このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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blue3(後編)





「お、起きたかな。おはようさん」
 8時過ぎに起きて彼女が階下へ降りていくと、老人がクローゼットをひっくり返して女物の服を漁っているところだった。
「ランチちゃんもあらかた自分の服を持って出て行ってしまったから、やはりこのくらいしかなかったわい。まあ、これでもよければ着るがええ」
「あんまりこういうの好きじゃない」絨毯の上に広げられた服を見て彼女は顔を顰めた。ミリタリーというか、南国では暑苦しいような革の服が多いのだ。「もっと気軽なのないの」
「じゃこれはどうかな。こりゃ女物の亀仙流の胴着なのじゃが」
 あの山吹と紺のやつだろうか、と思っていると老人が取り出したのは黒字にショッキングピンクのド派手なフリルつきという、早い話がオールインワンタイプの下着だった。
「ふざけんじゃないよジジイ!もっといいの買ってきてよ!」
「だってわしゃジジイじゃし、最近の若い女の子のセンスはようわからんもん。それにこの辺じゃろくな服屋もないし。買ってくりゃええんじゃよ、南の都くらいひとっとびじゃろう?」
 にんまりとする老人に彼女はきつい一瞥をくれた。この家で連絡を待って3日。その間ずっと彼女は外出もせず日がな一日本を読んだり、老人の部屋だった上階を占拠して昼寝をしたりして過ごしていたわけだ。なるべく待っているという風情は出さないようにしたかったが、無駄な努力であろうなとは感じている。
 なんとなく居ついてしまったのはなぜだろうか、と思う。よその町に行って、たまに連絡が無いか電話ででも聞けばすむ話なのだ。でも宿代はただだし(ここまでの車のガソリン代で手持ちはほとんどなくなってしまった)、服はもらえるし、日差しは暖かいしなにより老人のほかには干渉するものも無いので気楽は気楽だった。前までならきっとよそで勝手に服なり宿代なりせしめていただろうが、孫悟空を殺すという自らの以前の存在理由がなくなった事で、ふたごはそのような気がなんとなく失せてしまっていた。
 この老人は、とも思う。
 仙人だかなんだか知らないがよくわからない人間だ。昔西の方でおとぎ話で読んだ仙人といえば、山深い桃源郷とかいうところに住んで霞を食って生きているものだったが、いかがわしい雑誌を愛読していかがわしいビデオが棚にずらりと並び、なんだか思っていたのとはだいぶん違う。ピザが好きだし。でも確かに記憶を読めたりするしものすごく長生きらしいし飄々として何を考えているかわからない。もうちょっと警戒しても良さそうなものなのに。
 何もかも判ったような顔をして、と考えるとむかつくのはむかつくが、それでまあいいかと思ってしまうのは、この南国の暑さのせいかもしれなかった。それと、眼差しがサングラスでかくれているからかもしれなかった。今まで彼女が知っている年寄りの目はずっと嫌いだったから。彼女が見目が良かったものだから年甲斐も無くじろじろ嘗め回すように見る赤ら顔の色ボケじじいやら、町の有力者の欲にまみれた目だったり、人生に倦んだ疲れた宿無しの目だったり。
 それより誰よりも、あの老人の冷たい、彼女に何処か似た青い眼は、未だに不意に記憶の底から悪寒とともに立ち現れて彼女を射抜くのだ。騙されて薬で眠らされるその刹那に見せたあの、してやった、という眼差しは今も忘れる事は出来ない。だから、年寄りの目というのは嫌いだ。でも、この老人のように、ずっと隠しているのなら…一度外したところを見た事はあってその目はそれなりに厳しかったのだけど…まあ我慢していられそうな気がした。

