このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ござ いません。
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 夫と息子が毎朝出かけてゆくのは朝の9時くらいである。
 と言っても普通の家庭であればそれは夫が職場に、先日8つになった息子は小学校に、という話であろうが、この家では少し違う。夫も息子も、闘いのための修行に行く。あと1年に迫った『世界の危機』に備えて、と言う名目で一応はこの家ではそれが許されている。
 本当に寛大だな、自分は、と、この家の主婦であるチチは毎朝見送るたびにそんなことを思っている。玄関先でよく晴れた5月の半ばの空を見上げる。夫と息子は、先ほどこの空になんの助けもなしに舞い上がって、どこぞの修行場に向かっていった。そんな人間離れした出勤風景を近所の人に見られたら、といつもちょっとハラハラする。お隣すら1kmは向こう、という田舎な環境なのが幸いだが。
 さてと、と、チチはとりあえず玄関先に立てかけている外ぼうきを手にとった。彼らが出かける前にすでに朝飯の洗い物は済ませているし、午前中は掃除、洗濯、畑いじりがチチの日々の日課だ。
 午後からは何をしようかな、と地に落ちた葉桜のピンク色の蕊を集めながら考える。そうだ、そろそろこの山あいの村でもかなり日々暑くなってきたし、今日は衣替えをしてしまおうか。いや、明日は修行も休みの日だから、どうせなら明日一家で夏物を買いに行ってからにした方がいい。今日はその前に、冬物の繕いやらの仕舞う前の支度を済ませてしまおう。

 修行を始めるまで息子は日中は学校が遠いために家の中で勉強をしていたので、昼飯は子供の好みそうなものをそれなりに考えて作ってやっていたのだが、今は昼はあちらには弁当を持たせてやるので夕方帰ってくるまで家ではひとりきりだ。だいたいは彼らに持たせた弁当の余り物をこちらも食べる。午前中の畑いじりの続きで庭先で食べることもある。よその畑仕事を手伝ってそこの年寄りたちと集まって食べることもある。これから田植えの季節だからそういうことも増えてくるだろう。
 今日はダイニングで一人だった。ごちそうさま、と手を合わせてお茶をすすり、皿を洗ってしまう。テレビをつけるとそろそろ昼のワイドショーの時間だ。この時間はテレビを見るともなく見ながら洗濯物をアイロンがけしたたむのだ。

 チチがいつも着ている旗袍は洗濯をしたら陰干しの後ブラシを掛けて皺を伸ばしそのままクローゼットに入れておく。買ってもいいけれどいつも自分で仕立てている。
 今年の夏に向けてもこのひと月ほどで1着作った。夫はいつもそういうことはてんで気にしないのが残念だが、まあ結婚記念日に着て見せたらああずっと刺繍してたやつか、とか言ってくれただけ今年はマシだったかもしれない。夫はこちらのことを見てないようで見ている。でも期待したところでは見ているようで見ていない。もう結婚して先週で9年になったが、未だに何を考えているのかいまいちわからない。
 確かなのは戦闘バカだということだけだ、と最後に取り置いておいた大小の道着を手にしてチチは半袖ながら腕まくりの真似をした。道着は結婚した当初から毎日面倒の種だ。あちこち平気で破ってくるし、焼け焦げはつくるし、時には泥まみれになるし、血すらつけてくる。毎日毎日それを点検して染み抜きし、修繕が必要で可能であれば繕い、2週に一度はミシンを回して新しくこさえてやる。単純な服だからまだいいが、甚だ面倒である。だから胸や背のマークも最近あちらがもういいと言ってくれたので省くようになってしまった。帯だって、細く切ってこさえていたのを端の始末をせずに済むので反物の幅そのまま使って幅広にするようにした。つなぎになっていたのを上下分かれた二部式にもした。そしたら作り変える時の手間も減ったし多少は節約になった。股の部分をたっぷり布地を使って余裕を持って縫うのだが、そこが補強とかいろいろ手間がかかるからだ。
 おかげで、居間の片隅にはいつも例の山吹色と濃い紺色の反物が鎮座している。この一年はそこに寄り添うように息子の道着用の紫色の反物も加わっている。見かねて父親が先月末の息子の誕生日に、父子二人に道着を山とプレゼントしてくれたのはありがたかった。しばらくはあれを引っ張りだして型紙をあてて切って端の始末をして縫うなんて手間からは解放されるだろう。でもやはり道着の修繕は毎日の逃れられぬ課題である。
 目の前のテレビで流れているワイドショーでは、都で母親同士のランチを楽しむスポットが紹介されている。ああ、うらやましいこと。気に入りの、花を打ち出した銀色の指ぬきをはめて、小脇に置いた針台から山吹色の糸を通した針を手に取る。今日の繕いは3箇所、そろそろこの道着も替えどきだろうか。そんなことを考えながら玉結びをした針を構えて布に突き刺した瞬間だった。

