このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Life2




 人生50年などといわれたのは最早昔のこととは言え、いわゆる高齢化社会などというものは人類の歴史のうちから見ればまだほんの最近のことに過ぎない。それにしたって生まれた地域でかなり条件に差は出てくるものだし、寿命が伸びれば伸びるだけまたさまざまな問題は噴出するものなのである。今日も今日とてキングキャッスルの議会では介護、医療、交通の改善、その他もろもろの問題について盛んに意見が交わされていて、社会派とうたわれる新聞やテレビのチャンネルは問題の論(あげつら)いに余念がない。
 老いてなおどう人生を充実させるか、というのは彼らの最近気に入りのテーマである。生きがいを持つこと。仕事であれ、趣味であれ。地域とのつながりを保つこと、頼れる親族、家族との絆を維持すること。結論は至極単純ではあるけれど、言うは易し行なうは難しであるからなかなか解決するものでもありはしない。
 歳古(としふ)るということは、生老病死全ての苦に向かい合うことに他ならないのである。その苦に向かい合うには、まず健康だ、というのが、いまや仙人と称されるこの老人の信念のひとつである。




 朝4時半。暦は9月初頭、そろそろ昼と夜の長さも等しく整う頃。
 まだ薄暗い中、小さな島をささやかに取り巻く白砂の浜に老人は出て、いつもの如く肺に深く朝の空気を吸い込んだ。南洋の孤島とは言え、朝の空気は昼に比べれば冷たく透明で、昨夜通り過ぎた雷雨の名残の湿気が快く鼻腔を潤した。
 白鬚(はくしゅ)を持ち上げて老人は濃い色のサングラスの下で目を細めた。一般的に老境を迎えた者がそうであるようにこの老人の朝もまた早い。老いと言うものは人間の一日を細く長くする。まるで来るべきこの世との別離に向けて、少しでもこの世を長く覚え愉しめという神の配慮であるように。
 いくつかそのような深い呼吸を律動正しく味わい、老人はすっかりと背中に馴染んだ亀の甲羅を足元から拾って背負い上げ、細いけれども良く鍛えられた関節を折りたたむようにして屈伸を幾とおりかした。続いて今はもう古く、誰も受け継いでいない武術の型をいくつか禿頭の中の記憶から拾い上げて、ひとりでその流れをゆっくりとやってみせた。筋肉の流れ、力の流れに細心の注意を払いつつ。

 これが、今「武天老師」と呼ばれる老人の、長い長いことの朝の習慣だった。武は老人にとってすでに身体の一部であった。まだもう少しは若い頃…そう、100年も昔までは、その後取った弟子達に課したような苛烈な修行も自ら朝っぱらから行っていたものだが、50年ほど前に弟子を取るようになってからはそれもごく稀になり、このような体操で済ませるようになった。でもこれをやらないと老人にとって身体がしゃきっと、健康に目覚めたような気がしない、と思っている。
 体操が終わると、老人は浜の椅子に腰掛けてふかりと煙草をふかした。禁煙にうるさい都のものなら、朝の空気を愉しんだあとになぜそんなと謗られそうだが、老人にとっては朝の空気もこの煙も等価のものだ。どちらもうまい、と感じられることに、今日も健康であることを実感し感謝する。煙が紫に金銀を混ぜた払暁の空にゆらりゆらりと立ち上るのを眺めるのがとても老人は好きだった。ゆったりと大気に溶けてゆく紫煙を、ゆったりと眺めていられるこの時間が好きなのだった。
 歳をとるとめったに夢も見なくなってきたが、ゆうべは珍しく昔の夢を見た。一番弟子だったあの男の夢。あの男も煙草が好きだった。まだ若い頃に自分が教えたのだったっけ。自分の師はそういう面ではとても厳しいひとだったから、まあ自分はいい師ではなかっただろうな、と思う。煙草も教え、女遊びも教え、長いこと身の回りの面倒を見させ、自分のところの看板にし続けてきた。
 あの頃もそういう罪悪感がちょっぴりでもなかったといえば嘘になるけれど、こういう朝に並んで腰掛けて吸う煙草は極上のうまさだったなあ。そのうち、図体のでかいあの男がその身体からしたら狭いあの網戸の戸口から覗き込むようにして、野太い声で朝飯が出来たと呼ばわるのだ。…さて、今の不肖の弟子もそろそろ起き出して飯の支度をしだす頃だろう。もうあと1年半余りまでに迫った戦いを控えて今日も朝から修行に励む弟子のために、少しは気遣いも見せてやろうか。


