このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Life3(前編)




 極北に近いユンザビットの大島は概して凍土に覆われ、いくつかの活火山に熱せられた場所を除いては植物も乏しい。しかし短い夏の間には凍土がゆるみ、ある地方では一面の大湿地帯となる。水藻が幾種類も幾種類も可憐な小さな花をつけ、稀には水練や蓮が鮮やかな花を咲かせ、葦の仲間がさわさわと茂り、はるかに広がる静かな水面は青い空を映して典雅であやなる模様を描いている。
 そこは、渡り鳥達の聖地だった。夏の間ここに集い来る白鳥、鶴、雁の群れが競って求愛のダンスのために美しい大きな翼を広げては歌声を響かせた。そしてうまくやったものは葦の茂みに巣を営み、産毛にふわふわと包まれたひなをもうけた。
 ユンザビットの大島にはかつて人がいたこともあったけれど、かつての火山の大噴火でほとんどが避難してしまったために、西の大陸で近年勃発した工業化の波とそれに伴う汚染にはとりあえずは無縁だった。最近は地学調査や動植物の生態調査のためにごく一部の地域に人が訪れてはいたが、もっとも大陸から遠いこの地方にはまだその足音も聞こえなかった。だが、ひとがこの夏の大湿地の光景を見たなら、こう感想を述べるであろう。『ここは、神の庭か』と。


 日が傾き始め、海の方角から風が吹き始めた。湿地を見下ろす丘の崖の上にずっと苔むす岩の如くに座していた緑の肌持つ青年は、じっとほぼ半日閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。その面差しは一見して異相であった。全身の肌は、通常のひとの良く目立つ筋肉と思しき部分を除いては若々しくかつ深い緑だった。髪もまつげも眉もなく、眉骨のあたりは高く、眼窩は深く落ち窪んでいた。だがその中の白目がちなまなこの中には思慮深さと辛抱強さを湛えたおだやかな光があった。眼球が動いて、茜さす空を巡った。

 雁が数羽、南に飛んでゆくのが見えた。南へとゆく、先触れの、先遣の鳥。

 
 夏の間中愉しんでいた、そぞろめいて美しい生命の気配は、急速に薄れようとしていた。やがて来る、湿地を真っ赤に紅葉させる秋はひどく短く、鳥達はその間に慌しくここを旅立って行ってしまう。そろそろ羽根も生え変わり始めた雛たちは、今必死で親鳥に飛び方を教わっているところだった。


 青年は、身軽に岩場をどんどんとかけのぼり、やがてふきっさらしの山の上にあるただ一軒きりの家に帰りついた。大きな虫の化石のような外見のその中に入ると、椅子の上に走り書きが置かれてあった。それは、親から子である彼にあてての、後で行くからこの中で待っていてとの懇願の手紙だった。でも、青年が物心ついた頃には彼は一人だった。この家の中で、この手紙と共に一人だった。
 以来、どれだけの夏を数えてきたことだろう。両手の指、いや足の指を足してもとうに届かない数だ。



