このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ござ いません。
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wear2(前編)


 
 おかあさんだけお買い物行ってきたの、ずるぅい。わあ、こんなにお洋服買って。

 だって、悟飯も悟天も修行行ってたべ。

 おかあさん、美容院行ってきたでしょう。あーあ、こんなに化粧品も。
 昨夜おとうさんが帰ってくるって教えて、今日もうこの浮かれよう。大丈夫ですか。

 いいもん。悟飯もいい歳なんだから、ちょっとは乙女ゴコロってものを勉強するだ。
 でないとあの子にふられちまうだぞ。

 

 …そんなに楽しみなの、おかあさん。
 たった一日でしょう、おとうさん帰ってくるの。

 

 うん、悟天。すっげえ楽しみだ。その日はとびっきりの御馳走作ろうな。
 ふたりとも、その日はめいっぱいとうさんに甘えるだぞ。

 

 ええ、おかあさん。
 もう、ほんとうに、それっきりおとうさんには会えないんですからね。

 



 黒いほど青い、宇宙に最も近い空に遠く浮かんだ山吹色の胴衣がふとかすみ、溶けるように消えた。神殿に集った人々の高く掲げていた別れの腕振りがひとつふたつと落ち、薄い空気には彼らのかすかなため息に含まれる寂寥感が満たされていった。

 最初に神殿の建物に向かって踵を返したのはチチだった。

 「…おかあさん」
 「チチよ、そう落ち込むでねえ」
 薄く紅をひいた唇がぎこちなく微笑みの形を作り、大丈夫、と言葉を紡いだ。「ポポさん、お手洗い借りるだ。ブルマさん、化粧落としなど持ってねえか。あったら貸して欲しいんだけど」
話を振られたブルマが目を瞬かせた。「え、ええ。待って。一応カプセルで持ってるけど…なんで」

「おら、ひでえ顔だべ。顔洗って、さっぱりしてえんだ」

 

 洗面台に流れていたぬるま湯を止め、チチは鏡の前で顔を拭き、初めて大きなため息を付いた。鼻先には、ブルマの愛用している高級なクレンジングに含まれる、馥郁たる花の香が漂っている。鏡に顔を近づけて、目の当たりを確認する。さすが安物とは違う。涙で汚く流れかけていたアイラインもマスカラも、綺麗さっぱりなくなっている。綺麗さっぱりと、さっきまで流していた涙の痕跡が。
 落とす前に改めて鏡で見て、こんなみっともない顔が、夫にとっての最後に見た自分の姿だったのか、と情けないような思いだったのに、いざ落としてみればあったのは消えきってほしくなかったという一抹の寂しさだった。
 それを振り払うように後ろ頭に勢い良く手をやって、髪を解いた。ここにきてすぐ気絶してからついさっきまでずっと横たわっていたためにこっちもかなり乱れている。肩と背に零れた黒髪が、今は重かった。しばらくしたら、短く切るのもいいかもしれない、と思った。今すぐ切れば、息子や父親がそんなに悲しいのかと余計に心配するから、もっと後で。

  窓枠のそばの壁に凭れてぼんやりと反芻する。何となく今思い出せるのは手の感触だけだった。気絶したあと、昔修行の頃に使っていたらしい部屋に抱き上げて連れて来てくれた夫の腕のおぼろげな記憶。眠っていた枕元にいきなり来て、起きろ、もう帰る、と肩を揺すった夫の手。別れ際にずっとこちらの手を包んでくれていた夫の手。

  なくなってしまった。いなくなってしまった。あれだけ、このひと月、この会えるひとときに向けて募らせて美しく相対したいと装った思いも、結局皆の前で気合を入れすぎるのが気恥ずかしくなって、とっておきの服はうちに帰ってからと抑えた想いも、そんないとしさやかなしさ、その相手も、なにもかも。

 