 「おーい、チチぃ、着替えだしてくれよぉ」
 玄関がいきなり開かれて驚いたチチは思いっきり左親指に針を突き刺してしまった。思わず悲鳴を上げると、ドアを開けた夫が驚いてドロドロの靴のまま居間に駆け込んできたのが見えたので、チチはまた悲鳴を上げた。
 「悟空さ何だべその格好は!」
 夫は腰あたりから下がべったんべったんの泥まみれである。そのまま上がってきたものだから、当然フローリングも泥づいた足跡まみれである。家では基本的にはじゅうたんに入る時以外は靴履でいいのだが、床が汚れるのが嫌だから室内履きを使うようにいつもチチはうるさく言っている。なのに、こんな泥まみれ。しかもあろうことかこちらが座っているじゅうたんにまで上がり込んできたではないか!
 あがりこんだところで夫は「あ」と一声上げて、一応気まずそうな顔をした。バカバカバカ、とこちらが3回罵るのを聞いてから、これ以上泥がつかないようにせめても少しリビングの宙に浮かんだ夫は上から言い訳をはじめた。
 「沼に落っこちちまったんだよ」
 「なんでそんなとこで修行してたんだべか!てか悟空さだけだべか、悟飯ちゃんは汚れてねえんだか」
 「オラだけだよ。これ鎖が切れて落っこちちまって取ろうとして…止まっちまったからまた修理出しといてくんねえか」
 まだ泥の被害のない懐から夫が取り出したのは、せめても泥汚れを水で濯いだような痕のある懐中時計だった。汚れを載せて健気にも銀色に輝こうとするそれは、チチが新婚の頃夫にやったものだ。家で待っているから、時間を忘れずちゃんと帰ってきてほしいと、そんな願いを込めて。
目の前にそれをかかげられたチチは眉をへの字にした。夫は浮かんだまま、ゆるゆると近づいてきて顔を覗きこんで、無意識にチチが顔の横に掲げていた、血の玉が浮いた左手の指に気づいた。夫が時計を持ち替えて、右手が伸びて、チチの左手首を掴み、肉厚な唇がチチの親指を包んで吸った。
 「!」
 驚いたチチは瞬時に真っ赤になって思いっきり右の手で夫の左頬を張り飛ばしてしまった。さきほど思わず針を放り出していなければやらなくてすんだかもしれない。油断していたのか夫は素直にそのビンタを食らってしまい、チチの親指に甘咬みのあとを残してしまった。思わず着地してしまったために、じゅうたんには新たに泥の跡。
 「なにすんだよっ、オラがせっかく」
 さすがの夫も眉を逆立てた。
「ご、ごめ…」
 「いい」夫が赤くなった頬を背けてまた浮かび上がった。「とりあえずシャワー浴びてくっから」
 残されたのは汚された床とじゅうたん、その上に散乱した山吹色の繕いかけの道着。夫の手から落ちた銀色の時計。チチは床にうずくまって、とりあえずのろのろと針を拾い上げた。唾液と交じり合ってまた左指を流れ始めた血を唇で押さえる。少し震える唇で。 

  とりあえず、とりあえず、この床の汚れを何とかしなければ。

 



