このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 青い、青い一面の5月の空が広がっていた。周りは一面の茫漠とした大地だった。
 今しがた空のかなたに飛び去っていった雲の金色のが薄れるまで、その場には興奮したはしゃぎ声や、嫉妬めいた声があがりつづけていた。薄情ねえ、あの子ったら。嫁さんってば筋斗雲に乗れるんですか。しかしまだ信じられないな、あいつが結婚だなんて、など云々。
 その、話を弾ませる一団からは少し引いた場所にいながら、彼は…天津飯は頭に包帯を巻いた弟弟子の手を引きつつ、改めて、今日の激闘の舞台となった、一段高くなった場所を見つめていた。そこに残る、まだ生々しい赤い血の痕。幾枚か残った石の畳、エネルギー波で抉られたクレーター。

 そうして、また、そろそろ日も傾いてきた漠とした大地をゆっくりと見回した。避難していたのだろうかもめが一羽二羽、遠慮がちに島の岸のほうを滑空し始めるのが見えた。そう、ここは島のほぼ中心でありながら、島の岸、いや水平線までも遮るものなく破壊しつくされてしまっていたのだった。

 人間業じゃない。なんという戦いだったのだろう、今までここで繰り広げられていたことは。

 そう思ってしまう自分に思わず苦虫を噛み潰した顔になりそうだった瞬間に、同じく少し遠巻きに立っていた武道会の審判と目が合った。サングラスの奥の目が、少しの疲労を映しながら、どこかまだ夢見心地に微かに肯いたように見えた。
 どうする。
 こんな戦いを見てしまったあと、どうすればいい。
 この3年でなんという差がついてしまったのだろう、自分はあのレベルに達することができるのか。あんな強さを得ることができるのか!?

 できないなんて諦めたくない!

 3つの目を燃え上がらせて、後ろを振り返った。が、その人は、それには全く気づかずに空のかなたを仰いで、ひとつその場に声をかけた。
 「何か、こちらにやってくるぞ。飛行機、いや、軍用機のようだな」

 えっ、と皆が声を上げた。
 「本当ですか、神様」
 「本当なら俺ぁもうとっととずらかるぜ、面倒事にこれ以上巻き込まれるのはごめんだからな」ヤジロベーがカプセルを投げた。「せいぜい事情聴取でも何でも受けるがいいのさ、あばよ」
 「どうする?あたしもそんなのごめんだわよ」
 「とりあえずカメハウスに引き上げますか」
 「でも孫くんは亀仙人さんのお弟子さんってわかってるでしょ、下手したらそっちまで聞きに行かれるんじゃないの。どうせなら家にみんなしばらくいらっしゃいな、まとめて」
 「カプセルコーポレーションにかの」
 「それがいいです、この場はひとまずわたしに任せてください」審判氏が声をかけた。「わたしは運営の一員として責任がありますから。大丈夫、なんとか誤魔化して見せますよ」
 じゃあ、とブルマに頼まれたヤムチャがカプセルを遠くに投げると、大型機が砂煙を上げて現れた。「さあ、早く乗って乗って。審判さんありがとう!神様はいいの?そう?」
 「さあ、ランチさんも」クリリンが赤いワンピースの女に声をかけた。それで、彼は自分を燃えるような目で睨みつける緑の目に気づいた。豊かな金髪が遮るものない海風に盛んに波打っていた。化粧っけのない唇が不意に彼を呼んだ。
 「天津飯っ」
 なんだ。自分はそれどころではないのだ。この機会を逃せば、神に直談判する機会などもう金輪際ないかもしれないのに。
 「お前も、一緒に」
 そう言ったところで、髪の先が形のよい鼻をくすぐり、威勢のいいくしゃみが飛び出した。

 「あ、また変わった」
 傍らの弟弟子がつぶやいた。さっきまでの娘と同じ場所、同じ服で目を瞬かせてきょとんとしている、おとなしそうな濃い色の髪の娘の腕を亀仙人が引いてタラップを上がりつつ諭した。
 「ランチちゃん、これからブルマの家に遊びに行くでな。天津飯に餃子、おぬしらはどうする」
 「え、あ」
 振り返ったがいつの間にやら緑の肌持つ神は影も形も無くなっていた。ああ、なんてことだ!
 「…餃子を早くもう一度医者に連れて行きたいですし、おれ達はご遠慮します。またいつかお会いしましょう、お元気で」
 「そうか。うむ。元気で修行に励めよ」
 タラップが収納され扉が閉まる間際に、娘と目が合った。さっきまでの金髪の娘が炎のように放っていた自分への恋情はかけらもない。ただ、その目の奥に、わずかの離れがたさの名残が見えた気がした。
 ので、彼は声をかけた。
 「あなたも、お元気で」
 返事は、エンジン音にまぎれて、扉が閉まってしまって、窺うことはできなかった。

