「ああ、悟天ちゃん、そうじゃねえだ」
パンパン、と母親が手を打った。悟天は手を止めて汗をぬぐった。その右手を細くてやわらかい母親の手のひらが包んだ。
「ほら、ゆっくりもう一回…こうして、こう打ってくだろ、で、打つ瞬間にこう腰を入れてな、そう、でぐいっとこう拳を回して」
「こう?」
「そう。そうしたら腰が入って威力が増すから。はい、ゆっくりもう一回。で、うまく出来たらすばやくあと50回。はい、どうぞ」
母親が微笑んで離れた。悟天はふうっと息を吐き、基本姿勢をとり構えた。そして撃の一連の流れを、今母親が注意したとおりにやって見せた。
「さっすが悟天ちゃん。よくできました」
母親が桜の下に置いたベンチの上でにっこりと嬉しそうに笑った。悟天もにっこりして、さらに続きをするためにぴょんと飛び下がり、元の位置に戻った。庭の桜がふんわりと咲き、母親の笑顔を彩っている。
母親は、悟天にとって武術の師である。いつからかは忘れたが、悟天は彼女に武術の手ほどきを受けるようになった。多分、きっかけは母親の「なあ、悟天はお父さんやにいちゃんみたいに武術をやってみる気はねえか?」という一言だったと思う。
悟天としたら、父親と言われてもよくわからないから、確か兄と同じことが出来る、と言うのが嬉しくてはじめたように記憶している。そしてそれならにいちゃんに教えてもらいたい、と思ったのだが、兄は普通の子供が学校というところで勉強するのと同じ時間を家で勉強するというのがこの家の暗黙の了解だったので、朝と夕方、昼飯の時間のあと、そして土日くらいしか自分と遊んでくれる時間はない。悟天が2,3歳のころにはそのリズムが出来ていたので必然的に悟天は母親のあとをついて回る子供になった。
母親のもちかける遊びは悟天にとっては退屈だった。家の中で遊ぶのは性に合わない。本を読むのもそんなに好きではない。テレビやアニメもいいけどからだを動かすのが好きなのだ。よく山に遊びに行きたいだの虫をとりたいだの木登りをしたいだのだだをこねて悟天は母親を困らせた。そこで母親がからだを動かせて家の近くでも出来る遊びの一種として、武術を持ち出してきたときは悟天はすんなり受け入れたのだった。
「よく出来ました」
母親がいつもそうにっこりとして抱きしめてくれるので、悟天は武術が好きで一生懸命練習する。早く覚えると母親のびっくりする顔が見られるのも嬉しい。組み手で母親のいろんな顔が見られるのも楽しい。自分が彼女を追い詰めると、嬉しそうな困ったようなあわてた顔をする。逆にこっちが追い詰められると、さあ、かかってらっしゃい、まだまだいけるはず、と励ましてくれるのも嬉しい。武術を終わって、山を二人で手をつないでお散歩するもの嬉しい。兄に週末などに教わった虫や植物の名前を得意げに披露すると、わあ、すごいと感心してくれるのも嬉しい。つまりは悟天は母親が大好きなのだ。兄も大好きだけど、母親のことも大好きで仕方ない。
「おかあさん、だいすき」
そうしがみつくと、なんともいえない嬉しげな顔をして、しゃがみこんでぎゅうっと暖かく柔らかい胸に抱きしめてくれる。
「母さんも、大好きだべ」
ぱあっと顔が輝くのが自分でもわかる。そしてまた母親の体にほお擦りをするのだ。そういう時、たまに母親が言った。
「甘えっ子なんだから。悟空さにほんとそっくりだべ」
誰それ、と悟天は思う。知識としては死んだ父親の名だと知っているのだけど。でも、今、こうして母親を独り占めしてるのは自分なんだから。
ねえ。おかあさん、そんな人のことなんか思い出さないで。おかあさんが、たまにその人のことを思い出して悲しくなってるのも知ってる、だからそんな人思い出すのはやめて。
ぼくがいれば、いいでしょう。
「おかあさん」
50回の反復を終えた悟天は、ベンチの上の母親に呼びかけた。
「おかあさんったら。終わったよ。組み手しようよ」
ところが、母親ときたら桜の花の下で頬杖をついたままちょっと赤い顔をしてぼうっと遠くを見ているままだ。さらに怒った声で呼んでみた。「おかあさんったら!」
母親がびくっとして身を震わせ顔を赤くし、さも今気づいたという風に自分を見た。「あ、ああ。ごめんごめん、母さんぼうっとしちゃってただな。じゃあ続きするべか」
