このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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beat(後編)






 心臓が轟くごとに肉体を痛みが駆け抜ける。
 心臓が轟くごとに、魂が痛みに悲鳴を上げる。
 止む事なきその苛みに何を為すことも出来ず、ただその苦痛が終わるのを願うのみ。
 痛みが止むのを願うのか、心臓の鼓動が止むのを願うのか。最早どちらともつかないまま、自分は其処に耐え居るのみだ。

 …自分はどこに居る。自分はここに居る。
 ここは、どこだ。ここは自分のあるべき場所ではない。
 ここは。



 目覚めたその一瞬だけ、何もかもが楽になった、気がした。其処は深い闇の中だった。目を開けても変わらぬ視界にとろり、と意識がまた溶けかけたのだが、上のほうにくらりとバランスを失った意識が逆に水平を保とうとして、ぴしりと何かに鞭が入った。それでまた鼓動とともに痛みが彼の…悟飯の身に降りかかってきた。
 「お…ぅ」
 呻きを上げ、彼は「そこ」を動かそうとした。動いたような感触はあった、が、実際にはそうではなかった。すさまじい違和感が痛みの裏側に塗り広げられるように拡散して霧散して行った。なんだ、今のは。その瞬間、ばちりと音がしていきなり周囲が明るくなり、眼球の裏に赤い残像が張り付いて思わず身を捩った。
 「あっ、悟飯さんやっぱり起きてた。かあさーん!起きたよー!」
 顔も上げることが出来ない激痛の中、とたとたと冷たいリノリウムを踏む音が近づいてきて、悟飯の背中にまだ小さな手がそっと触れた。
 「悟飯くん」その上のほうからそっと女の声がかかった。「痛そうね。腕を出して。痛み止めを打ってあげる」
 細い荒れた指が、彼の右腕の肘の内側、柔らかいところを何往復か擦った。一瞬その優しい感触にほっとしたところにぶすり、と針の痛みがした。思わずのけぞらせた彼の身体を、傍の、彼の弟子である少年がまだ細くとも力強い腕で抱きかかえるように押さえつけた。体内に透明で静かで冷たいものが流れ込んでくる感覚。しばらくして、まだ痛みは引かないながらも彼は笑顔を造って見せた。
 「…ありがとうございます。ブルマさん」
 「いいえ。気がついて良かったわ。もうだいぶん長いこと眠ってたままだったのよ。大丈夫、ここはウチの地下室だから。お医者様も通ってくれるし、しばらくはここで傷を癒すことよ」
 ひとつ息をついて俯く。暖房も無い部屋の中、2月。繰り返す息が暗い照明に白く照らされていた。薄目を開けて痛みと薬の拮抗を感じながらしばらくじっとしていると、背後から小さな嗚咽がした。
 「どうした、トランクス」
 「だって、だって悟飯さん。ごめんなさい。僕のせいで、こんな。腕が」
 …ああ。
 背後を支えているトランクスの、自分の左肩に添えた小さな手。その少し下から先が、ない。
 悟飯は先だっての戦いを思い返した。あの人造人間どもに、自分たちは手ひどく痛めつけられた。いまだ超サイヤ人になれないトランクスを庇い、自分はこのような傷を負ったのだ。瀕死となったこの子供を救うすべはひとつ、ひとつしかない仙豆を使う他はなかった。
 「だから、いいんだよ。俺は使わなくても生きてる。お前は使わなきゃ死んでた。それだけのことさ。さあ、落ち着いてお寝み。俺ももう寝るから」
 弟子は顔を拳で拭いながら肯き、母親であるブルマとともに荒れ果てた部屋を出て行った。明かりが落とされ、部屋はまた、地下の深い闇の中に戻った。
 