 「…行っちゃった」 
 「さあ、俺たちも行こう、餃子」
 「天さんの意地っ張り」
 「…なんのことだ?」とぼけた風をして、その背に弟弟子を負うて天津飯は青い空に高く浮かび上がった。南の都の方角に、3つほどの飛行機雲が見え始めた。審判氏の別れを述べる言葉を背に、そのまま、高く、高く飛び上がった。先ほど、孫悟空が浮かんで快哉をあげ続けた高みまで。
 絶対に諦めない。一生かかってでも、絶対に、絶対に追いついてみせる。どんな厳しい修行を重ねても、人生の総てを賭けても。幸せな家庭でも何でも作るがいい。女に惑溺して修行を忘れるがいい。おれは、その間に、神に頼らずとも神仙に比する力を得てやろうではないか。
 どうせまともな暮らしは送れまいと、あの時仙人に拾われた身だもの。

 

 

 「宿を頼みたい」
 「あいよ。ああ、ちゃんと雫を拭いとくれ。ほれ、今出すから…これでね」
 安宿の門口で太った女将にタオルを二枚投げられて、天津飯は春の雨に濡れた笠を外した。そろそろ夕闇迫ってもともと薄暗い雨空がより陰鬱さを増し旅路が心細くなってきた時分だ。あまり上等でないとはいえうす寂れた街道に佇むこの宿の灯りはありがたかった。ドアの外、軒下で同じく笠と蓑を外している弟弟子を扉の内に入れ、タオルを渡してやる。
 「宿帳も頼むよ」
 あまり流行ってなさそうとはいえ、意外と女将はその辺はしっかりとしているらしい。振り返って、カウンターに向かって字を帳面にしたためていると、額の三つ目がぎょろりと動いて、その視界で女将の皺だらけの目が丸くなってるのに気づいた。
 「あんた、それ、本当の目?」
 無言で肩をすくめて見せると、女将が苦笑いのような顔をした。「なんだ、あの子も、もうしばらく居れば会えたのにねぇ。たぶんあんたのことだろう、三つ目の男を見なかったかってさ」

 またか、と内心彼はため息をついた。あの武道会からもう5年になるが、自分としてはあれで一旦けりをつけたつもりだったのに、どうやら彼女は自分のことを追って旅を始めたらしいのだ。
 気づいたのは2年か3年ほど前のことだ。賞金などは懸けられていないようだけれど、どうやら情報屋かやくざものだかに伝手を得たらしく、それから行く先々で、少しひとところに長くとどまると、買い物やらで町に下りたりした時に名を聞かれたり、三つ目を普通の一見したときの反応とは違う色合いで見られたりするようになった。そうして、金髪の娘の存在が周囲にあると知れるのだ。
 正直、面倒なことになった、と思っている。人の姿をしながらその中で異形を持つ自分が、人に出会ったときに好奇であれ嫌悪であれ何らかの印象を与えてしまうのはもうしようのないことだし諦めもつくが、歩まんとしていた裏街道を捨てて一応は人に恥じない暮らしをしていると思っているのに、こんなお尋ねもののようなことになるのは甚だ不本意だ。
 一度、面と向かってもう諦めろと諭したほうがいいのだろうか。
 「どう思う、餃子?」
 幸い寝台が二つの部屋があったので、部屋代は一件ですんだ。丁度風呂から上がってきて、赤い頬をさらに赤くしている弟弟子が、きょとんとして、全く筋違いの答えを返した。
 「こないだの、あのすごい気配のこと?」
 「じゃなくて…ああ、あれか。消えてしまったけれど、何だったんだろうな」
 亀仙流に比べて鶴仙流は技にすぐれ気の扱いにも長けているため、多少は二人とも人の気と言うものを汲み取る訓練を受けている。それに、孫悟空が神に師事してどうやらそのあたりに特に重きを置いた修行を施されたらしいと先の武道会の後に気づいたので、自己流とはいえこの5年でそれに磨きをかけたつもりであった。
 そのお陰であろうか、一昨日、突如地球上に現れた異様な巨大な気配に気づいたのは。それはどうやらカメハウスの方角に一度向かった後、不意に現れたそれに比する力とぶつかって急に消えてしまったのだった。
 「見に行ってみる?」
 「そうだなあ…」
 あの娘がまたこの辺に居るのであれば、少し遠くはあるが、様子を伺いにそちらの、異変があったほうに行くのもいいかもしれない。

