このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 小鳥の鳴く声が、金色の朝の気配となってうつらうつらとしていた悟空の感覚に染み入ってきて、彼はぼんやりと目を開け、身じろいだ。左手にわだかまる鬱血による軽い痺れを振り払おうと腕をかすかに動かすと、腕の上、目の前で黒く輝いていた絹のようなものがさらりと持ち上がって、ころりと腕から転がり落ちてしまった。
 ぼんやりと、馴染み始めたそのような朝の風景を脳内で咀嚼する。理解が出来たところで、彼は今腕から零れ落ちて向こうを向いてしまった新妻の小さな後頭部に追いすがるようにして頬を寄せた。昨夜風呂で使った洗髪料の甘い匂いに交じって、昨夜染み出た彼女の汗の香りがする。その理由をまたぼんやりと眠気に濁った頭の中で咀嚼して、口の中で彼は満足の笑みを浮かべた。


 結婚というものを正式にして、2週間。ようやく肌を重ねるようになって、4日ほど。いささかそのペースに入るのが遅くはあったけれど、新婚夫婦の多分にもれず、寝不足の朝である。悟空は寝台の脇、彼女の頭の向こうにある置時計を、枕に頭を横たえたまま首を傾けて確認した。
 まだ5時じゃねえか。
 昨夜晩飯を食ってからずっと、宵のうちから抱いていた妻の身体。ようやく手放して眠りに着く前にかろうじて確認した時刻は日付の変った頃だった。いつもに比べればさほど眠っていない。それでもこんな時間に起きてしまうのは、子供の頃から夜が明けたら起きるという生活リズムが身体に染み付いているからだ。
 『ほれほれ、悟空、お天道様が昇ったぞ。ぐうたら寝ておっては勿体無い、さっさと起きねばお恥ずかしいぞ』
 頭の中でそう祖父の声がした。毎朝の口癖だった。さあ、さっさと顔を洗って、朝の修行じゃぞ。

 わかってるけどさあ。

 悟空は唇を尖らせた。ついでに、後ろを向いているしなやかな細い首根っこを、華奢な背筋の始まりの頚椎の骨の辺りをその唇で撫でた。そっと指を伸ばして、慎ましやかにその首筋を隠そうとする長い黒髪をわけた。自分と、彼女と、布団との隙間に現れる白い素肌の背中。真っ白な肩口に所々残る、自分が残した紅い跡。それは、自分が…この自分が!…昨夜、本当に、無我夢中でこの女のきめ細かなこの肌を吸って残したものなのだ。
 そう考えると、なんだか居た堪れないほどの照れくささと、そうさせてしまうほどのこの女への愛おしさがない交ぜになって、彼の若々しいこころに溢れた。同時にはっきりと蘇り始めた昨夜の記憶が息を熱くして上げ始める。もうすぐ19歳という若々しい身体は、朝だからという理由とは別に、すでに準備万端整っている。

 わかってるってば。わかってるけどさあ。朝っぱらから、こんな事。

 でも、まだすっごく眠いし、
 でも、まだこいつが起きないし、
 こいつの背中が白くて綺麗だし、
 とってもいいにおいがするし、
 ひっついてると気持ちいいし、

 抱きしめて、好きって言って欲しいし、


 いいじゃねえか、今日ぐらい、シンコンなんだから!
 
 なんだか矛盾したような言い訳にならない言い訳を頭の中でひとくさりしてから、悟空は後ろから布団の中の妻の裸身に手を伸ばした。あおあおとした髪の香りを肺いっぱいに吸った。
 春も過ぎ行く、5月の末の朝。窓の外では、こないだ植えたばかりの黄色い八重山吹が、快晴の天から降り注ぐような青と見事な対比を為している。