 「電話はあったかな」
 首を横に振った。今降りてくるときにこっちに戻したけれど、昨夜は受話器を上に持って行っていたからだ。時差をあちらが考慮しなければ、いつ連絡があるかわからない。
 「しゃあないのう、あいつは。仕方ない、ヤムチャとも連絡取ると言っておったし、どら、ちょっと言付けしておこう」
 老人はサイドボードから住所録を取り出して、電話を掛けはじめた。
 なんだか話が広がっていくのが後ろめたいような怖いようなざわざわとした気持ちがして、彼女はショートパンツの白い膝を抱えて頭を持たせかけ、そっぽを向いて風鈴の向こうの朝の空を見ていた。なんだか風が出てきたようで、さっきから曇りガラスが眩しい光を受けつつちりんちりんとせわしない音を立てている。
 「留守じゃった。プーアルにもし連絡があったら電話するように言えと伝えておいたからの。そうだ、昼にはちょっと隣の島に移らねばならんぞ。カプセルに家をしまうだけだから手間はかからんが」
 振り向いて怪訝な顔をした彼女に、老人は煙管に煙草の葉を詰めながら答えた。
 「台風がきとるんじゃよ。ルート的にこの島は滅多に来ないんじゃが、今晩には珍しく強いのが来よる。こんな島なぞ大きな波がくればひとたまりも無く水没してしまうでな。お前さんはテレビをあまり見んから知らんかったようじゃが」
 火をつけぷかりと煙を吐き出すのを、別に気にならないけれども煙そうに顔を顰めた。なんだか面倒くさい事になってきた。そもそもたいふーとはなんなのだろうか。





 起きた途端に頭がひどく痛んで、彼はソファの上で呻いた。じゃあ行って来ます、とドアの閉まる音がして、それで目が覚めたのだった。
 そうか、と昨夜の成り行きを思い出して、あたりを見回した。小さなリビングダイニングの赤茶色のソファの上だった。2間きりのアパートの部屋だが、寝室のドアの向こうからなにやら電話をかけているような声がする。時計を見るともう昼近い時間だった。
 電話の声はへこへことなにやらしきりに詫びている。多分昨日の事で彼女がおかんむりなのだろう。肩をすくめて、彼はダイニングテーブルの上にある水を一杯頂戴する事にした。
 もともとあまり酒は飲まない。たまに師匠の晩酌に付き合うくらいで、呑みに出る事もほとんどない。旅に出てからは情報収集のために町のパブなどによる事はあったけれど、明日も探さなければと思うと一杯きりで済ましてしまうのが常だった。いくら勧められたからって、あんなに過ごしてしまったのは、きっといろいろ自分でもたまっていたと言う事なのだろう。
 相変わらず電話は続いている。洗面を借りて、彼はお礼の書置きといくばくかを残して荷物を担ぎ、そっと外に出た。また昨日の彼女が来たりしたら悪いと思ったのだ。またあとで改めて電話で礼でも言えばいい。

 鉱山鉄道の駅はかろうじてまだ命脈を保っていて、その付近にはいくばくかの商店が軒を連ねている。その一つのダイナーに入り、何処か薄暗い店内のカウンター席でミネラルウォーターをとりあえず干し、ホットドッグを齧る。とりあえず今日はどうしようか。西の都まで行って、そろそろ買出しでもしようか。燃料費の事を考えて乗り物は使わず舞空術と自分の足でここまで来たけれど、カプセルに入れている野宿用の物資がそろそろ乏しくなっている。以前に見つけてきた巨大ダイヤを処分した金を出発する時に師匠が分けてくれていたので(知らなかったけれどランチが出て行ったときにもあげていたのらしい)懐にはまだかなり余裕があった。でもあとどれくらい旅が続くかわからないだけに贅沢は出来ない。
 ダイナーの大窓からぼんやりと行き交う人々を見る。この時代に至り各地で民族の交雑は急速に進んでいたけれど、それでも東・南とはやはりかなり人の顔立ちも変わってきた。濃い色の目・濃い色の髪、そして濃い色の肌からだんだんと茶色、亜麻色、そして金の髪が交じってくる。肌の色は黄色味が抜けて、顔の骨格も変わってくる。昔寺で習った、太古の東西の交易路。そこを駱駝などで旅した隊商もこのような変化を感じたのだろうか。
 金の髪が増えてくるにつれ、街角で振り向く回数もだんだんと増えてきた。でも、金髪と言っても本当にさまざまだ、と思う。赤毛に近い金。くすんだアッシュブロンド。磨いた金管楽器の真鍮のような色。彼女のようなプラチナブロンドは、脱色したのでもない限り滅多にまだお目にかからない。でも、すっかりと金髪を見ると振り返る癖がついてしまっていた。そうして、その度に心臓を跳ねさせる自分を自覚するのだ、情けないほどに。まるでこんなのは少女漫画か何かのようではないか、いい歳をして。