 寒々しい、あまり掃除もちゃんとされていない風呂に身を沈める。薄暗い照明が、床の水色のタイルをぼんやりと照らしていた。窓の外、生垣の上の夜空はすでに雨も落ちておらず、どんよりとした雲の列が名残惜しげに湿気を漂わせつつ空を渡っていた。
 異変といえば、もうひとつある。本来なら今日は十七夜、夜とはいえ空はかなり明るいはずだ。ところが、昨日からその月が世界から再び失せてしまったのだ。長らく空になかったのが、5年前にまた唐突に復活したばかりと言うのに。
 夕食時のテレビのニュースも、学者たちがその異変について盛んに論じてはいたが、原因にはたどり着けずに居た。だが、彼は聞き知っている。その類の異変は、あの孫悟空が大猿のあやかしとやらに化ける故だということを。あいつに、何かあったのだろうか。
 風呂から上がって暗い廊下に出ると、小さい宿ゆえすぐに玄関が見渡せる。宿先の蛍光灯が青白い光を投げかけていて、月はないとはいえ青い闇が足元を照らしている。ふと、彼はロビーに漂う濃く温かな珈琲の香りに気づいた。誰かが、そこの自販機の缶でも呑み捨てていったのだろうか。自分も、ひとつ何か喉を潤すために買うとしよう。
 ぺたり、とスリッパの音をさせてロビーに立ち入ったとき。
 粗末なストライプのソファの陰から細い影がたち現れた。それは金色の鮮やかな残像を引いて、驚くほど唐突にそばに流れてきた。触れ合わんばかりに近くに。むしろ、あまりに急き込んで走り寄ってきたために鼻先が、いや唇だろうか、その柔らかな熱が彼の鍛えた胸板に一瞬触れたのだった。
 「…よう」
 ひょいと身を引いて、その娘が胸の前で彼を見上げた。緑の目が外の明かりにぎらりと透明に輝いた。その頬は青い闇の中で薔薇色に輝いている。
 3つの目がそれぞれにたじろいだ。たじろいだことに己で当惑する。そうして彼が黙り込みかけると、娘…と言っても、前別れた時にくらべて格段に大人びてはいるが…が口を開いた。
 「やっと、見つけた。覚えてる?おれのこと。5年も前だけど」
 「…覚えてますよ。まさか、追いかけてくるとは思いませんでした」やや憮然とした口調でそう返す。
 「あ、気づいてた?」
 「そりゃ。ここの女将にも聞きました」
 「そう、ここのおばちゃんに教えてもらったのさ、念のためにって最近の連絡先渡してたからな。ああ、でもよかった。ホントに会えると思わなかったぜ」
 「とにかく」徐々に距離をつめて目の前ではしゃぐ彼女の肩をそっと押た。「もう遅いんですから、話は明日です。部屋は取ったんですか」
首を横に振る彼女に少しわざと顰め面をして見せてから、カウンターのベルを鳴らした。衝立の奥から、寝巻きに着替えた女将が出てきた。そうして彼女が帳面をつけているうちに、足音を忍ばせながらも彼は急いで自室にひっこんで行った。

 もし実際に会ったなら迷惑だと言ってやろうとしたのにできなかったのは、胸に落とされたふわふわとした熱のせいだった。それは今も、潜り込んだ薄い冷えた布団の中で、微妙にぬくもりを保ち続けていた。同じく人肌のぬくもりなら、弟弟子の手を引いたり怪我したときに負ぶったりで縁遠いものではないはずなのに、女に与えられると言うただそれだけのことが、こんなに。

 だめだ。あまり一緒に居てはだめだ。
 明日こそ、言うのだ。こんな自分を追いかけたって、報いることはできないと。

 