 2時間ほどの後。

 「こんなことじゃいけねえだ!」今まで腕枕の上に紅い恍惚とした顔でぐったりとしていた妻が唐突にがばりと頭を上げて叫んで、快い気だるさにまたうつらうつらと幸福な二度寝にかかろうとしていた悟空はびっくりして目を見開いた。
 「朝…朝っぱらから、こんなことして!表では村のじっちゃんばっちゃんが畑の面倒で一生懸命働いてるってのにっ、ええ若いおらたちがこんなんでどうするだよ!」
 妻が、まだ熱気の残る薄手の布団の中で上体を起こして、悟空の腕にまだ何処か幼さの残る素肌の胸元を乗せながら嘆く。
 悟空は眉をしかめた。言ってる事は妻が全く正しいのだが、格好が格好なのと言ってる事に反してこちらを煽るようなその無邪気な行動なものだから、その説教はあっさり彼の中で却下された。そして、例の言い訳を今度は言葉に出して繰り返した。「いいじゃねえか、一日くらい。シンコンなんだから」
 「新婚なんだからじゃねえだ!」
 「だって散々お預け食らわされてたんだぜ」新婚早々初夜も迎えぬうちに月のものでさんざ焦らされたのである。だからその分返してもらわないとというのが彼の一応の言い分だった。「あー眠い。もう今日は修行休みにする。でもって」
 「だめだべ!」
 もう布団から出してやらないぞとばかりに伸びた悟空の腕をすり抜けて、妻は寝台から転げるようにして出おおせた。布団からまろびでて、素っ裸である事に気付いて慌ててその場に真っ赤になってしゃがみこむ。
 「ご、悟空さが修行お休みするなんて、雪が降るんじゃねえだかっ」
 妻はまだこちらが新婚旅行の途中にまでそれを切り上げて修行したいと言ったことを根に持ってるのだった。確かに、曜日の感覚の薄い悟空にとって、いつ修行を休むかはこの時点でははっきり決まっていなかった。カメハウスにいた頃は牛乳配達を待ってる客が居るから休みなどなかったし、一人で世界を巡っていた頃は言わずもがなだ。それに天界ではたまに指南役のミスター・ポポが休みだと決める以外は全く修行漬けの毎日だった。
 武道会のあと式を挙げてこないだの新婚旅行から帰って引越しが終わるまでは流石に修行もストップさせられていたのだが、つまりそういう人生の一大事でもない限り悟空は今まで大まかに天気が悪けりゃ休むくらいで、日が出てりゃ修行(とそれを兼ねた狩り)という生活だったのである。そして、こんな天気のいい日に自らすすんで修行を休むなんて、彼にとってはそうそうない異常事態だ。
 ありていに言えば、三度の飯より修行が好きという修行バカの癖に、今現在彼はそれをさしおいてこの新妻に夢中なのだった。
 その新妻が必死で寝台の影に身を縮こまらせて、布団を奪って身体を隠そうとするのを、悟空は反対側の端を引っ張って遮ってやった。真っ赤な顔に涙を浮かべた様子をニヤニヤ見ていると、不意に寝台の下に落っこちていた枕を何度も投げつけられた。
 「ぶへ、ちっとは手加減しろよ」妻とこの寝室に居る時はすでにすっかり一般人のレベルまで気を抜く癖がついているので、こんな攻撃でもそれなりにこたえるのだ。
 「だめだだめだ、何て言われたってそんなのだめだべ!じゃ、じゃあ、こうするべ!」