 シャワーの湯に打たれながら、悟空は素っ裸で、脱ぎ捨てた泥まみれの道着をワシワシと洗い場で洗っていた。落ちた沼のあたりにはまともな水の湧いている場所がなくて、とりあえず手と時計は持たされた水筒の水で洗ってきたものの、もう少し、せめて靴は汚れを落としてきたらよかった、と思った。
 あの時計を壊したのは初めてのことではない。一度死ぬ少し前にも、岩にぶつけたか何かで盤面のガラスにひびを走らせて修理に出していたのである。それが逆に幸いして、兄との闘いの時もっていけずに妻の手元に残って、宇宙から戻った後も今日まで使い続けてこれたのだが。あの時カメハウスに持っていった家の鍵はどこかに行ってしまったし。
 …やっぱり怒らせたなあ、と溜息を付く。
 張り飛ばされはしたもののこんな程度のこと宇宙から帰ってくる前は割とあったことだし別にもうこちらは怒ってなどはいない。でもまあ、こんなさま息子に見られなくてすんだし先に戻ってきてよかった、と悟空は道着をまとめて絞りながら少し安堵した。別にピッコロと張り合ってるというわけじゃないけれど、多少は師匠らしくしなければ、とは思っているのだ。
 ぱんぱん、とシワを伸ばして、風呂場のドアの手すりにかけておく。昔道着が重かった頃はシャツと靴とリストバンドの洗濯は悟空自身でさせられていたが、今はそうでなくなってこうして洗うのも大層久しぶりだ。神殿で修行していたころもそうだった。神殿か。あのつらい思い出のある部屋にはなるべく入りたくないものだが、いよいよ厳しいとなったらそういうことも考えておかなければならないのかもしれない。

  さっきまで修行していたためにまだ修行モードの頭でいろいろと考えながら自分ももう一度ちゃんとシャワーを浴びていると、風呂場のドアの外から声がかかった。
 「悟空さ、替えの道着置いとくだぞ」
 「お、サンキュ」上から落ちかかる湯からはずれて、悟空はすすいで立てかけてあった靴をつまみ上げ、かけてあった道着を取って扉を開けた。「これ洗ったから干しといてくれよ、靴の替えあるか」
 ん、と白い腕が伸びてきて一式を受け取った。素っ裸の悟空は、あれ、と思った。いつもなら(さんざん見慣れてるものなのに)前くらい隠せとか言いながら赤くなって目をそらしつつ遣り取りをするものなのに、なにか奇妙なものを見るようにまじまじと妻は悟空の顔を見ている。発情してるのかといえばそういう風でもない。悟空が首を傾げると急に呪縛を解かれたようになって、いつもの様に顔をそらしぱたぱたと行ってしまった。

