孫悟空と言う人間は、
軽い。つかみ所がない。と、いうのが、ここ数日観察したところでの北銀河の界王の評価である。へらり、といつも風のように笑っている。気配がひらりとしている。さらりでもふわりでもなく、ひらり、である。
とりあえず、それは下界の人間には稀なものだ。面白いやつが来た、と思う。とりあえず、もうしばらく観察してみよう。なに、まだまだあいつがここの重力に慣れるまで時間はありそうだ。それまではこちらも修行のつけようもないのだから、良い暇つぶしだ。
「く、くっそー!体が重いー!」
四つんばいになって、ぼさぼさとした頭を小さな星の芝につきながら、背中を上下させている。地球の10倍の重力。超重量の装備をつけていきなりこの環境ではつらかろう。でも真面目に装備をつけてバブルスを追っかけているのだから感心はできる。そう、根が真面目なのだろう。真面目でなければ、地球人の平均よりおよそ桁はずれた力など持てはしない。まあ聞いたところに拠れば本当は地球人ではなくてサイヤ人なのだそうだけれど。
ただ、真面目かといえばそうでもない。礼儀はなっていない。人を敬う、という気持ちが枠に嵌められていないように思う。だれそれだから敬わなければならない、という概念が欠如しているようだ。追従(ついしょう)、ということもできない。そこが、つかみ所がない、と思う原因のひとつだろう。「立場」というものでくくれない魂のありようを持っているように思う。
ふむ、すこしわかってきたような。
「よーし、今日はこれで終わりじゃ」
界王は手を振った。
「えっ、もう?」孫悟空が汗だくになりながら星の裏のほうで振り向いた。
「もう地球では夜じゃぞ」
「そっか、こっちじゃずっと明るいままだもんなあ、わっかんねえもんな」
「まあその胴着を洗って風呂でも入れ。そしたら晩飯にしてやろう」
やっほう。孫悟空がちょっと飛び上がった。10cmほど。どすんと音を立てて落ちると、うきうきと胴着を脱ぎ始めた。多少は動作が速くなってきただろうか。
「しっかしさ、ホント神様とかってつまんねえ暮らししてるよな」
孫悟空が顎に垂れたソースを手のひらでぬぐって舐めながらぼやいた。ドーム状の小さな家の真ん中の台所。ひたすら食器の音だけがしている。他には何の音もなく、窓からは常にぼんやりとした光が差し込み続け、何の風も空気の流れもない。「ここなんて昼も夜も晴れも雨も何もないしさ。ホントつまんねえな。あの世ってみんなこんな感じなのか」
「そうとも」目の前に置かれた皿は全てこの下宿人かつ弟子のものだ。自分は食べなくても良いのだが、一応卓の向かいに座って話の相手をしてやる。「あの世とは時間がない世界なのじゃからな」
「へえ」
「ここは界王であるわしの住まう星じゃから、現世とあの世のはざまに位置する。だから下界の時間の流れの上にありながら、幽り世という空間に存在する特殊な場所じゃ。閻魔庁から伸びる東西南北の蛇の道が各界王星への通路となっている」
「ふーん、よくわかんねえな」聴いておきながら孫悟空はどうでもよさげな返事とともにバブルスの差し出した新たな皿にがっついている。「地球の神様だってさ、空以外なーんにもないようなとこで暮らしてさ。オラだってなんか神様になれとか言われたけど、オラそんな退屈な暮らしできねえよ。何してんだかわかんねえけどぼーっと座ったりしてるだけなんだぜ」
「ほう、おぬし神にスカウトされたことがあるのか」
「うん。でもつまんなそうだからやめた」
「つまらんつまらんってなあ。神と言うのは大事な仕事だぞ。見守るという責務があるのじゃからな」
「見守ってるだけじゃん」ごっそさん、と孫悟空が箸を置いた。ちょっとにらんで顎で流しをさすと、目の前の皿を片付けだした。皿といっても10倍の重さに感じられるものだから、少しずつ皿を流しに運ぶのを往復している。
「まあそれのおかげで退屈そうな場所でも、下界を見ることで紛らわせられるわけじゃよ。神の目と言うのは伊達ではないぞ。たとえば」界王はにやりと笑った。「おぬしがチチの飯を食いたいなあ、と思っていることもちゃんとお見通しじゃ」
「げっ」孫悟空は真っ赤になって食卓から持ち上げかけた皿を床に落とした。バブルスが寄ってきて床を片付けだす。その脇で突っ立った孫悟空は真っ赤な頬の下で落とした顎をふるふるとだらしなくおののかせている。その顔ときたら。「チチとは誰じゃ?恋人か?」
