このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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light4





 階下でいつもの目覚ましが鳴った。ランチは目を覚ました。部屋はまだ真っ暗だ。
 ぼんやりと斜めの天井を見上げて、目をこすった。
 よかった。今日も、「自分」として起きられた。…彼女は微笑んだ。そして、傍らで眠っている少年の背中を揺すった。

 「悟空さん、悟空さん。朝ですわよ。4時半」
 「…んー…」少年がタオルケットの中で身を縮めた。しばらくそうして、びょんとばねのように腹筋を使って起き上がった。
 「おっす。おはよ」
 「おはようございます」彼女は笑った。「まあ、すごい頭」
 「さわんなよぉ」彼女が手櫛で整えようとした髪をかばうように少年が頭に手をやった。彼はあまり人に触られるのが好きではない。ランチはいつもこの朝のやり取りのとき、彼のことを昔に見慣れた野良犬の子供のようだ、と思う。
 「鏡見てらっしゃいな。さあ、起きましょう」
 彼女は布団を出て、雨戸を開けた。窓の外もまだ真っ暗だ。少年も部屋から出て行った。今は年の暮れ。ぶどう色に変わろうとする空のすみに、明けの明星がきらめいている。
 冬とはいえ、南国にあるこの家には肌をさす寒さはない。彼女は少しだけひんやりした朝の風に藍色の髪をなぶった。
 明けの明星か、と彼女は思う。あの星を目当てに人々が神の子の生誕を祝いに行ったと遠い昔に伝えられる日は今日だっけ。もうほとんど人々も忘れているような旧い神話の中のことだけど。彼女は信仰はしていなかったが、一時それを伝える人々と生活をともにしていたので知っていたのだった。

 あのひとたちはどうしているかしら。今日はお祝いをするのかしら。
 今日は、私もあの子達になにかしてあげましょうか。日ごろの感謝のしるしとして。

 ちょっと素敵なその思いつきに彼女は微笑んだ。窓の下では支度を終えた少年たちとその師匠が、今日も変わらず牛乳配達に出かけようとしている。
 もうすぐ、この家に住まわせてもらえるようになって5ヶ月。根無し草のようにさまよっていた彼女がここにいついて5ヶ月。人並みの暮らしをおくれない自分にとって望外の幸運だ、と彼女は思っている。そう、その感謝をしめしたい。今日はそのための日なのだから。
 鼻が不意にもぞもぞした。彼女はあわてて必死にそれを我慢した。
 いけない、今変わってしまっては元も子もない。その代わりにちょっと咳をした。彼女は息をついて、長袖のTシャツをたんすから取り出した。




 たまにサイクロンや大雨でそうできないときはあるものの、少年たちの日常は毎日単調なまでにいっしょである。4時半に起きる。身支度をする。5時には牛乳店で店長が待ち構えているので、それに間に合うように出かける。最近はだいぶ慣れてきたものの、牛乳配達はひどく過酷らしく時間がかかるものだから、早めに始めないと苦情が来るからだ。この島はとても広くて砂漠だの高い山だの、コースはとてもきつい。普通ならジェットヘリなどで配達するそれらの場所を走ったりしてめぐるのだから、想像するに大変である。
 それが終わったら畑仕事。9時くらいに、一通りの家事を終えた彼女も待ち合わせて店で朝食をとる。今日も彼らは旺盛な食欲を見せている。
 「というわけで、今日はちょっとご馳走にしようと思いますの」
 内緒にしといて驚かせるのもいいかな、と思ったのだけれど、結局彼女はそのアイディアを披露した。
 「やったあ!」悟空が口に餃子をいっぱいにほおばりながら、天井に向けて箸を突き上げた。
 「そんな日があるんですねえ」クリリンが嬉しそうにワンタンメンをすすりながら言った。「僕のところではそんな習慣はありませんでした」
 「遠い昔はわりと世界中で一般的な祭りだったんじゃがな。廃れてしもうたんじゃよ」亀仙人が食後の茶のお替りを店員に頼みながら、知識を披瀝した。一度ランチはこの老人が何年生きているのか、と聞いてみたことがあったが、なんとなく曖昧に誤魔化された。100年どころではきかないらしい。「にしても、もうすぐ新年じゃし、そんな手間をかけてお祝いすることもないんじゃないのかの。それにこやつらが満足するご馳走をつくろうと思ったらお金もかかるし」
 「いいんですの。まだわたくしが最初に来たときに持ってきた分もありますし」最初に持ってきた金は、生活費にと亀仙人に全部渡そうとしたのだけれど結局半分だけでいいと言われた。いいひとだ、とランチは思う。残った分はありがたく自分のお金として今も持っているのだった。
 「さて、食い終わったか。帰ろうかの。あ、その前に今日はちょっと本屋によるぞ。次の教科書を買わんとな」
 「うへえ、やっとこないだ算数の問題の本が全部終わったのに、もう次のやるのか」
 「あんなうすっぺらいのであんなに苦労してるんだもんなあ。そろばんでも覚えたらどうだ。計算速くなるぞ、悟空。教えてやろうか」
 「次は引き算じゃからな」
 いつもにぎやかな一同に、店主が愛想良く手を振った。毎日たくさん食べる彼らはこの島一番の上得意なのである。