 「あー、だいぶなまってるだぁ。やっぱり2週間もちゃんと運動してないと体硬くなっちまうだなあ」
 家事等も終えた昼過ぎになって、2人は新居を後にして村の道路を連れ立って走っていた。
 「なまってるっつっても、結構おめえやわらけえじゃん。開脚だってちゃんとべったりできるし」出掛けに家の前でストレッチをした時の話だ。
 「内腿がつっぱっていけねえだ」妻が顔をしかめた。「前は全然苦もなかったのに。やっぱ修行しねえっつっても、ある程度毎日頑張ってこのくらいできるようになっとかねえと」
 でないとすぐ太ってしまうだの喋り始めた妻の言葉をよそに、いつもの胴着に身を包んだ悟空は形ばかり走っていながらも暢気に見事な晴天を見ていた。麦秋の頃、青い天の高みで雲雀が鳴いている。この村は畑と田んぼが半々位。そろそろ田んぼにも水を張り始める頃合でその前に一面ほっくり返して、全体に温かな土の臭いがふんわりと漂っている。
 ガキの頃に行った修行を思い出して、悟空は一人微笑んだ。あの島とは気候も違うしだいぶん植えているものが違うみたいだけれど、何がとれるんだろう。あの辺の苗はトマトだろうか。たまに朝の畑の修行の後に農家のおっちゃんからクリリンと一個ずつ駄賃代わりにトマトなど貰ったものだけど、たっぷり汗をかいた後にあれを齧るのはとても嬉しかったっけ。
 「何を考えてるだ?」
 脇から妻が問いかけてきた。今日は一応形としては、悟空のランニングの修行に彼女が付き合うということになっているのだけど、行き先は彼女任せである。まだ引っ越してきたばかりだし、車で走るような道は一応わかるけれど、一回歩くか走るかしてそのあたりをめぐってみたかったのだと言う。
 だから今日は、妻の用事もあることだし、こうやってちょっと遠くの大き目の町まで2人で走ることになったのだ。
 「んにゃ。そういや、うちは畑つくらねえのか」
 彼らの家の裏には、他の農家に比べれば全然狭いけれど一応畑が一枚ついている。長年耕してないそうだから今は畝の凸凹が残った単なる空き地状態だったけれど。丸い家の周りには花壇をこないだ作って、今チョコチョコといろんな花を妻が植えている最中だった。
 「んー、そのうちな。野菜はちゃんと作ろうと思ったら、それなりに気合入れてやんねえと」
 「作るんならまたオラが耕してやるよ」悟空はモグラのような手つきをした。
 「また手でだべか」妻が、花壇を作ってやった時のことを思い出して笑った。「おっとうからたまに聞いてたけど。武天老師様も面白い修行をなさるだな」
 「それはいいけど」ちょうど村の老人の三輪自動車がぽこぽこと旧式エンジンから煙を吐いて二人を後ろから追い抜いていった。「こんなペースじゃ修行になんねえぞ」
 ようやく村を一周したぐらいである。暑いからそろそろ汗はにじんできているけれど、こんなのんびりした速度じゃいくら重量装備をつけてるからとは言え悟空にはまるで走るうちに入らないのだった。
 「それ、ダッシュ」ぽん、と手をひとつはたいて、丁度村の唯一舗装されたメインストリートに戻ってきたところだし、悟空はおもむろにスピードを上げた。
 「な、いきなり!」
 あっという間に100mは先の村の境の小川の小さな橋を越えて、対岸で悟空は振り返った。必死で妻が全力疾走してくるのが驚くほど向こうに見えた。5秒ほどしてようやっと悟空の傍まで来た妻はもう少し息を上げている。
 「おっせえぞ」悟空はからかうように言って、またのんびりと走り出した。妻が軽く頬を膨らませた。

 そうして、妻の不意をついてまたダッシュを繰り返して遊んだ。妻も隙を見てはダッシュの合図を出して、その度ごとに笑い転げたりふざけて怒ったりした。繰り返すうちにいくつか小さな町を越えて八つ時になったので、その辺の野っぱらの木陰でおやつ代わりの弁当を広げた。



 修行としては全くぬるすぎて準備運動にもならないけれど、たまにはこういうのもいいか、とキュウリの水気も爽やかなサンドイッチを頬張りながら悟空は思った。いつもは…と言っても、結婚してから行った修行はまだ数回ほどだったけれど…朝飯を食ってから修行に行って、昼はひとりでその辺の動物やらで腹を満たして(弁当を持たせてやろうかと一度問われたけれど、引越しの片付けとかでその時忙しそうだったし、狩りをする事も修行だと断ってしまったのだ)、晩方飯の出来る時分に帰ってくるのだったが、こうやって、妻と弁当を広げるのも悪くない。今度一回、今度は組み手をやろうとか言って連れて行こうか。
 
 しかし、2人っきりというのはちょっとまずいかもしれないぞ。
 カプセルに入れて持って来た赤白青のピクニックシートの上で足を崩して首筋の汗を拭いている妻を横目に見ながら、いや、正確には見て見ぬふりをしながら悟空は心の中で密かに生唾を飲んだ。今日は、実はいつもの胴着では前垂れが邪魔で走りにくいのだとかいって妻はTシャツにぴったりとした膝上までの短めのズボンなのだけれど、汗でTシャツが濡れてところどころ身体に張り付いていたり、下半身だって普段見せない細い綺麗な足のラインがきっちり出てたり、Tシャツが翻ったりまくれたりすると尻や腰のラインまでまるわかりなのだった。
 それに、隣に居て漂ってくる汗の香りといったら。穿いたものの内にこもって僅かに届いてくる、少し蒸れたこいつの下半身の匂いといったら。それに、上気した頬、きらきら光る肌。荒くなった呼吸。
 悟空がもうちょっと言葉を知っていたなら健康的な色香とかそういうことを思っただろうが、あいにく知らなかった。だが、閨で感じる直截的なものじゃなくても、こういう何気ない、本人が意識していないところに劣情を感じるのはなんだか疚しくってドキドキした。さすがにここは山を降りてきてそこそこ車のとおりもある道端だから覆いかぶさる気はなかったが、これが人目のない山の中とかで、二人っきりなら本当に修行どころじゃなくなるのではないかと思った。
 とりあえず、今現在この不埒な気持ちを押さえ込まないと走れない状態になってしまいそうなので、悟空はうっかり妄想しそうになった「修行どころじゃなくなった場合」を打ち切って、さっさと行こうぜと些かぶっきらぼうに立ち上がって見せた。持ってきた自動車地図を見ていた妻が疲れた様子ながらもけなげに微笑んで、ついで立ち上がった。さすがに(いつも買い物に出るのとは別方向だし)車でここまで来た事はないので、道が不安なのらしい。のんびり走っているように見えて、村を出たあたりからペースアップもして、実は並の人間が聞いたら仰天するような距離を既に走ってきている。
 やっぱり、この女でよかったな、と悟空は思う。ブルマやランチだとこうはいくまい。おそらく、村の中を走るってだけでも力尽きてしまうだろう。
 自分たちは、一緒に、どこにだって行けるのだ。そう思うと、胸の中の部屋がひとつ開かれる思いがした。
 