「お、オラの、嫁だ、けど…なんでわかるんだよ」
ほう、妻帯者だったのか。界王は黒眼鏡の奥の目を丸くした。
「だから、これが神仙の能力なのじゃよ。心を読むというのは基本中の基本」
「ず、ずりぃぞっ。界王様のH。勝手に読むなよっ!」
「いやなに、おぬしが何日も食事のたびにそう思ってりゃ心の声も聴こえもするわい。寝る前だって」
「わーっ!」ドームいっぱいに大声が響いた。雑巾を持ったバブルスがビクッと飛び上がった。なんちゅう声を出すんじゃ、と抗議をすると、逆につばを飛ばされながら抗議された。 「お、オラが部屋にいるときは絶対勝手に読んじゃだめだからなっ!いいな、界王様!」
「それが目上の者に頼む態度か。悔しかったら早くわしより強くなってみぃ。それにお前も神にスカウトされたということはある程度このようなことができる素質があるということだと思うがな」
今ちゃぶ台返しをしてしまった惨状を片付けるために孫悟空は床にひざまずいて割れた皿を拾いはじめた。唇を尖らせてすねている。なんじゃ、可愛らしいところも在るではないか。確か地球の年齢で23歳だとか。若い若い。
女に現を抜かす部分と、戦いに現を抜かす部分。つかみ所のないこの男の核にあるのはそれだけ。まあなんにせよ、と界王は今日の観察の結果を思う。
孫悟空と言う人間は、案外愛妻家である。
孫悟空と言う人間は、名前の通り空(くう)のような人間である。というのが、50日目の評価である。
40日目にして重力を克服し、修行は次のステップに入った。予想を上回るペースである。現在はより高度な気のコントロールのための修行に入った。全身の気を完全に操り練り上げ、己の身体能力を飛躍的に向上させる技、界王拳の基礎段階。
気は、人をめぐり、人を潤し、人を動かし、世界を満たすもの。その気を完璧に操ることができれば、人は人知を超えた段階にいたる。というのが、界王の持論である。そして理論として完成したのが界王拳と元気玉。己の気で己を高めるものと、世界にあまねく気をとりこみわが力にするもの。しかし界王自身にはそこまでの微細なコントロールはできず、今までは机上の空論だった。ようやく、それが実現するかもしれない機会が巡ってきた。
孫悟空は、地球での午前中はその気のコントロールの修行をし、午後からは身体と格闘の訓練をする、というのがここのところのスケジュールである。今は、昼前。木の下で結跏し、瞑想をしている。ひたすら、己の気を凝縮する。凝縮し、花火のように火をつけ、激しく燃え上がらせる。それを身体の働きと完璧に、それこそ末梢神経の一本にいたるまで調和させなければならない。
界王は瞑想をしている孫悟空の脇にしゃがみこみ、横顔を見た。気は、力強くなったり、弱くなったりを繰り返す。広い、意外と知性的にも見える開けっぴろげな額に汗が幾筋もしたたっている。伏せられた長めのまつげが時折ビクッと震え、通った鼻筋と眉間にかすかなしわが寄る。真一文字に引き結んだ唇の下側が、時折上唇を押し上げている。
ずいぶんと苦戦しているようだ。当然だろう。自分が長い長い時間挑戦してできなかったことだ。そう10日ほどでおいそれとマスターされても困る。
界王は鼻を鳴らし、心の中に呼びかけた。
(呼吸)
はっ、と孫悟空が目を見開いた。
「あ、また、オラ息とめちまってたか」胸にためていた息を吐き出すように体の力を抜きながら、孫悟空が頭を掻いた。いくら気を高めるためとはいえ、正常な体の働きの基本となる呼吸を乱してはならないのだ。
「もう昼じゃぞ、飯にするか」
おう、と孫悟空が立ち上がった。
50日も二人きりで顔を突き合わせていればそれなりに馴染むものだ。はるかはるか昔、後に閻魔の役割を賜った男がここに長く逗留していたが、その男はいわゆる常識人だったので徹底して自分を師匠として扱って、常に平伏していたものだ。しかしこの男はまったくそんな素振りも無い。対等とはいわないが、まるで近所の年かさのものに対するような(いやそれよりもっと砕けているかもしれない)態度で接してくる。
大体なんで自分がこうして毎日毎日三度三度食事を用意し(死人なんだからそう毎日食べる必要もないのだ)、今このように食後のお茶など手ずから淹れてやっているのだろう?