 悟飯は身体のあちこちを庇いながら布団に横になった。ずくん、ずくんと身体の中でいろんなものを巻き込みながら脈打つ鼓動の音をただ聞く。
 腕の喪失にショックがないといえば嘘になる。ああ、これでは戦い方も限られてくる。日常においても不便を被るだろう。そういえば、昔…大昔、自分の初陣で師匠が同じように腕を失ったことがあったっけ。自分もあのように、腕をまた生やすことができればいいのに。
 どくん、どくん。
 血流に乗って背筋の中身を、脳を鎮めさせようと働く薬の作用に、とろとろとまた睡魔が襲ってくる。
 眠ろう。最早、自分にはそれしか傷を癒すすべはないのだから。
 「あの時」貰ってきた仙豆は尽きた。聖地の仙猫も今はもういない。あの世から死者をいっとき連れ帰ってくれる老婆ももういない。世界から神秘は、もう完全に失われたのだ。






 あの時、父親が倒れた日。

 心臓が爆発しそうな勢いで飛ばして飛ばして飛ばして、何か言おうとした仙猫から仙豆をひったくるようにしてまた同じように帰ってきたのだが最早遅かった。玄関で待っていた母親の顔を見て悟飯は全てを察した。息を切らせて立ち尽くすその手を白い指がとり、彼の部屋へと連れて行った。床の絨毯に豆粒がぽろぽろと落ちた。あ、と思って咄嗟にしゃがんだその目の先に手帳があった。それと豆粒をのろのろと拾い上げる間、鼓動が耳を圧していた。すでに冷たいその人の手首を触ってみたが、当然のごとく其処には何の動きも働きもなかった。
 部屋の向こうで、何件も電話をかけている母親の声がしていた。それを聞いているうちに、把握した現実がやっと涙腺に重く痛くのしかかってきたのだった。

 夜になってやってきた白装束の者たちが遺された父親の身体をいずこにか持ち去り、その間悟飯と母親には禁足令が言い渡されさまざまの簡易的な検査が行われた。報を聞いて駆けつけてきた父親の仲間たちとも顔を合わすことが出来ず、ブルマなどは「こんなにおおごとになるなんて」と扉の向こうから何度も詫びていた。母親が父親の願いどおりブルマに電話して、ブルマがそのまま部下…会社の生化学部門の医者に素直に伝えただけだったのだが、なにせ彼女の立場が立場だから想像以上のおおがかりになってしまったのだった。だが感染などの可能性を考えれば彼らは彼らなりに忠実に正義感に基づいて仕事をしたのだから責められるべくもない。
 数日して禁足は解けたのだが、家の中は念の為に念入りに消毒されて母子は西の都に連れて行かれ医者から説明を受けた。確かに未知のウィルスであり発症した場合の死亡率は動物実験ではほぼ100%に近い恐ろしい病気ではあるけれど、とりあえずは彼らが感染した可能性はないだろうこと。人から人への感染はほとんどないだろうこと。だができれば医学の発展のために父親のからだを提供して欲しいこと。それはブルマによって固く内容の秘匿が命じられていたけれど、サイヤ人と言うものについての研究という意味込みの話だ。会社の上層部は宇宙船の件もあったからある程度サイヤ人とナメック星人とそのオーバーテクノロジーについては知らされているし、父親が乗って帰ってきた宇宙船も会社で保存されている。今も一部の部門では密かにそれらについての研究がなされているのである。
 悟飯は父親のからだのこれからのことを想い唇を噛んだ。しかし自らも科学者を目指す身としては医者の態度の何を責められようか。母親は頭を下げた。「どうか治療法をちゃんと見つけてください」と。それで話はついた。
 廊下に出て仲間たちと顔を合わせて説明をした。みな何とも曰く言いがたい顔をしたが母親が決めてしまった以上誰も口を出す権利がないのをわかっていたから何も言わなかった。一番抵抗をしたのはその段になってどこからかふらりと帰ってきて今頃事態を知ったベジータだった。わめいたり暴れたり重力装置を壊したりしているそれを尻目に仲間たちは遺された身体に向け最後の別れをした。
 「できれば髪の毛を分けてくだせえ」母親が医者に頼んだ。「そこが一番この人のこの人らしいところだったから」
 母と子にそれぞれひと房。願い出たクリリンにもうひと房。切られた髪と親友を見比べてクリリンが呟いた。
 「こいつの髪って切ってもすぐ生え揃ってきてたもんだってのに。本当に、もう生きちゃないんだな、こいつ」
 悟飯は最後に、布団からはみ出していた、検査でつけられたのだろうと思しき身体の縫い目をなぞって布団をかけなおして部屋を出た。
 誰も(ベジータ以外は)もう泣いてはいなかった。「これも天命じゃよ」父親の師が庭で青い空に煙を吐き出しながら呟くように言った。父親のようなひとが戦いで逝ったのでないなら、本当にそれは天命としか言いようがない、とみなが肯いた。冬枯れたカプセルコーポレーションの庭、ブルマの母親が淹れてくれる茶をみなで呑み、誰かが時折何かを語って誰かがそれに肯いた。遺体を焼く事も出来ぬ、それが葬儀の代わりだった。
 村ではあのような大掛かりな消毒やらがあったものだからしばらくは色々な噂も立てられはしたのだけど、春が過ぎ夏が過ぎる頃、しつこく残っていた消毒くささが消えるには母子はまた、父親が不在の頃のそのままの暮らしに戻った。家の裏に立てられた墓は石を置いただけの簡素なものだったけど、たまに誰かが其処に訪れ、母子と話をして帰っていく。夏が過ぎ秋に、短い秋が行き長く寒い冬に。移りゆく季節、色を塗りなおすように鮮やかに周りの山が色を変えていく中、悟飯はたまに手帳を手に野山をひとりうろつき観察を充実させていった。ほとんど勉強に専念し、ほとんど武術からも遠ざかってしまっていたのだ。あの日までは、全く。