 ごめんなさい。
 私はもう待てません。
 

 今年はじめての雪が降ったなら、私もゆきます。
 もう、ひとりは、いやなのです。
 あの鳥たちのように、誰かと、何処かへ行きたいのです。

 許してくれますか。







 神の朝の日課は、神殿の内庭の散策だった。神殿の内部は大まかに逆さにした半球状のドームの外壁にへばりつく様にして外に面した部屋があって、それを連ねるようにして十数層の回廊がめぐり、その更に内側の大吹き抜けに面して階層を行き来する大階段が東西南北の方角にそれぞれ設けられていた。階段のない部分のところどころはさながら棚田状になって回廊の壁内側に沿った小さな庭になっていて花々や小さな椰子を茂らせ、神殿の半球中ほどあたりでは特に張り出して庭園と呼べるほどの大きさを確保し、小さなせせらぎも設けた美しい空間
になっているのだった。
 空に浮かぶこの神殿は人の世のしかと始まる前からこの天の高みにあり、この世を見守り続けてきた。今は既に失われた不思議のわざをふんだんに用い、異次元すら内に擁するこの天上の城に、この代の神、彼自身が住まうようになって300年近く。修行時代も足せばもっと。その間、神はずっと、この庭園を愛で続けてきた。
 庭園は、下の世界で好まれるような鮮やかに彩られたあずまやや形よく刈り込んだ茂み、品種改良されたような大きく見栄えのするような植物には無縁で、神殿に特有の白く質素にすら見える石組みを流用したいささか色気のないものではあったが、水辺を好む蓮や睡蓮が慎ましやかに年中咲いて、それがこの、屋内で外に面して窓もないのに例の不思議のわざではるか天井(神殿表層部)から外の日光を取り入れ柔らかくたわめて降り注いでくる光に、つややかに光沢ある花弁を輝かせている。さらさらと流れるせせらぎは、数十尋ほどの外径のドーナツ状のこの階の庭園を循環して潤し続ける。
 神は、今朝もそのような中をのんびりと歩いていた。
 黄色の花持つコウホネの丸い水上葉の下、柔らかい水中葉の中に、赤い小さな幾匹かの金魚がぷくぷくと泡を吐き出しているのが見えた。水中葉の内側の見つけにくいところに、昨日はなかった柔らかくて透明な卵をいくつか発見して、神は老いのために皺にひびわれた唇を、それでもやさしく微笑ませた。その唇の中にすまう牙はもうすっかりと象牙色に燻されて、若かりし頃に武術の相手たちにおそれを抱かせたほどの鋭い煌きはなかった。
 神は老いていた。彼が故郷を…あの美しい湿地を旅立ってからどれほどの年月がたっただろう。彼の分身が不老を魂かけて欲してしまうほどに、もはや彼は老いていたのだった。ここにやってきて、また帰り至るまでに、杖に頼らないといけないほどに。


 だが、最近とみにその老いを実感せざるを得ないのは、この神殿に、まぶしいほどに若さの光輝を放つ少年がやってきたからだ。
 やってきたな。神は、上階から響いてくる、階段を駆け下りてくる足音を聞きとめて、そちらを見上げた。


 「おはよっす、神様ー!」
 はるか上からきらきらと降り注いでくる声がして、ついで長く伸ばしたそれが見る見る間に近づいてきた。3層目あたりの階段の手すりから中空に飛び出した少年が、猛スピードで落下してくる。
 だが、神はひるむことなく杖を持ったままそれを見上げたままだった。一瞬のち、5mほど上空で少年の落下スピードに急制動がかかったかと思うと、ついでいきなりその小柄な身体が「上に向かって」落ち始めた。少年はくるくると初夏の飛び方をおぼえたばかりの仔ツバメのように神殿の大吹き抜けの内部を2,3度めぐったかと思うと、唐突に下ってきて神の目の前に軽やかに、得意げに降り立って見せた。
 「おはよう、孫」
 「へっへー、見た?見た?もうこんだけ飛べるようになったんだぜ!」返答もそこそこに、少年が真っ白な歯を見せて笑った。神の顎の辺りで、ぼさぼさの黒髪が嬉しそうにゆらゆらしている。「ゆうべな、オラひとりでさっきみたいに一人で修行してたんだ。まあ、一回うっかりして頭っからそこの池のところに突っ込んじまったんだけど、おかげでもうバッチリだ!」
 なるほど。神は背後を振り返った。ひとつ、無残に底泥をかき回されて根元からひっくり返ったヒツジグサの水槽があったが、こいつのせいだったのか。
 「なあっ、これで、瞑想は卒業だよなっ!?」
 「ならん」
 「ええっ」外の紫外線で黒く日焼けした額の真中が、たちまち吊りあがった眉に持ち上げられてきつく皺を作った。「もうオラ、自分の気はすっかり扱えるようになったんだぜ!舞空術だって必死で練習した!見ただろ!オラ早くいっぱい身体を動かして強くなりてえんだ!」
 「ならば、ランニングをサボるのではない。また飛び降りた階まで戻ってちゃんと下まで行って上まで昇れ。ミスター・ポポに言われているだろう。きっかり3往復するのだ」
 唇を尖らせた少年は、ちぇ、などと言いながら、特製の重量ある靴を引きずって身を翻した。神はその背に声をかけた。
 「待て。戻るなら、またあそこまで飛んで見せてみなさい」
 少年は振り返った。
 「そうしたら、その靴も少し小さくなってきたようだからまた新しいのをつくってやろう。あとの勉学の時間に持ってゆくからな。そうして、今日は次にお前に与える新しい修行の話をしようではないか」
 「ホント!?なんか、新しいことやんの」
 「そうだな。もう、第一段階は終わったとしてよいだろう。だが瞑想は基本中の基本だから、時間を減らしてまだ毎日やるのだ。次に加わる第二段階を見事こなしたなら、お待ちかねの格闘の修行をしてやることとしよう」
 「よっしゃあ!」
 その尻に生えた異形の尾を嬉しそうに揺らしてひとしきりはねまわったあとで、少年は今発した大声にのどを少し痛めたのか軽くせきをして、おもむろにきちんと両手両足をそろえて立ち、目を閉じて、ふう、と息を吐いた後にふわりと舞い上がった。己れの気を練り空を舞う、最近この少年が身に付けたわざ。重い靴とリストバンドを加えた重量を持ち上げるために、舞い上がるにはまだそれなりの集中が必要なのだった。
 ゆっくりと舞い上がってから、少年は見る見るうちに上空へと駆け上っていって、やがて手を振りながらはるか上の窓へと消えていった。
 それをしばらく見たあとで、背後から朴訥な声がかかった。内回廊の柱の影、陰になった暗がりから黒い肌もつ神の従者が闇から溶け出るように姿を現す。殺していた気配をそっとよみがえらせながら。
 「では、今日からですか、神様」
 「ああ、ポポ。しかし、いくら気配を消していたとは言え、そこにいたお前に気付かないようでは前途多難だな、あやつも」
 「しかし、他者の気、探れるようにならないと」先代の、いや先先代よりもはるか前からのこの神殿の管理人であり、神の従者役でもあるミスター・ポポが、荒らされたヒツジグサの根を、見かけよりずっとやさしい指先でそっと水中から起こしながら苦言を呈した。「それに、いきものの気を感じ、もっとやさしくいたわる心、身につけてもらわないと」
 はは、と神は笑い、また駆け下りて来る足音を聞きながら、かつてここに来た頃の己を思った。最近、そのような回想にふけることが多くなってきたのは、あの少年のせいだろう。