  なんなんだろう、と思いつつ風呂を上がって、下着一丁で冷蔵庫から出した牛乳を飲んでいると、寝室の勝手口から裏に道着を干してきたのだろう妻が戻ってきた。手に青いバケツを吊るして。見ていると雑巾を絞って、じゅうたんにさっき付けた悟空の足跡を丸めた雑巾でとんとんと叩き始めた。
 「わ…わりかったな、チチ。手伝おっか」
 「いい」妻は悟空の方も見ず四つん這いになってしつこく叩き続けている。「悟空さは早いとこ修行に行けばいいだ。悟飯ちゃんもピッコロも待ってんだべ」
 嘘つけ、と悟空はその硬い声に思った。どうやら師匠やクリリンたちは妻のことを相当いつも怒ってばかりいると思っているらしいのだが、それはいろいろ機嫌の悪い時に運悪く付き合ってしまったからというべきであって、基本的にはいつもニコニコと気立てのいい女なのである。面倒だ面倒だと言いながらも笑顔で毎日家事雑用に楽しそうに勤しんでいる。悟空はそういう妻の笑顔が好きだった。だからそうでない時にはなんだか機嫌がよろしくない、と鈍い悟空にだってわかるのだ。すぐさまピンとくるとはいかずすぐ機嫌を取るというわけでもないのがいまいちだったが。
 「時計のコト頼むぞ」
 「…」妻は相変わらずとんとんとじゅうたんを叩いている。
 「鎖んとこもなおしといてな」せめてこれ以上怒らせるまいと飲み終えたコップをちょっと水ですすいでやってシンクに置いたところで、妻が不意に言った。
 「…もう、あの時計持ってかねえでいいんでねえか、そんな壊すなら」
 えっ、と悟空は振り返った。妻はこちらに背を向けたまま、青いバケツに雑巾を浸して洗い始め、ぎり、と雑巾が絞られた。茶色じみた水がぽたぽたと妻の指の間を流れていく。こちらが風呂に入ってる間に巻いたのだろう左手の絆創膏に、血が薄く水と混じって滲んでいる。
 「修行で懐に入れといたら、壊しゃしねえかと思って邪魔になるだろ。だったらもう持ってかねえ方がいいべ」
 「そ…それはそうかもしれねえけど」
 実際そうだった。自分ひとりで修行してた頃はよかったが、今は組手やらの相手がいる。気功波などくらったりしたら壊してしまうかもしれないからそういう時は腰からはずしてその辺に弁当とともにおいておく。お陰で度々忘れそうになってその都度息子に指摘されていた。そのうちしまいに失くしてしまうかもしれない。そうなるくらいならまだうちに置いてたほうがマシというものだろう。
 妻がしゃがんだまま向き直って笑顔を作って見上げてきた。「な。だからあの時計はもういいべよ。早く道着着て、修行また頑張ってきてけろ。おらも今日はこれから衣替えの準備頑張るから」
 「う…うん」
 おう!などとのんきに返せなかったのは、なんだか気味悪かったからだ。妻が『修行を頑張れ』などと悟空に向かってあまり言ったことがないからである。そりゃ働いて欲しいと言ってるのだからその阻害要因である修行を頑張れと言うのもおかしな話だし、宇宙から帰ってきて息子を修行に連れ出すようになってからは特に最初の3ヶ月位はいやいや送り出しているのが明らかで、こちらも出かける時に億劫だったのだ。それがどういう風の吹き回しだろう。でも、床もだいぶすり減ってきただなあ、などとフローリングの木目をなぞっている妻は妙に明るいふうだ。とりあえずいつもの、ま、いっかと思うことにして、悟空はそのまま道着を着て、帰ってきたのと同じく瞬間移動でまた修行場に出かけていった。妻の、気をつけてな、という声を途中まで聞きながら。

 


 「どうかしたの、お母さんは。また喧嘩したの?」
 翌日、修行が休みなので一家で買い物に来たデパートのエスカレーター周りに設えられたベンチで、Tシャツに半ズボン姿の息子がソフトクリームを舐めながら隣に立った悟空を見上げてきた。カーゴパンツに道着のシャツと半袖シャツの重ね着といった格好の悟空は同じようにソフトクリームを舐めながらさあ、と答えた。
 最上階まで吹き抜けになったホールのいちばんてっぺんから曇りガラス越しに漏れ入ってくる初夏の光は、店内の『サマーセール』などという装飾も相俟って、もうすぐにでも楽しげな夏がやって来るといった風だ。だが悟空の心にはなんだか余分な梅雨の忘れ雲がポツリと浮いてるような気持ちだった。

  「だってなんだかお母さん昨日から変じゃない。じっとお父さんのこと見て」
 息子が指摘するとおりである。昨日また修行に行って帰ってきた後も、夕食の時でも、風呂あがりでも、翌朝起きてからでも、妻は気づくとじっとこちらのことを観察しているようだ。なんだ、と聞くと、なんでもない、とニコリと首を振る。でもやはり気づくと見られているのだ。別に昨日のことを怒っている風でも、なにか言いたいことがあるという風でもないのが余計気味が悪い。

