このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 ぐったりとしたヘドロのごとき眠りの闇の中に、それは夢のうたかたの泡のように忍び込んでくる。
 金色の泡は一瞬救いの色を帯びてアオコ色の眠りをかき混ぜる。息苦しい中に紛れ込んだ酸素のように。
 だがそれは見る間に数を増し、勢いを増し、まるで沸騰直前の湯に塩か何かを突然入れた時のように激しく泡立ち、濁ってはいるが温かく安寧なひと時を突き破ろうとする。

 起きろ!
 その叫びに答えて、耳元で夜具を慌てはぐ音がして、ばさりと彼の意識の幕は落とされた。
 「あああん!」




 半ば無意識に寝台に急ぎ起き上がって数秒の後にはあ、と悟空は息をついた。暗い、と言っても天幕の向こう、カーテンの隙間からは青い初夏の未明の色がこ ぼれている。その手前、白い天蓋布の向こうに、白い柔らかなリンネルの寝巻きを肩からはだけた妻の寝乱れた黒髪が見えた。あああん、あああん、と薄いベー ジュの壁紙の寝室中に鳴り響いていた声は唐突にやんで、ぴりぴりとなりかけた彼の頭のどこかが安寧のため息をついた。
 何時だろう、と悟空は妻と同じく寝乱れた、更にぼさぼさの黒髪を無意識に手でなでつけながら後ろを向いて時計を確認した。薄い緑色の蛍光塗料に彩られた数字は4時半過ぎ。
 先に同じように起こされてから3時間と言ったところであろうか。起こした張本人は、今妻の腕の中で一心にその乳を食んでいる。妻の脇から、ぱたりぱたりと機嫌良さそうに茶色の細い尾が揺れているのが見えた。
 悟空はまた息をついて次いで大欠伸をし、のそりと寝台の頭に手をついて身を起こした。まだ寝ぼけた手元が危うく、つい先日初めての結婚記念日だと言うので夫婦で撮らされた写真を倒しそうになって、少しバランスを崩しそうになった。

 「もうちょっと寝ててもええだよ」寝台の縁に腰掛けながら妻が首を回して悟空を見た。その顔はいかにも眠そうで、目の下には鬱血した隈までうっすら浮ん でいて悟空はその言葉をそっくりそのままお返ししてやりたくなったのだが、いや、いい、と寝台から降りた。脇を抜け際にまだまだ、といった張り切りようで 妻の乳房にしゃぶりつき続ける息子の、そのまだ薄い柔らかそうな頭髪を眠いような顔にまぎれてジト目で見た。生まれて、やっとこさ1ヶ月になろうかという 我が子。まだなんにも出来ない、乳を吸い眠ることだけが世界の全ての我が子。妻が全身全霊をかけて、今必死に育てているところの我が子!

 「いっぱい飲めよ、悟飯」
 人差し指でやさしく小さな小さな頭の髪を絡めるようになでてやると、妻が嬉しそうに長いまつげを伏せて、またその白い頬をうっとりと息子に向けた。
 自分は演技がうまくなったものだ、とぼんやり思いながら悟空は寝室を出た。まだ暗い台所に立ち冷蔵庫を開くと、買いだめたスポーツドリンクの1ガロンボ トルを開けて透明なガラスのコップに移し飲んだ。ガラスの向こうに朝の光の気配がだんだん濃くなり、どこからか早起きの鳥の声が聞こえてくる。またぼんや り考える。さて、今日はどこで昼寝をしたものか。







 これが妻と息子が産婦人科から退院してきてから3週間ほどの悟空の朝の日常であった。寝不足、の一語である。何しろ晩方眠ったと思っても2,3時間ごとにあの泣き声で叩き起こされるのであるから、眠気と言うものにあまり強くない悟空にとってはかなり辛い日々だった。
 修行等でかなり集中していれば数日は寝ないでも済むとは経験上わかっていたが、退屈や意に染まないシチュエーションだとすぐ眠気を催してしまう。小さい頃祖父や師匠に勉学を仕込まれるときだって散々居眠りを𠮟られたものだ。