 不意にノックの音がした。
 「あたしも顔洗う」ブルマがドアから顔を見せた。「もうちょっとしたらまずご飯にしましょう。チビ達鍛えるの結構長丁場になりそうだしね、ポポさんに台所借りてさ」
 うん、と頷き出ていこうとすると、あら、化粧水とかも使っていいのよ、と言われたのでなんとなく横に並んでそのまま肌の手入れをした。
この友人ももう良人(おっと)には会えない。二度目の死だしかつては暴虐を尽くしていた者だからこちらの夫のように現世に戻ってこれるかどうかも知れない。だからこの友人の前では泣いてもいいのだ、とどこか安心できたけれど、泣く気は起きなかった。泣いてなんていないでしょうね、と、鏡越しに横目で互いを確認し合いながらここにあるひととき、それがなんだかありがたかった。
 女は女に対してより身を繕う生き物なのだ、と、よく世間で言われていることばを思い出す。それが、いっときとはいえ夫との仲を嫉妬したこのひとにならなおさらだ。

 そう、夫と結婚した前後の、あの自分がまだ若かった短い間ではあったけれど…


 

 「59番、決勝進出!」
 そう勝利を告げられて、18歳のチチは予選会場の武舞台の上で息を整えて一礼をした。白い道着を着た屈強な男が、今蹴飛ばした鼻面から血を垂らしながら信じられないといったふうにこちらを見上げている。
 濃紺の道着のひれを翻して武舞台から降りた。あと予選もたったひと試合ということで会場にはほとんど人も残っていない。その中にある山吹色の、亀マークのしるしをつけた一団は見たくもないのによく目立っていて、こちらを興味深そうに窺っているのが目の端に入ってきた。彼らはすでにチチと同じように武道会の本戦への進出を決めているから、程なく終わる最後の試合が終わればともに対戦のくじをひくことになるだろう。
 その前にと、チチは壁際でくじ引きの支度をし始めた運営の鬱金色の衣の僧に駆け寄って声をかけた。

  「匿名希望、に変えたいと言うんですか?『チチ』というご本名で出場登録されてらっしゃるのに」
 「そうですだ」慌てて口の前に指を立てて、試合を見ている人たちに聞こえないように声を憚って頭を下げた。「ちょっと事情があって。よろしくお願いしますだ」
 僧侶は部屋から出てきた進行役らしいサングラスの男にその旨を告げに行った。試合が終わって、山吹色の一団がチチのいるくじの箱の方に歩んでくるのが見えた。

 その中のボサボサ頭の無邪気な顔をした一人をチチは睨みつけた。髪の毛を無意識に手でなでつけている自分に気づき、余計憤然として腕を組む。なんだってこんな男のために、いちいち今更綺麗にしようとするのかと自分に腹が立ってきた。ここしばらく、またあの男に再会できるこの日のために、散々服を迷い、散々身体を美しく磨きしてきた己の努力はなんだったのだ。

  『へえ、綺麗になったなあ。オラも会いたかったぞ』
 言ってもらえるはずのその言葉のために、これまで、7年近くも、こちらが、どれだけ。
 「へえ、トクメイキボーとかおかしな名前だな。よろしくな」
 1回戦の相手として決まったこちらに、なにも考えてない脳天気な笑顔を向けてくる男を再度睨みつける。そんなの名前であるわけ無いではないか、バカ。さっさと思い出せばいいのに。絶対自分から明かしてなんてやらないから!

 

 境内の一隅にある屋台や出店のあたりは、30分後に迫った本戦を楽しみに続々と集まってきた客達がまずは腹ごしらえをとうろつきまわりひどい混雑だった。赤と白のパラソルの下の白い卓でタピオカ入りのミルクティーを飲んでいたチチには多くの視線が集まっていた。これから観戦をする客には、予選敗退はしたものの後学のために試合を見ていく武道家たちも多い。彼らの中ではまだ幼いと言っていいほど若くて可愛らしい顔なのにめっぽう強いチチはすでに注目の存在だったからだ。武道家でなくとも、ブーレンビレアの濃いピンクの花が咲き乱れているのを背景にしてすらりと足を組んで腰掛けている、南国にはいささか暑苦しい禁欲的な濃紺の旗袍を細身の体にぴったり着こなしている、そんなチチの姿はよく人目を引いた。なかには無断で写真を撮っていく無礼な輩もいる。
 さすがにうっとおしくなってきたため手近のゴミ箱にプラスチックのコップを放り入れてチチは席を立った。ただでさえ苛ついているのにこんな見世物みたいな扱い黙って受けていられるものか。