 少年の朝食などに当てられたそれからの一刻の後、神は自らの居室に居た。神殿表層の宮殿の最上層、文字通りこの世の何よりも高みにある部屋だ。居室の一角は簡素な寝台を置いた、緞帳で区切られた寝室のようなスペースになっていたが、リビングといえる広々と日の光に溢れた空間にはとりたてて言うほどの飾り気もない。その代わりに多くの緑と本があって、部屋の中央には薄い大気を潤す平らな円形の水鏡があった。
 身支度を整えて、神は傍らに控えていたポポに、今しがた作り出した新しく少し大きな重い靴を預けて自らは杖を手にして部屋を後にした。部屋の片隅の簡素なテーブルの上にはきらきらと輝くガラスのような大きなビンがあって、その中央には粘土のような材質で丁寧に精巧に作られた小さな球体が鎮座している。球体は微細な大小のクレーターを有し、山嶺、盆地、谷を表層に薄く連ねていた。それは今は天に無き、月の模型である。
 月の模型の周りにはそれを浸すようにして、薄い琥珀色の酒のように煌きたゆたう何かしらが瓶のかさの3分の1ほど満たされていた。それは月を復活させるための準備だ。神の龍程度ならまだしも、衛星というような大質量をまた天に作り掲げるには膨大なエネルギーが必要である。よって、毎日少しずつこのようにしてエネルギーを溜め、来るべき復活にそなえている。現在のペースでは、それはあと二年余り先のことになると考えられていた。

