科試験でとれる仮免をとるまででも散々苦労する有様だった。今現在も苦労している学科部分で2回も落ちたのである。息子が昨夜心配していたのも無理からぬ事だった。
 しかし、どうにかこうにかそれにも合格し路上教習にも進み、あとは木曜の本試験を終えるのみだ。つまりもうしあさってである。朝から夫はリビングで教本と首っ引きだ。

  朝飯の片付けを終え、息子の弁当を詰め、学校ならぬ修行にそれを持たせて送り出してやって、掃除、洗濯、etc。そんな午前中のルーティンワークをこなしながらチチは茶を出しがてらなど時折様子をうかがっていたが、かなり煮詰まっている。何しろ勉強らしい勉強をしたことがないものだから、どこいらへんにヤマを張るとかそういうことができなくて素直に教本を頭から覚えようとしてしまうみたいなのである。

  「しかたねえだなあ。試しにこれでもやってみるがええだ」

  チチは昔自分が免許を取るときに使った教本に、模擬試験が巻末に載っていたのを思い出してクローゼットの奥から引っ張りだして与えてみた。「制限時間は30分だ。終わったら昼飯だからな。さ、はじめ」
 夫はうんうんと唸りながら問題を解き始め、チチはそれを聞きながらタイマーを掛けて、昼飯の野菜炒めを作り始めた。野菜炒めができ、夫の腹の虫がぐうぐう鳴り始めた頃にタイマーが鳴った。メシ、メシ、と急かすのを押さえて、採点してやる。
結果は合格には程遠かった。9割解けてないといけないのに、半分しかとれてなかったのである。よく本試験で出てくるようなひっかけ問題などことごとくアウトだった。

 「なんでこれがだめなんだよ」
夫は珍しく腹を立てながら野菜炒めを口に放り込んでいた。相当ストレスが溜まってるなあ、と内心嘆息しつつ、久しぶりにふたりきりになった昼食を食べ進めていると、大きなため息が聞こえ、夫が言った。
 「なあ、やっぱしオラ無理じゃねえかな。わりいけどもう」
 チチは卓の向かい、花瓶にさした椿の花の向こうから夫をにらんだ。「何言ってるだ。ここまで頑張っておいて。言い出しっぺは悟空さでねえか。せめて本試験まで弱音はかねえで頑張ってみたらどうだべ」
 夫はしゅんとなって、でも、そうだよなぁ、とかブツブツ言っている。

  実のところ、チチはそんなには期待していなかった。何のつもりか知らないけれど、夫が免許を取りたいとか言い出したのは宇宙から帰ってきてひとつきほどして、どうにか二人の間の冷戦状態がおさまったすぐ後の事だった。どうやらチチの父親である牛魔王が冷戦真っ盛りの頃の正月にやってきた際になにやら夫を焚き付けたらしいのだが、その辺の詳細は聞いていない。
 でも、夫がこの数週間、大好きな修行もそこそこにして息子いわくの「そんなこと」に時間を割いて取り組んでくれるのは素直に嬉しかったし、だからできるだけ応援してやろう、とずっとそれなりに支えてきてやったつもりだったのである。それなのに今更こんなこと言い出すなんて、となんだかだんだん腹が立ってきた。しかし、ここで自分が腹を立ててまた喧嘩でもすれば、本当にこの人は免許を取ることを諦めてしまうだろう。

  「な、頑張ってけろ。免許取ったら二人でドライブ行こうって言ったの悟空さでねえか。おら楽しみにしてるんだから」チチは椅子の後ろから夫のよく鍛えられた首元に抱きつき、ボサボサの髪をなでてやった。胸元に押し当てた頭が子供のようにこくんと前に倒れて頷いた。こういう時は変に照れたりしないのである面もう母離れがすんでしまった息子より扱いやすかった。「なあ、免許取れたらお祝いしたげるだ。なんか欲しいもんねえだか?」

  ちょっと考えて夫は振り向いて答えた。「セーター」

  「は?」

  「だって毎年冬口に編んでくれるのに、この冬は宇宙行っててもらえなかったからよ。悟飯が今よく家で着てるじゃねえか、白くって、前開きのチャックついてて、裾に鹿みたいな模様入ってるやつ。あれ編んでやったんだろ、あれとお揃いのがいい」

  う、とチチは一瞬怯んだ。あれだって家事の片手間に編んでやったのだが、それなりに日数がかかっているのである。編むスピードには自信はあったが、間に合うだろうか。どうせなら免許が取れたらすぐ渡してやりたい。
 「わかっただ。おら木曜までに頑張って編む。受かったらその時渡すだよ。だから悟空さも頑張ってけろ。落ちてまた次とかダラダラ言ってたらセーターの季節終わって着られなくなっちまうぞ!」

