このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ござ いません。
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sound3(前編)

 



 普段夢はあまり見ない。でも、その朝は珍しく夢を見た。ゆうべ祖父が寝付く時に話してくれていた、妖怪の夢だ。
 一本足の山の精、または山鬼(シャングイ)と呼ばれるそれは、虎に乗ってあちこちいたずら歩きをする。よい子にしていないと、山鬼が虎に乗ってやってきて、頭っからぱくぱくと食べてしまうのだ、と祖父はおどろおどろしい顔をつくっておどけていた。

 虎はとってもおっかない。少なくともまだ4つの悟空にとってはそうだった。でも山道でたまに見かけるその毛並みはとってもつややかで強そうで格好よいなと思っていたから、寝床にもぐりこんで布団をかぶりながらも、ちょっぴり山鬼が羨ましかった。千里を行き千里を帰るという虎の足なら、どこまで行けるだろう?この山のてっぺんだって、山の果てだって、どこだって遊びにいけるに違いない。
 だから、昨夜はそういう夢を見た。虎に乗って、山をいくつも越えて、遠くに遊びに行く夢を。だけど、あ、山の果てだ。そう思ったところで虎から振り落とされて目が覚めてしまって、山の果てがどうなっていたのかは全然わからなかった。

 

 自分を夢の中で振り落とした虎は、どうやら今しがた起床した祖父の太腿だったようだ。そこに乗っかって眠っていたためにごろりと布団の上に転がされた悟空は、ああだからやけにあったかかったのだな、とぼんやりと夢を反芻した。そうして、ころりとまだ短い手足の反動を使って起き上がり、布団を確認した。よし。怖い話を聞いたあとだからちょっと寝る前不安だったけれど、おねしょはしていない。だってもうこないだ4つになったのだもの。
 夏の始まる頃に悟空はひとつ歳をとる。その時に悟空は『4つといえばもう赤ん坊ではないのだから』と祖父から散々言われた。そうしてお祝いだとかで筆と墨をもらい、字というものを習うようになった。家の漆喰の壁には、祖父が書いた手本と悟空の書いたものが並べて釘で止めつけてある。その紙は金色の朝の夏の日差しに輝いている。悟空は毎朝そうしなさいと祖父に言いつけられているために、その中から覚えている1つを暗誦しようとした。
「ええと」

 昔のえらい人はいいました。一目会っただけで良い人か悪い人かわかるのは相当にえらい人だけですから、あなたたちはそういうことを軽々しく決めてはいけません。

 そういう意味の短い言葉を(それでも途中で壁をちらりと見て…だって覚えにくい言い回しなのだから)まだ幼くよく回らない舌で読み上げたところで、表の井戸から洗面を済ませた祖父がたらいを手に戻ってきて、扉を開き玄関先で差し招いた。
 「悟空や、暗誦は済んだな。さあ、顔を洗いなさい」
 まだ小さい悟空は井戸をあけて水を汲むことを許されていなかったので、毎朝祖父がこうして洗面をさせてくれる。塩砂を先をふさにした小枝でこすりつけて歯を磨き、それでもって口をゆすいでその辺にぺっと吐き出して、顔を拭いて空を仰ぐととっても綺麗な青だった。夏の朝は早い。にょきにょきとたけのこが突き出るように天に伸びた岩山が、赤いような金色なような光に照らされて、ぴかぴかと輝いている。悟空は嬉しくなってにっこりとし、やっぱり夏が好きだなあ、と思った。まださして何回も四季を過ごしたわけではないけれど、やっぱりそう思った。
 「今日はいい天気じゃな」祖父も空を仰いだ。
 「今日もあつくなる?じいちゃん」家の影の中に自分たちは居て今はそんなに暑くなかったが、これからどんどんと蝉も鳴き気温も上がってくるだろう。
 「そうじゃな。…ああ、そうしたら今日は釣りに行こうかの」
 ええ、と悟空は唇を尖らせた。釣りはそれほど好きではなかった。だって魚が逃げるから静かにしていろとか言うし、祖父はじっと竿をもってひとところから動かないし、つまらないのだ。そういうことを言うと祖父はたらいで洗っていた布を絞って、白いひげを持ち上げて笑った。「わかったわかった。じゃあ今日はお前に泳ぎを教えてやろうかな。お昼前になったら出かけるとしよう。釣れたらそれでお昼にして、その後にな」
 「ホント!?」
 「本当じゃとも。さあ、じゃあ朝飯にしようか。悟空や、着替えて裏から薪を持ってきておくれ。昨日の兎を煮よう」
 「うんっ!」

 

