このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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time





 愉悦の時間は唐突に終わりを告げた。


 耳に音が戻ってきた。いつも最初に聴こえるのは、早鐘を打つような己の鼓動の音だ。その音を捕まえようとするかのように、逃げゆく一瞬の快楽を捕まえようとするかのように、汗ばんだ相手の柔らかい身体を腕の中に閉じ込める。その熱さが、逆に冷静さを取り戻させる。一瞬溶け合ったように思った身体同士が、やはり別のものだと認識する瞬間。目の前に、相手の白く細い、のけぞった喉が見える。でも、一緒には達せなかった。

 今からでもいい。もう一度いってしまえ。

 汗に濡れたしょっぱいその喉を舐め上げ、長い乱れた黒髪を分けて小さな耳朶を甘く噛んだ。あ、と声がして、ひざの上に乗った相手の身体全体が、大きく跳ねた。それを押さえつけて、相手の心臓の上に耳を押し当て、柔らかな乳房の向こうにある鼓動の音を聴きながら、己の背筋から立ち上る最後の駄目押しの快楽に身をゆだねる。

 いつも思う。自分でも、なんて顔をしているのだろうと。ああ、終わってしまう。だめだ、まだ崩れないでくれ。最後の一滴を注ぎ込むまで。







 ふあ、とどちらともなく大きく息をついて、2人は寝台にくずおれた。同時につながっていた身体は離れた。シーツに押し当てた耳が、まだ鳴り止まない己の心臓の動悸を奇妙に冷静に聴いている。身体ににじんだ汗が、部屋にたゆたっている6月の湿気と混じって、さっきまでの快楽を不愉快に塗り替えようとしている。窓の外は朝だというのに暗く、じとじとと雨が降っていた。部屋も暗かった。天窓を、パタパタと雨粒が叩く音がしていた。

 相手の細くしなやかなわき腹に頬を寄せながら、おさまりつつある相手の呼吸の音を聴く。鼓動の音を聴く。規則的なリズムの奥に、相手の命の動きを感じる。また、胸のどこかが甘やかに痛んだ。
 半月ほど前か、こうして肌を重ねるようになったのは。溺れている、と自分でも思う。夜も日もなく、相手のことを思う。相手とこうしてつながることを思う。こんなの、本当にひと月も前には、結婚と言うものをする前までは、想像したことすらなかったのに。
 自分は堕落してしまったのだろうか?あれほど、己を鍛え磨き上げることに執心していた自分であるはずなのに、今やその心の多くが相手に…この女に奪われている。熱病に浮かされたようだ。ああ、はやく普通の己に戻らなければ。
 でも、外は雨だ。出かけられない。だから、せめて今日は、ずっと、こうしていたい。

 その願いを、かすれた声が破った。

 「今、何時」

 彼は顔をしかめた。


 「しらねえ」
 「そっちに時計があるでねえか」
 「しらねえ。起きたくねえ」
 「意地悪」
 言って、相手が身を起こした。「ああ、もうこんな時間。もう、こんな朝っぱらから…」
 「ダメだ。いくな」
 「ダメ。朝ご飯つくらねえと」
 ばたん、と寝室の扉が、残酷にこの時間の終わりを告げた。扉の向こうから、シャワーの軽やかな音がかすかに聞こえてくる。2人が混じり合わせたもろもろの体液を流し落とすために。
 傍らのサイドボードの置時計をにらみつけた。こんなものがなければ!一瞬壊してしまいたい衝動に駆られたが、そしたらまた彼女が怒ることを想像し、彼はため息をついた。かすかなチクチクと言う音が、心を軽くさいなみ続ける。もう一度ため息をつき、彼は寝台から起き上がった。彼女の傍にはべるために。
 彼は知っている。いや、最近になって知った。これが、せつない、と言う単語で表される感情だと。
 彼は、紛れもなく恋をしていた。でも、恋、という単語はまだ知らなかった。