 

  その日はそれから大変だった。昼飯を片付けて夫の採寸をして、二人でチチの運転で街まで行き(その間も運転の手順など夫に確認しつつ)、夫はその街の教習所に行きチチは必要な毛糸と晩飯の食材を買って急いで帰ってきた。帰ってきて、食材の下ごしらえをして、編物の本を引っ張り出してきて一応編地が狂わないための型紙を作り、編地の長さを見るための試し編みのゲージをつくり、ようやく編み始めたところで日が暮れてきて息子が修行から帰ってきた。もうそんな時間かと慌てて洗濯物を取り込んでたたみ、忘れてた米を炊き始めたところで夫も教習所から帰ってきた。超特急で晩飯を作り、食べさせる。自分はさっさと食べ終えて風呂を沸かしてやる。見かねた息子が洗い物を手伝ってくれて、ようやく本格的に編み始められたのは晩も8時を回ってからの事だった。

  「おかあさん、そんなに慌ててたら間違うよ」
 風呂あがりの息子が自分で牛乳を出して冷やのまま飲みながら心配そうに言った。そのとおり、毛糸3色でトナカイと雪を編みこんだ編み始めのころの裾部分の柄が1番ややこしい部分なので、チチは何度も間違えて憤然として何目かほどいて編み直す憂き目にあった。しかも5cmばかり高さを編んでみて型紙に当ててみたらどうも大きさが合わない。慌てて編んでいるので力が入りすぎて、無意識に毛糸を引きすぎて編み目が小さくなって、最初に試し編みしてこの寸法ならこのくらいだろうと計算した目数を編んでも寸詰まりになってしまうのである。さすがに編み棒を落としてがっくりとして突っ伏したチチに、次いで風呂から上がってきた夫が恐る恐る声をかけてきた。母親がこういう風に煮詰まっている時には触らぬ神に祟り無しなのだと学習している息子は時刻も時刻だしとっくに部屋に引っ込んでいる。

  「大変だったら、模様のとこは別にいいんだぞ。それに木曜にできあがるんでなくっても」
 「いいや、やる。ここさえちゃんと編めればあとはだいたい1色で平編みだもの。悟空さはおらにかまってねえでちゃんと試験勉強してけれよっ。そんで先に寝てけれ、おら今晩は遅いから」
 「わかった。わかったから、とりあえず風呂入っちまえ。な。湯がさめちまうぞ」

 湯に浸かって窓の外の風を聴きながら、チチは少し泣きたかった。そもそもご褒美に贈って嬉しがる顔を見たいがためにやり始めたことなのに、こんな自分がイライラしてあんな心配そうな顔をあの二人にさせて何になる。もうちょっと落ち着かなくては。
父親にも昔からよく言われたものだ。『チチはしっかりものなようだが、ちょっと慌てるとすぐ空回りするところがあるからな、もうちょっと余裕を持って何事もしねえといけねえだぞ』と。要は自分は思いつめるたちなのだ。

  風呂から上がって髪を乾かし、切りの良い所までリビングで続きをしようと、寝室にひざ掛けやら厚手のカーディガンを取りに行くと、意外なことに寝台に横たわりながらも、夫が教本をまだ掲げて目を通していた。
 「悟空さ、まだ寝ないだか」
 「おう、もうちょっと。おめえももう少しここでやるだろ。オラ寝ちまったら起こせよ」

  夫が寝るなら向こうでやろうと思ってたのに、と思ったけれど、チチはリビングに一旦戻って毛糸玉の入った編みかごなど一式を持って帰ってきた。そして床の上のじゅうたんに座り、ひざ掛けなど巻きつけ、ベッドにもたれかかって続きを編み始めた。夫は別にこちらには口も出さず、本を読みながら、たまに「ふうん」とか「そっか」とか言っていた。そして、またチチが編み目を間違えて「ああ、もう」などと言うと、ベッドの方から大きな手が伸びてきて、チチの、作業のためにゆるく三つ編みに片流しにした黒髪の頭頂部に、力が入って固くなった肩にそっと触れるのだった。

  握りしめていた編み棒から力を抜いてその手に触れ返すたびに、時たま「悟空さ」と呼びかけるたびに思う。長く離れていた哀しさも苛立ちも寂しさも乗り越えて、こうして再び触れ合えるようになった幸福を。ずっと、嫌われたから帰ってこないのだと強張らせていた心がほどけ、この人に愛されているのだと、素直に受け入れられるようになった幸福を。