 大量の昼食を用意しながら、彼女は鍋をよけてまた咳をした。窓の外では少年たちが卓に向かってそれぞれの問題を解いている。これもいつもの光景だ。たまにランチも彼らの勉強を見たりするときもある。
 今日は算数だ。大体国語と算数と社会(とくに悟空にとっては大切だ)と理科、この4教科を順繰りにやる。ペースは悟空にあわせているので遅い。でもまあのんびりじっくりやるのがこの流派の流儀だ。悟空は数の数え方からやらないといけなかったから(一度聞いたことがあったが、養い親である祖父から習ったのはほぼ読み書きだけだったらしくほとんど算数はできないのだそうだ)大変だ、と亀仙人はぼやく。でも5ヶ月たってやっと足し算くらいは普通にできるようになった。今日からは引き算だ。九九くらいはできるようにせねば、と言うのが目標である。
 彼はたしかに覚えは遅いし勉強が嫌いなのだけど、そんなに馬鹿でもない、と、味噌を出汁に溶きながらランチは思う。一般常識はなかなか身につかないのだが、興味のわくことには覚えが早い。本も面白そうなら自分から読んでいることもある。クイズ番組を見ていても、答えがわかればすばやく答えるし、頭の回転は速い方だと思う。勉強が面白い、と思えれば、結構伸びるのではないだろうか。「彼女」はいっとき、学校の先生や幼稚園の保育士になりたい、と思っていたことがあったから(それは諦めざるをえなかったのだけど)彼らの勉強するさまを見ているのは好きだった。
 「ごはんですよー」
 12時、定刻どおり彼らに呼びかけた。いつもどおり悟空が鉛筆を放り出して飛び上がって家に走りこんでくる。ランチは一緒に寝てるせいもあってどうしても悟空のほうを可愛く思ってしまう。早く手を洗ってらっしゃいな、と笑いかける。
 それに、彼を見ていると、思い出すのだった。「彼女」自身は持っていない、遠い日々の暖かい記憶のことを。同時に心の奥が少し痛む。それはもうひとりの彼女のかすかな悔恨の痛みだ。苛立ちだ。
 だから、と、彼女は、胸の中に呼びかける。傷つけたくなかったら、出てこないで。
 だがまた鼻の奥がむずついた。
 「どうかしたのかの」台所で鼻を押さえている彼女に、教科書を抱えて家に入ってきた亀仙人が問いかけた。
 「ええ、ちょっと風邪気味で」
 「く、くしゃみはやめてくださいよね」クリリンが慌てる。「でも、大丈夫ですか。辛かったら寝てていいんですよ、ご馳走なんていいから」
 「ええ。でも大丈夫。鼻とのどだけだから。ちゃんとうがいもしてますし」
 めしー、めしーとリビングの食卓で騒ぐ悟空の声がしだした。亀仙人が箸と茶碗を揃えて食卓に向かう。クリリンが電気ジャーを持ってくれた。

 