 あの日、呼び出された時、慌てていたあまり仙豆を家に置き忘れたことがよかったのか悪かったのか。ともかく多くの仲間を失い、やっとのことで家まで逃げ帰ってきて悟飯は母親と山へ逃れた。直後気を失いその傷を癒している間に、西の都ではあのベジータすら人造人間にやられてしまった。戦えるものは全く自分ひとりになってしまったのである。
 何かを予見していたのだろうか、手帳に自分宛に遺された父親の絶筆はただ一言、「生きろ」だった。生きた。自分は何とか生き延びた。生きて何をするべきか、そんなの決まっている。まだ9つの少年の双肩にのしかかったのは紛れも無く未来の全てだった。しかし母親はその事実を認めようとはしてくれなかった。
 「なんで母さんの言うことが聞けねえんだ!」浴びせかけられるその声を意識的に無視しながらも、それを悟ってか彼女は腕の中に少年を閉じ込めてなお懇願する。「お願えだから、修行なんてしねえで。戦うことねえ。父さんも生きろって言ってるでねえか。なあ!」
 その度その腕の温かさを拒否もしきれず、ただ顔に覆いかぶさる胸の柔らかさを拒み身体をこわばらせて声を聞くまいとする。隠れて修行をするたび繰り返されるそのやり取り。母親とはなんと業深く愚かしい生き物なのだろうか、と心のどこかで軽蔑しつつも、幼い頃のように五月蝿い、と怒鳴りつけられないのは、間に父親と言う緩衝材が無くなったからだった。祖父が一緒に住むようになってからは多少その役目をしてくれたが、祖父だって基本的に母親側の人間なのだから修行を認めてはくれなかった。祖父に理由を問えばまだお前は小さいから、の一点張りだった。ならば、早く大きくなれば。
 母親の背を抜けば。いつしかそう思うようになった。抜いたのは14のときだった。幾度かの外泊の後、もう家には戻らなかった。手帳と仙豆、そして小さい頃に缶に入れていたいくばくかの小遣いの蓄えだけを手に、西へと満天の夏の夜空を飛んでいった。甘く涼しいような夏の夜風の満ちる上空、夜露のように降り注ぐ流星の光に打たれながら。
 父親はあまりに突然逝ったから、自分に母のことを頼んでいかなかった。だからいいのだ、と理不尽な言い訳を胸にめぐらせながら。