 寝不足って言うんなら結婚と言うものをしたちょうど1年前のこの季節だって大概そうであったが、あれは自分が望んで夜更かししていたのだし、一旦寝てし まったならば妻と二人してゆっくり寝こけていれば済む話だったからまあよかった。几帳面な妻は最初こそ必死に目覚まし時計をかけて抵抗していたのだった が、なし崩し的に朝も昼も晩も肉欲に溺れているうちにだんだんどうでもよくなったらしくしまいには時には朝から甘えてくるようになっていたものだった。… おかげさまでこうして早々にめでたく一子も授かったわけなのだが。
 悟空は悟空なりに、いやむしろ自分でも想像していなかったほどに妻の出産に感動しかつ息子が生まれてきたことを喜んでいたし、それで山3つは向こうとい う結構遠い病院にだってせっせと毎日通って母子の顔を見に行っていたのだが、1週間ほどして妻が大荷物と息子を抱えて義父に伴われてタクシーで家に帰って きて、初めて家で3人で寝起きしてみて面食らった。赤ん坊と言うのはなんてまあよく泣く生き物なのか。病院だと母子同室になる時間もあって悟空だって見舞 いに行った日中にそういう時この息子がぐずる様子など見ていてはいたけれど、こんな、夜だって昼だって全くお構いなしだとは思わなかったのである。

 「じゃあこれ、夕方買って来てけろな」
 昼食後に妻が細い指で差し出したメモを悟空は一瞥して、胴着の帯の内側の隠しにしまい込んだ。病院から帰ってきてから悟空は一応修行には行っていたのだったが、妻がなるべくならと求めるのでこうして昼食時には帰ってきて一緒に飯を食っている。
 5月の後半に差し掛かったところの良い日和だったので、悟空の午前中の居眠りは大変充実したものだった。少し海側に行ったところの山際に滝の落ちるなか なかの人知れぬ景勝があって、この季節若い葉をいっぱいに茂らせようとしている大きな楡の木の陰をこのところのお気に入り昼寝ポイントに定めていた。でも そんな、昼寝をしていることなんておくびにも出さずに昼になったら修行でいい汗をかいたという風をして帰ってくるようにしている。なぜなら妻に悪いなあと いう罪悪感をささやかながら感じているからだ。妻は家に帰ってきてからと言うもの、それこそ寝る間も惜しんで今までにも増してよき妻、よき母であろうと気 負って家事にも育児にも挑んでいる。少し痛々しく思えるほどだ。
 「そういえば」悟空は出掛けに寝室に置いたベビーベッドに寝ている息子の顔を妻と見に行ってから、午前中に妻が窓に引っ掛けていた布団を取り込むために 抱えつつ妻に話しかけた。「さっき帰ってくるときに、隣のばあちゃんと会ったぞ。なんでも一ヶ月になるから村みんなで祝いをしたいしいっぺん電話でもいい からくれって。悟飯つれて遊びに来てもいいけどって」
 「あんれま、ありがてえこと。じゃああとで日光浴かねて遊びに行かせてもらうべか。なー、悟飯ちゃん。…悟空さも行く?」
 「オラはいい。朝サボっちまったから」…ちょっとしまった、という顔をした悟空を妻が怪訝そうに見たが知らんふりをしておいた…「気分転換に行ってこいよ。買い物はちゃんとしてきてやっからよ」