「なんだよ」孫悟空が茶の湯気を唇を突き出して吹きながらきょとんと見返してきた。
「いやなに、お前みたいに礼儀のなってない奴だと、お前の今までの師匠も大変だったろうな、と思っておったんじゃ」
「そんなにオラ礼儀なってねえかな。亀仙人のじっちゃんも、神様にも、そんなに敬語使わなくて良かったからなあ。大体オラ敬語って苦手だよ」
要するに、この男は年上のものに可愛がられるタイプなのかもしれない。生来の愛嬌と言うものがある。
「まあ、前に来た閻魔とは大違いじゃな」
「ふうん」やはり、礼儀などと言うことには興味がないのだ。最初に観察して感じたところには間違いはない。誰が敬おうと、自分が尊敬するべき相手でなければ態度に出すに値しないのだろう。
「界王拳のほうはどうじゃ、だいぶしんどそうじゃが」
「うーん。でも、ちょっとつながってきた気がするな、気と体が」
その言葉に正直驚いた。まだ10日ではないか。
「理屈はばっちりわかってんだ。具体的にどうやれば良いかも自分の中でだいたいわかった。あとはうまく全身をつなげて出力上げてくだけだな。それが難しそうだけど」
にか、と白い歯を出して笑う顔を見て、正直戦慄が走った。こいつは天才だ。計り知れない。
そうか、とひそかに打ち砕かれそうになったプライドに声をわずかに震わせ界王は頷いた。「思ったよりはやい。では同時進行でもうひとつの技、元気玉も進めてみるか」
新しい技を教わる喜びに、孫悟空の顔がぱっときらめいた。
空(くう)とは、何もない空間だ。この男の中には、ひととしての、ある意味でつまらない立場と言う重要な概念…他のものが、人によってはそれに頼ってしか自己を保てないほど大きく心のうちに持つもの…をすっぽり捨てて、大きな空が存在する。
空とは、何もないが、何かを満たす予感に満ちたものだ。空は何かを満たし、何かを作り上げる予感に満ちたものだ。この世のものは空によって成り立ち、空はこの世のもの全てになりうる。
空とは、可能性そのものだ。この男は、空そのものだ。この男はそのものであるから、その可能性に臆してなどいない。だから、ひらりとして、得がたく稀なのだ。
地球の神が、この男に気の扱い方と己の見つめ方を教えたと聴く。地球の神は、恐ろしいものの扉を開いたかもしれない。
気を集める、か。そうつぶやいてみずからの手のひらを見つめる孫悟空に対して、界王は続けた。
「あとひとつ、覚えてもらいたいものがあるのじゃが」
「ん?またなんか、強力な技があんのか?すげえな、界王様」
「いや、そんなもんじゃないよ。念話といってな、心で話すすべを身につけてもらいたいのじゃ」
きょとんと見返してくる瞳を黒眼鏡越しに見返して、言った。
「そうすれば、あちらに帰っても、おぬしと心で話すことができるからな」
孫悟空は、自分にとって得がたい存在である。
それが、彼と出会って10年以上になる、北銀河の界王の評価である。
「あのさ、界王様。ちょっとたのみごとがあんだけど」
天使の輪を頭上に浮かべた孫悟空が、珍しく殊勝そうな顔で言ってきた。
「なんじゃ」
天使の輪を同じく頭上に浮かべた界王は、切り株の上で読んでいた本をひざに置いて顔を上げた。彼らはこの7年余り、幽り世のひと所にとどまらず、ふらふらと孫悟空の修行に付き合いながらさまよう生活を続けていた。ずっと2人と一匹で。時間もなく晴れるも曇るもない世界のことだから、暮らすというほどのこともない。寝たければ適当にその辺で寝る。起きたときに近くに水辺があればそこで顔を洗う。たまに気が向けば食事をする。気儘な2人と一匹の放浪だった。
「地球の時間で、今あっちが、何年の何月何日か教えて欲しいんだけど」
「ほう?なんじゃ、唐突に」
「うん、ちょっと。たぶん、もう約束したくらいだと思うから」