 カプセルコーポレーションでの養生も2週間をこえ、何とか起き上がり歩き回れるようになった。大事な研究の大詰めにかかっているブルマも食事の支度などちょこちょこと世話は焼いてくれたが、主に面倒を見てくれたのは弟子である、13になったばかりのトランクスだった。
 「今日は庭でも散歩しようよ。ちょっと寒いけど、よく晴れてる」
 洗われ続けて草臥れた包帯を巻きなおしてくれながら、トランクスがにこりと笑いかけてきた。衣料も少なくなった今、居候である悟飯には満足なコートも無い。かい巻きよろしく毛布を身体に巻きつけた悟飯と、薄いコートのトランクスは広大な庭に出た。3月の頭、水色の空。あの華やかだった高層ビル群は大半が穴をぶち抜かれたり途中から折れ崩れ、割れたガラスを煌かせながら奇妙な海中の珊瑚のような佇まいを見せていた。庭のどこからか漂ってくる沈丁花の香り。どこからか聞こえてくるクラクションの音。せめても壊れた物を修復しようと試みる儚く遠い槌音。時折春の兆しの風が強く吹き、瓦礫の都に埃を立てていった。
 破滅の始まった日からもうすぐ13年。人の営みも自然のそれも完全に絶えたわけではない。だが破壊をとめようと試みるものが無くなればその後はどうなるのだろう。人間を殺しつくした後人造人間たちはどうするのだろう。
 初めての戦いのとき、彼らは憤った。
 「孫悟空がもういない世界などに意味はない」
 「あたしたちがこんなにされた理由がなくなって、あたしたちは怒ってんだ。何故生かして置いてくれなかった。なぜ生き返らせようとしてくれなかった」と。腹いせは悟飯の師に向かった。2度死んだ人間を生き返らせない中途半端な物を作った自分の分身を恨めと。師の今際の際の叫びに従い必死に自分は逃げてきた。その後息子である自分や母親に矛先が向かなかったのは幸いと言うほか無い。せめて同じ純血のサイヤ人を、とベジータがその代わりになったのだった。その後はゆがんだ博愛精神によって世界中の人々が等しくその対象に。恋に破れた娘が神に仕え隣人愛に身を捧げるようになるかのように。

 「僕なんか、人造人間が居なくなった世界のほうが想像がつかないよ」隣で芝の上に胡坐をかいたトランクスが空を仰ぎながら言った。
 「だろうね」
 「かあさんや悟飯さんがよく話してくれる武道家の人たちも名前だけしか知らないし。僕は知らないことばっかりだ。人造人間を倒して世界を元通り平和にしたいとかは思うけど、それがどんなイメージなのか本当はよく分からないんだ。おかしいのかな、僕って」
 曖昧に微笑んで傍らの薄く苦いコーヒーをすすった悟飯を横目に、並び座った少年は続けた。「死んじゃった父さんとか、悟飯さんのお父さんのこともほとんど知らない。前に悟飯さんから僕の父さんはとっても誇り高い人だったって聞いたね。悟飯さんのお父さんはどんな人だったの」
 「んー」悟飯はよぎり傷の残った頬をかきながら…それは父親から継いだ癖だったのだけど…ちょっと考えた。父親を、いや身内を評するというのは何かしら気恥ずかしいものだから。「…そうだねえ。一言で言うなら、まっすぐな人、だったな。全くの善人とかそういうわけでもないし、色々悩むこともあったと思うけど、俺から見たらただまっすぐな生き様の人だった。うちの母はあれは単に戦闘馬鹿なんだって言ってたけど」
 「よく分からない」
 「ベジータさんもそういう人だったよ。ああいう性格って、やっぱり純血のサイヤ人に共通したものなのかな。目の前の、自分より強いものにまっすぐ進んでいく。俺みたいに、周りの人が困ってるから、とかそういう理由が要らないんだな、あの人たちは。強いものと戦いたいから、って理由だけで戦うんだ。わかるかい」
 「…やっぱりよく分からないな。会えば分かるかな」
 「会えば分かるさ。きっと俺の父さんに人造人間のことを教えたら、すげえ、戦いたいなあ、って喜ぶと思うよ」
 「…悟飯さんは、会いに行きたくないの。僕だけ過去に行っても」

