このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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beat(前編)







 世界は実は綻びだらけである。


 ヤードラットの教えに拠れば、その綻びの中には人間の知覚を超えた世界が広がっていて、ひとは…彼らは、其処から魂として生まれ、こちらの世界に来る者はひととしての形を安定化させるための鎧である肉体の形をとる。肉体の鎧は、知覚を超えた世界から精神を守るための防御でもある。努力によってはひとは、ヤードラット人が智の世界と呼び習わす「あちら」の世界からちからを得ることも可能だが、そのためには精神を鍛えないとならない。
 こちらの世界が綻びだらけと言うのは、こちらの世界を一本の糸から編まれた生地に例えた彼らの思想を多少誇張して師が彼に教えたものだ。その編み目の間の隙間はごく微細なものではあるけれど、確実に存在する。ひとの魂はその隙間をくぐってこちらの裏側である彼岸に至り、来るべきその日には「あちら」に溶け混沌へと帰るのである。瞬間移動とは、精神と肉体を連れてその隙間をくぐり距離と時間の壁を超越するという、ヤードラット人にとっても高等な技術なのだ。

 彼がそれを習得し、ヤードラットから帰還したのはその年の暮れも押し迫った頃だった。『途中でフリーザ親子の宇宙船が地球に向かっているのを発見したので、瞬間移動を用いて地球に彼らが降り立ったところに追いつき、超サイヤ人に変じ見事倒してみせた』。集まっていたかつての仲間たちに帰還を祝われ、『彼は息子と2人で久々の我が家に戻った』のだった。
 妻は長き不在に腹を立ててはいたものの、『平和で何事もなく流れる幸福な姿の家庭を取り戻したことに喜び、程なく機嫌を取り直した』。年も明け、ぬくぬくと安寧な冬が過ぎ、春の足音を暦から聞こうかと言う頃、その異変はやってきたのである。

 朝六時、いつものとおりに目覚めた妻が寝室から出て行ったその扉の音に目覚めた瞬間それは始まった。もともとここ数日、修行の後にもなにか鼓動が収まりづらいというのはなんとなく感じていたことだった。昨夜だって妻と情を交わした後にそう感じなくも無かったのだが、それはいつになく興奮していたからに違いない、とおかしな満足感に浸って眠りに落ちていたのである。
 冬の暗い朝、妻が按配して出て行った仄かな暖房と加湿器が部屋を柔らかく居心地よく整えようとする中、彼は左胸を押さえ布団の中ひたすら蹲(うずくま)った。その最初の発作はまだマシだった。頭の中で疑問符が点滅するだけの余裕がまだあったのだから。もうしばらくして妻が一応起きろと促しにドアをノックしてきたのだが、まだ助けを求めるほどでもないと思える程度だったのだから。呻きで返した返事に、妻はまだ眠いのだと解釈してさっさと朝食の支度の続きをしに去って行ってしまった。
 もうしばらくしてから最初の波は過ぎた。じわじわと布団の中で戻ってくるからだの感覚を感じながら、彼は浅く繰り返していた呼吸を思い切って大きなため息で止めてみた。痺れに似た感触で取り戻した五感は、やたらと鋭敏になって彼の今まで痛んでいた胸の奥を駆け抜けていく。その血流の波に乗って、彼は全身に神経を張り巡らせて見た。界王に学んだ折に身に着けたわざだった。
 胸の中、あつく熱を持ったように肥大した部分があった。その中に、自分では見ることの出来ない闇が…不可知の闇が広がっている。もちろんそんな事は今までありえないことだったし、彼が今まで自分の人生において予見すらしたことのない、それは異変だった。彼はその、胸に落ちた黒い染みに戦慄した。それはじわじわと確実に広がりを見せている。
 知っている、この感覚。ベジータとはじめて戦ったとき、またフリーザとはじめて戦ったときに感じた、「勝ち目が無い」と思わされるあの瞬間の恐怖だ。そして彼はもう子供の頃の無知なままではないから、その巣食った闇の正体を知っている。巣食われた場所の名も重要さも知っている。それを自覚して、また彼はおののいた。こんなものと、自分はどう戦えばいいのか。こんな、自分の急所に刃を突きつけられたような状況で。