 昼食後、彼女は悟空に筋斗雲を借りて市場へ向かった。歩いてもよかったのだけれど、クリリンがそう勧めて悟空に頼んでくれたのだった。ご馳走をつくるために、たくさんの食材を買い足さないといけない。それに、なにかしらプレゼントもあげられれば、と思う。天気は晴れ。薄いブルーの空から、暖かな金色の日差しが降り注いでいる。
 島に唯一の市場は年の瀬ちかく、大勢の主婦でにぎわっている。港に面する市場にはウミネコがみゃあみゃあと鳴き集う。昼寝から覚めた漁師の老人たちが卓を囲んでカードゲームに興じ、街頭のテレビの前でくつろぐ。魚を狙う猫たちが埠頭でごろごろととりどりの毛皮を甲羅干しにしていた。
 「よう」
 なじみの魚屋の若者が店の中から声をかけてくれた。魚を何匹か買ってさばいてもらう。彼女はさばくのが苦手だったので。
 「今日はずいぶん買うんだな。もう年の瀬の準備かい」
 「いえ、今日はちょっとご馳走にするんですの」
 「へえ。じゃあちょっとオマケしておくよ。その代わりといっちゃなんだが、新年でもどっか一緒に行かないかい」
 「悪いんですけど」
 軽く断ると落胆の色を見せたものの、若者は気前よくオマケの魚を包んでまとめてアイスボックスに入れてくれた。彼女は市場では人気者だ。たくさん食材を買ってくれるし、見目もよい。性格もよいとなれば男はほうっておかない。でも彼女は取り合わない。自分には決められないから。いろいろな意味で。
 魚を買ってしまったあとで彼女は後悔した。これからプレゼントも見ないといけないのに、腐りものを買ってしまった。急いで選ばないと。散々悩んだが、結局少年たちそれぞれにタオルと靴下、亀仙人には少しいいタバコの刻み葉にした。市のはずれの方で筋斗雲を呼んで、帰途に着いた。

 2,3度乗ったことがあるとはいえ、ひとりで筋斗雲は初めてだ。さすがに少し怖いので、彼女は低めの、人目につかないところをゆっくりと飛ぶように筋斗雲にたのむ。この雲のあるじは悟空だけれど、乗り手と認めれば意思を尊重してくれる。
 生ものは大量なのでカプセルにしまったが、プレゼントは自分の肩掛けかばんに入れた。服などもっといいものがあげられればよかったのだけれど、と彼女は思う。だけど服は好みというものがあるし、あの子達はすぐに大きくなる。修行を始めて5ヶ月弱、比喩ではなく彼らは一回り大きくなった。着たきり雀のようないつも同じ服だが、一度あつらえなおしているのである。これから伸び盛りの時期、ますます成長はスピードを増していくだろう。
 太陽がだいぶ西に傾いてきた。金色の日差しが、遠くの海面を一面の光に染め上げている。彼女の横をあざやかな羽根を持つインコの群れが列をなして飛びだした。
 見とれていると、目の前にいきなり赤いものが広がって彼女の顔にまとわりついた。それはふわり、と身体を離れたひとひらの羽毛だった。あ、と思ったときにはもう遅い。朝からずっと我慢していたものがとびだした。
 
 くしゅん!

 同時に、雲は乗り手を失った。山のすそのジャングルから違う種類の鳥たちがばさばさと飛び立っていった。
 雲はしばらくふよふよとその場に浮かんでいたが、やがて上空へと去っていった。






 気づいたとき目に入ったのは闇を貫く一筋の光だった。それはぐるりと空を巡って、彼女の腕をまぶしく照らし出した。はっ、と彼女は身じろいで身を縮めた。縮めようとしてバランスを崩してあわてて手近のものにしがみついた。
 ごつごつとしたつめたい感触に思わず身を引いて確認する。榕樹の中ほどのほうに引っかかっていたのだった。何があったかを思い出し、彼女は舌打ちをした。頭を動かそうとして金髪が気根に絡みついているのに気づき解こうと手を上げると、右腕に痛みが走った。左手だけでなんとか解く。
 なんというざまだろう。2ヶ月ぶりに起きたと思ったらこれとは。彼女は唇をかんだ。
 身体のあちこちが痛い。右腕と、左足が特に痛い。折れてはないようなのが幸いだった。でもまあ、これよりひどい目になら何度もあったことがある。逃げるときに下手を打ってぼこぼこにされたこともあるし、喧嘩でボロボロになったことも。その目をまた光の筋が打った。岬の灯台の明かりだ。自分を探す警察のサーチライトの明かりのようで気分が悪い。とりあえずここから降りなければ。
 痛む腕と足をかばいながら、ようやく木の下まで降りることができた。湿っぽい地面に座り込んでため息をつく。木の枝に覆われた空は、とうに暗くなっている。月のない夜を照らし出すのは灯台の明かりだけ。降りてから少し後悔した。獣とかに襲われたらどうしよう。この腕ではろくに銃も使えない。彼女が彼女であるときにはいつも忍ばせているナイフもなかった。
 闇の奥でなにかの鳴き声がする。
 木の上で助けを待つべきだったかもしれない。そう思ってから、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。誰が来るというのだ。自分を迎えに来るものはいつも追っ手だ。さもなくば死。もしくは利用してやろうと近づいてくる男。どっちみちろくなものではない。
 まぶたの裏に、おぼろげに、今身近にいるものたちの顔が浮かんだ。彼女は顔をしかめた。やめろ、呼ぶな、と胸の中に向かって心の中で怒鳴りつけた。彼女は自分の今の暮らしについてはおおよそ把握はしていた。それは確かに望外のことだった。だからこそ、自分には似つかわしくないと思う。離れなければ。主導権が自分にあるうちに、早く。でも身体が動かない。