 
 





 やがて道は大きな河のへりに出た。そろそろ日も傾きだして、川面の上をウミネコやミサゴが渡っていくのが見える。もう海が近いところまでやってきたのだ。
 はあ、はあ、はあ。
 「チチぃ、大丈夫か」
 「へ、平気だべ。あと少しだもの。ほら、あの橋を向こう側に渡れば、ゴールの街だよ。とりあえずあの橋のふもとまでは頑張って走るだっ」
 だいぶん車の流れも激しくなってきて、一応歩道とは言え自転車も来るし、ほとんど歩きになった悟空は妻を後ろから腕で庇いながら進んだ。空港でも近くにあるのか、大きな翼が金色になりかけた天の光を受けて進んでいくのが見えた。
 「ほれ、到着ー」
 鉄橋の鉄骨の最初の一本にたどり着いて、妻はそれを掴んで膝からくずおれそうになった。おっと、と悟空は慌てて後ろから湿ったTシャツの上から細い腹回りを抱きかかえた。さすがにこの距離を走ってきたのだから、それなりに悟空だって汗をかいている。それが、海風に晒されて、心地いいひんやりとした感触を残していく。
 橋のたもとは下の河川敷には降りられないものの、ちょっとした公園になっていた。抱きかかえて、その辺のベンチに座らせてやる。
 「そら、茶飲め」
 「ん」妻が腰につけていたバッグは途中から悟空が引き取っていたので、そこから取り出して水筒からついでやった茶を、妻は赤子のように悟空の手を押さえながら飲んだ。逆の腕で抱きかかえてやりながら、悟空は急に妻がいとおしくなって、どきどきとした。
 「よく頑張ったなあ。根性あるな、おめえ」
 「あー、疲れただぁ!」やっと人心地ついた妻が大きな声を出した。さっさと腕の中でしゃきっとして、バッグの中からタオルを2枚取り出す。もうちょっと腕の中で休んでりゃいいのに、と悟空は勿体無く思った。タオルを受け取って、二人で汗を拭く。妻が、ポニーテールを持ち上げてあちこち拭いている。髪の先についた汗が陽を受けて連なった真珠のようにきらきらした。
 「修行してた頃は、往復でだけどこの位の距離は走ってただよ。おっとうが、まず体力がないといけねえってとにかく走れって修行方針だったべな。最初の頃はしんどかっただなあ、城の周り何周かだけでもぜえぜえ言ってなあ」
 「ふーん」
 「でも、しんどい、もう駄目だって思っても、悟空さと天下一武道会に出るんだ、って思ったら力が出ただ。そんでだんだん走れる距離が増えてってな。今実際そのとおりになって、隣で応援してくれてるのに、そうそうやすやすとギブアップするわけにはいかねえべ?」
 赤い顔のままで、妻がこちらを見てにっこりとした。
 その言葉に、なんだかにっこり素直に笑い返せなくなった自分を悟空は自覚した。この女が修行を始めたのはほんの3年前だという。自分でも牛乳配達で走ったり、世界を走ったりしてるから判るけれど、たった3年でここまで強くなるには、どれほどの努力があっただろう。ただ、自分に会いたいというだけで、一心に。自分はまるっきり忘れてほったらかしにしていたというのに。

 会いに行ってやればよかったな、と今更ながらに思った。神殿にいる間は無理としても、カメハウスに居た時にだって、世界をめぐってる間だって。
 そしたら、もっと早く、こいつのことを好きになってただろうか?そしたら、自分は、どうしてただろう?