 そろそろ太陽が真南にかかるというのに、祖父の竿はぴくりだにしない。うちから程近くの渓流の、亀の形をした岩は祖父のお気に入りの釣り場で、よく肥えた岩魚の獲れる場所なのだけれど、
 「この暑さじゃもの、魚も出かけるのが億劫なのかのう」
祖父はいつもの長袖の上着をはだけて白い袖なしの下着姿で汗を拭い拭いそうこぼす。おかげで取れたのといえば悟空が岩場で待っている間に捕まえた藻屑蟹が数匹と、魚が1匹ばかり。
 「じいちゃん、腹減ったよう」
 「わかったわかった」
 もって来た小鍋に焼いた石を入れ湯を沸かして蟹を茹でると、あかぁく殻が変わる。ちっぽけな蟹だけれど、実が詰まっているし美味だから悟空はこれが好物だった。捕まえる時に指を挟まれて痛い思いをしたけれども、泣いて諦めたりしないで捕まえてよかったと思った。
 「こっちもお食べ、悟空」
 「でもじいちゃんの分だろ、その魚」
 「足りんじゃろうが」
 「はんぶんこしよう」
 山の暮らしは厳しいから、いつも満足なだけ食べられるとは限らない。そういう時祖父はいつも悟空に祖父の分を分けてくれるのだが、悟空にだって自分より身体の大きな祖父が自分より少ない量ですむなんてことないとわかるから、最近はこうしてはんぶんこする。そうすると、祖父がいつも、今みたいに、「良い子じゃのう」と頭を撫でてくれるのがとっても嬉しい。

 みぃん、みぃん、みぃん。蝉が鳴く。汗がたらたらと首を伝う、その感触すら嬉しい。悟空はおひさまが好きだった。どこにいたって、ぎゅっとぬくもりを与えてくれるおひさまが。悟空は親を知らなかった。親を知らないと言うことすらまだこの時点では知らなかった。
 川に下ろしてもらう為に服を脱いで、祖父に抱っこをしてもらう。冷たい渓流の水につけられて思わず尻尾の先までブルブルと震え、震えたことに祖父と2人して笑った。笑い声はかすかなこだまを引いて蝉の声と溶け合っていった。

 みぃん、みぃん。

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 みぃん、みぃん、みぃん。
 「大体悟空さは悟空さ基準で悟飯ちゃんのことを考えすぎなんだべ!」
 とある盛夏の昼下がり、孫家のリビングでは部屋中に蝉の鳴き声が響き渡っている。その喧しい声にも負けぬお説教の声がソファに正座させられた悟空の頭上から降り注いできていた。
 今日の説教のネタは午前中に息子を遊びに連れだしたことである。妻は今日は朝から夏のバーゲンだからというので出かけていたのだが、なんでも最近この地方では子供に『はしか』という病気が流行ってるとかで、仕方なく人ごみに連れ出すのを避けて、昼には帰ってくるから家の中で相手しておいてやれとよくよく言い含めた上で息子を悟空に預けていったのだ。

 
 『これよんで、おとうさん』
 この春の2歳の誕生日に義父がくれた図鑑のセットが息子はお気に入りである。まだ読めない字は多いものの、気づけば結構重いだろう本を自分で広げてきてしょっちゅう食い入るように眺めている。特にいきものが好きなようで、今朝妻を玄関先で見送った後悟空が家の中を振り向くと虫の巻を重そうに抱えてよたよたと寄ってきたのだった。
 『これは?』
 『アオスジアゲハ、だとさ』
 『ぼくこれなんかいもはたけでみたよ。あおくてみどりできれいなの』
 そうか、と悟空はあくびを噛み殺しながら膝の上の息子に乞われるまま分厚いページを繰る。結婚してから「普通の暮らし」に飽きもせず憧れる妻に付き合って、いわゆる世間様の言うところの日曜は修行も休みにすることが多いので昨夜は妻と夜更かししたのだった。寝かしつける際には妻が物語の絵本を読んでやるのが常なのだが、こういう事典を見るときは息子は悟空にこうして頼むことが多い。

 『ああ、このオレンジ色のちょうちょ、そういう名前なんか。これな、父ちゃんが昔南の方で修行してる時に見たぞ。すごい群れでな。朝日が眩しい中でわーっと後ろから向こうの島目指して父ちゃんが走るの追い越して飛んでったけど、すげえ見事なもんだったぞ』