 故人曰く、恋愛は人を強くすると同時に弱くし、友情は人を強くするばかりだ。また曰く、恋に肩をたたかれたならば、常日頃詩的な調べに耳をかさぬような男とて詩人になる。

 昔の人は上手く言ったものだ。しかし逆に言い換えれば、人間の色恋沙汰など遥か昔からいっかな変わってはいないと言う証左だ。サイヤ人はどうだか知らないけれど。いや、そういう事に縁遠そうだった自分の親友だって、おそらくは多少なりそういうこともあったのだろう。そのように、男は女が考えるよりもきっとはるかに女に心を絡めとられて生きている。どんな強い男だって、恋の虜になれば一人の女にあっさりと首根っこを明け渡してしまうのだ。
 …ああ、詩人だなあ。
 さてと、と紙ナプキンで口元を拭い席を立とうとした時に、ガランガランとチャイムが鳴って扉が勢いよく開き、店内の数少ない客が一斉に振り向いた。
 「あれ、ヤムチャさん」
 「馬鹿、クリリン。なんで勝手に出てくんだよ。気も抑えてるから散々探したじゃねえか」ろくに身支度もせずに来たのか、ジーンズの上にシャツを羽織って二つ三つボタンを締めたばかりのひどい格好だ。
 「だって、お邪魔かなーと思って」
 「そんなの気にするなって言っただろ。伝え損ねたんだが、プーアルがゆうべ老師様から電話を受けたんだそうだ。お前が連絡してきたらとりあえずカメハウスに電話をかけるよう伝えろって。何かわかったのかも知れん」




 『赤道近くで発生した今回の台風はしばらくその付近で迷走していたのですが、その途中で勢力を蓄え、昨日から北上を始めました。小型ではありますが勢力は強く、風速も強く、進路に当たる地域では被害が予想されますので、崖のそば、低地等にお住まいの方は早めの避難をお願いいたします。なお、以下の地域では停電が発生しております…』
 東南島嶼部のローカルチャンネルは、晩方からこの日付が変わりそうな時刻までぶっとおしの特番態勢で、この緯度にしては珍しく強い台風に対しての警戒を呼びかけている。彼女はキッチンの小窓から荒れ狂う外を見ていた。昼前にあの小島から隣の少し規模の大きな島の高台に避難してきたのだが、外はものすごい風だ。玄関も家のあらかたの窓もぴったり締め切って、ついている部分は雨戸も閉じているのだが、それでも古い家の事、羽目板のどこからか隙間風が漏れ入ってきては鋭い音を響かせた。
 がたり、と天井裏の何処かが音を立て、彼女はびくりと上を見上げた。居間のソファでテレビを見ながら晩酌をしている老人が呼びかけてきた。
 「そうおっかながることはないぞい。家の中にいればとりあえずは安全じゃからな」
 「おっかながってなんかいない。でもすごい風」
 「このあたりではいつもの事じゃよ。まあいつもはもう少し北のほうに被害が出るのじゃがな。大陸の北西の方ではこのような嵐はほとんど無いし、珍しかろう」
 かすかに肯いて、また外を見た。外に植わっている椰子の木が、ひどく1つの方角に向けてしなっている。窓ガラスには大粒の雨粒がバチバチと音を立てて打ちつけ、視界を遮ろうとする。テレビを振り返ると、衛星写真の上に真っ白な雲の渦が美しいほどに緊密に巻いていて、くっきりと目とやらを見せている。
 なにかの警報のアラームがテレビから聞こえてきた。と同時にじりりりん、とけたたましい音が部屋に響いた。ので、一瞬なんだかわからなかった。
 「あ、電話じゃ」丁度トイレのドアを開けようとした老人が指を差した。「出ておくれ」
 電話!?
 待っていたくせに、その時彼女はこう思おうとした。まさか、こんな遅くに。別の何処かの馬鹿に違いない。そう思って普通に受話器をとろうとしたが、ずっと待っていたくせに、なんて名乗ろうかと一瞬迷った。迷っているうちに3回、4回とベルは重なっていく。えい、みっともない。
 「はい」
 とだけ答えると、向こうが絶句した声がした。なんだ、悪戯だろうか。こんな時間に腹の立つ!
 切ろうとした時に、声が聞こえた。電話だから当たり前なのだけど、予想外に近くに、その声が。
 「どちらさまですか…まさか、18号!?」
 