 もしかしたらこちらの部屋を聞いて忍んでくるかもしれないと、耳をすませて浅い眠りにつく中で、うとうとと昔の夢を見た。
 『強さには、正しさなど本来は無縁のものよ』
 師の弟は、館の寝台の上で彼が届けに来た酒を呷りながらそう語った。まだ、彼が少年と言ってよい年頃のことだ。
 『なんのために強くなるかって?そりゃ、この長い人生の暇つぶしのためだな。儂ら兄弟…ああ、亀の方の姉弟も、ゆえあって人より長い命を持っているが、そりゃ大変に退屈なものだ。己を殺したいほどにな。だから儂は人を殺すのさ。それで金が得られて贅沢ができて女が好きなだけ抱けたなら多少は楽しかろう』
 鍛えられた大きな体にしどけなく絡む複数の女の背を今も覚えている。辮髪を持ち上げ赤いリボンをふざけて結ぶ、細い、つまくれないの指。鏡を見て、かはは、と可笑しそうに笑う髭の口元が、続けた。
 『お前も、抱いてみるか?どうせ異形に生まれたろくでもない人生、柔肌もひと時の慰めよ。ただし、愛してはいかんぞ。殺すつもりで、腰を使え』
 赤い唇のひとつが、彼を見て、にまりと弧を描いた。心臓が、まだ薄い少年の胸板のうちで、どん、どんと音を立て始めた。

 

 
 どん。そう音がして、彼は三つの目を同時にはっと見開いた。同時に、誰かが背に触れる熱を感じてとっさに寝台の上で身を翻した。
 「どした、天さん」彼を揺り起こそうとしていた餃子が目を丸くした。
 「ああ…寝ぼけた。なんだ。朝っぱらから」枕元においた小さな古い懐中時計はまだ夜明け前を示していた。窓の外はゆるゆると光を雲の合間から滲み満たし始めている。
 「誰だろ。誰か、来たみたい」
 う、と、昨夜の娘のことを思い出した。まさか、こんな朝早くから押しかけてきたのではあるまいな。
 「餃子。お前、ちょっと出てくれ」
 こくりとうなずいて、弟弟子は木の扉を開けた。天津飯は思わず身構えたが、飛び込んできたのは意外な顔ぶれだった。
 「おう、久しぶりだな」
 「おはようございます、天津飯さん、それに餃子」
 「ヤムチャ…それに、クリリンじゃないか」脱力して、下着姿の体に巻いていた布団を緩める。「なんだ。よくここがわかったな」
 「朝早くからすみません。でも、緊急の用なんです」

 話は思わぬものだった。一年後に来る新たなる脅威。孫悟空の生い立ち、ピッコロとの共闘。そして死、あの世での修行。何より、
 「神に修行をつけてもらえると言うのか!」
 なんということだろう。やっと機会がめぐってきた。
 「天さん、行く気だね」
 「当たり前だ。こんなこと、断る馬鹿があるか!餃子も行くだろう」
 うなずく頭を満面の笑みで軽く叩いて、急ぎ手近の荷を引いた。「すぐ行く。少し待っててくれ」
 「もし仕事とか、整理があるんなら、少し待ちますよ」クリリンが言ったが、そんなものはもともと今のところしてないし構わなかった。支度をし、また女将を叩き起こしてチェックアウトをし、フライヤーに乗り込む。
 朝日がまぶしく、雪がまだ残る北の山裾から顔を出し始めた。地面が遠くなり始めた。彼はそれを、こんな世界の危機に直面したにもかかわらず、希望の光そのもののように感じていた。と、そのまぶしさに反射的に背けていた額の目が、人並みはずれたその視力で、地上の何かを捕らえた。
 娘が、金髪を翻して、露残る春の牧草の原を駆ける。必死に飛行機の影を追いかけて駆けてくる。美しい髪をたなびかせて。
 やがて、その姿は、羊たちにまぎれて、雲の向こうにかすんでいった。
 心のどこかが、彼を、卑怯者と詰り、臆病者よと謗ったが、彼はそれには耳を閉ざして、青い、これから上る天の高みを見上げることにした。

 それから、また、5年近くが過ぎた。

 

 


 