  ここは女性衣料のフロアで、妻は今ひとりで自分の夏物を買いに行っている。悟空と息子の夏物はとうに買ってしまっていて男二人は手持ち無沙汰だった。買ってもらった本も読みきってしまって、息子も暇を持て余している。だからか息子はいつになく絡んで釘を差してきた。「ボク前みたいにお父さんたち喧嘩するのやだからね」
 もう8つになって息子も結構フクザツになってきた、と悟空はそらっとぼけてコーンの最後の切れっ端を口に放り込みながら思った。夫婦間の肚の内を子供につつかれるというのはなかなかこっ恥ずかしい。
  とりあえずあの時計がきっかけであろうというのはわかる。でも本当に今回は何を考えてるかわからないのだ。怒られないんだから別にいつものように『ま、いっか』と思えばいいのだが、日頃がわりと考えがわかりやすい女であるだけに、何考えてんだかわからない、という今の状況は、息子が言うところの『前』…悟空が宇宙から帰ってきた後しばらく最悪に怒らせて余計なコンタクトを拒絶されていたあの頃…を思い起こさせてなんだか落ち着かなかった。

 「あ、戻ってきた」
 「あーあ、またあんなに買っちまって。あとは食いもんか」

 

 

 「じゃあそこで車降ろして、お父さん」
 「おう」
 「帰りはほんとに一人で大丈夫だか」
 「うん、飛んで帰るから」
 「人目につかねえようにするだぞ。あんまり遅くならねえようにな」
 週に一度休みの日に息子はこの図書館に来て、本を何冊か借りてくるのが常だ。返す分の本を入れた、昔ピアノの稽古用に使っていた大きめの手提げを持って、息子は後部席を出てポプラの木の植わった玄関へと走っていった。修行が終わって帰ってきてからも少しの暇を見つけては自分から読書をしたり勉強をしたりしているが、そういう息子を見ると、鍛えてやれるのは嬉しいとはいえ、やはり好きなことをさせているのではない分自分のほうがひどいのではないかと悟空も思わないではない。
 悟空はウィンカーを出して、免許を取ってもう一年になりだいぶん運転も慣れてきたエアカーをまた道路にすべらせた。半袖のベージュ色に縦縞の入ったちょっとよそゆきの旗袍姿の妻は、助手席で、さっきデパートの後で寄ったドラッグストアの安売りでまとめ買いした包帯を弄んでいる。時刻は3時過ぎ、5月半ばの眩しい日差しが傾いてフロントガラスから目を打ってくる。悟空は目庇を下ろして、目をこすった。昼寝にはもってこいの天気なだけに、うとうとと眠気が忍び込んできている。気をつけなければ。

  信号待ちで眠気覚ましにこめかみを押したりしていると、悟空は脇からの視線に気づいた。また見ている。やっぱり妻が見ている。上目遣いでこちらを。
 「なんだよ」
 「ううん。頭でも…痛いだか?」
 「眠いだけだけど」
 「…んだか」

  次に止まった、家の方への山道に入っていく信号でも、ちょっと袋から菓子をつまみ食いして喉につまらせて胸を叩いたら、いつものように『なにしてるんだべか、まったくしょうがねえだな』と言うのではなくて妙に怯えたような目でこちらをじっと見てくる。

  「なんだってんだよ」
 さすがののんきな悟空もいい加減イラッと来はじめた。『前』の時にしこたま学んだのだが、こういう場合『ま、いっか』とか気取って放置してないで聞いた方が後々にはいいのである。妻は真っ赤になってこちらを見返してきた。あ、強く言い過ぎたかなと悟空が内心狼狽しながら青信号で発車させると、妻が細い声で聞いてきた。

  「悟空さ、胸苦しくとかないんだか」
 「へ?」
 「お薬は持ってきてるから、なんかあったら言うだぞ」

  それきり黙ってしまったので、はて、と悟空は考え込んだ。薬とはなんの薬だろう。そりゃ詰まらせたし多少は胸も苦しいけど…

  あ。

  「わかった、ちょっと休憩すっかなー、まだちょっと苦しいし」
 山道の途中の、ちょっとした展望台になっているところがちょうどすぐ先にあったので、そちらにハンドルを切った。妻はびくっと明らかに心配そうな顔になったが、悟空はにやりと笑ってやった。「大丈夫、ちょっと飲み物でも飲めばおさまるさ」