 おとうさん、すごおい!
 こうした解説とも体験談ともつかぬものを付け加えてやって、息子のいかにも嬉しそうな尊敬の眼差しを浴びるのは悟空としてもやぶさかではない。これ読んで、これなあに。息子は今本を読みながら発するそのような問を毎日飽きもせず妻や自分に何度も何度もぶつけてくる。時には多少うるさく感じることもあるけれど、息子のこうしたキラキラした表情を見るのは親として嬉しかった。

 そういや、自分も昔はこんな時期もあったなあ。とっても小さい頃、ブルマと旅に出た頃。この子の世界は今、自分のあの頃のように広がるばかりだ。
 ふと、悟空の鼻腔の奥に、あの頃いっぱいに感じていた夏草とどこか焦げ臭いような炎暑の大気の薫りがふわりと蘇った気がした。窓の外を見る。葉櫻の下の影は夏の日差しを受けてくろぐろとして、肌を灼くあの心地良い太陽の熱を思わせ、悟空に向かっておいでおいでと手招きをした。
 途端この日まだおもてに出ていなかった悟空は外に飛び出したくて仕方が無くなった。日の神に恋焦がれて花と化してまで太陽の姿を追いかけると言われるひまわりの花のように。
 『なあ、悟飯、セミ取りに行かねえか。よっく集まる木知ってんだ』

 

 収穫は3匹と上々だった。しかし帽子も水筒も何にもなしで山の中を連れ回すのは2歳児にはちょっとばかりきつかったようで、もう歩けないとべそをかき出したのを慌てて抱えて筋斗雲で家に帰ってきたところを、玄関で仁王立ちになって待っていた妻にさんざん怒鳴られたのだった。
息子はすっかりのぼせたのか赤い顔をして、水分補給をさせられた後今は子供部屋で横になっている。

 みぃん、みぃん、みぃん。
 「うるせえだなぁ」
 怒り疲れた妻が肩で息をしながら苦言を呈した。さっきまで虫かごの主たちに張り合って大声で悟空に説教しまくっていたのだがさすがに根負けしたらしい。
 「ちょっと逃してきてけれよ、悟空さ」
 「えー」
 「捕ってきたところで家ん中で飼う訳にも行かねえべ、こんなの。前に悟空さ捕ってきたカブトムシやらかたつむりならともかく。何なら」台所の窓から見える葉桜を目線で指して妻は続けた。「あの桜に住んでもらおうとか悟飯ちゃんに言ってそこにとまらせてやればええんだ。そうだ、そうすんべ。ちょっとあの子に聞いてくるだ」

 妻が一人でちゃっちゃと決めて子供部屋に行くのを見送って、やっと一息ついた悟空はカラカラだった喉を潤すために冷蔵庫から麦茶を出してグラスにコポコポと注いだ。何食わぬ顔ではあったが悟空はそれなりに反省していた。息子があんなに急にぐったりとしてしまうとは思っていなかったのである。
 赤ん坊の頃なら抱っこしてゆするくらいで済んでいたのでまだ被害はなかったのだが、ハイハイからつかまり立ちになり、1歳手前で歩くことを覚え家の中を走り回るようになり、あやし方も成長に連れて振り回すなど過激になってきたものだから、妻の言うところの「悟空さ基準で考えて」の上での失敗がたまに起こるようになってきてしまった。勢いをつけすぎたり、力加減を誤って強く掴み過ぎたり。ひどい怪我をしないのが不幸中の幸いだったが、正直言って悟空は2歳児をどう扱ったものか最近持て余し気味だった。
 抱っこして運ぼうとしたら妻にはもう赤ん坊ではないのだからなるべく歩かせろと言われる。しかし歩くのに付き合ったらまだおぼつかない足取りにそれこそ日が暮れるのではないかと思ってしまうしヒヤヒヤして神経が磨り減りそうだ。素直ないい子だとは思うのだが妙に頭が回るところがあって、なんだか難しい顔をしながら本をじっと見ているところなど我が子ながら何を考えているかわからないところがある。
 自分と妻からならもっと世間様的に言うところの体育会系な子供ができると思っていたのになあ、と悟空は麦茶を乾したあとの青いグラスを置いた。そういえば妻はどうしたのだろう。見に行ったっきり子供部屋から帰ってきやしない。また息子が逃すのは嫌だとか駄々をこねているのではないか。