 「仕方ないわ、できるだけエネルギーを使わないために一人乗りに、しかも軽いほうが行くべきなんだもの」
 いつの間にか後ろのほうに立っていたブルマが、建物の戸口から口を挟んできた。
 「寒いわねえ。ほどほどにしときなさい。それよりグッドニュースよ。やっと薬ができてきたの」
 「え、薬って、心臓病の?」
 「ホントですか、ブルマさん」
 「ホント。今「地下」のほうに行って貰ってきたわ。ホラ、これよ」
 駆け寄った2人に、ブルマは誇らしげに小さな小さな遮光瓶を掲げて見せた。とろりとした液体が中で波を打った。「ちょうど今日は孫君の命日だわ、タイミングのいいこと。問題はタイムマシンのほうね。それはあたしが頑張らないと」
 薬を悟飯に手渡し、ブルマが微笑んだ。「さあ、今日はお祝いよ。食料もいいのがたくさん手に入ったの。久しぶりに料理の腕を振るうわよ、あんたたちも手伝って頂戴」


 




 月の失われた夜、悟飯はひとり地下への階段を下りていった。真っ暗で足元はほとんど見えなかったが、父親からある程度受け継いだ夜目のおかげでそれほど危うくはない。頑強な金属の扉を押し開けると、其処にはこの部屋の主が鎮座していた。
 薄暗くやや青い、丸いガラスの非常灯がひとつつけられた広い室内、種々のコードがまるで密林の榕樹の気根のように天井から垂れ下がっている。室内はまるで月明かりに柔らかく息づくジャングルのようだった。それは、その光に柔らかくその身を打たせるように佇んでいる。タイムマシン、の本体部分である。
 周りにつくべき跳躍用の制御部分はまだ無く、在るのはエネルギーを充填するための本体の一部とそれを支える足だけだった。三年前から本格的に着手しだしたのだが、これだけでも、人知を超えた途方も無いエネルギーを蓄えるために想像以上の試行錯誤が必要だった。今は研究所の大半の機能が失われ、物資の不足で部品を調達するのも一苦労なのだから。
 家を出てしばらくしてここに顔を出したとき、生まれたという事は知っていたものの、4つか5つになり戦いに興味をおぼえ始めたトランクスと初めてじかに顔をあわせ、ブルマからタイムマシンの構想をはじめて聞かされた。その時、どんなに心救われただろう。自分だけがことを為さねばならぬのではない。自分だけがサイヤ人の力を継ぐ者ではない。そしてたとえ非力な地球人だとて、あの敵に対して為せることはある。だけどそれらが育つまでに失われていくだろう他の命のことを思えば、やはり自分はひとり、今までも人造人間に立ち向かっていくほかはなかったのだけど。そして、その道程はまだまだ遠い。弟子はいまだ幼く、この機械はまだ完成には程遠い。
 毛布に包まった悟飯は、抱えてきた破れ綻びた胴着と裁縫道具を取り出した。冷たい床に座りこみ、口にくわえた糸を針の穴に通し、両足で布をひっぱりながら不器用な針目で胴着を繕い始めた。
 いつしか戦いの中で失ってしまった遺髪と手帳。その喪失を誤魔化すように、この山吹色の胴着に身を包むようになった。今まではたまにここに来る事はあったけどこのように長く逗留することも無く、基本的にひとりの生活だった。幼い頃の修行のように荒野にひとり棲まい、ひたすらに修行に身を捧げてきた。あまり金もないから、年に一度町に下りて小金を稼いでつくるこの一揃いを大事に繕いながら着てきたのだ。幼い頃、たまに村の老人たちの繕い物を引き受けてかわりに野菜などを貰っていた母親の見様見真似で。
 どうにか繕い物を終え、もうひとつ抱えてきた酒瓶を取り出した。もうひとつの小さな瓶も。グラスも無いまま、ちびちびと喉に流し込む。度数の強い北の酒は喉に冷たくどこか痛かった。