 
 9時。遅めの朝食を終えて、彼女が言った。
 「今日は、修行には行かねえのけ?」
 「雨降ってんじゃねえか」
 「そんなひどくねえけど。これから止んでくるってさっきラジオでも言ってたべ」
 「ちゃんと止んだら行く」
 彼は鼻にかすかにしわを寄せた。なんなんだ。そんなに自分を家から追い出したいのだろうか。自分は今日はこの家にいると決めたのだ。雨が止んだって行くものか。
 そっか、と彼女がかすかに笑って、流しに向かって自分に背を向けた。自分の摂った大量の食事の後始末をするために。その様子を見るのも何かどこか誇らしい気持ちがする。たくさんの皿を裁かないといけない苦労をさせているのが自分だとわかってて、心のどこかでは悪いなあと思っているのに。
 彼がダイニングのテーブルに肘をついて、台所の窓からしとしとと部屋に忍び込んでくる雨音を楽しみながら彼女を眺めていると、彼女が声をかけてきた。「あ、9時だから、テレビつけて。いつもの」
 顔をしかめて、彼は立ち上がって、ソファの横の小卓の上にあったテレビのリモコンを慣れない手つきで操作した。まず、赤い大き目のボタンを押すと、テレビがブン、とうなりをあげて起動し、部屋にどこか不愉快な声と光を加算した。ええと、などと言いながら、数字の書かれた小さめのボタンを2つ押した。騒がしい音楽にかぶさって、出演者がワイドショーのタイトルを告げた。
 彼女は毎朝この番組を見ている。見ているというか、家事の片手間の楽しみにしている。結婚する前は修行とかであまりテレビとかも見てなかったらしいのに、なんだってこんなつまらないものを見るのだろう。
 そう前に一度文句をつけたら、不機嫌に顔をしかめたあと彼女は言った。曰く何も音がなかったらさびしいだの、曰く世の中の動きを知りたいだの。彼にとってはまったくどうでも良いし理解できない理由だ。でもこの番組を見るのをやめさせたら、彼女が不機嫌になるのはわかったのでそれ以上追求はしないようにした。彼女には、まだいくつか一日のうちでこのような番組が存在する。まあこの朝のワイドショーも含め、大体は彼のいない時間帯なのでかまわないっちゃかまわないのだけれど、晩のドラマの時間だけはかなり厄介だ。
 彼はソファに座り、彼女と画面とを見比べた。彼女は流しで食器と格闘している。まともに見てもいないくせに、こんな番組に執着することもないではないか。でも小憎らしいのは、ワイドショーが何かしら新しい話題を告げると、あらあら大変とか、ひどい話だな、とか逐一感想を独り言のように述べるところだ。で、自分がそれに質問などしたりすると、何を頓珍漢なことを、というような感じで軽くいなされるのだ。顔が見えないだけに気分が悪い。
 気分が悪いので、腕立てでもすることにした。