 足を向けようとした瞬間、妻が青い顔をしてドアを開けて駆け出してきた。「どいてけろ悟空さ!」
思わず後ずさった彼を押しのけて妻が冷凍庫を開けて氷をガラガラと取り出そうとした。出そうとして慌てて踵を返してリビングの戸棚を開けて茶色いゴムで出来た氷枕を引っ張り出してきた。また氷をガラガラやってぼとぼとと中に入れていく。気圧されてその様子を見ていた悟空はようよう聞いた。
 「ど、どうしたんだよ。そんな泣きそうな顔しちまって」
 「熱」
 「へ?」
 「悟飯ちゃんが熱を出しただ!言い聞かせてる途中で急にクタッとしたからびっくりしておでこ触ったら結構高い熱だべ!さっきまでは単なるのぼせと思ってたのに!」
 言い終わるか終わらないかのうちに氷枕を整えてまた妻はすごい勢いで子供部屋に戻っていった。悟空もおそるおそる開きっぱなしのドアから中を覗いてみた。夜はまだ怖いとか言って3人で川の字に夫婦の寝室に寝てるのだが、義父がいろいろ買い与える本やらおもちゃやらは隣のこの部屋においてあって、お昼寝は床にマットと布団を引いていつもこちらでしている。苦しくはないか、喉は痛くはないかなどオロオロと聞く妻のお団子頭の向こうに、真っ赤な顔でぐったりしている息子の小さな頭が見えた。
 「大丈夫か、悟飯。父ちゃんが無理させちまったな、ゴメンな」
 そう悟空が言うと息子は健気にも細い首を振ってかすかに頭をふるふるとさせた。促されて悟空は先に子供部屋を出た。部屋の棚の緑の蓋の水槽の中で、カブトムシのつがいが窓越しの夏の日差しを受けて何も知らない風にカサカサと動いている。妻の手がカーテンをひいて、黒い羽は影の中に沈み込んでいった。

 

 しばらく飲み物をやったりやらなにやらでウロウロしていた妻だったが、小一時間後にやっと台所の椅子に落ち着いて深いため息を付いた。シャワーを浴びて、どうもこれは昼飯をねだれる雰囲気ではないと察した悟空は先に勝手に卓上のかごからりんごやらなにやらを食べていたところだった。逃しそこねたセミがまだ籠の中でみんみんとやかましく鳴いていたが妻はもう反応する余裕も無いようだった。
 「はしかかもしれねえだ…悟空さははしかやったことあるだか」
 顔を覆った白い手の向こうから細い低い声がした。
 「はしか?なんだそれ?」
 一瞬そんなことも知らないのか、と言いたげな顔を指の間から見せた妻だったが、分厚い家庭の医学みたいな本をめくって、辛抱強く悟空にはしかとはなんぞやということを説明してくれた。こどもがよくかかる病気で、高い熱が出て途中から全身に赤い発疹ができること。1週間は熱が続くこと。下手に解熱剤を飲ませればより危ないことになること、昔はよくこれで死人が出たような怖い病気であること。
 「とにかく明日まで様子を見て、お医者に連れて行かねば。悟空さがかかった覚えがないなら、伝染る可能性もあるだ。おとなになってからかかると重くなる可能性があるそうだから、あんまり悟飯には近寄らねえでけろ」
 そんな大変な病なのか、と悟空は真っ青になった。自分のことはいいが、それより、
 「おめえは大丈夫なのかよ」
 「おらは昔予防注射をやったからそうそう伝染らねえはずだ。でも悟空さはそんなもんやってねえんだろ。おたふく風邪も風疹もみずぼうそうもなんも覚えがねえんだべ、今の話だと」
 物心ついてからたまに腹痛やらで1日そこら寝込んだことはあるが、そんな数日も高熱出して寝込んだ覚えなど(養祖父が死んだ時ショックで寝込んだのは別にして)全くない。健康優良児は結構だったが、言い換えれば普通の人間なら集団生活で得るはずの免疫に無縁で育ってしまったのである。妻はまたため息を付いた。この人の養祖父が健在であったならどうだったか聞けたものを。
 心配気な夫の眼差しに気づいて妻は顔を上げた。一番に息子のことを心配して欲しいところだったが、夫がいつも最初に心配してしまうのは彼女のことなのだった。「ゴメンな、悟空さ、おら大丈夫。昼飯は何にするべ」
 「いい」
 「は?」
 「メシはオラの分はいい。1週間位自分でなんとかする。オラのメシの支度に構うくらいなら」悟空はそっぽを向いて言った。「悟飯にかまってやれよ」

 もちろんやせ我慢である。さっき散々父親失格だなどとなじられたのをこっそり根に持っていたのだった。ちょっと『そんな事言わねえで、悟空さ、おらが悪かっただ、ちゃんと作ってあげるから』とか言われるのを期待していたのだが、
「悟空さ、ありがと!助かるだ!」
という満面の笑みで返されてしまった。しまった、と思ったのだが妻の安心した顔が可愛らしくこちらもほっとしたので、ま、いいかと思うことにしてやった。だがこれで明日医者の診断が本当に『はしか』であると下れば一週間は飯抜き確定となってしまう。