 長い睫毛に縁取られた青い目が一杯に見開かれた。声でわかったので、震える唇で聞いた。トイレの中に聞こえないように、なるべく小さな声で。

 「あんた今どこなの」
 「西…西の都の近く。なんで。わかった、とりあえずカメハウスに帰るから!すぐに、大急ぎで飛んで帰るから!」

 がちゃーん、とまさしく叩きつける勢いで電話が切られた。仰天して受話器を持ったまま絨毯の上でへたり込んでいると、水を流す音がして、老人が手を短パンで拭きながら出てきた。
「誰じゃった」
「いたずら。あたしもう寝る」
 顔を見ずに答えた。何故だか言いたくなかったのだ。なるべく、長年作り上げた『人形のような顔』を保って、上階にあがる。
 どうせ帰ってくるって言っても、そんな遠かったらどうせ明日だ。そう考えながら布団に入ったけれど、一時間ほどするとまた灯りをつけて立ち上がって出窓の雨戸を開けた。雨風が金色の髪をばさばさとはためかせた。窓を閉めたけれど、真っ暗に、まるで狼の遠吠えのように唸りをあげ続ける外から目を離すことができない。濡れた白い頬を手で拭く。濡れてしまった。着替えないと。
 着替えないと。
 手が自然に、予備の寝巻き用のロングTシャツではなくて、一番の気に入りのシャツを取った。
 着替えないと。あいつは飛んで帰ってくる。きっと、すぐに!
 
 リビングの卓を片付けて布団を敷こうとしていた老人は、上から駆け下りて来る足音に仰天した。
 「なんじゃ!?こんな遅くに、どこに行くんじゃ!」
 「わ、わすれもの。あの島に。取りに行って来る!」
 玄関の網戸の開け方がわからずガチャガチャとやっているのをちょっと見てから、横から老人は皺だらけの手を突き出して引き取って開けてやった。横につまみをずらすだけの単純な鍵を。外に出るなり靴を履きかけの細い体がよろめいたが、穿き終え地を蹴ると猛烈な風をつんざいてまっすぐに飛び上がった。
 飛び立つ刹那、老人は声をかけた。「早いとこ帰ってくるんじゃぞ!」


 