 「グラスぐらい使いなさいよ」
 脇の部屋から厚着をした女が顔を覗かせて、小さなガラスの器を二つ手に近づいてきた。
 「其処にいらっしゃったんですか」
 「んー、いつの間にか寝ちゃってたんだけどね。どうしても解決しない式があってさ。コンピュータも最近部品が劣化してきてすぐ熱がたまるし困っちゃうわ。おかげで傍にいると暖かくていいんだけど」
 ブルマは隣に座って笑い、グラスのそれぞれに透明な液体を注いだ。二人はそれをかちりと合わせてそれぞれ呷った。
 「あれからもうそんなに経つのかしら。悟飯くんも大きくなるはずだわ…今いくつ?」
 「4月で22、ですかね」
 「そっか。普通なら、大学に行ってる歳だわね」
 悟飯は微笑を作った。今更それについてどうこう述べても仕方ないもろもろのことを封じ込めるように。その顔を見てブルマは鼻で息をつき、言った。「なんて言うか、そういうとこ孫君に似てるわ。笑って誤魔化すようなところ。表情は全然違うんだけどもさ…ところで、なんかあたしに用だったんじゃないの」
 「そういうわけじゃないんですけどね、単にこれを見ながら飲みたかっただけで。でもついでだから、これ返します」
 悟飯は床に置いていた小さいほうの瓶を手渡した。
 「なんで。あなたが持ってらっしゃいよ。大事なものだから守っててよ。孫君の…お父さんの形見のようなものじゃない」
 「僕は」つい昔の口調が出てしまって悟飯は慌てて言い直した。「俺は、また戦うんですから、こんな壊れ物なんかもっていられませんから」
 

 「…まだ、戦う気なんだ」目を床の山吹色の胴着に落としてブルマが呟いた。
 「そうせざるを得ないでしょう」
 「…」
 しばらく沈黙が落ちた。それぞれがまた杯を重ねた。上の表のほうから、強い風が廃墟を吹き抜けていく音が幽かに聞こえる。青い照明と相俟って、部屋は暗い海の中のように思えた。息の詰まりそうな沈黙。


 「…トランクスは、いい弟子かしら」
 不意にブルマが口を開いた。
 「せめて、あの子を出来るだけ強く鍛えてやってよ。超サイヤ人にしてやって。…きっと、あの子はあなたみたいに人造人間にひとりで立ち向かっていくわ。あなたが皆を失って、やけっぱちみたいに何回も奴等に挑んでいったように」
 「それで、…いいんですか」
 「わかってるわ。昔はあたしだって、あなたのおかあさんみたいに、トランクスが武術をするのにいい顔をしなかったもの。最低限の人間相手の護身ってだけなら、ってんで教えてもらったけど、戦いに行っちゃ駄目って強く言い聞かせて止めてきたもの。虫がいい話よ」
 「…」
 「あなたには仙豆があった。でももうない。あなたみたいに、瀕死から蘇って力をつけるなんて事、もうできないのよ…」
 顔を覆った傍らの、すっかりと母親の顔をした女を横目に、悟飯は酒をまた呷った。血流に混じった酒が、心臓の鼓動を押し上げている。床に再び置かれた薬の瓶が、ブルマの側のまだ中身の入ったグラスが、きらきらと青く輝いていた。