 そこに、いきなり声が天空から降り注いできた。
 「あ、みっけ!」

 同時に、ずん、という音がして、目の前に悟空が飛び降りてきた。そいつは、足のしびれにうつむいて顔をしかめていたが、しばらくするとまっすぐに彼女に向き直った。

 「あ、なんだおめえの方か」
 第一声がそれだったので、彼女の胸に痛みが走った。悟空の表情にもいささかの警戒の色が現れたから。
 「探してたんだぜ。帰ろうぜ」
 「なんで、ここがわかったんだよ」
 「においで。オラ鼻が利くからな。なんだ、怪我でもしてんのか。だからいきなりてっぽー撃ったりしないんだな。そりゃいいや」
 「触るな!」伸ばされてきた手を彼女は左手で思い切り払いのけた。悟空がきょとんとした顔をしたまま小首をかしげた。
 「なんか、おめえ山猫みてえだなあ」悟空はぶつぶつ文句を言った。「だから、筋斗雲貸したくなかったんだよな。女はだらしねえ。うまく乗れねえんだもん。チチだってめちゃくちゃするし」

 少し驚く。「あちら側」以外に、あのへんな雲に乗れる女がいるのか。彼女は少年を見つめた。なんだかわからないが、特等席を奪われたような気になったのだった。「あちら側」はそれだけ清い心を持っている、というのは、おかしな話だがこちらの彼女にとって一種の誇りだった。この少年と同じだけの清さを自分は内包しているのだ、というゆがんだ自負。いつからだろう、その清い心が別人格となって現れだしたのは。

 「帰らねえからな」彼女は吐き出すように言った。どうせ、こいつもあちらを探しに来たのだ。そう思うと目頭が熱かった。
 「ふうん?じゃあそうしてろよ」
 返ってきたのは意外な反応だった。きびすを返そうとしている。彼女は慌てて声をあげた。
 「ちょ、ちょっと待てよ。お前探してるんじゃなかったのか」
 「でもおめえは帰りたくないって言うし」
 「爺たちに怒られるんじゃねえのかよ!」
 「そういやそうだ」さも今気づいたかのように悟空が笑った。なんてやつだ。「まあオラはいいんだけどさ。またどうせクシャミしたら前みたいにおとなしくなって戻ってくるだろうし」
 確かに過去何回かクシャミしてあの家を飛び出した事はあった。でも早々とまたあちら側に戻って帰るのがいつものことだった。
 「おれは帰りたくねえよ。もともとおれのほうが元の人格なんだ」
 「じんかく?」
 「おとなしい方はあとからできたんだよ。おれのほうが本物なの」
 「へえ」
 「こんな普通じゃないおれを構ったっていいことねえよ」自嘲気味に言った。さっきは何で引き止めてしまったのだろう。引き止めた癖になんでこういうことを言うのだろう。悔しさの発露のように咳が出た。熱も出てきただろうか、頭がぼうっとする。なのにくしゃみは出ない。出るならさっさと出たらいいのに。
 「オラだってたいがい普通じゃねえしなあ。尻尾あるし」
 「嘘つけ。ないじゃねえか」
 「なんかとれちまった」
 馬鹿馬鹿しい世迷言などきいてられるか。それより足が痛い。顔をしかめると悟空が足を見た後、顔をのぞきこんできた。この目が嫌いだ、と彼女は思う。人格が分かれて混乱していた頃、何もかも放り出してきたうちのひとつを思い出す。汚い自分を映し出す鏡のように、透明なきらきらした瞳が胸を撃つ。彼女が顔をゆがませたとたん、耳元で悟空が大声を出した。
 「あ、クリリーン!こっちだ、こっち!」
 しばらくして、がさがさとやぶを掻き分けて、丸い禿頭が顔をのぞかせた。一瞬表情がおののいたが、目配せで手の怪我に気づいたらしい。
 「馬鹿、悟空。怪我してるじゃないか。なんですぐ教えないんだよ。ほったらかしで」
 「だってよ」
 「老師さまー!ここです!怪我してます、来てください!」
 