 彼の自覚した、その闇の名は、「病」だ。






 修行と戦いのこと以外で結論を棚上げにするのは彼の悪癖のひとつだった。起き上がれるくらいにはなったのでとりあえずまあいいや、今日一日様子を見ようと己の中で完結してしまったのである。こころのどこかで妻に相談してしかるべきところに行け、と警鐘が鳴っていたのだが、言ってしまうなら、自覚したそのものの正体をはっきりと他のものに論(あげつら)われ宣告されるのが恐ろしかったのだ。それにもともと病院は好きではなかったが、あの大怪我の日々の記憶のせいで、もう絶対にあんなところに行きたくない、という抵抗もなきにしもあらずだった。
 「おはよう、悟空さ。今日はお寝坊だっただな」
 「おはよう、おとうさん」
 「おう、おはよう」
 顔にびっしりとかいた汗を洗面で洗い流して席に着いたとき、妻と子の向けてくれるいつもどおりの笑顔にやたらと安堵した。こいつらは何も知らない。自分にさっき起きた異変も何も気づいてない。こいつらが気づかないままでいれば、いつかこんなことなかったことになるかもしれない。その破綻した思考そのものがすでに逃げだったのだが。
 朝食の時間は滞りなく過ぎて、息子はいつもどおり自分の部屋を軽く掃除して着替え勉強に入った。午後からはなにかしら用事や外へ動植物の観察に出ることもあるけれど、朝、妻が家事をしている間は部屋で通信教育で勉強をしているというのが不在にしていた頃からの習慣らしい。妻は洗い物をしてから洗濯機を回し始めた。その間にも風呂の掃除やら洗面の掃除、寝室の掃除、ベッドメイキングなど、ちょこまかと忙しく立ち働いている。
 彼はパジャマのまま、そんな妻の様子をぼんやりと食卓の椅子に座りながら眺めていた。低い冬の日差しが窓際のまだ濡れた空のシンクに鮮やかに反射していた。外は寒風が吹いてはいるものの、よく晴れた水色の空が広がっている。冬枯れた田んぼにはすずめが群れ飛び、落ち穂が無いか忙しく探し回っている。その向こうにすっきりと柔らかくうねる山の稜線が渋い色で連なっている。
 「何してんだべ。修行に行かねえんだか」
 掃除機を持ち出してきた妻が、コンセントにプラグを差しながらなにか不審気なまなざしを向けてきた。はっとして見た時計は9時。いつも8時前には家を出ている習慣からすれば大遅刻である。
 「いやあ、寒そうだから」
 「風邪でも引いてんだか。今朝も」
 「んなことねえよ。だいぶん日も昇ったから温(ぬく)くなっただろうし、じゃあ今から行って来る…今日は上の家の辺にいるから」
 「んだか」
 着替えて雲に飛び乗る。出発の際、遅くなった分頑張るから昼は上に弁当持って来てくれ、と頼んでみると、もはや雲に乗れなくなった妻は不平気に唇を尖らせたのだが、最近運動不足だって言ってただろなどと宥めておいた。


 山の上、かつての家の前についたものの、修行をする気にはならなかった。かといってじっとしている気にもなれなかった。帰ってきてからは寒いものだから南のほうに下ってずっと修行をしていたので、この場所に来ること自体が久しぶりだった。なんとなくとは言え、何故今日ここを選んだのかという疑問がまだ厚ぼったく熱い胸の中を掠めたが、深く考えるのは避けておいた。
 家の前の広場の向こう、養祖父の墓には、この秋に置かれたと思しき花と線香がかさかさに渇いて砕かれ遺されていた。自分がいなかった頃のことのようだから、おそらくは妻のしてくれたことだろう。家の中も思ったよりは綺麗だった。
 ぼんやりとしながらその辺を散歩し、再び家の前の広場まで帰ってくる。黒いコートのポケットに手を突っ込みながら、ひとり其処に佇んだ。小さい頃はここがほとんど日々の楽しみの全てだった。本当に小さな頃は遊んでいてもここから出ることを禁じられていたし、武術を習うようになってからは、ここで朝起きるなり養祖父に稽古をつけてもらい、昼からも暇を見てはここで自分で修行をした。養祖父が死んでしばらく…ちょうど寒い冬の間だったのだが…はそれも中断していたけれど、結局は「強くなりたい」という自らの血の欲求には抗えず、また同じように修行を重ねる日々だった。ブルマがここに来るまでは。