 しても詮無い思考の陥穽に陥りそうになった時、河と反対側の後ろで、大きなチャイムの音がした。驚いて振り向くと、道の向こうの大きな建物から、自分たちと同じか少し下の年頃のもの達が、そろいのような服を着て次々と出てくるのが見えた。
 「あ、高校が終わったんだべな」
 妻が言った。ああ、学校ってやつか。
 生徒達は信号が変わるのと同時に、どんどん橋を渡って向こう側の町に帰っていく。
 「さ、おら達もいくべ。役場がしまっちまう」
 街はこの辺の行政区の中心で、妻はそこに何かしらの届けを出しに来たのだった。




 
 町の中心部は都ほどとは言えないけれど、鉄道もとおり、先ほどの学生達も行きかってそこそこの賑わいだった。この辺にもこんな大きな町があったのか、と悟空は思った。昔冒険してた時には別のもっと北側のルートを通ったし、買い物に行くのも走ってきたのとは逆側。世界を巡ってる頃はこの、小さい頃住んでた地方はどこか里心がつくのが怖くて立ち寄らなかった。この大陸でも最も東の地域は、東エリアと南エリア、さらに海に浮かぶ島嶼部を結ぶ要衝なのだ。
 街中に切られた運河には、今は時代遅れになった小さな船での物売りがひしめき、美味そうな果物などをいっぱいに載せてけたたましい呼び声を交わしながら行きつ戻りつしている。川べりの屋台からもいろいろな美味しそうなにおいが手招きをするように漂っている。
 待てを言いつけられた犬よろしく、悟空は運河に掛けられたさまざまの動物を彫った石の橋に頬杖をつきながら、手続きに行った妻を待っていた。暮れようとする街の景色はどこか寂しげなようでいて、これから何が始まるのかと思わせるような熱気に満ちていた。点り始めるさまざまの色の灯り。クラクションの音、濁った河のにおい。行き交うさまざまの人。武道会前に神の言いつけで筋斗雲を使わず旅をし、船で南の都に立ち寄ったのだが、そこに似ていながらもっと何処か懐かしく、猥雑な感じがした。
 「お待たせー」昔風の石造りの建物から、妻が玄関先の階段を小走りに下りてきた。「間に合ってよかっただ」
 「おう」片手を上げて応えて、傍に来た妻に尋ねた。「さて、どうすんだ、これから。もう家に帰るか、筋斗雲で」
 「まあ折角来たんだし、観光気分でなんか食べてくべ」


 屋台に陣取って、鶏肉入りの麺やら焼き飯やらを頼む。このあたりの料理は辛いのが多くて、あまり辛いのが得意でない2人は辛い辛いと騒いでまたそんな自分たちに笑いながら食事を愉しんだ。仕上げの果物を食べて、甘くした緑茶を啜りながら、妻がうっとりと言った。
 「ロマンティックだべなあ」
 すっかり暮れた運河に移る街の明かりは、昼の熱気を名残惜しそうにゆらゆらと揺れている。どこからか甘い花の匂いが潮の香りと交じり合って、どこかこないだの新婚旅行で行った先が思い出された。
 同じく茶を飲みながら、悟空は周りの風景を見て、妙な気持ちになった。自分が夫婦というものになったせいもあるのだと思うが、こんなに男女連れというものは多かったのか、と思う。歳をとった明らかな夫婦連れであったり、自分たちよりは少し上で、子供を連れていたり。屋台で連れ立って食べたり、酒を飲んでいたり。でも、さっきの学校の服を着た自分たちより若そうな男女もいたりする。そして、暗がりで頬を寄せ合ったりしているのだ。新婚旅行で行った先だってそういう男女はいっぱいいたけれど、こういう、日常そのものの風景でそういうことを見ると、本当にそれは人の営みの一部なのだと言う気がした。そして、自分たちもはたから見たらああなのかと思うと、なにやら気恥ずかしいような気がする。
 急に、悟空には今まで青空とおひさまに照らし出されていた、自分の知っていた世界と言うものが、ほんの一面でしかなかった事に気付いてぶるりと震えた。この男女の全てが、自分たちのように思いあい、情を交し合い、2人だけの秘密の夜の顔を持っているのだ、と思うと、人間というものが急に怖ろしく、生々しく感じられた。