 出て行くときにラジオがちょうど天気予報を流していたのだから聞いていけばよかったものを、いまだに自分の住む地区がどういう名かはっきり把握していな いものだからまあいいやととっとと出かけたのが間違いだった。午後の3時くらいになったらば黒い雲がにわかにわいてきて雨が降りそうな按配になって、悟空 は今日取り組んでいた型の見直しを早々に切り上げて慌てて買い物をして夕暮れと雨雲で暗くなった空の中を筋斗雲で帰ってきた。帰ってきたはいいが誰も家に いない。大方昼に言っていたように息子を連れて隣家に遊びに行っているのだろう。
 買ってきたパックの肉やら魚やら野菜やらを、それなりに手馴れた手つきで冷蔵庫に放り込んでいると台所の外を臨む窓を雨粒が叩き始めた。普段なら空気の 湿気やらニオイやらで雨が降る時は大体3時間くらい前には予想がつくのだが、今日遅れたのはやはり寝不足等で感覚が鈍っているのだろう。よくないな、と台 所の椅子でまたスポーツドリンクを飲みながら悟空は顔を顰めた。


 結婚と言うものをして、こうして普通の家で暮らすようになってからかなり自分はなまってしまった、と悟空は思っている。神殿でだって出されたものを食い 別に狩などはしていなかったけれど、その分必死で己の感覚を研ぎ澄ます修行に明け暮れ、自分は比類なき鋭敏さを得たと自負していた。それが結婚をして女と 言うものに溺れ、彼なりに必死にひとらしい暮らしと言うものを学び、文明と言うものを吸収していくうちに、おのれは鋭敏さを失い凡人に近づいたとふと思う ときがあったのである。初めてそれを自覚したのがいつかはもはや覚えていないが、それは妻と出かけているときであったり、妻の付き添いで産院に行ってよそ の親子というものを見たりしたときであったりした。
 それは彼にとっていささかの惧れを伴うものだった。世界をめぐっていた頃もそうだったけれど、自分には人里というものを心のどこかで懼れているきらいが あって、「あまりかかわりすぎてはいけない」と心の深部では思っている、と悟空はひそかに自覚していた。別に人間と言うものが嫌いなわけではないのだが、 自分はなにか得体の知れない一線の向こうにいる存在なのではないか、と。
 悟空は彼なりにそんな一線を引いている自分はあんまりよろしくないとは心のどこかで思っている。前はそれでもまあいいやと思っていたのだが、そんな風に 思っている自分が、子供を作って、責任のある父親と言うものになろうとしている、いや、なった…なってしまったのである。何より、今恐れているのは…




 「いやあ、ひっでえ雨になってきたべよ。ほうれ、チチさん、悟飯坊、おうちに着いただぞ」
 バン、という扉を閉める音に、ぼんやりしていたので接近に全く気づかなかった悟空はびくっと身を竦ませた。玄関先でばさばさと傘をたたむ音のあとにドア が開かれ、おもむろに隣家の老夫婦が入ってきた。その間には妻と、妻に抱えられて防水っぽい布をかけられた息子が挟まれている。
 「あら、旦那さん。帰ってたべか」老婆が濡れた割烹着の肩を払いながら軽く頭を下げた。悟空も慌ててちょっと頭を下げた。「雨降って来た中赤ん坊さ抱い て傘さして帰ってくるの大変だろうと思ったでね、狭いけどうちのトラックに乗ってきてもらっただよ。でも旦那さん帰ってきてるとわかってたら傘持ってきて もらった方が良かったかもねえ」
 「まあいいでねえか」老爺が歯の少ない口で笑った。「帰ってきたばっかしで一息ついてたとこだったんだろう。おつとめご苦労さんだったべな」
老婆が連れ合いの袖を引いて引かれた側が口ごもった。妻が少し顔を赤くして気まずそうにして、うとうとしていた息子を抱きながらタオルを取りに洗面に向かっていった。「ちょっとかけて待っていてけれ、じっちゃんばっちゃん。お茶でも飲んでいってけろ」
 「ええだええだ、これから晩飯のしたくだべ?お構いなく。婆さんともどももうおいとまするべ」
 「またゆっくり寄せてもらうでね」
 そうだか、と残念そうな声のあと、息子がまた激しく泣き出した。オムツだ、と慌てて寝室にひっこんで行った妻の後姿を2人は見送ったあと、では、と辞去しようとしたのだが、老爺が悟空に向かってちょっとちょっとと手招きをする。なんだと顔を寄せたらこうのたまわれた。
 「すまねえな」
 「何が」さっきのやり取りで何も気づいていなかったのんきな悟空はあっけらかんと聞いた。
 「だから、仕事の」
 「まあまあ」老婆が割ってはいる。それで悟空もやっと言わんとしていることがわかって、ちょっと眉をひそめた。追い討ちのように老婆ははっきりと言う。 「武道もええけど、せっかく立派な体してるんだし、精出して働いて奥さん子供養うのも考えねえとってことだよ、爺さんの言いたいことは。まだ若いけど、人 の親になったのだからねえ」