 まったく、若い頃ならばもっと早くその様なこともこなせたろうに、と、神は宮殿内の一角、書庫の窓辺に置かれた安楽椅子に腰をかけながら、洗濯ものが溜まってたとかで遅れながらもばたばたとやってきて大卓の椅子にどかりと座った少年を見やった。ミスター・ポポが遅刻をたしなめ、ついでこれからかかる修行の説明にはいった。
 この神殿にこの少年が来てから半年余り。今、16。もうあと数ヶ月で17。漏れこむ朝日にさっぱりと頬を輝かせるその面差しは若いと言うよりはいっそまだ幼いといってもいいほどだったが、それはこの少年特有のあけっぴろげな無邪気さと素直さがかくれも無く表情に表れている印象に引きずられているところが大きい。本人は自覚していないようだったが、背丈はそれでもここに来た頃に比べればだいぶんと増した。身につけている簡素な白と青褐(あおかち)色の服も、何度か身丈を大きく作り直している。
 本来はシャツも重量のあるものを纏わせて筋力をつけるべきなのだろうが、これからぐんぐんと成長してゆく途上であるから、あまり関節に負担をかけすぎるのは好ましくない。本人が望むように肉体的な力をつけさせる事は簡単ではあるが、あえてこのように精神的な修行に重きを置いているのにはそれなりの理由があるのだ。ただでさえ…この少年からは程遠いことのように思えたが…この年頃はただでさえ劣情やつまらぬ厭世観、堕落に身をやつしがちであるのだから、まずは大きくなってゆく身体と力に沿うだけの、豊かで、静かで、思慮深い精神と気を身につけさせる必要があるというのが神と従者の方針だった。幸いにして時間は3年と言う比較的長くが与えられているのだから。


 「気を、探る…?」少年が呟いた。
 「そうだ」ミスターポポが頷く。 「目に見えるものに頼らず、相手の気配感じ対応する。お前が最初ここ来た時ポポ教えた。見るのでなく感じる、これ大事」
 「考えてたんだけど、それって要はあれだろ、狩りん時に獲物が何処にいるか探るみたいな感じ。音とかで」
 「近い」
 「なら簡単だ」少年は自慢気に白い歯を見せ笑った。「伊達にずっと狩りしてたんじゃねえからな。なあんだ、直ぐ終わりそうだな。よーし、もうすぐ武術の修行ができっぞー」
 そう簡単にいくものやら。神と従者は顔を見合せた。







 言うは易いことだが、それは単に動きを感じるというだけの話ではない。おのれの全て…それこそ、視覚・聴覚・嗅覚・触覚すべてを用いて、相手の存在を捉えるのだ。表層上の大きな動作だけではない。間合いを詰めるための僅かな動き。目配せ、呼吸。…息遣い。拍動。それに発露する、気合いの高まり。果ては、気合いを収斂し練り上げようとする、その気配すら感じねばならぬ。それがこれから待ち受けている、より高次の…肉体的なものばかりではない、気を用いた、それこそ超人的な戦いの基本なのである。
 確かに少年は、並みの人間よりはその資質にすぐれていると見えた。これまでのここ神殿での修行で、おのれの気を平らかにして伸ばし練り上げてゆき、「気」というものが肉体を満たすもうひとつの血液のようなものであること、そのコントロール如何(いかん)で為し得るさまざまの可能性について学び得たと見えた。
 しかし、この先に待ち受けているのはまさに下界で言うところの神仙の域。いにしえ風に言えば内丹を練ることで外丹と通じ万物の玄妙なる精気を感じること。戦いでは、例えばある剣術で言うところの「先(せん)の極意」、「心眼を開く」こと。自らの気を集中し、おのれをひとつの鋭き切っ先を持つ鋭敏な感覚あるものに練磨し、相手の僅かに発するものから相手がどう行動するかを「それこそ相手と同化するつもりで」読み抜くこと。
 指南役であるミスター・ポポの説明はいささか簡潔に過ぎたが、少年にこのような説明を一時にしたとて理解できるとも思えなかったし、まずはおのれの思うところで挑んでみるのが肝要だ。あとは段階的に導いてゆけばよい。ひとが、どのように自分の中で感覚を処理するかということはそれこそ教えられるものではなく、個人個人がそれぞれに掴み構築していかなければならぬものだからだ。だが、それが得られねば、まったく、神殿で神に学んだという意味もないのである。

 
 神自身がどうだったかというと、不思議な事ではあるが、それはあの北の湿地を出る前には既に会得していたように思う。それこそ、誰にも教えられないのに、膚で感じ、言葉よりも先に知っていた事だった。
 神は…後に神になる青年は、言葉を知らなかった。海を渡り、大陸に渡ってみてはじめて出会った人間らしきものは、自分とは明らかに違った。白く薄赤い滑らかな肌を持ち、薄い体毛を持ち、頭にはそれを濃く持っていた。植物を、または獣を殺して摂取し、男女という区別があった。
 彼は戸惑った。だが、より戸惑ったのは、彼を目にした他者の方だった…。彼は放浪した。あそこを出たとて、彼はより「ひとり」だったのだった。