 10時になって、ワイドショーが終わった。テレビを消して良いといわれたので、彼は腕立てをやめてリモコンを手にとって消そうと思ったのだけど、折悪しく旅とグルメの番組の再放送になったものだから、しばらく画面にかじりつきになってしまった。食べ物の番組だけは彼が好むところだった。
 と、轟音が聞こえてきた。さっきまで寝室にいた掃除機がリビングにやってきたのだ。
 「なんとかなんねえのかよ、その音」ソファから文句をつけた。
 「ごめん、うるさかっただか。静かなモードでしてるんだけども」
 「オラ耳が良いから気になるんだよ。そんな毎日やらなくても良いじゃねえか。綺麗なんだし」
 「違う。毎日やってるから綺麗なんだ。こういうのは修行と同じなんだ」
 そう言われるとなんとなく反論できない。毎日の反復がそのようにあらしめている、という理屈は筋が通っている。でも何も今やる事はないではないか。
 「だから、あとで良いじゃねえか。一緒に見ようぜ」
 彼女は眉を寄せた。ただでさえ今朝は予定が狂っただのなんだのぶつぶつとしばらく言っていたのだけれど、結局はあきらめて掃除機を壁に立てかけてこちらにやってきて隣に座った。彼は、勝った、と心の中で快哉をあげた。隣でおとなしくさせたらこっちのものだ。もう、彼女がどこが弱点かとかそういうことはばっちり把握しているのだから、あとはそこをたくみに攻めていくだけだ。ホントに嫌なら隣に座らなければ良いのだから、自己責任と言うやつだ。
 それに、知っている。彼女だって、こんな快楽にとらわれていることを。最初の頃は痛いと言って涙すら浮かべていたけれど、最近はだいぶ慣れてきたらしい。たまに物欲しそうな顔でこちらを見ているときもある。そういう時はいつもあまり感じない優越感に浸ることができる。彼女といると、いつも自分が切なくて、ものしらずで、ただ膝に甘えていたいだけのような小さな弱い存在になる気がする。腕力なんか何の役にも立たない。むしろ、彼女をぎゅうっと抱きしめるには、過ぎた膂力は邪魔と言うものだ。でも、彼女をこうして熱っぽく組み敷くときは、そして彼女を快楽のがけ際に追い詰めるときは、もっと、と恥ずかしそうにせがまれるときには、自分が強くなったような気がする。馬鹿か、と自分でも思うのだけど。でも、もっと、生活を、時間を忘れるほどに自分に狂って欲しい。


 だから、腕に嵌めているそんなのなんかいらない。彼は、じゅうたんの上の彼女の白い手首を捕まえて、慣れない手つきで腕時計をはずして床に放り投げた。からから、とフローリングをすべる乾いた音が、少し激しさを増した雨の音と交じり合った。赤い痕のついた手首が、彼の首に回された。もう耳元でチクチクと言う音はしない。彼は安心して、再び彼女の赤い唇を貪り、服に手を掛けた。



 自分が、狂っているほどに、どうか狂ってほしい。もっと、好きと、愛していると、かすれた甘い声で繰り返して欲しい。
 自分は、言わない。好きとか愛してるとか言えない。知ってる。男は、そんなの軽々しく言うもんじゃないんだ、って。一緒に見てたドラマで言っていたではないか。
 でも、全身全霊で、わからせてやる。その身体に刻み付けてやるから。だから、絶対に自分を置いていかないでくれ。ひとりで残さないでくれ。






 
 そのあと少し二人して眠って、14時半、また予定のずれ込んだ遅い昼食が終わった。15時、雨が上がった。掃除機の音に追い立てられるように、彼はランニングに短パンと言う気楽な格好で、突っ掛けを履いて水溜りに濡れた表に出た。かすかなけだるげな疲れが残っている。雲の切れ間から、柔らかな光が降ってきている。
 その空のかなたに、彼がこの間まで修行をしていた場所がある。彼は、心の中でひそかに詫びた。ひざを折って、軽くストレッチをすると、突っかけの中の素足のつま先を泥が汚した。彼の感じているかすかな罪悪感のように。
 家の中の掃除機の音が止んだ。彼は、台所の窓から顔を覗かせて、彼女にちょっと出かけてくる、と告げた。どこに、と聞かれたので、散歩、と答えた。
 家の中からばたばたと音がして、エプロンをはずした彼女が駆け出してきた。
 「おらも一緒に行くだ」
 彼は笑った。「いいよ、おめえは用事してろよ。予定狂ったんだろ」
 「やだ、一緒に行きてえんだ」
 大きな目が、強情そうに、でも一瞬不安そうにきらめいた。