 人々が集まっているのは寺の中とはいえ武舞台のあたりも含め門前町のようなもので、塀で区切られた伽藍の奥向きの方は静かなものだ。どうせだからこの寺に祀られているという武道の神でも参って、せめてもみっともない試合にならないように祈っておくのも悪く無い。足をそちらに向けてしばらくゆくと、塀の曲がり角の向こうから大勢の話し声が聞こえてきた。
 「おかげさまで、オレ、悟空、クリリン、3人揃って本戦出場ですよ、老師様」
 「天津飯さんもですよ。天津飯さんは病院にチャオズを見に行きましたがもう戻るでしょう」
 「そうか、チャオズは残念じゃったのう。しかし3人共よくやったぞ」
 聞き覚えのある声と名前に、チチは思わず死角に身を潜めた。潜めながらもこっそりと覗いてみる。背中に大きく亀と記した山吹色の道着の背中が3つ見えた。その向こうに見えるのはチチも昔見知った白髭の老人と、妙齢の女性が2人、それに獣人が2人。楽しそうに談笑している。
ボサボサ頭の、1回戦の相手の例の男も、にこやかに笑い合っている。

  女の一人には見覚えがあった。昔、そう、7年近くも昔のあの日、あの男と初めて出会った時に一緒にいたひとだ。あの時はなんだかウサギの耳を着けておかしな格好をしていたけれど、今日は隨分都会的で洒落た格好だ。あんな短いスカートを自信ありげに履きこなして、化粧もバッチリ決まっている。

  丈夫でいい生地を選んでしっかり仕立ててもらった、色使いも似合うかどうか選びに選んだ上等なものとはいえ、所詮は自分が着ているものが野暮ったい道着であると思いいたり、チチは眉をひそめた。この3年、最近までおしゃれも忘れ、この大会のために修業にあけくれていた自分。いい家のお嬢様とは呼ばれているものの、所詮はド田舎のそれにすぎない。
 この7年間、全く会いに来なかったものだから、あの男がどこでどうしていたのかなんてわからない。この3年はどこぞで修行していたとは人伝いに聞いてはいたが、ひょっとしたらあの女たちにいちいち面倒を見てもらっていたのかもしれないし、そしたらこちらのことを忘れてそっちの方に心を向けたって全く不思議はない話なのだ。

  化粧というには程遠かったが、それでもと薄く墨をはいてきた眉がきつくしかめられ、赤い靴が音を潜めて石畳を蹴った。風が追うようにきつい日差しの中を吹き抜け、黄色の幟旗がなびき、椰子の木が葉を鳴らした。気配に振り向いた男の視線の先には、すでにチチは居なかった。

 乙女心も知らないで…!武舞台の門の精緻な彫刻の脇を抜けながら唇を噛んだ。
 この想いはどうなる。たとえ会いに来なかろうが、それは相手も寂しさをこらえてのことだと勝手に信じていた。再び会えば絶対に気づいてもらえると思ってここまで来た。気づいてもらえたらそのままいい仲になれると根拠もなく思っていた。でも、このまま気づいてもらえなかったら。そしてそのままハイさようならだったら。

 「孫くんがんばってー!」
 客席真正面の端近で熱心に歓声をあげる女を無表情を装って睨み、武舞台中央に進み出てから束ねた黒髪を揺らして男に向き直ると、チチは眉を逆立てて思いっきり睨みつけてやった。
 拳という形であってもせめてこの想いを一撃食らわせてみせる。そうでなければ、待っていた間、修行に明け暮れた自分の娘盛りが、あまりに可愛そうだから。