「いいよ、もう」悟天は唇を尖らせてすねた。「にいちゃんに稽古つけてもらうから!ありがとうございました!」
悟天は家の前の小川をひょいと飛び越え、山に向けて走り出した。後ろから母親の呼び止める声がする。
最近いつもこうだ。気づくとぼうっとして、「悟空さ」のことを考えてばっかりいる。ドラマとかで見る「コイスルオトメ」のような、母親ではないような眼差しをして。そしてよく鏡をのぞいている。声をかけても、ちょっと待って、などと言ってお肌のお手入れなどしている。
にいちゃんが、おとうさんがあの世から帰ってくる、なんて言った日からだ。にいちゃんもにいちゃんだ。自分に稽古をつけてくれるって言ったくせして、学校とやらで仲良くなった女の子をかまってばっかりいる。舞空術なんて簡単なの、ボクはすぐ出来るようになったのに、あの女の子のいる前でにいちゃんにほめてもらおうと思って速く飛んでみせたら怒られる始末だ。今も、山でその子と2人で修行をしている最中だ。
ボクだって天下一武道会に出るからには、トランクスくんに負けたくない。だから強くなりたいからおかあさんに修行を頼んでるのにあの調子だ。つまんない。面白くない。早く天下一武道会が来て、一日が過ぎて「悟空さ」が帰って、もとの暮らしに戻ればいいのに!
そしたら、またおかあさんは、ボクだけを見てくれるのに!
「悟天のママもそんな感じかよ」
電話越しにトランクスのあきれたような声が聞こえる。
「うちのパパもなんか変なんだよな。稽古はつけてくれるんだけど、たまに気づいたらニヤニヤと遠くを見てるんだよ。くすくす笑ったりさあ。気味悪いよ、あのパパがだぜ」
そりゃあ変だ、と悟天は受話器越しに同意した。トランクスの父親はおっかない。いっつもしかめっつらのような、怒ったような顔をしている。特に自分に対しては何か気に食わないのか、妙な不機嫌さをぶつけてくる。多分それは、自分が死んだ父親に似ているからなんだろうと周りの大人の言うことで見当はついているが、とにかくそんな人がうちの母親みたくなっているなんて。
「ママに聞いたらさ、悟天のパパに会えるのが嬉しいのよ、ほっときなさいって言ってたけど。なんなんだろうな、そんなに好きなのかね、悟天のパパのこと」
「好きぃ?だって、おじさん、男でしょう」
「いや、そういう好きじゃないと思うけど。でも、まあ、ある意味すげえよな。あ、パパが帰ってきた。呼ばれてる。お前も頑張って特訓しろよな、じゃあ」
電話が切られた。
「トランクスくんかい」後ろのソファから兄が声をかけてきた。今母親は風呂に入っている。もう夜遅いのだけれど、時差と言うのがあるので西の都のトランクスに電話をかけるときはこの時間あたりにするのがいつものことだった。
「うん」悟天は兄のひざの上に登って横たわった。兄は雑誌を読んでいる。やっと一週間ほど前にビーデルとか言う女の子が帰って、二人で修行に専念できるようになったところだ。でもなんだか、それからも兄は前とはどこか違う。学校に行けなくてさびしいのだろうか?と思うのだけれど。
なーんか、面白くない。
「にいちゃん」
「うん?」
「にいちゃんも、おとうさんのこと好きなの?ベジータおじちゃんも、おとうさんのこと好きみたい、ってトランクスくんがね。最近お母さんみたいにニヤニヤしておかしいって」
ぶっ、と兄がふき出した。「ベジータさんがぁ?」
つばが少しかかったので悟天は顔をしかめた。兄は爆笑している。頭を持たせかけている兄の固い腹が上下する。悟天はひざから降りて唇を尖らせた。
「にいちゃん〜…」
「ああ、ごめんごめん。まあ、そうなんだろうねえ。ベジータさんはおとうさんのこと、なんだかんだ言って好きなんだろうなあ。会って戦えるかもしれないのが楽しみで仕方ないんだろうなあ」
「おとうさんって、」なんとなくそこまで言って悟天は言葉が続かなくなった。ので、まだ笑っている兄をあとに、もう寝る、と言って部屋に入っていった。
寝る前に、兄の机の前に張ってあるカレンダーを見た。その日に、大きく黒く丸がしてある。とてもうきうきしたような調子で、「武道会!」と兄の字が躍っている。その隣には、「父親」である「悟空さ」の写真が何枚かピンで留めつけられている。
あと11日。寝て起きたら、あと10日。