 (おまえは、本当に、神の子のようだね)
 そう言われるまでは。

 (さあ、おまえの奇跡の力を、この人たちに見せてあげなさい)


 
 神は、神殿の半球の表層のふちで、独りぶるりと頭を振った。自室の水鏡からも同じものが見られるとは言え、ここから下界を見下ろすことの方は彼は好きで、もうひとつの日課であった。
 そろそろ日暮れ。神殿の斜め下方から差し込む日差しは下界を七色に染め上げようとしていた。加えて秋を迎えたカリンの森はそろそろ赤く黄色く紅葉をはじめ、大陸はまさに錦のようだった。この超高空から見下ろすと、下界はまるで箱庭のようで、例えて言うなら大きな一面の初秋の湿地のように見えた。
 ユンザビットのあたりは既に青白く、寒気による雲に覆われていた。きっと、今は吹雪なのだろう。
 白い、白い吹雪。じっと、家の中で、白い息を吐きながら、窓の外を眺める日々。気を探っても、誰もいない。動物も、じっと身を潜めたまま。植物も、じっと、眠りについたまま。冬はやたらと長く、日も昇ることなく、ずっと暗い空白を耐えるだけ…。
 
 そこまで回想したところで、宮殿の方から急いたような足音がして、少年が大股に歩み出てきた。神殿のふちのほうに…こちらとは少しずれた方向に向かってくる。ゆっくりと振り向くと、怒ったような表情の少年と目が合った。一瞬逡巡した後だが、少年はこちらに歩いてきた。
 「どうした。まだ、気を探るので苦労しておるのか」
 もう、第二段階に入ってから半年近くが過ぎていた。隣に立った少年の、相変わらずぼさぼさな髪の先は、今は丁度神の鼻先で揺れている。少年はいきなりどかりと足元に座り込んで、じっと急速に光を失っていく下界を見下ろした。しばらくして、声変わりの途中のかすれた声で呟いた。
 「…違う。ミスター・ポポがしつけえんだ。ほんとの親がどうとか。どう思ってるかとか」
 いつもの勉学の時間に交えられる、問答の話だろう。おのれを見つめさせるるために、神と従者はしばしば少年に対してそのような問いを投げかけていた。
 「こっちがどうでもいいって言ってんのに、しつけえんだもの。オラは捨てられてた。でもじいちゃんに拾って育ててもらった。それでいいじゃねえか」
 「なら、それでいいではないか」
 「何故捨てられたかなんて、知った事じゃねえ!」
 憮然として薄明の青黒い空(くう)を見つめる眼に反して、石畳の上では尻から生えた尾が逆毛を立ててのたうっていた。影が長くばたりばたりと尾から更に尾を引いている。
 
 「親にも、事情があったのだろう」
 神は呟くように言った。今さっきまで思い出していた、一人の日々。何度置手紙を破り捨ててしまいたいと思っただろう。幾度も幾百度も幾千度も手にとって見つめるためにくたくたに草臥れた紙片の感触が、手の中に蘇ってくる。
 生い立ちを聞く事で、この少年が月を破壊する原因になった大猿に変化することはすでにわかっていたし、それのために捨てられたのだろう事は神にも察せられた。自らがそのように変化する事には気づいていないけれど、おそらく本人も自分が捨てられたのは常ならぬ人間だからということは悟っているのだろう。
 「会えたら、なんとする。ポポは、そういうことを考えさせたかったのだと思うが」

 上目遣いに見上げて、少年は感情を抑えようとしている声で問うて来た。
 「神様、下界見れるんだろ。オラの親探す事できるの」
 ちょっと考えた後、神は答えた。「それは、無理だな」
 「なんだ。神様なんてたいしたことねえんだな」
 言い放って、少年は立ち上がって、灯の点りはじめた宮殿へと帰っていった。
 神は、それをじっと立ったまま見送っていた。つま先に、失望のようなひどい感情が生まれて、石畳にタールのようにべっとりと貼り付いていた。