 「やっと寝たべ」二人が帰っていったあと妻がエプロンをつけながら寝室から出てきた。「ばたばたしてろくにお見送りできなかっただ、悪いことしただなあ…またお礼せねば。悟空さ、ちゃんとお見送りしてくれただか?」
 「ああ」
 「ありがと。でな、今週末にでも村のみんなで、ほら、あの丘の際にある古いおやしろにおらたち三人とお参りして健康を御祈願して、そのあとお祝いの宴会みたいな事しねえべかって。昔っからの村のならわしなんだって…どうかしただか?」
 「別に。メシまだかかるだろ?オラ風呂入ってくる」
 ちょっと妻が冷蔵庫から食材を出す手を止めて悟空を見た。気にしてるだか、と小さくつぶやいたが、それきり何も言わなかったので悟空はそのまま風呂に向かって自分で湯を張って半刻ほど浸かってきた。出るなり寝室から悲鳴のような声がした。
 「ああ!洗濯物のこと忘れてただ!」
 寝巻き代わりにしている薄いジャージのパンツとタンクトップを取りに、腰タオル一丁で寝室に入ると妻が寝ている息子を憚って小声で怒鳴ってきた。「悟空さ降ってくる前に帰ってただか!?なんで取り込んでくれなかっただ!」
 「ああ…わりぃ」悟空は素直にわびた。昼に布団を取り込んだ時に窓の外の物干しに妻が並べていたのであろう洗濯物を見ていたし、筋斗雲で帰ってきたとき にもそういえば目の端にその存在は映っていたのである。それで取り込むことに考えが至らなかったのは全くもって自分のミスである、とそういう殊勝な心持で あった。ところが妻は怒鳴ったくせに、いきなり自らの顔を覆ってうつむいてしまった。
 「ど、どうした」
 「悟空さに怒ってもしかたねえだ。ごめんな。雨降るって天気予報で聞いた気がしてたのに、ほったらかしで遊びに行ったおらが悪いんだ」
 まあそりゃそう言えなくもないが、泣き出したことに狼狽した悟空は慌てて妻の肩を抱き寄せようとした。こんなこと前にだって数度あったけれど、こんない きなり泣き出すほど気に病むことなんて無かったではないか。気にするなって、と暗い部屋の中頭をなでていると当然妙な気になってくるもので、寄せていた身 体どうしの狭間で不埒なものがタオルを持ち上げて頭をもたげ始めた。つい顔を上げさせて唇を重ねようとすると、いや、と妻の小さな声がした。
 「もう1ヶ月たつし、いいんじゃねえのか。…悟飯だって寝てるしよ」それでも悟空は風呂上りの熱に任せて妻の固くしている身体を抱きしめた。すぐ傍の鏡台に映っている自分たちの薄暗い影がなんだか妙に艶かしいと思いつつ。
 「だめ」妻が頭を振る。「だめったらだめだ。なあ、もうあさって一ヶ月検診だから。そん時にお医者様にいいかどうか聞くから。それまで待ってけろってば」
 服のスリットから手を差し込みつつ、鏡台に持たれかけさせてなお囁く。雨の音に負けそうな小さく、熱っぽい声で。
 「いいじゃねえか。痛くしねえって」いつもこういう時、自分で自分に驚嘆する。こんな声が出せるのか、と。「優しくすっからさ」
 「それでもダメ!」いきなり強く胸を押され、思わぬ反撃をくらった悟空はまた一週間前のように愕然とした。もうあれから1週間もたつからいいだろうと思ったし、今なら押し倒せる、と思ったのだ。思わず声を荒げた。