曖昧によく分からない理由を述べた孫悟空に、界王は調べたところを教えてやった。その日付を聴いた孫悟空の顔が、驚愕した。
「すっげえ。ぴったりだ。ぴったり10年だ。やるなー、オラ。なんとなくそうなんじゃないかな、と思ってたんだ」
この世界では時間は流れないが、現世では時間と言うものは大きな河のうねりのように流れ続け止まる事はない。あの世、というこの世界は時間と言う川の大きな中州のようなものだ。時間に流される事はないが、外を流れる時間は感じることができるのだ。
「なんじゃい」
「悟飯と…オラの子供と、話さなきゃいけねえんだよ。そう、チチと約束したんだ。界王様、前に言ってたよな、死んでも界王様に頼めば、一回なら現世の様子見せて話をさせてくれるって。今頼むよ」
孫悟空が、久しぶりに見せるような、どこか痛いような笑い顔をした。
「さて、どうするかな。おぬしはセル戦でもう下界と話しとるからのう」
「ええっ」
「うそじゃよ」界王は笑った。「さあ、話させてやるわい。わしの背中に手を当てろ」
孫悟空は、家族のことを愛している。いまでも。
界王の胸が、どこか痛んだ。背中に、得がたい友人の手のひらの体温を感じながら。
孫悟空は、案外格好つけの人間である。
この男は、死を選んで、この2人と一匹の生活を始めた頃、ふと見るとひとりで遠くを見て考え込んでいることが多かった。自分は、それについては何も触れなかった。そんなものは触れるだけ無駄と言うものだ。別に自分は、この男に対して自分の膝で泣いて欲しいとかそんな感情は持っていない。自分が望んだのは、この男を見守ることだ。世界に対してするのと同じに、見守る。何も手出しはせず、どうこの男が生きていくのか(厳密に言えば生きてはいないのだけど)見守り続ける。
孫悟空は、死に対して別に恐ろしくなかったわけではない。家族に背を向けたわけでもない。ある日ぽつりと言った。ただ単に、自分だけ、何度も生き返るのは、それは違うだろう、と思ったのだと。自分の仲間は、2回生き返ったものもいる。でも、自分の祖父は、妻の母は、その特権を得られなかった。世の中の人間は、そんな恩恵があることをも知らないものが大多数だ。なのに。
また別の日、ぽつりと言った。死にたくなかった。セルに降参してまで。息子にセルとの戦いを引き継いでまで。でも、息子の見たくない顔を…自分が、自分の血の中に隠していたサイヤ人としての残虐性を、もっとも愛するものの中に残してしまったことを…見せ付けられ、結果このようになった。だから、と。
格好つけであろう。それでも、愛しているなら、生き返ってやればよかったものを。
最初、孫悟空が「オラは、もう生きかえらねえよ」と告げたとき、界王は内緒で、一度怒られてから絶対に読まなかった孫悟空の心の中を読んだ。そこは、笑顔に隠れた嘆きの海だった。いとしい女。いとしい子供。会いたくないわけない。会いたくないわけはない。でも、自分のことを、自分の考えてることを、きっとわかってくれる。そう思い込もうとする心の奔流。
だから、自分は…界王は、この男に付き合って生き返ることを拒否したのだった。せめても、自分は。
「じゃあ、行ってくる」
孫悟空が、占いババの前で手を振った。
「おう、楽しんでこい」
「うん。一日だけだけどな」
どこか赤く高潮させた頬をほころばせるその笑顔に、界王は笑顔を返した。
心のどこかに予感があった。
でも、それでも、見守り続けよう。
もう、戻ってこないならそのほうがいい。
幸せになれ。
孫悟空が、目の前から消えた。
界王は、そっと黒眼鏡をはずして、空を仰いだ。バブルスが、膝の横側に頭を持たせかからせるのを、温かく感じていた。
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