 あの夏の日の鮮烈なイメージを思い出し、彼が微笑んだその瞬間、それはまた来た。
 倒れ込む寸前、広場の一隅の山茶花の赤を見ながら、彼は思った。
 ああ、それでも、ここから出てよかった、と。


 意識が極端に巨大化しまた極小化した。彼の「感じている肉体」は胸の痛みを中心として時に宇宙のごとく大きく、時に目の前の砂粒よりまだ小さくなった。そのたびに引き伸ばされ圧縮され疲弊していく一筋の緒は、魂と肉体を繋ぎ止めるためのものだ。それが切れたとき…一度それを経験している彼はどうなるのか知っている。ただ、もうその恐れを感じる余裕すらなかったのだ。心臓の鼓動は痛みの奥にかすかで不確かだが、それを感じているしかまともな自分を保つすべがない。
 頭が狂いそうな極大と極小を幾度も繰り返して、意識は透明で暗い場所へと降りていった。何度目かの極小が来たとき、あ、やばい、と思った。途端自分が「その綻び」を潜ったのが分かった。
 瞬間移動の修行の際に何度も師に連れられ潜った世界。肉体あるものを拒む世界。瞬間移動のときには気を持って自身を守りながら一瞬で潜る世界。その怒涛の混沌が彼に襲い掛かってきた。混沌は時を持たず広さを持たず光を持たず、しかしその全てを内包し全ては其処から生まれる。時はここから一本の糸に紡がれ縒られ、世界と言う布を織り成す。時の枝葉も全てここから生まれ全てここに帰す。編まれた布の目の中、縒られた時の糸の中にも存在するその「あちら」…いや、混沌の名は「空(くう)」だ。
 空の中で彼は…孫悟空と名乗るものは、黒く輝くさまざまを見た。見たと言う表現は正しくないかもしれない。晒されて堕ちゆき引っかかった時の枝葉が散り、ゆめまぼろしの種を彼の中に残した。呆然としながらまた堕ちて堕ちて、遠くに潜り来たのとは別の綻びを感じた。それは、世界の裏側に抜けるための。
 



 「いや!悟空さ!」

 意識をおもてがわに取り戻した彼は、みずからの下に細い背中と柔らかな乱れた髪を感じた。寄り添っていたこめかみ同士が違う激しい脈を重ねている。少しだけ和らいだとは言え、なお続く胸の痛みの下から彼はなんとか状況を把握しようとした。家を離れた山道、自分は負ぶわれている。負ぶっているものの頬はしとどに濡れ、必死に激しい息をつきながら、それでも一心に坂を下りようとしている。
 そのものの名前を呼んで、白く細いその首に頬をこすりつけた。
 「チ、チ」
 途端立ち止まった背中から、彼が身を捩ると、力の入らない足が地面に下りた。察してゆっくりと身体を横たえてから、そのものが…いとおしい彼の妻が、彼の名を叫んだ。
 「馬鹿!なんか変だと思って早めに来てみたらこれだべ。早く。早く筋斗雲を呼ぶだ。自分だけでも、早く帰って。悟飯にお医者に連れてってもらうだよ!早く、悟空さ!」
 ぽろぽろとこぼれる涙が、彼に降り注いだ。微かに首を横に振って、彼は精一杯のちからで覆いかぶさった妻の背を掻き抱いた。負ぶっていた途中に乱れて解けかけていた長い黒髪が寒風にもなぶられふわりと完全に解けた瞬間、二人はその場から消えた。…いっしょに、という幽かな囁きの声だけ残して。
 突如目の前にそのような両親が現れたまだ6歳の息子は仰天し、鉛筆をほうり投げて慌てて彼を抱きかかえようとしたのだが、彼は切れ切れに頼んだ。
 「仙豆、もらってきてくれ」
 彼は、『仙豆が病気には効かないことを知らなかった』ので。息子は扉を破りそうな勢いでおもてに駆け出し、猛スピードで西の空へと飛び立っていった。妻は子供部屋のまだ小さな寝台に彼を横たえ、念のために救急に電話をかける、と傍を離れようとした。その手を彼は捕まえた。その手がどちらともなく震えていた。またその瞬間、痛みにくらりと意識が揺れた。
 自分の中で、ふちふちと何かが千切れていく感覚がした。