 「チチのケチ!」
 「ケチってなんだべ!言ってるでねえか、お産の時に切った傷口がまだちょっとひきつれるみてえだし、悪露がまだ少し下りてるからしていいかわかんねえって!」
 「じゃあ…じゃあ口で」そこまで言ってあんまり自分の言い草が子供っぽいと気づいて悟空は恥ずかしくなって真っ赤になったのだが、今日は帰ってきてからこっち鬱々としてさら にむしゃくしゃしてたものだから今更抑えも利かなかった。ほら、と、もう思い切って腰に一枚巻いただけのタオルを勢いよくはぎとると、妻が、バカ!と一声 高くわめいて鏡台の下に顔を覆ってずりずりとへたり込んだ。それでピンが外れて、うなじで丸くまとめた髪がばらりとノースリーブの白い肩に零れた。
 その頭を両手で挟むようにすると、妻の赤い唇が妖艶に自分の名を呼んだ。
 「ごくうさの…ばか」

 あああん!
 刹那その甘やかな得も言われぬ妻の声を覆い隠したのはまたしても息子の泣き声だった。さっきの大声のやり取りで起こしてしまったのだ。 素っ裸の悟空は 慌てて妻の頭を離してなんとも言えぬ情けない顔をして、伸ばしかけた舌を慌てて隠した妻としばし眉間に皺を刻みあって睨みあったあとでタオルを拾って足音 高く寝室を出て行った。そして隣室へとひっこんで行った。理由は言わずもがなである。

 2,3時間してちょっとさっぱりした風の悟空は台所で冷めた晩飯をかっくらっていた。あやし終わった妻が来てくれないか、と実は隣室で(あまり見られた くないことをしつつも)待っていたのだったが、洗濯物を取り込んでいる音とそれをまた機械にかけている気配はしたもののその後一向に来やしなかった。それ が悲しいやらそういう風に思う自分が情けないやら恥ずかしいやら自分に腹立たしいやら色んな感情でもうわやくちゃで叫び出したい気持ちにすらなっていたの だが、とりあえずそれを逆流させるかのようにひたすら食べていた。窓の外はまだ雨だ。来月になったらまた去年自分を家に閉じ込めその分妻を求めさせた長雨 の季節が来る。それなのにこんなありさまだったら、自分は本当にどうにかなってしまうのではないのか。やはりまだ、自分は父親になるには早すぎたのではな かったのだろうか。
 食べ終わった後で、それでも気になるので寝静まった風の寝室をそっとのぞくと、ベビーベッドの中で息子が、その向こうの寝台に妻がそっと柔らかな息をつ きながら眠っているのが見えた。しばらくそれを眺めているうちに、雲が切れて天窓から上限から少し丸みを帯びた月がその寝顔を美しく柔らかく天蓋布の向こ うから照らし始めた。

 …それでも、もう捨ててはゆけない。捨てられるはずもない。
 かけがえもない、という言葉は、自分にとってはこの2人のためにあるようなものだ。

 だから…

 悟空はまた隣室に戻っていった。この安寧で優しい眠りを少しでも自分のせいで破りたくなかったのだ。今日はゆっくり自分もあっちで眠って、落ち着いて、余裕を取り戻そうと考えたのだった。



 一夜が明けて、大体息子が生まれる前のいつもどおりに起きた悟空は出来るだけなんでもない顔で隣のいつもの寝室をまたのぞきに行った。そして出来るだけいつもの、『自分らしい』言い草で妻の肩をゆすってみた。
 「チチィ。腹へった。朝飯まだか」
 ところが予想に反して妻は眉をひそめるばかりで呻くだけだ。「どうしたチチ」