 

  日付が変わって二時間ほどして、前身頃の右半分の、脇の下あたりまで編んだところを抱えてウトウトしていたチチの肩を夫が揺すった。床から抱え上げられて寝台に横たえられ、毛布をかけられそのまま眠った。
 喧嘩していたひと月前、同じ寝床に入りながらも遠くに離れてなるべく感じまいとしていた、夫の温かさを毛布の中に、すぐ隣にいっぱいに感じながら。


 

 
 そうして、火曜日がすぎ、水曜日が過ぎた。夫は変わらず午前は勉強、午後は教習所に行き、チチは午前中なるべく早く家事を終えてひたすら編んでいた。息子は修行に行って帰ってきてからこまごまと家の手伝いをしてくれていた。その成果、左右にわかれた前身頃も、広い背中を包む大きな後身頃も、両の袖もなんとか形になった。だが、
 「ああ、今日の朝には仕上げておら一緒に教習所に行って応援しようと思ってただに。あと、袖口とか襟のゴム編みつけて、これ全部はぎあわせて、チャックもつけねえといけねえだよ」
 ゆうべも大して寝ていないチチはあくびを噛み殺しながら、トースターからコッペパンを取り出してナイフで開き、次々と中に辛子バターを塗ってやっていた。いよいよ試験日、木曜の朝がやってきてしまった。
 「じゃあおかあさん行かないの」息子がパンにハムとレタスを自分で詰めつつ心配そうに隣の夫を見た。「おとうさん、ぼくが代わりに応援行こうか。大丈夫?」
 「いいさ別に」夫は意外にも落ち着いている。ゆうべ明日試験の時に眠くなるといけないからと言って無理やりチチより先に寝させたのだが、それでもうどうにでもなれという心境になったらしい。「おめえはピッコロにちゃんと修行つけてもらってこい。なあに、フリーザとかと戦ったことを思ったらこのくらい。命懸けのことじゃねえんだからな」
 「じゃあ受かってるかどうか、ちゃんと電話してけれよ。10時から試験で、3時にはわかるんだべ」
 「おう」

 

 9時前に、修行に行く息子にあわせて夫も一緒に空を飛んで教習所にかばんを担いで出かけ、皿洗いだけ済ませたチチは猛然と残りの作業をはじめた。すでに編んである身頃部分の目を拾ってゴミ編み部分をつけていく。これが結構面倒くさい。高めの襟のデザインなので結構段数を編まないといけない。しかし焦ってまた寸法を狂わせては元も子もないので、丁寧に、迅速に黙々と編んでいく。
 編めたら、アイロンを取り出してきて、一旦全部スチームを当てて寝室のベッドの上に形を整えて乾かしておく。その間にリビングなど軽く掃除をして、頃合いを見計らって鈎針を使って毛糸で各パーツをつなぎ合わせていく。どうやら衣服の形になったところで、またスチームをかけてハンガーに吊っておく。服を作るのは、実は結構こういうこまごましたアイロン掛けが面倒なのだった。

  どうやら帰ってくるまでに間に合いそうかな、と、息子に持たせた弁当のあまりもので簡単な昼食にしながら、チチはようやく細く白い首を旗袍の中から回して息をついた。あとは前身頃の左右の間にミシンでチャックをつけるだけだ。リビングとダイニングテーブルの間に立ててある透かし彫りのパーテーションに架けられた一品は、我ながらなかなかの出来だ。村の衆たちに、買ってきたものだと間違えられても不思議のない出来ではないか。

  うふふ、と一人にやけて、ひとつ大きなあくびをした。今日は昨日までの寒さが一転、台所の窓からも気持ちのいい日差しが差し込んでくる小春日和だ。セーターがちゃんとできたら花壇を見に行こう。そして咲きかけになっていた早咲きのパンジーがもし開いていたなら、それを一輪もらってリボンをつけて添えてあげよう。
 夫は、午前中は実技試験、午後は学科試験が30分のはずだ。1時からだからもうはじまっているだろうか。居眠りなどしてしまわないといいけれど。

 

 

 3時過ぎ、電話が鳴った。
 無事作業を終えたあと気が抜けてしまい、ワイドショーを見ながらうとうととソファで寝てしまっていたチチは慌ててはっとして飛び起きて、黒電話の受話器をとった。しかし相手は予想外の人物だった。
 「あ、おかあさん。おとうさんどうだったの?」
 「なんだ、悟飯ちゃんか」脱力したチチは、足から飛ばしそうになったあたたかな室内履きを履き直しながら聞いた。「おめえ修行はどうしただ。どこから」
 「ピッコロさんにお願いして、近くの町から公衆電話かけてみたの。じゃあ、もしかしてまだ結果電話してきてないんだね、おとうさん」
 「…んだなあ」
 いつの間にか寝てしまってはいたけれど、多分他に電話はかかって来ていないはずだ。じゃあもう小銭がないから、とか言って息子は電話を切ってしまった。