 首をかしげる妻を見る。

 ああ、男が女を求め、女が男を求め、そして世界は回っていくのだ。

 親友が最初に言ってた、「女の子にもてようと」と言うこと。ウーロンが少々乱暴な手法ではあったけれど、望むような嫁を求めていた事。ブルマが素敵なカレシとやらを求めてドラゴンボールを探した事。ヤムチャがいつの間にかブルマと『仲良く』なって、都へ行ってしまった事。みんなみんな、そういうエネルギーに突き動かされて行動していたのだ。当時の自分には理解できなかったけれど。
 求めもしなかったのに、このようないとしく思える女を得られた自分はなんて幸運なんだろう。
 そして、7年近く、こんな今しも自分を締め付ける、胸の詰まるような思いを一人で抱えて待っているなんて。

 「…あのさあ」
 「ん?なんだべ」会計も済ませ、筋斗雲を呼べそうな人目の無さそうな場所を求めて、二人は海のほうに歩いていた。
 「あいつらってさ、」悟空は同じように前を歩く、学生らしき男女の2人連れを顎で指した。腰に手を回しあって、いかにも好きあって離れがたいといった風だ。「オラたちみたいに結婚してんのかな」
 「まあまだだろうな」小声で憚りながら、妻は答えた。「まだ若いし。単に、付き合ってるってだけでねえべか?」
 「つきあう?」
 「好きな人同士が、結婚する前にうちあけあってな。待ち合わせて会って、あちこち一緒に行ったり。そうして、愛を深めてくだよ」
 「ふーん。好き同志なら、さっさと結婚すりゃいいのにな」
 「んな簡単にいかねえべよ。普通は、付き合ってる間に結婚しようと思えるか考えて。ちゃんと学校を卒業して。仕事について。お金をためて。んで、男のひとが結婚しようって女のひとに申し込んで、親御さんに許しを貰いに行って。大変なんだべ」
 そりゃ面倒でしんどいだろうな、と悟空は思った。
 「悟空さがおらにしょっちゅう会いにきてくれて、ちゃんとお付き合いしてれば、おらたちだってそうだったべ。てかそうなるもんだと思ってただ」
 こちらの腕を取り歩く妻の言葉に、また妙な気になった。そんな面倒くさい事が、こいつの理想だったのか。自分はそうすべきだったのか。
 よしんばそうするとして、そしたら、自分は、義父の城に住んでいたのだろうか。いや、会いに来てくれると言うからには別々に暮らしてるって意味だろう。
 でもそれって、会いたいときにすぐ会えず、こんな街中で会ってたら抱きたい時にすぐ抱けないって事だ。そういう時って、みんな、どうしてるのだろう?
 
 不意に、前の2人連れは道の脇の、ある建物に入って行った。妻が門口の看板を見て、びくっとして、やだ、とか言いながら頬を染めた。
 「なんだ?ここあいつらの家か?」
 「いいから、早く行くだよ」
 「なんだよ急に」
 「やんだ、こっ恥ずかしい!」
 ははあ。
 こいつがこういう反応をするのは、大体Hなことがらみだ、というのが見当つくようになっていた。看板を読む。休憩がいくら。宿泊がいくら。ああ、なるほど。
 押し問答をしているうちに、また、肌に残った妻の汗の香りが、昼に忘れかけていた青少年の回路を刺激した。こちらの腕を胸に抱きしめて、必死に引っ張ろうとしている。その柔らかさ。恥ずかしさに潤んだ瞳が、ぼんやりとした照明に映し出されてきらきらとした。木造の、装飾の多い建物の中から、薄く届いてくる女の婀娜声。
 顔は笑ったまま、耳元で囁いてみた。
 「汗くせえな。疲れてるだろ。ここなら風呂あるんじゃねえか?」
 妻が腕を離して真っ赤になった。逃げようとするその手を捕まえる。
 「…うち、かえってから」
 「今がいい」遮るように。沈黙という名の諾を得て、悟空は妻の手を引いた。
 
 ちょっと順番が逆だけれど。付き合ってる、って気分を味わうのも、悪くない。
 長い間待たせたんだから、一回位は、その夢見てたことをやってみてもいいじゃないか。
 熱い手を繋いで、少し軋む木の廊下を進む間、そんなことを囁くと、妻は言った。
 「そんなの、詭弁だべ。なら、働くところからやって欲しいだ」
 


 いいじゃねえか。しばらくは。だって、シンコンなんだから。
 部屋に入るなり、そう答えて、悟空は青い帯と一緒に、ずっと押さえてきた青い衝動の渦を解き放った。
 後に妻が主張するところの、それが、彼らにとってのちゃんとした初デートの一日だった。 
 
 
 
 









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