 眉間に昨日のあのときより更に深い皺を刻んだ妻がゆっくり目を開けて、次いで腕を目にかざしながらかすれた声で呟いた。
 「…あたまいてえだ」
 「あらら」拍子抜けした悟空は肩を落とした。てっきり昨夜の文句が飛んでくるか、また泣かれると覚悟を決めていたのである。「わかったよ。じゃあ寝てろよ。悟飯は向こうにベッドもってって見とくからよ。オラはあるもん適当に食うし」
 「やだ。そんなわけにいかねえだ」妻は慌てて起き上がろうとした。が、よっぽど頭が痛いのか両のこめかみあたりを抱えて起き上がりながらうずくまってしまった。
 「寝てろって言ってんだろ」
 「でも、悟空さ悟飯ちゃんの面倒見れるだか!?」
 「いいから!何のためにおめえ今までオラに本読ませたり病院で習わせたりしたと思ってんだよ!」
 悟空は妻を寝台に押し倒してそのまま布団を頭っから思いっきりかぶせてやった。ちょっともがもがとその中で足掻いていた妻の身体を布団の上からのしかかって押し付けてやるとそのうち抵抗がやんで、中からすすり泣くような声がした。
 「オラおめえが辛いのはやだからさ。休めよ。ちゃんと見てるし、手に負えなさそうだったら呼ぶから」
 布団越しの身体を離しても、妻はおとなしくそのままちょっとすすり泣いている風だったが、やがて静かになった。悟空はまだ眠っている息子をベッドごと持ち上げると、ドアを開けて寝室を出て行った。





 りんごを数個と、硬く焼き締めたパンを一本丸ごと、ブロックのハムを添えて牛乳で流し込むと言うまあ彼にしてはわりとまともなメニューを朝飯に平らげた 悟空は、使った皿を洗ったあとソファで昨日お使いで買ってきた育児雑誌を真剣に読んで2,3時間ばかりをつぶした。こんなに真剣に本を読んだことはないと 言うくらい真剣に読んだ。思えば妻は身ごもっていたときからこんな風に真剣極まりなく何十冊となく同様の本を読んでいた。それに比べれば自分はいかに無知 であるかと改めて思った。
 それでも結論を言えば、あまりぴりぴりしすぎないようにと言うのが本の大意であったから多少はほっとした。要するにとりあえずはうつぶせに眠らないように気をつけて見てやって、泣いたなら慌てず何を欲してるか探ればいいのであろう。
 と、ほっとしたところで息子が早速ぐずり始めた。ニオイでオムツのほうではないとわかったし、伊達に散々起こされたのではないからこれは腹が減ったのだ ろう、と見当がついたので3日に一度くらいは手伝わされていた悟空は湯の支度をしてそれなりにてきぱきと動いた。自分に似たのか食欲のある子なので、とり あえずこのくらいなら欲しがるだけ飲ませた方がいいと言う病院の方針のもとに母乳に加えて常にミルクも与えていたからである。
 支度が出来るうちは息子は泣き続けていたが、妻は眠っていて気づかないのか寝室から出てくる気配は無かった。ほっとしたが一応これ以上眠りを妨げないよ うにと、悟空はそっと哺乳瓶と息子を抱えて玄関から外に出た。どうせなら軽い日光浴もついでにさせてしまおうと思ったのである。