 第二段階がそろそろ終わりそうだとポポが報告に来たのは、それから一週間ほどしてからだった。
 早朝、居室の戸口で、朝の世話を焼きに来たポポが続けた。「万物の気、感じられるようになった。けど、精神やられはじめてる」
 窓辺でその言葉を聞いた神は、足音に気付いて外庭を見下ろした。いつもの朝のランニングの前に外庭に体操に出てくるのが少年の日課だったが、その足取りは見るからに重かった。椰子の並木のところまできて、不意にぴたりと止まり、両のこめかみを押さえるようにしてうなだれ、ついでいやいやをするように頭(かぶり)を振ってしばらく自らで自らを抱えるようにして動かなくなってしまった。
 いままで己を鋭敏に鋭敏に研ぎ澄ましてきたあまり、いざこの世界に満てる膨大な気を感じられるようになった今、あまりの情報の多さに神経がついていかないのだ。要はバランスの問題なのだが、どちらにしてもしばらくは己の中で処理用の回路を構築していかないとならぬ。しかし己を侵食され続けているような感覚の中集中をする事はやさしい事ではないだろうとポポは言った。
 神は無言だった。

 3日後の朝、ポポに伴われた少年が、神の居室にやってきた。
 「眠れねえんだ」
 目の下に濃い疲労の色をべっとりとにじませて、少年は青い顔で喘いだ。「頭の中ががんがんする。胃袋がずっと握られてるみてえだ。こんなの本当に必要なのかよ!気を感じられるようになったって、強くなった気がしねえ。もういやだ。沢山だ。こんなのやめさせてくれ。早く格闘の修行をさせてくれよ!」
 少年の傍らのポポを見ると、軽く頭を横に振った。何を言っても聞きもしなかったのだろう。
 「では他のものの気を感じられぬ修行場に連れて行ってやろうではないか」
 乾いた声で神が戸口に立っている少年に言うと、ポポが元から丸い目を更に丸くした。見ない振りをして神は続けた。
 「ここでの一日で、お前にとって1年分の修行が出来る場所だ。そこで一人で好きなだけ肉体の鍛錬をするがよい」
 「…ホントに?」
 「耐えられるものならな」
 何処か不安そうな顔をしつつも力を抜いて肯く少年の脇をとおり、先導して歩き出した。階段を一階へ降りる。宮殿建物の中庭にはドーム状の、神殿の不思議をつかさどる建物があり、庭のぐるりは開放的な回廊になっている。
 その一角にその部屋はある。重厚な扉の上には古びた時を刻まぬ大時計が壁にかかり、薄い朝日を受けて鈍い光を放っている。それはさながら昔話で扉を守る一つ目の巨人の眼(まなこ)のように見えた。
 ポポが持っていた鍵を用いて扉を開け、ゆっくりと開いた。
 中は真空のように空虚で、白く薄暗かった。少年は階に足をかけて、入り、ちょっと神妙な顔で振り返って、ゆっくりと扉を閉めた。
 大時計が、ぎり、と音を立てて、最初の針を刻んだ。

 「神様、なぜ」
 「本人が望んだのだから、仕方ないではないか」
 「…思い出す。あなたが、ここに入った時の事。孫悟空も、どうなることか」
 「言うな。私は、庭園におる」


 
 
 神が、この白い部屋に入ったのは、前の神が死の床に臥した時の事だ。時間は無く、だが、彼はまだ跡を継ぐことを許されていなかった。いわば、非常の手段だった。
 今回はまだ時間も十分に残されている。しばらく休ませれば済む話だった。なのに、放り投げるような真似をしたのは…。
 天上から漏れ来る光に長身の細い陰を打たせて、古びた松の苔むした枝のように、神は待った。せせらぎの音にじっと息を詰めて、待った。
 2時間ほどして、上の方から扉の開く音がした。それで、神は、ゆっくりと神の庭をあとにした。






 「熱高い。でもだいぶ落ち着いた。1日ほど寝ていれば、目覚ますはず」
 少年の居室で薬草をすりつぶして与えたポポが、手を拭いながら告げた。
 「私が診ていよう」
 「…はい」
 
 昏々と眠る少年の寝台の傍らに椅子を引き、神は杖を手がかりに腰を下ろした。部屋には、当然の事ではあったが何の飾り気も無かった。が、壁には一幅の東風の掛け軸がかけられていた。いつだったか、宝物庫の掃除をさせた折に、かつて家で掛けられてたのと同じ詩がしたためてあるからと気に入ったので貸してやったのだと前にポポが報告していた。
 墨で淡く濃く描かれた山水の景色は、中庭を見下ろす大きな窓を持つ部屋に満ちた昼下がりの光に、淡く照らされていた。これが、この少年の故郷の原像なのだろう。
 