 数秒ののち、彼は囁いた。
 「泣くな。しっかりしろ。母親だろ」
 「お…おら、泣いてねえっ、悟空さこそしっかりするだ!もう悟飯も戻ってくるから!」
 彼は笑った。その顔を見て、妻は一瞬呆然とした顔をして、寝台の傍にへたりこんだ。窓の外で笹竹が風に騒ぎ、とまったすずめが長閑(のどか)に鳴いていた。日差しが美しく穏やかに部屋を照らしていた。
 「オラ、宇宙で変な病気もらってきたんだ、きっと」彼は渾身の余力で囁きはじめた。もうそれ以外になかった。「お前等も伝染ってないか診てもらえ。そんでブルマに頼んでどういう病気か調べてもらえ。いいな」
 妻が握り締めた彼の手を熱い彼女の頬に押し付けながら、がくがくと肯いた。
 さっき潜った時に見た一瞬のゆめまぼろしの中、時間の溶け合った混沌の中、彼が見たこの世界の来し方行く末。目にした絶望的な未来を詳しく告げることももう出来ない。ただ、そう頼んだのは、時の枝葉の向こうのもう一人の自分のためだった。もう一人の自分を救うすべを、自分の身体を研究させることでのこすために。せめても、時の枝葉の向こうで、自分と妻がともに生きていけるように。
 「あいつの、手帳」
 妻が肯いて立ち上がり、サインペンと、息子がいつも使っている動植物の観察手帳を差し出した。支えられながら、表紙の裏に短く言葉をしたためた。したため終えて、ペンが床に落ち、絨毯に黒い染みを滲ませ始めた。

 この女に見守られながら、この胸に抱かれながらなら上出来ではないか。自分は絶対に戦いの中で、そう思っていた子供のころ。この女と一緒になってからだ、それを恐れ始めたのは。
 前もそうだけど、血を流し這いつくばった今際の際を見せることがなくてよかった、と思う。新婚の頃、ともに眠りにつきながらも、度々この女はあの武道会のときの、ピッコロとの戦いで傷ついた血まみれで瀕死の自分の悪夢を見た。大丈夫、自分は生きてる、と何度その度くちづけ宥めただろう。そしてまた重ねる体でその鼓動を響かせあい、夢のような快楽を以って、夢ではない現実に自分たちが2人共にあることを、誰よりも近くに確かに存在することを信じさせるのだ。でもそれももうできない。
 入院をしていた頃、多くの老いと病と死を間近に見てきた。それは過酷ではあったが、穏やかで平和な世界の縮図であり、そこに一貫しているのは「ひとつしかない」命を惜しむ、ひととしての精一杯の戦いだった。自分も同じように尽きてゆける、いのちだったのだ。この女に見守られながら、このように一見穏やかに。息子をゆかせたのは、でもやはりどこかでこんな姿を見せたくなかったからだけど。
 界王に学んだ折、世界のさまざまな理(ことわり)を、此岸彼岸のさまざまなことを聞かされた。彼岸で定められたときが過ぎれば、いつか、自分は自分でないものになる。違う生命としてまた生まれるために、「あちら」に…混沌に帰ってゆく。それはいつか分からない、だから約束は出来ない。いつか、「置いていかない」と約束できなかったように。『自分は特権を受けた人間ではないのだから』。
 ああ、だけど、いつかどこかで。




 すきだ。
 あいしてる。
 


 
 いつも言って欲しがってたくせに。
 喜んで欲しかったから、はじめて言ったのに。笑って欲しかったから、言ったのにさ。

 なぁ。だからさ、


 
 なくなよ、…チチ。






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