 猛スピードで東へ飛んで飛んで、目当ての方角に近づくに連れて気圧がどんどんと低くなっていくのがわかった。吸い寄せられるような風の動きを感じた。
 台風か!
 真っ暗な中、行く手が黒雲にみっしりと覆われているのがやがてはっきりと見え出した。大陸を抜ける前になって、彼は急ブレーキをかけた。紛れもなく家のほうを今直撃している。
 台風が来るのは毎年の事だったし、ほとんど海抜0mの島だったからちょっと荒れれば実はしょっちゅう避難している。いつもそういう時は、最初に彼が弟子入りをして修行をした島の、当時おいていた高台に家を移すのが常だった。気の乱れに、風の乱れに、打ちつける雨に閉口しつつ探れば、確かに師匠はそちらのほうに今もいるらしかった。
 「開けてください!老師様!」
 当然固くドアは閉められていたのでドアを勢い任せに叩いた。3回目でバリ、とあっけなく破れて、腕が網戸も貫いてあちらにつきぬけた。
 「こりゃっ、何しよる!」内から怒鳴り声がして、穴の向こうから師匠のサングラスをはずした顔が見えた。「なんじゃ、おぬしか。今頃帰ってきおって。あの子なら行ってしもうた」
 「なんでです!なんで引き止めてくれなかったんですか!」思わず怒鳴った。
 「人の話を聞けい。あの島に戻ったんじゃ。多分おぬしがそっちに来ると思ったんじゃろう」
 「こんな台風の中をなんで出したんです!ていうかなんで多分こっちに来ると言わなかったんです!」
 「だってあの子がおぬしが帰ってくるって内緒にしてるんじゃもの。電話の時だって」
 クソジジイ!
 そう思わず罵りそうになったのだが、ぐっと堪えてまた腕を突き出した。
 「懐中電灯貸してください、あの強力ライトのやつを、早く!」
 受け取るなり飛び立った。こんな雨の中を。びしょ濡れになるじゃないか、風邪をひいてしまうじゃないか!



 
 真っ暗で方角がわからないまま、どうにかそれらしき椰子の植わったあの島に彼女が着いたときには、既に島はほぼ水没していた。浜は白い波頭をひっきりなしに吹き上げ、上の芝のほうまでもざんぶざんぶと塩水をかぶっている。3本ある椰子はみしみしと音を立て軋み、今にも折れんばかりだ。
 それでも彼女はしばらく待った。己の力で椰子の木ごと障壁を作りながら待った。時計を見る。電話から2時間。
 こんな天気の中を来るわけないじゃないか。きっとどこかで、嵐が過ぎるまで待っているんだ。
 その方がいい。そうした方がいい。なんであたしは来たんだろう、ちょっと考えればわかりそうなものなのに。
 なんであたしがここまでしなきゃいけないの。なんでここまでさせるわけ。なんでこんな、あたしらしくないことを勝手に体がしてしまうの。




 住み慣れた島の方向を定めるのに迷いは無かった。彼が必死に飛んで、いつもの浜に下りたときには惨憺たる有様だった。椰子の木は一本が折れ、倒れた際に芝が一部めくれてあたりを汚していた。でも人影は全く見えなかった。
 ひょっとして、高波を受けて溺れたか何かしたのでは。そう思うと心臓が凍った。
 「おおーい!」
 声の限りに呼んだが返事は無い。ひょっとして諦めて帰ったのか。そもそも、なぜ彼女がそんな無茶をするわけがあるのか。こんな嵐の中を、自分を出迎えに行くわけがあるのか。
 あの爺さんの、悪い冗談じゃないのだろうか。大体、電話で声を聞いたとは言え、彼女があの家にいた事自体未だに信じられないのに。
 とにかく一旦戻ろう。ああ、なんで俺には、あいつが出来てたような心の声が使えないんだろう!




 また方向を見失った。多分もとの、飛び出してきたときの島とは思うのだけど、どちらがあの家かわからない。上空に浮かんでも、真っ暗で視界もきかない。
 雲の固まりはだいぶん島の北のほうに抜けようとしている。一瞬、風が緩んでほっと息をついた。その次の瞬間、急に風が方向を変えて予想もしなかったほうから叩きつけてきて、彼女はバランスを崩し落ちた。山麓に広がるジャングルの天辺に引っかかったのだが、枝の間で気がついたら、これしきの事で身体に怪我があるはずはなかったが折角の気に入りの服の袖が破れてしまっているではないか。
 頭の中がかっとなった。彼女は喉をのけぞらせ、白い掌を天に向けた。額を雫が伝って、目に入ってひどく痛み、強くまぶたを閉じた。
 本当に、
 どうして、
 なんでこんな、

 掌に、星1つを消してしまえるほどの己の力を凝縮してゆく。
 あたしなら、できる。こんなの、もうたくさんだ。こんな、ごちゃごちゃの状況は、心は、もうたくさんだ。

 消してやる。
 邪魔なのよ。
 消えてしまえ!
 