 
 「…また、あなたですか」
 丁度その時に小屋の外で薪を割っていた天津飯は、トウヒの森の中からそっと近づいてくる人影に気づいて振り返った。
 「また来た」まだ春先、厚着をした弟弟子が薪を縛る綱を縛りながら、あきれたような声を上げた。「いくら隠れても無駄なのに。なんでこそこそ来るの」
 「『あちら』がそうしろと言うのですわ」
 夕暮れの山ふもとの森陰から現れた髪は今回は濃い色のほうだ。勝った、と頭の中で声がした。あれから…あの世から帰ってきてから、年に一、二度は彼女は彼らの前に姿を見せるようになった。それで、こっそり、二人は次に現れるときに『どっちが』出てくるか、という賭けをしていたのだった。
 「『だって、顔を見せたら、また何処かに行ってしまうだろう』って」彼女は可笑しそうに笑った。
 実際、それはまったく正しい。明日か、あさってには、また河岸を変えることになるのだろう。だって、もう次の戦いは間近に迫っているのだから、彼女にかかずらわっていることはできないのだ。

 「それが済むまでは、会いに来ないでください」
 「そうですか」
 あっさりしたものだ。彼女が整えてくれた夕食の席で切り出した際にはすこしおそれたが、『こちら』の彼女の方は『あちら』に比べて執着が薄いらしく、実に物分りがよかった。だから、『こちら』の方だと、少し安心する。少しは、捨て置いてゆく罪悪感が少なく済むからだ。
 あと、こちらの方だと少し得した気持ちになるのは、持ち歩いている食材を使って、うまいものを拵えてくれるからだ。訪ね来られた刻限が遅かったりしたら(大体明かりもろくに無い僻地で修行していることが多いから)無碍に追い返すわけにも行かないため、大体一晩は仮住まいに泊めてやるのだが、こちらの彼女はその礼として、これまた持ち歩いている機材を巧みに操って晩飯を馳走してくれるのである。
 「おいしいね、天さん」
 「そう?いっぱい食べてね。明日からまた修行なのでしょう」
 弟弟子はこちらの方にはいつしか懐いてしまった。修行に付き合ってくれるとは言え、去年にはもう戦いにつれてゆけるレベルではないと断を下したため、食事の支度やらは弟弟子がしてくれている。一日とは言え、それから解放されるのは単純に嬉しいらしい。
 「ごちそうさまでした」彼は箸を置いた。
 「あら、もういいんですの」
 「ええ、もう寝みますから」
 「そうですか、おやすみなさい」彼女ははんなりと微笑んで、また弟弟子との会話に戻っていった。

 正直、『こちら』の彼女とならうまくやれるのかもしれない、と思う。きっと、3人で、このまま安寧に修行の日々を重ねていけるだろう。
けれど、それはどこか物足りなかったし、考えるだに危うかった。会う機会は少なかったものの、彼が観察を重ねたところでは、『こちら』の彼女は、奴隷とは言えないまでも、あくまでも『あちら』の意志に従おうとしている、ある意味人形だった。濃い青色の瞳は優しく微笑むばかりで、どこかこの世を投げているのだった。
 意志はないのか、と思う。火のような意志はないのか、と心のどこかが苛立つ。会いに来てくれると言うなら、旅を重ねて追いかけてくるなら、もうすこしそれらしく嬉しそうにして欲しい、と思うのだ。
 青色の闇を退けて薔薇色に輝くような、そんな歓喜の色を見せて欲しいと。
 自分を、魂賭けて、愛していると。

 
 ともる熱に気づいたのは、顔に落ち来る髪の感触のせいだった。うっすらと彼は額の目を開いた。月もない闇の中で、寝起きの滲んだ視界が金色に透明な髪を見た。
 熱は、彼の唇を柔らかく押し包み、やがて、こめかみに細い指がゆっくりと添えられた。そうして、おずおずと、手のひらが…見た目よりはずっと柔らかで華奢な両手のひらが、そっと頬全体を包む。

 ああ、と、静かな陶然が、冷えた夜の空気の中、夢現のうちにひたひたと広がってきた。ふ、と唇が離れようとして、また添った。いや、こちらから無意識に添ったのだった。
 すると、慄いたようにそれは離れた。そうして、きびすを返して、板張りの床を急いで踏んで、部屋の外へと出て行った。

 慌てて起き上がり、外へ出ると、バイクの冷たい灯りが急に険しい道を照らし上げたところだった。その光に、濡れた頬が見えた。
 それで、バイクを押す彼女に付き添って、山を降りきるまで一緒に歩いた。どちらも、言葉は少なかった。彼女は特に泣きじゃくりもせず、いつしか冷たい風に乾いた目元を、時折降るように優しい春の星空に向けるだけだった。
 「6月になったら、また」とだけ、最後に彼は言った。開けた道を、街の明かりに向かって、赤いテールランプが遠ざかっていく。

 


 