 ふと2人の目が合った。悟飯は固く目を閉じ、頭をうなだれ、額を隣の細い肩口につけた。
 彼女はすこしおののいたが、それから何も動かないのを知ると、毛布の上から背中にそっと手を置いてくれた。

 「…止めては、もらえないんですね」
 「言っても無駄なんじゃないのかしら。…そうでしょう?そうしてくれるって分かってる人のところにも帰れないくせに。本気で止められたくないくせに。馬鹿ねえ」

 

 そのとおりだ、と悟飯は酒に濁った…あるいは清められた、素直なため息をついた。ただ、今だけはこの柔らかな人肌の感触を、ただ感じていたかった。なにをするわけでもなく。
 家を出てから、その人と顔をあわせることも無く、ただ一通送った手紙だけを自分とその人…母親の慰めにしてきた。伝えたのはただ、「その日までは帰らない。それまで息災に」ということだけだった。ああ、でも、「その日」は来るのだろうか。
 世界から神秘は失われた。命を救ってくれるなにものも無くなった。…つぎに逢い見(まみ)えるときが、どちらかの最期になる。傷を癒している間、思い至ったその恐怖にどれだけ苛まれただろう。今まで、心の中自分を呼び続ける無念の声のまぼろしをよすがに、がむしゃらに戦ってきた。それを繰り返すうち、父親のような超サイヤ人になることも出来た。しかしそれですら、数のハンデを別にしてもあの敵には敵わなかったのだ。正直なところ、父親が病で死ななかったとてあの日の人造人間に対し何ができよう、という疑念も無いではない。それまで、「あの時超サイヤ人になれていた父親ならなんとかできるのではないか」と漠然とした想いを持っていて、だからこそタイムマシンを作る、と初めて聞かされた時にも賛同をしたのだけど。

 押し寄せてくるのは圧倒的な絶望だった。心臓を圧するほどの絶望だった。だから、言って欲しかった。「戦わないで」と、昔あのひとがしたように。柔らかい胸の牢獄に、押し込めて欲しかった。
 でも優しい声は、鉄壁の一線を引いた。「しっかりなさいな。孫君に笑われるわよ」と。それは私はあなたの母親ではないという残酷な宣言にひとしかった。あなたは、私の子供を生き延びさせるための礎になりなさいと、言外にそう含んで。


 「明日から、トランクスと修行に出ます」
 そう言って悟飯は離れた。離れて、笑った。
 「…ごめんなさい。…頼むわ」
 肯いて、身体に毛布をきっちりと巻きなおして立ち上がった。ブルマは座り込んだまま、ただ目を伏せて考え込んでいた。悟飯は胴着を手に、冷え切った扉に手を掛けて、閉めて階段を上がっていった。重々しい扉の音の余韻が、耳の奥に長く残っていた。
 苦い酒だった。ただ思い知ったのは、人間と言うものの業の深さだった。彼女についても、そして自分についても。人造人間には、そういったものはないのだろうか。そう考えて、捨て鉢になりそうな己を叱咤し、彼は階段を登り始めた。それでも立ち向かえ、と叫ぶ、己に流れる戦いの血と正義感を、何より業深いものとして絶望しながら。





 おとうさん。

 おとうさん、守っていてください。

 闇に覆われた階段を登りながら、悟飯は祈った。吹き降ろしてくる風が、濡れた頬に冷たかった。ひたすらに祈り続けた。
 重い足を励ましながら、ひとりきり、闇の中、風の中で。




 
 …どうか、おとうさんの遺言を守れるように。その日、生き延びられるように。
 おとうさんの子という名を、汚さず、強く居られる様に。おそれず、敵に立ち向かえる強い勇気を、どうか。


 そしていつか、おかあさんを、泣かせず居られるようになるように。
 それだけが、僕の、残された後悔なんです。 





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