全然、楽しみなんかじゃないんだから。
悟天は口の中でそうつぶやき、布団をかぶった。庭の桜は、すっかり散って、葉桜になっている。
「あっ」
手の中で卵が崩れた。あーあ、と言いながら母親が悟天の目の前のボウルを覗き込んできた。朝食時のお手伝いの最中である。
「だめじゃないか、悟天」皿を並べていた兄があきれた声を出した。「修行で力が強くなってきたからコントロールがうまくいかないんだろうけど、ちゃんと加減しなきゃ」
「そうだぞ、いくら強くなったって、物壊したりしてばかりじゃ母さん困っちまうだよ」
まだ割りいれるのの一個目だったので傷は浅かった。母親が殻だらけになった卵液を三角コーナーに流し捨てている。はい、もう一回、と卵を手渡される。
悟天は首を振った。なぜか目に涙がにじむ。このくらいのことで、なぜ泣かないといけないのか。そんな自分が悔しくてまた涙が増えてくる。
母親が無言で卵を引っ込めた。こんこん、ぱかん、といい音をさせて、青い縁取りの白いほうろうのボウルに卵が割りいれられた。続けて3個、4個。ちゃかちゃかと菜箸でそれがかき混ぜられる。悟天は上目でその様子を見ていた。
午後になって、兄の師匠であるピッコロが様子を見にやってきた。なんだか、ピッコロすらもどこかうきうきしたような感じを見せている。
「どうした」兄と桜の下のベンチに座って話をしている、その背にしがみついていた自分に、ピッコロが声をかけてきた。
「なんでもないよ」
ピッコロとは、物心つく前からの顔見知りだ。たまに神殿に遊びに行ったり、こっちに様子を見に来てくれたりもする。兄の敬愛する師匠だ。だから、悟天にとっては別段恐ろしくもなんともない。積極的に遊んではくれないものの、自分がこの人にこうして勝手にかまっている分には特に何も言われないのだ。
兄や母親はそんな自分たちを見て、ピッコロさんも変わりましたねえ、などとよくからかうように言うのだけれど。
「お前も、明日、武道会に出るのだろう。ずいぶん逞しくなった」
「でしょ。にいちゃんが鍛えてくれたからねっ」
「孫も、子供の頃はこのようだったのだろうな」
「…孫って誰」
「父親のことだ。孫悟空」
すっかり緑になった桜が、曇り空から吹いてきた風にざわざわと音を立てた。
まただ。また父親のことだ。悟天は物心ついた頃から、家族以外の人たちからさんざん父親に似ている、と言われて育ってきた。似てるのならそれはいいことなんじゃないかと思うのだが、なんだか最近は面白くない。大体自分のことをほったらかして父親の思い出話になるからだ。聞かされる思い出話は確かに楽しくて、すごいな、と思うことばかりなのだけど、どうもその中に、お前はどうなるんだろうな、父親みたいになるんだろうか、みたいな含みがあるような気がする。気のせいかもしれないけれど、なんだかそう受け取ってしまうのだ。
ボクはボクなのに。おとうさんみたいに出来なくたって、ボクはボクじゃないか。それに、ボクはまだ7つなんだから。おとうさんだって、12まで普通の子供だったらしかったくせに。だったらにいちゃんの方がよっぽどすごい。にいちゃんがいればいいじゃないか。にいちゃんだっておとうさんを抜かしたくらい強いらしいのに。
そんなことを考えていると、ピッコロの緑の手が悟天の頭をなでた。ピッコロの手はその見た目とは違って意外なほど優しい感触がする。少し、森のような水のような匂いがする。ちょっと悟天は落ち着いた。また、少し泣きそうになっていたのだ。兄は気づいていない。
「まあ、明日、会ってみればどういう奴かわかるだろう」
ピッコロはそう言った。そして、しばらく兄と話をしたあと、帰って行った。
今日は、いよいよ前日なので、からだを休めるために修行は休みだ。早い夕食が済んで、早く寝るように言われた。母親は明日のために、弁当作りと肌の手入れに余念がない。また、あのコイスルオトメのような顔で。
どこか上の空の兄と一緒に風呂に入り、トランクスと、少し電話で話をして、悟天は床に着いた。明日一日のことだ、なにもかも。とりあえず、思考を切って、眠ることだ。
外は、少し小雨が降っている。
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