 

 結果は果たしてそうだった。それから3日ばかりが過ぎたが、悟空はたまに子供部屋に様子は見に行くものの、同じ部屋にいても伝染る可能性が高いということでドアから向こうには入れてもらえなかった。仕方がないのでたまに修行の合間に窓の外から様子を見守ったり、度々舞空術で天窓まで行って覗きこんだりもした。天井から見下ろす人影に気づいた妻に大層びっくりされて叱られてやめてしまったが。
 息子の熱は高いままらしく可哀想だ可哀想だと妻は悟空の顔を見る度繰り返したが、無論悟空に何ができるわけでもない。妻がつわりで寝込んでいた時のもどかしい状態再来である。
 もちろん妻は息子につきっきりだった。つきっきりなので妻経由で悟空に伝染るかもしれないというのであまり傍にも寄らせてもらえない。言わずもがな夜だって一緒には寝てくれやしない。久々の一人寝の寂しさを熱帯夜の中噛み締めながら悟空もそれなりに眠れぬ夜を過ごしていた。

 4日目の朝に、息子の口の中に炎症ができた、と、一日のうちで唯一作ってくれる朝食をよそってくれながら妻が疲れ気味に言った。これができると一旦熱は引くものの、その後また高熱はでるわ発疹は出るわでもっと辛いことになるのだという。
 「悟空さ、おっとうのところに避難してもええんだよ」
 なんだと、と悟空は珍しく渋い顔をした。買い物くらいは役に立てるかもしれないと思って不便を承知で家にいてやっているというのになんだそれは。しかしもう母子の食べる分の買い物はこの際宅配サービスを一時的に頼んたから心配をするなと妻は言う。そんなもの今更用意するくらいなら最初からしてくれればよかったのに、と彼は思った。そんならお使いとか気にせずその分修行に打ち込めたものを。

 わかったよ、と仏頂面で箸を置いた。「そのほうがおめえも楽だろうさ」
 「あと一週間くれえだから」妻が悲しそうな、でもどこか安堵した顔で言った。「下着とか持ってくだぞ。おっとうにはよく電話で言っとくからな。伝染ってるかもしれないから熱でたらちゃんとあっちでお医者に診てもらってけれよ」

 それで悟空は寝室に向かった。夏の朝の日差しがここのところ満足に整えて無くてくたびれた寝台のシーツを白く浮かび上がらせている。
クローゼットを開けて下着を幾揃いか取り出し、道着の替えもと探っていると、最近修行でも使ってなかった如意棒が目に止まった。どうせなら連れてってやろう。引っ張ると紐の端にひっかかっていた何かがクローゼットの板床に落っこちて大きめの音をたてた。
 四つん這いになって探ると手のひらに金属の感触がある。取り出してみるとそれは銀色のボディに緑色の液晶をはめ込んだ時計のような物体だった。

 「ああ、ここにあったのか…」

 そのドラゴンレーダーは昔の武道会でクリリンが死んだ際にブルマから奪い取るように借りたものだった。カリン塔で超神水を飲んだあとに置き忘れてそのままだったのを、新婚の頃に引き取ってきて仕舞いこんだままにしてたのである。
 あれは結婚したばかり、秋口の妻の誕生日の時だからちょうど今時分の頃だったと思う。あの時は妻がつわりで今の息子と同じように寝込んでいて、どうにも出来ない自分がもどかしくてついドラゴンボールでどうにかしようと思ってしまったのだったっけ。仙猫にあっさりと見破られて諭されて諦めてしまったけれど。

 そうだ、と悟空は思い立った。
 あの時仙猫にそうするかも、と言って保留になっていたこと。
 養祖父の形見の珠を、今こそ探しにでかけようじゃないか!と。

 「行ってきまぁす」
 「もう行くだか。おっとうによろしくな」
 「おうっ」

 妻の見送る声を尻目にドアを駆け出し、それらしく着替えを入れた帆布のかばんを形ばかり肩にかけ、悟空は筋斗雲に飛び乗った。妻にもこの計画は伝えぬまま。
 玄関前の葉桜ではみんみんと、あの後逃してやったやつかは知らねど、セミが声を限りと鳴いている。家の花壇では太い茎のひまわりの花が、昨日の夕立を吸っておひさまのように輝いている。

 悟空は夏が好きだった。そうだ、やはり冒険に出かけるには夏に限る。
 そうとも、家に居ないでいいというなら、どこまでも心の赴くまま好きなところに行ってやろうじゃないか。



(中編に続く)




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