 面子が揃ったところで、改めて彼女は主張した。帰らない。帰りたくない。
 「ほっとけばいいんじゃねえのか」悟空が言った。「またすぐ帰ってくるって」
 「そんなわけにいくかよ。とりあえず病院でも連れて行って手当てしないと」
 「そうじゃな」亀仙人がうなずいて、杖で悟空の頭をぶった。「おぬしは冷たいのう。孫悟飯から女には優しくしろと教わったんじゃろうが。罰としておぬしが病院まで背負っていけ」
 暴れたが、結局亀の甲羅の背中に負ぶわされた。ぼさぼさの髪が頬をくすぐった。筋斗雲に乗っていけば速いのだが、上空で暴れられたらかなわないと悟空が嫌がったので、一行はジャングルを抜け、島の中心部へと続く道を連れ立って歩いた。打撲したのもあって熱が本格的に出てきたらしい。彼女はうとうとしだした。ごつごつした亀の甲羅からはかすかに潮の香りがする。意外にも背負われ心地は悪くなかった。

 「これ、なんですか」
 クリリンが、彼女の下げているカバンを引っ張った。破れかけて、中から包装が覗いていたのだった。
 「しらねえ。なんかあっちが、お前らに買ってた。やる」
 「へえ。じゃあ出しますね」
 包装の中身を見たクリリンが、ありがとうございます、と笑った。亀仙人も喜んでいる。それよりごちそうは?とぼやいた悟空をまた亀仙人がぶった。
 うとうとと彼女は「神の子」の言葉を思った。
 
 隣人を愛せよ、などと言うのはまやかしだ。ていのいいお題目だ。人は一人だ。それが必要があって集まっているに過ぎない。こいつらだってみな孤独なのだ、それが修行と言う目的のために一緒に暮らしているに過ぎない。つまりは利害関係だ。
 いつかは離れ行く。少なくともこの、今負ぶさっているところの少年はそう思っている、と彼女は思う。たぶんそうでないといけない。この少年はもっと大きなところへとびだしていかなければ。世界でこの少年は何を見るだろう。
 「ごめんな、わりかった」不意に目の前で声がした。彼女は目を開けた。ごく小さな声だった。「オラ冷てえんだろうな、よくわかんねえけど。気を悪くしたなら、あやまる」
 彼女はのどの奥でかすかに答えて、うつむいた。額がつむじに触れて、汗のにおいがした。
 「別にオラ、おっかねえ方のおめえが嫌なんじゃないぞ。てっぽーが怖いだけだから。どっちにしたって、やっぱいなくなったら寂しいってじっちゃんもクリリンも言うし、オラもちょっとそう思う」

 なんとなく照れくさそうな声だった。急に、横から亀仙人の手が伸びてきた。また尻でも触られるのか、と身じろいだが、その手は金髪をぽんぽん、と2回やさしげに叩いた。
 「手当てが済んだら、そのへんで何か食べて帰ろうかの」
 「やったあ」
 「しばらくは僕がご飯を作りますよ。寺でやってたから慣れてますから。ゆっくり怪我を治してくださいね」





 年が明けて、春になったら、解散するかもしれない擬似家族。時折、遠ざかった灯台の光が彼らの前に長い影を伸ばす。
 胸の奥が、安堵と幸福で熱い。それはもう一人の自分の感情。でも、それは紛れもなく自分の感情でもある。今現在甘く優しく痛んでいるのは間違いなく自分の心。彼女はずり落ちてきた身体を支えるように、悟空の首にしがみついた。背後からぎゅっと、あの日捨ててきたものを抱きしめるように。


 かみさま、と「2人」は祈る。

 どうか、この隣人たちの上に幸福を。この罪深きものの上に赦しを。できうる限り、このひとたちを傷つけることなく、自分がそのそばにいられますように。清いままの自分でいられますように。
 星の降るような、清しこの夜のお願いです。



 南国の甘い潮風が、彼女の金髪を揺らし、悟空の黒髪を揺らし、冬の一等星たちに向かってゆるやかに夜空を駆け上っていった。







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