  チチはコーヒーテーブルに残してあった冷めかけたホットチョコレートを飲みながらだんだん不安になってきた。試験が終わってもう一時間はたつのだから、もう結果はわかっているはずなのに。
 まさか落ちて、バツが悪くなってそのへんでしょげているのだろうか。もし受かってたとしても、そのあとの免許発行などでまた住所など書けずに手間取ってたりしてるのではないだろうか。ありうる。あの夫だもの。

  「あー、やっぱり、寝てないで出来上がった後にでも行けばよかっただ!」

  「ただいまー!」

  チチがしびれを切らしてソファから立ち上がった刹那、目の前に大きな影がいきなり立ちふさがって、仰天したチチはぶつかるのを避けようとして後ろのソファに尻もちをつくようにして倒れこんでしまった。あ、わりいわりい、とのんきな声が降ってきて、大きな手が差し出されたので見上げたら、逆の手に脱いだコートを抱えて暖かなコーデュロイのシャツに厚手のカーゴパンツといった出で立ちの夫その人だった。
 「また瞬間移動だか!」尻もちをついたままのチチは怒った。「びっくりするからそれで帰ってこねえでけろって何度も言ってるでねえか!」
 「悪かったって。でも急いでたから。ほれ、じゃーん!」

  夫が胸ポケットから得意気に突き出したのは、ふちで指が切れそうなほどに新品ピカピカの、エアカー免許証だった。いかにも得意そうな少年のような夫の笑顔を写真にうつしてくっつけて。

  「わあ!」いつものひっつめ髪にしていると寝不足で頭が痛いし作業後ほどいていた黒髪を舞わせて、チチは立ち上がった。「やった、やったべ、悟空さ。すごいでねえか、ほんとに免許取ってくるなんて」
 「あ、おめえ、オラが落ちると思ってたな」
 はしゃいでぴょんぴょんと跳ねまわっていた室内履きが不意に宙に浮いた。正面から抱き上げられたチチはちょっとすねたふうな顔を作った夫を見下ろしながらちょっと苦笑した。
 「んだ、ごめん。でも、取れなくたって全然怒るつもりもなかったべ?」
 「そっか」

  夫も笑った。チチの体が少し降ろされ、チチの黒い髪と夫の黒い髪が天窓の日差しの真ん中で交じり合った。甘い、と夫が呟き、そっとふたつの唇が微笑い、再びついばむように重ねられた。外からは日差しに浮かれ出てきた雀たちの声が聞こえていた。

 

 



 

 その次の日曜日は冬には珍しい抜けるような青い晴天の日和だった。
 昼前に玄関先で車に一家で荷物を詰め込んでいると、風邪から治って元気に犬を散歩させている隣家の老夫婦が通りがかった。
 「あんれ、一家でお出かけかい。あれ、おとうさんと悟飯ちゃん、お揃いのセーターで素敵だべなあ、なあ婆さん」
 「ああ、チチが編んでくれたんだ」
 「これからどちらへ?」
 「あのね、お花見に行くの」
 「桜にはまだまだだけど、梅でも見に行こうかってな。前々から楽しみだったんだ、悟空さ免許取ったら車でお出かけしようって」
 わんわんという声を背に、ベージュのエアカーは土の道に軽やかに走り始めた。田畑の畦にはロゼッタ状の葉から少しだけ伸び始めたたんぽぽの花茎が、青い空をまっすぐ目指している。

 「おとうさん、やっぱりすごいねえ」
 後ろのシートで息子がご機嫌そのもので話しかけてきた。ハンドルを握る夫は、助手席の妻は、そんなまだ幼さを見せる一人息子を振り返ったあと、眼を見交わして悪戯っぽく微笑みあった。免許を取った日、こっそり村を二人でドライブしてきたことは、ちょっとした秘密。二人だけの内緒のデートだ。

 生け垣に、少し蕾を膨らませた沈丁花の白い花。
畦の土手に、黄色い、『まず咲く』、マンサクの花。

 もうすぐ、春がやってくる。
はじまる時には寂しい寒さが永遠につづくかと思われたこの冬を忘れさせるように、明るい幸福な春がやってくる。

 この幸福が、どうか、どんな病にも侵されず、3年後も、その先も、ずっとずっと続きますように。





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