 この月齢にしてはやけに大きな哺乳瓶から一心にミルクを飲む息子を胸に抱いて、玄関脇の木の下にしつらえた丸木のテーブルセットに腰掛けた悟空は 目を細めて卓に落ちかかる木漏れ日を眺めていた。少し昨日の雨で椅子は湿気ていたし足元は糠ついていたが、とてもいい日和だった。今年はさすがに妻もあま り家の周りの庭にかまっている余裕も無くこの卓の脇に少し植えた花も雑草に埋もれてしまっていたが、かえってその様が美しく悟空には思えた。アザミとカラ スノエンドウの紫。タンポポの黄色、シロツメクサの白。スズメノテッポウがオレンジのしべをつけた穂を実らせていたので、一本身体を伸ばして折り取って、 ぴゅう、と吹いて見せると、最近音に反応するようになった息子が目を丸くした。悟空は笑って、ちゃんと背中を叩いてゲップもさせてやった。
 「いい天気だな、悟飯。もうちょっとだけ、眠くなるまで表にいようか」
 木陰だしさほど今日は暑くもない。のんびりと風が村の田畑を渡っていき、田植えのための土起こしをしているトラクターの音色を運んでくる。息子は腕の中 で、まだ小さい目と耳と鼻で息子なりにちゃんと一生懸命に世界を感じようとしているように悟空は思った。尻尾がゆらゆらと、穏やかに悟空の膝の上で揺れて いる。

 この子はどんな風に世界を見ているのだろう。
 どんなことを思っているのだろう。

 そっと頭をなでる。この子は、自分に似ている、と悟空は思う。尻尾もあるし、顔の造作もどちらかと言えば自分よりだ。でも、これから生きていくためには 中身はあまり自分に似すぎない方がいいのだろうな、とも思う。妻のようにしっかりとしてくれたほうがいいのだろう。あまり気負いすぎる性格にはなってほし くはないけれど。
 自分が世の中から一線隔たっているように感じるのは、と、また悟空は昨日の続きを考えた。…それは何も尻尾があったからというのが全面的な理由ではない けれど、多分それは長くひとりで山家育ちだったからだとかいろんなわけがあるのだろうけれど、この子にはそういうことを感じず生きていって欲しい、そう思 う。そのためにはやはりこのようなものは無い方がいいのかもしれない。病院で医者に言われたように。

 吹くとも無くぴゅいぴゅいと緑の笛を鳴らしていた悟空だが、不意に頭上で同じような声がして、がさりと枝が動いた。膝の上の息子がまだ座らぬ首でそちらを見上げようとした。
 「ああ、鳥が巣を作ったんだな。鳥だぞ、悟飯」
 息子はああ、と声を上げて、そちらに手を伸ばそうとした。
 「ん?見たいか?鳥が好きか?よぅし、ちょっと待ってな」








 チチが目覚めたのは一応昼にかけておいた目覚まし時計のアラームではなく、表から聴こえてくる、鳥にしてはやけに大きく軽やかなさえずりの声のせいだっ た。白い寝巻きでぼんやりと寝台に起き上がった彼女だったが、もうだいぶん頭痛も取れて頭の中もすっきりと晴れていた。ずっとずっと寝不足だった上にゆう べはいろいろなことを考えすぎて頭の中が煮えてしまったのだった。別に熱などは出ていない。とりあえず音の正体を確かめようと窓辺に寄ってその方向を見て みると、玄関先の木の枝先に金色の雲が止まっていて、その上にまだ幼かった、出会った頃の夫の姿が見えた気がして吃驚して目をしばたたいた。
 いや、違う。夫は雲の向こうに自ら浮んでいて半身だけ見えていて、その手前の雲の上に載せられた息子の小さな手足と尻尾が重なって見えているのだ。それが一瞬溶け合ってそのように感じられたのだろう。
 何をしているのだろう。チチは急ぎ上に薄手のカーディガンを羽織って突っかけ履きで表に出た。

 夫は木の枝に向かって口笛を吹いている、というより鳥の鳴くような声音を立てていて、それに惹かれたのか色んな翼の鳥たちが興味深そうにいくらか 離れた枝や少し離れた木々から小首をかしげて父子を見ている。雲に乗せられた息子はその鳥たちに嬉しそうに手足をばたつかせているのだった。