 村の小道を、2人は手をつないで歩いた。雲はだんだん薄くなり、光の階段がそこここに、山をグレーから若い緑に染め上げるようにして降りてきていた。
 「きれいだな」彼女が言った。緩やかな青と緑の間の色のワンピースに、グレーの細い長靴が似合っている。彼女の後ろで、植えられたばかりの稲の苗がさわさわと風に音を立てて、ワンピースのすそを翻し、彼女のうなじで束ねられたさらさらとした黒髪をなぶった。彼は、そんな彼女を見て、きれいだな、と思った。



 「…どこにも、行かない?」
 不意に、彼女が呟いた。
 「今日は、もうどこにも行かねえよ」
 「よかった」
 彼女がそっと、何の紅もさしていない赤い唇を微笑ませた。そして道の上の、ところどころ青空をうつしこんだ水溜りに視線を落として続けた。「おらを置いて、消えたりしねえでけろな。なんか、不安になっただ。変だべな。こんなに近くにいるのに。どっか行っちまいそうな気がして」
 彼女の前髪が、さわさわと踊った。つないだ指先が、熱かった。彼は心の中から沸いてくるものに押し切られるように目を閉じて、静かに言った。
 「置いてきたくなんかねえよ」
 置いていかないとは、言えなかった。彼も続けた。「お互い様だ。おめえも、オラのこと置いて消えたりすんなよな」
 「おらも、置いてきたくなんかねえだ」


 それは、きっと、はるかはるか遠い未来のこと。
 道の真ん中で彼女の肩を両腕で抱きしめながら彼は思う。彼女の細い腕が自分の肩甲骨の辺りを抱きしめるのを感じながら、誰にあててともなく、強く強く請い願う。
 本当に、時間など、なくなってしまえば良い。ずっと、ずっとこのままで。
 道の少し先には、昨日2人がかたわれの葬儀に参列した、老人の家があった。扉のひさしに黒い布が踊っていた。

 村の小道には、誰もいなかった。ただあるのは、雲をわけて差し込む銀色の光と、風と、雨の匂い、そして互いの体温と鼓動だった。



 しばらくすると、彼女は、涙のにじんだ顔を上げて微笑んだ。
 「あと。お誕生日、おめでとう。前に言ってただろ。今日、じいさまに拾われたのだって」
 「…ああ、覚えてたんか」
 彼は笑った。少し前に、寝物語に誕生日がいつか問われてそう教えたのだった。自分でも今日がその日だなんて忘れていた。日付の関係ない小さな頃の暮らしだったけれど、この日付だけは忘れないようにと祖父が教え込んでくれていた日。自分が本当に親から生まれた日ではないのだけれど。
 「19歳、だべな」
 「ひとつ大人になったってことか」
 「今日は、ご馳走にしような。ああ、でも、プレゼントせっかく用意したのに、やめといた方がいいベかなあ」
 「え、なんで?」
 「知りたい?」彼女がいたずらっぽく微笑んだ。うなずくと、ポケットから小さな箱を取り出しながら言った。「だって、時計だもの」
 「げっ!」
 大げさに驚く彼を見て、彼女は明るく笑った。「だって、帰ってくる時間とかちゃんとして欲しいから!リストバンドの邪魔と思って、懐中時計にしたんだべ。少しは時刻を気にする生活に慣れねば、いつか働きにも行けねえだぞ!」
 苦笑を浮かべて、彼はそれでもその箱を受け取った。ホントに時間と言うものは厄介だ。今までそんなの気にしなくても生きていけたのに。時間に縛られる生活と言うのは本当に面倒くさい。でも、それでも、この上なくこの日々は尊く有難い。
 

 だから、もう少しの時間だけ、この生活に溺れさせて欲しい。
 明日もし晴れたなら、ちゃんと修行にも出るから。でも、この長雨の季節だけは、雨に閉じ込められたように、2人でこの幸せに溺れていたい。
 神様、どうか、許してくれ。






 彼らは、そのとき恋をしていた。18歳から19歳という、人生の最も美しい季節をいろどるように。
 彼が永く彼女と離れることになる時から10年さかのぼった、初夏の美しい日々のことだった。







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