 故郷を出てどれほどの時が過ぎただろう。南の国々を放浪していた彼に手を差し伸べたのは、ある夫婦者だった。夫婦者は彼の特異を非難したりはしなかった。むしろ、それは「奇跡につらなるものだ」と誉めそやした。そして彼をあらゆる場所に連れ歩いて、奇跡を喧伝したのだった。
 とても、昔の事だ。人々はまだ蒙昧で、貧しく、彼が見せる多少の不思議のわざにくいついた。食べずとも生き、不思議をなし、力は強く、心は清く、性の別もなく、肉欲をも超え…それは、愚かな民衆には、まさに奇跡の、神の子に見えただろう。
 彼を見出した夫婦は、彼を誉めそやしはしたものの、明らかに馬鹿にしていた。それでも彼は嬉しかったのだ。自分は一人ではない。認められるべき、力を持っていると。その夫婦の元を離れたのは、結局は、自分が、2人が貧しい人々からさらに金を絞りとる道具であると気付いたからだったけれど。
 以来人目を避け、放浪の間におぼえた武術を磨き、さらに世界を放浪した。時には孤独は胸を圧し、幾度かはそれは故郷へと足を向けさせた。でも、親はやはりそこにはおらず、自分が何者なのかを教えてくれるものは現れはしなかった。
 ある隠者に、西の果ての聖地の上には本当に神がおわし、認められたものは神殿に昇る事ができると教えてもらった時に、迷わずに旅立ったのはだからだった。まだ引かれたばかりの大陸横断鉄道を乗り継いで、遥か西へと、水無く辛い砂漠を越え、世界の屋根たる高峰を越えて…


 神ならば、答えを与えてくれると思ったのだ。だが、それは得られなかった。得られぬものなら、いっそ自らが神になってやろうと思った。神は老いていて、その頃自らはまだ若く自信に溢れていたから。しかし長い修行を重ねてもなお、神は認めてはくれなかった。
 「だが駄目だ」神はついに斃れた死の床で瞑目していた眼をそれでも開いて、こちらを睨みながら切れ切れに断じた。
 「なぜです。私は暴食に身を浸すことも、色欲に身を持ち崩すことも、嫉妬に身を焼く事も、強欲に駆られることも、傲慢も憤怒も怠惰も縁遠いもの。私がふさわしくないなら、誰が貴方のあとを継げましょうか!」
 「お前は、親に捨てられた事でどこかで世を呪っておる。人間を心のどこかで見下しておる。そのようなものにこの世を任せられるか!」
 冷汗が流れた。否定が出来なかった。だが、彼はかすれた声で答えた。
 「精神と時の部屋をお貸しください。一日のうちに、私はその邪悪を追い出して見せましょう」


 




 椅子の上で身じろぎした神ははっと動揺して目を開けた。うっかりと居眠りをしていたのらしい。
 周りは暗く、いつしかポポが置いたのだろうひざ掛けが足の上に乗っていた。
 まだ眠り続けている少年の寝台の側机には、新たな液薬と、蝋燭をともした燭台が置かれてあった。
 布団の上に置かれた少年の指はぼろぼろに傷つき、薄くひび割れた唇と、長い伏せられたまつげの下に隠れた色濃い隈とともに、部屋の中で苛まれたこころの苦痛を物語っていた。

 馬鹿げたことだ。
 勝手に、独りの仲間だと思い、異形の仲間だと思い、勝手に裏切られた気になって。

 神は蝋燭の光に照らされた皺深い顔に、より濃い影を作りながら自嘲気に笑った。そして、枯れ枝のような両手の指で、顔を覆った。
 私は、何も成長していない。神に失格したものなのだ。あの時、あの白い重い扉から分身が逃げて行った時点で、そうだと悟るべきだったのだ。



 だが、私は、できるなら、おまえに後をついで欲しいと思うのだ。私は老い、お前は眩しく若い。
 だから、どうか乗り越えておくれ、そして笑い飛ばせるようになっておくれ。
 自分が何者でもかまわないと、心から言えて、孤独をも超えていけるほど清く強くなれるように。




 


 空がゆっくりと白んできた。
 少年の…いや、また背の伸びて、今や青年と呼んでも違和感のない、その若者のまぶたがゆっくりと開いた。


後編へ続く






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