 「…悟空さ」
 遮るのは憚られたが、チチはそっと呼びかけてみた。気づいた鳥たちのいくらかが枝を蹴立てて去っていった。
 「おう。起きたか」
 「うん、もうマシになっただ…何を。悟空さ鳥と喋れただか」
 「喋れはしねえよ」夫は雲と一緒に降りてきつつ笑った。「鳴きまねだよ。昔じいちゃんとよくやってたから。うまくやればああいう風に鳥が寄ってくるからさ。悟飯が鳥好きみたいだから」
 一年も一緒にいるのにそんなの初めて見た。すごい、と感心すると、夫は照れ隠しのように、雲に横たわらせた息子をなでた。柔らかな雲に載せられて気持ちが良いのか、息子はうとうととしだしている。
 「もういっそこのまま家の中に入れて寝かしちまおうか。初めて筋斗雲に載せたけど、気に入ったみてえだしよ」
 うん、と頷いて、改めてチチは夫をしげしげと見た。あの少年が、と今更ながらに思った。幼かった自分の前にあらわれた、尻尾を持つ不思議な少年。雲に乗れる不思議な少年。いつかこの夫似の息子もあのようになるのだろうか。そう考えるとそれはなかなか素敵な気がした。
 だんまりと顔を見るだけのこちらに心配になったのか、夫が言った。木漏れ日に照らされながら。

 「おめえみてえにうまくはやれなかったかも知れねえけど、ちゃんとやったぞ」
 卓の上にある空の哺乳瓶のガラスがきらきらと5月の日差しに揺れている。
 「だから、もちっと頼れよな。そんな、頭痛くなっちまう前に」

 また、うん、と同じ木漏れ日に頬を染めながら頷いて、チチはそっと笑った。出産からこっち、この人が自分たち母子に対して気を遣いすぎているのはわかっ ていた。この人はこの人なりに父親としてこの子に必死に関わろうとしていたのも十分わかっていた。そのせいで、余計なことを考えすぎているだろうことも。 とっても、とっても真面目で、優しい人なのだから。
 そんな似合わないような思いをさせたくなくって、できるだけ自分だけで面倒ごとがすむなら、と抱え込みすぎようとしたのが間違いだったのだ。




 「医者に言われたけど、切るなら早いうちにって。どうする」おもむろに夫がまた口を開いた。どこかよそを向いて、まだ細い茶色の一条をそっと触りながら。
 「ああ、悟空さにも言ってたんだか、先生は…いいんじゃねえだか、別に。このままでも。大きくなって、本人が嫌に思って切りたいと言ったらその時考えればいいべ。この子の判断することだよ。明日検診の時にちゃんとおら先生に言うだ」
 「そっか」
 「いいじゃねえべか、可愛くて。おらこの子の尻尾好きだべ」にっこりと笑って、チチは丸木椅子に腰掛けた夫にもたれかかった。夫がその腰に頬を寄せて、少し安堵したような息をついたのを聞いた。

 医者にはできれば続けて調べさせてもらいたいとも言われた。それはもう断ってある。それに昨日はじめておとなりさんに息子を見せて、少し奇異の目で見られたことも事実だ。近々村のものに見せたときもそういう反応はあるだろう。
 でも、心根がまっすぐ育てば、そのように親がちゃんとした愛情を持って育てれば、どんな目で世間から見られようが子供は乗り越えていけると彼女は思う。 彼女は信じている。何よりそれは、自分自身の生い立ちが証明していることだからだ。そして、この夫も証明して、強く生きているではないか。

 武術をさせることは考えたくは無かった。それは見習ってほしくは無いと思っている。あんな命がけのことをするようには。でも、彼女はこの子が夫に似てくれれば、と思う。このようなおおらかな優しさを。鷹揚な、この空のような広い澄んだ心を。





 
 遠くからおおい、という声がして見れば、お隣さんが向こうの畑のトラクターの上から手を振っている。気づいた夫が、昨日のことなど気にしてない風に屈託 無く大きく手を振った。チチも、白い袖を翻して大きく振った。そして、夫婦で目を見交わして笑った。木陰の金色の雲の上で、息子が小さなこぶしを作って 眠っている。


 5月の青い空の高みで、鳶が優雅に鳴き風に舞っていた。力強くその翼を広げて。 
 









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