  僧たちが鳴らす闘いの銅鑼の前の太鼓の低音が青い空に、チチの腹の奥に響き始めた。

 ぶつけずには居られないのだ。この想いを。だって、再会して、悔しいけれどまた惚れなおしてしまったのだもの。

  だから、受け止めて。知って、この身に余るいとしさも憎らしさも。
 そして、どうか、その人より自分の方を見て。
 ああいうふうに綺麗にしてるひとがいいなら、服だって、化粧だって、これからいくらだって頑張ってみせるから。

 

 


 

 

 『じゃ結婚すっか』
 実際のところ正体を明かしてすぐさまそう言ってくれたことは、夫にすれば単に約束したからそれを守ったに過ぎないということだったにしろ、こちらとしては隨分救われた、と今になってみれば思える。そこで小さい時の口約束だしまずはまたお付き合いから、とか言われていたら、いくら特になんの感情はよそに抱いていないと言われたって疑心暗鬼がつもり結局はダメになっていたのではないだろうか。

  その日の修業を終えて、やっと眠りについた幼子二人の顔を見に来たチチは、一緒に来たブルマとそれぞれ我が子に布団をかけ直してやった。暗い部屋の中、夫とそっくりのボサボサの頭をそっとなでてやる。
 二人してその2階の部屋を出て回廊から空を仰ぐと、家のある田舎よりも更に凄い、怖いくらいの星空だった。皆がいる一階の方に明かりは灯っていたが周囲は真っ暗だった。流れ星が、ちょうど昼に夫が去っていったあたりの天の高みから一つ降って、地上に落ちていった。

 

 この一日だけの帰還が、人の世の条理に合わぬ幸運だとはわかってはいる。贅沢なことだったとわかってもいる。

 でも、今晩だけは一緒に居たかった。もっと、もっと、一緒に居たかった。家族4人で、一緒に居たかった。あの人と死に別れてからこの7年、あの若い日に再会した頃と同じに、毎日毎日必死にまた会える日を待っていたのに。
 なんでこんなことになってしまったのか。片方だけとはいえこどもまで奪っていかれて。元凶である奴らに、一発ぶつけてやらないと気がすまない。

 

 見上げていて高く掲げたチチの顎からしずくが流星と同じようにこぼれ落ちた。隣で立ち止まっていたブルマが、タバコに火を点けてゆっくり一つふかしてから、先に下に降りていった。昼間洗面所ではかつて嫉妬の相手だった彼女の前では泣きたくないと思ってはいたものの、今は友として、同じ母として気づいて欲しかったのかもしれない。むしろなぜ彼女は泣かないのか、と八つ当たりめいた気持ちすらあったけれども、さすがにそれは自分勝手すぎて考えるのをやめた。涙に気づかないふりをしてくれたのが、この7年で厚誼を結んだ、彼女なりの優しさの示し方なのだろう。

 

  手にしていた白い布で目を覆った。それはさっき、子供たちの眠る部屋でポポに渡された、かつてここで修行していた頃に夫が着ていたという古いタンクトップだった。知っている夫の背丈にわずかに足らない少年の頃のその下着は、着くたびれた木綿の感触が、頬に柔らかだった。
  昼に気絶から目覚める時に、気遣わしげに同じ頬に当てられた夫の手の感触を思った。そこにあったのは、確かな愛情だった。あの武道会でぶつけた想いを受け止め応えてくれて、子を2人成し、死んで後にすら7年褪せることなく保ってくれていた、夫の自分への愛情だった。だから、泣くのはこれでやめにしよう。あの人が最後に心配してくれた言葉のように。

 

 
 目を拭い、星を見て、また目を拭った。それを暗がりで繰り返すなかチチは思っていた。やはり、あの人を愛して、よかったのだ、と。

 

 

 <後編へ続く>



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