 
 「お風呂、お先にいただきました」
 「はい、どうも」
 女…孫悟空の妻が、晩飯の後の洗い物をちょうど終えて微笑んだ顔を見せた。「じゃあおらも、最後にお風呂いただこうかな…何かお風呂上りに飲むべか?天津飯さんは」
 既にすぐそこのリビングで眠ってしまったヤムチャとクリリンを憚ってか、女は小声でささやくように問うて来た。今家に居るのは彼と、その二人と、その師匠、そしてこの女の5人だった。ピッコロはすぐ戻ってくるといい、どこかにうまい水を探しに行ってしまったし、女の夫と息子は今天界に居るのだった。
 人造人間はまだやってきていない。が、いつ来るかわからない。ピッコロの居ない今、微妙な緊張が漂っていた。今来たなら、自分に敵うのか、と。
 だからだろうか、彼がそれを聞きたくなったのは。

 「少し、お聞きしていいですか」
 女は彼よりずいぶん年下だから、敬語を使うのもおかしな話だったが、そう切り出した。
 「ん?なんだべ」
 結局牛乳を出してくれて、エプロンと髪を解いた彼女が、冷蔵庫を静かに閉じて振り返った。
 「あなたは、武道家としての悟空に…」そこまで言って、どう続けたものかわからなくなる。少し訝しげにした黒い目が、彼の総ての目をまっすぐ 見つめた。少し、間を空けて、ようやく続ける。「悟空は、武術と、家庭と、ちゃんと両立していると思いますか」

 女の顔が、少しだけ青ざめたように思った。窓の外で、暗い海がざぶり、ざぶりと波を打っている。何か、大変なことを聞いてしまったと思った。わびようと口を開いた瞬間、女はそっと言った。
 「悟空さは、きっと、両立してるつもりだと思う。おらは、そう思ってる。だから、それでいい」
 「…済みませんでした」軽く頭を下げて、牛乳を急ぎ呷ると、思ったより近くで、声がした。

 「両立させたいひとでも、いるんだべか?」

 コップをテーブルに置く。白く濡れた口元を拭いもせず、少し呆然としたような心持で、風呂の方に出るためかそばに寄った女を見た。

 「…どっちにしても、平和になって。そうして、みんな、ゆっくりと好きな人と居られるようにならねえとな」
 「…そうですね」
 「じゃ。コップ、桶につけといてけれな」
 女は彼の脇を抜けて、一旦着替えを取りに行くためか階段を上がっていった。

 

 数日、この「夫婦」というものを間近に見て感じたのは、そこには10年…丁度、あの娘たちが自分を追ってきただけと同じ年月に紡がれたものが、二人の間にはきっぱりとあると言うことだった。
 実際には心臓病で寝たきりだったため、孫悟空が妻に語りかけているのを見たわけでないし、交わす眼差しや微笑を見たわけでない。けれど、孫悟空が妻の手を真実頼りにし、その感触を欲し、得られたときにどれだけ苦しみから救われるかということは、ある種の感慨…いや、感動をもって彼を打ちのめしていたのだった。


 彼は思う。
 自分は、あの時…この夫婦が結婚をしたときに、尻尾と言う異形を捨てて人並みの幸せを得た孫悟空をさげすもうとした。そうして、結局は三つ目と言う異形を捨てられぬ己を呪い、世を拗ねて、人を殺さぬまでも、自分を殺して、翻ればいつでも得られたぬくもりと、迸るほどの愛情から逃げてきただけに過ぎない。

 10年。

 なんて、長い時間。

 彼女は、山道で言った。
 「もう、30にもなるのに。こんな年食っちまったのが、こんな、おかしいよな」と。
 そんな風に言わせるようにしてしまったのは、自分の罪だ。
 本音を言えば、まだ、「2人」である彼女を受け止められる自信はなかった。でも、今度会ったなら、どちらにもきっちりと聞こう。「それでも、そばにいてくれるのですか」と。そうして、いられるのなら、またそこから、育てていければいい。

 
 この10年で悟ったのは、結局は、己は、孫悟空には達し得ないと言うことだった。いくら必死に背を追っても、その血の重さには敵わないと言うことだった。
 けれど、まだ、それに近づこうと足掻くなら、今度は、きっと、ぬくもりを素直に受け止めよう。今度、会えたなら。

 あの宿の夜、胸に点されて、ずっと宿り続け、心のどこかで欲し続けてきた、あのぬくもりを。






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