 

 

 見晴らしの良い展望台で、夫婦は手すりに凭れながら並んで自販機で買った烏龍茶を飲んだ。ちょっとしたサイクリングコースにもなっているのだが、今は二人の他に人影もなく、はやぶさが青々とした新緑の山の上を巡るばかりだ。よく晴れた空の下にたゆたうように広がる山並みには、今しも通ってきた道路の先がうねうねと続き、悟空の家のある北の方へ進んでゆくのが見えた。
 最近は空をゆくばかりで忘れかけていたが、車にのるようになると道というものがいかに大事なものかわかる。それを切り開いてきた人の苦労を思う。昔道路工事をともにした人たちは今もどこかで、道を開いて、道を整えているだろうか。

  「チチ、薬よこせよ」
 悟空は隣で無理にそっぽを向いて茶をすすっている妻に向かって右手を出した。 
 「…だって、大丈夫なんだべ?」
 「いいから、よこせって」

  妻が、ポケットから差し出したのは、小さな小さな例の遮光瓶だった。宇宙から帰ってきた時に、未来から来たトランクスにもらった、心臓病の薬。


 「やっぱし。おめえオラが心臓病なんじゃないかとか思ってたんだな。なんでまた。オラ別にしんどいともなんとも言ってなかったじゃねえか」
 カラカラと笑うと、妻は顔を覆って真っ赤になった。「あー、もう、言わねえで!おらの単なる思い込みなんだからっ」
 恥ずかしがるのをようよう聞いたところによると、要するに、あの時計がまた壊れたことで、またこちらの身に何かあるのではないか、と思い込んでしまったそうなのだ。前に壊れたのが、一度死ぬのの少し前だったものだから。でもそれを口にすると何言ってんだと一笑に付されるのが本人にもわかっていたので、素知らぬ顔を作ってそれでもじーっとこちらの体調に異変はないかと見張っていたというわけだ。

  「もうあと一年だってのに、未だに心臓病にもなんにもならねえじゃねえだか。で、今なにかあるんだったら、やっぱそっちなのかなー、って…もー、おら無駄に神経すり減らしただ!悟空さ死ぬのやだもん!心臓病でなくても闘いで殺されるくらいなら、そうならないために修行頑張れくらいいくらでも言ってやるだ、なんて血迷って…」 

  悟空は笑って、妻のお団子頭を隣からなでてやりながら、やっぱり『前』のように心を読んだりしなくてよかったな、とちょっと思った。いっそよっぽどそうしてやろうと思ったのだが、言葉にして通じ合うほうがよっぽどいい。わかりたい、わかってもらいたい。そう思って、案じあいながら探って探られて。そうして得たものは、生の心を覗いて得る刃のような感触より、もっと、面取りをされて、暖かく、手触りが良い。

 「これはオラが持っとく。ちゃんと、自分で分かる場所にしまっといて、なんかあったらすぐ飲むからさ。心配すんな」
 「…んだか?」
 「でも今元気だぞ、オラ。あー、わかってすっきりした。なんか今すぐ、空飛んでどっか遊びに行きてえ気分だ」
 空き缶を渡して伸びをすると、同様に少しスッキリした顔の妻が微笑んで、ゴミ箱へ長い裾を翻して歩き始めた。五月の風が、光が、さっと夫婦の間を払っていった。
 「そ。じゃ、行ってらっしゃい。あ、車の鍵だけ寄こしてけれよ」

 ちょっと空に浮かびかけた悟空ではあったが、振り返ってその微笑みを見て、駆け寄ってきて伸ばしてくる白い腕を見て、結局、そっとアスファルトに淡いグレーのスニーカーを着地させて、腕を広げた。今はもう、空を共には飛べなくなってしまった、かわいい妻に。

 

 ま、いっか。
 空なんていつでも飛べるしさ。

 

 それよりは、今は、同じ目の高さで、同じものを見て、
 一緒に、少しずつでも、このように道を拓いて、
 一緒に、この地球の上に立っていたいんだ。





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