 

 
 家のほうまで戻ってきていた彼の視界の端に、その光がきらめいた。叫んで、力の限りにそっちに飛んだ。
 光の止まっていた枝を突き破って、突っ込んだ。触れる刹那に、ばりっ、と力が身体の間で閃きあって、雷撃のようなものが全身を駆け抜けた。それは相手も同じだったらしい。




 何かの香木だったのか、めちゃくちゃになった林冠から、少し弱まった雨をもしのいで、爽やかなような甘い香りが立ち上った。幹と太い枝にどうにか抱きとめられた彼と彼女は、重なり合って呻きながら意識を取り戻した。
 「…てぇ〜…」彼女の唇から唸りが漏れた。
 「何しようとしてたんだ!」一足先にしゃきっとした彼は怒鳴った。「なんか、今ものすごいの放とうとしてなかったか!」
 ちょっときょとんとした後、目を瞬いてからようやく相手を認識したのか、真っ赤になって彼女は怒鳴った。「だって、むかつくんだもの、あのたいふーとか言うやつ!すごい風だし、雨だし、波だし!あんなの、消してしまえばいいんだ!」
 今度は彼のほうがきょとんとした。
 「だって、邪魔じゃん、あんたをさがすのに!」

 はい?
 彼はまたきょとんとした。一呼吸後に、灸の跡の残るいがぐり頭の中でツッコんだ。…子供か、この娘は!

 「だからってなあ。そりゃ消してしまえればいいかもしれないけれど、この雨を待ち望んでる人もいるんだよ。農家の人とか。今年は暑くって雨も少なかったし」
 「だって、あちこちで被害が出てるじゃない!」
 「そうだけど。大きな力だからって、それが全部悪ってわけじゃない。迷惑がられたって、それを必要とする人も居るんだから」
 彼女は言い返せなくなって、彼を睨みつけた。
 そして、自分たちの今の態勢に気付いた。彼の膝に跨って、後ろの幹に凭れ掛かっている。彼の片腕が、ずり落ちないように腰を支えてくれている。
 その手の熱さ。顔を、ぼさぼさになった金髪から垂れた雫が濡らした。その冷たさに、自分の頬がまた熱くなってるのを自覚した。

 「いやっ」
 思わず跳ね除けざま空に飛び上がろうとしたところで、足首を掴まれる。
 「待て!」
 振りほどこうとすると、両手でふくらはぎを抱きしめられた。
 「なにすんだよっ」
 「もう、勝手にどっか行くな!どれだけ探したと思ってんだよ!」
 
 「こっちの台詞だ、馬鹿!!」彼女は怒鳴った。なんて言い草だ、そっちが勝手にどっかに行ってたくせに!「あたしが会いに来てやったのに、居なくなってたのはそっちだろ!またな、って言ったんだから、おとなしくあそこに居りゃいいじゃないか!」

 一瞬手の力が緩んだ。ずり抜ける途中で、青いベタ靴が彼の手に残り、木の下に落ちていった。あ、と思って彼女が振り返ると、腰のベルトに手挟んだ懐中電灯に彼の顔が朧に照らされている。真っ赤な顔で、泣きそうな顔をしていた。葉の間から、風に紛れてしまいそうな声がした。
 「でも、会いたかったんだ。じっとしてられなかったんだ。仕方ないじゃんか。こんな俺に、お前が、そっちから会いに来てくれるなんて思えなかったから」

 なんて格好悪くって、みっともないんだろう。なんてなりふり構わないんだろう。
 言った後で彼は唇を噛んだ。いい歳したオッサンが、こんなに若い娘に文字通りしがみついて。行かないでと、三文芝居のように。
 気持ち悪いって、きっと言われるだろうな。ああ、悟空。俺は地球人の中でならそこそこ強くなったつもりだった。でも、結局女の子にもてはしなかったよ。やっぱり、せめて、お前くらいには身長が欲しかったよなあ。



 なんて格好悪くって、みっともないんだろう。なんてなりふり構わないんだろう。
 こんないい歳したオッサンのくせに、チビで、真っ赤な顔して、まるであたしより下の学生のように、ひたむきって顔をして。
 でも、と、彼女は見下ろしながら思う。
 あたしは、このひたむきさに、ずっともう一度会いたかった。もういちど、その太い眉の下の目で、真面目に見つめて欲しかった。だから、そのひたむきさに見合うだけの、長い旅をしたかった。巡礼のように、許しを乞う罪人のように。
 さっき触れたときにわかった、あたしの身体はぬくもりを覚えていた。あの戦いの時に、きっと助け運ばれた時に感じたぬくもりは、その安堵と幸福は、ふたごのあいつにももう求めてはいけないものだった。
 だから、

 
 彼女は、破れた白いシャツワンピースの半分の袖から、白い腕を伸ばした。空に浮いたままで。
 シャツがはためいて、広がった。あの戦いから3ヶ月余り、丈を増した金髪が、だいぶんと弱まった風に靡いて雫の光を散らしながら広がった。
 彼は、差し伸べられた腕を見た。
 綺麗だ。
 懐中電灯に照らされて、夜空に浮かぶ彼女は、まるで天の御使いのようだった。そして、いつか本で見た絵画のように、その細い指に向かって指を伸ばした。


 救ったのは、救われたのは、どちらの指だっただろうか。







 気がついた時には、いやに青い空が木々の葉の向こうに広がっていた。
 2人が岩室から這い出て、少し開けたところまで出て行くと、雨露を宿した緑の葉が、蔦が、朝というには高く昇った陽光にきらきらと照らされていた。
 「台風一過、ってやつだ」
 彼が言った。
 「いい天気だね」
 「台風がその辺の雲を全部散らして連れてっちまうんだ。だから俺は台風の後って好きなんだ」
 そう、と答え、服の前を合わせなおしながら彼女は薄い水色の目を眇めて、濃い天色の空を見あげなおした。

 許された罪人がゆく世界は、きっとこんなに違いない。

 「さてと、そろそろ帰ろうか」
 彼女が言うと、彼は目を瞬いた。
 「だって、ジジイが言ってたよ。早く帰っておいでって…なに?」
 
 何かまた顔を赤くして、言い辛そうにしている。なんだよ、とわざと不機嫌そうな声音で問いかけると、彼は言った。

 「な、もうちょっと遠回りして帰らないか。そうだ、買い物行こう、買い物にでも」
 「えっ?なんで。あたしお風呂入りたい」
 「で、でも。ほら。あんまり空が青いし。折角の天気だし。いいじゃないか。とにかく俺は遠回りして帰りたいんだ、お前と一緒に!」

 
 思わず綻んだ彼女の口元に、彼は見惚れた。

 「そだね」
 「一緒に居よう。もう勝手に、何も言わずにどこにも行かない。男に二言は無いよ」
 指を取る。
 だって、また見失ったなら、喩えではなくて自分たちには互いを見出すのは神様を見つけるよりも難しいのだから。離れたなら彼は彼女を感じ取れず、彼女も彼を感じ取れない。でも、こうして指を繋いでいたなら、感じる事ができる。体温を、指の皮膚の感触を、華奢な、無骨な骨格を、そして、その手の中にある、互いの心を。

 
 

 一緒の家に帰ろう。同じところを家として、見失ったならそこに帰ってこよう。
 でも、今だけは、少し遠回りして、二人きりで。
 青い空と青い海のはざま、比翼の鳥になって、さて、どこへ行こうかな。


 



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