 老人が世界最強とうたわれ称えられたのも最早昔のこととなってしまった。表向きにはまだ彼は武術の世界での神であったし伝説的な存在であったが、実際のところ公式な大会においては既に世代は彼の孫弟子(同時に彼自身の直弟子でもあったが)よりも更に新しいもの…そう、確かミスターサタンとかいうものに移っているようだ。また、ひとに知られていない部分ではすでに戦いのレベルは、人知を超えたといわれた彼にも想像を絶する世界に突入していた。天下一どころではない、宇宙全体の一二を争うというレベル、さらにそれをも手玉に取る人造人間が現れるという予言すらもたらされていた。今一緒に暮らす弟子は、それになんとか合力できないかと日々頑張っている。老人の力はもうその弟子にも遠く及ばないのだった。
 内心忸怩たる物がないとは言えぬ。宇宙人だから、人造人間だからと諦め切り捨てるのは簡単なことだけれども、だからといって自らを卑下するのはあまりにプライドがなさ過ぎる。弟子はそのように思っているのだろうし、それは自分だって同じだ。が、自分が追いつく努力を放棄してしまったのは、いつのころからだったろう。ある意味、その努力を放棄すると言うこと自体が、老いと言うものなのかもしれない。







 「では、老師様、行って参ります」
 「おう、テーブルの上の書きつけのものを買っておけばいいのじゃろ。今日もがんばって行ってこい」
 今日も弟子は朝食の後片付けをするなり天気予報専門チャンネルを見てから適当な場所を選んで修行に出かけてしまった。以前サイヤ人が来襲する前には神に修行をつけてもらうためにずっと留守にしていたこともあって、その流れでしょっちゅう長期間家を留守にしていたものだったが、今回は3年近くと言う長丁場の準備期間があるものだからとなるべく晩には帰ってきてくれるようにしている。全くまめな弟子だ。
 老人は家に一人になった。もう一人今の家族といえるウミガメはまた先日から海に出ていてまたしばらくは戻る予定もない。適当に食休みにテレビを見たあと、その辺を掃き、洗濯機を回し、半分ほどは2階の部屋の窓辺に吊ってあとは乾燥機にかけた。乾燥機ももう大分古びてがこがこと変な音を立てるようになってきたのでそろそろ買い換えないとならないだろう。なにせ、買ったのがもう15年近くも前のこと、いきなり4人暮らしになったあの頃からの品だもの。
 台所のこれまたレトロなラジオが南の都に在る局の電波を拾い、古い曲をいくらか流す間に家事は終わった。流れる音楽が一層日差しの間にひっそりと佇むこの家の静寂を際立たせている。息抜きにちょっと飲み物を飲んだ後にコップを洗っていた流しの水道を止めると折りよく曲が終わり、ざざあ、ざざあ、という波の音が響いた。足元に、ブラインドを分けて照りつける日の光が熱い縞模様を板間に投げかけている。ラジオが伝える11時半のニュースは今日も平和そのものだ。これも、老人の長い長い隠棲暮らしのありふれた風景だったが、老人はこの風景を愛していた。それこそ100年はゆうに倦(あぐ)むことなく続けるほどに。
 さて、昼を作って食べたら頼まれている食料などの買出しに行こうか。そのついでに、よその浜に娘達の鑑賞にでも行こう。今日は日曜日だもの、若い学生なども来ているにに違いない。
 そうニマニマしていると、台所の窓の半分降ろされたブラインドの隙間に、何か金色にきらめく物が見えた。飛行機にしては小さいし、あほうどりか何かか、と思ったがどんどん近づいてくるようだ。

 窓から顔を出すと、それは大きく手を振った。「おおい、じっちゃん、久しぶり!」

 「悟空ではないか」細い首をブラインドに当てそうになりながら亀が首を伸ばす如く伸びをして呼びかけると、雲に乗っていた男と幼子はあっという間に近くまでやってきて止まった。「悟飯もきたのか。久しぶりじゃのう、でかくなって。なんじゃ、今日はまた連れ立って」
 「今日は僕達日曜日で修行がお休みなんです」男の膝に乗っていたTシャツに短パン姿の子供が身軽に雲から飛び降りてはきはきと喋った。その様はここに始めて来た時分の、いかにも人見知りで甘えっ子だった様に比べたらまるで別人に見えた。「だいぶご無沙汰してますし、たまには遊びに行こうとお父さんが。お電話もせずにいきなりすみません、ご用事とかありましたか」
 「あり?クリリンは?」いつもの山吹色の胴着ではなくて、ジーパンの上に少し秋めいた色合いのシャツを羽織って袖を捲り上げて止めたといういでたちの男が辺りを見回した。全く見慣れない格好なので、老人はほお、と改めてこの弟子を見た。なにせこいつが大人になってから…会う時は胴着ばかりで(入院着くらいはあったけれど)私服と言うものを着ているところを見るのは初めてだったので。なんだ、意外にちゃんとした格好をすればそこそこ見られるではないか。そう思っていたところに改めて呼びかけられた。幼い頃と同じ、丸い無垢なまなざしで。
 「じっちゃん?」
 「あ、ああ。クリリンの奴は今日も糞真面目に修行に行っておるわい。全く、来るなら来ると前の日にでも電話すればあやつだってたまの休みを取ってうちに居たじゃろうに」
 「なんだそっか」
 「呼び戻そうにもわしにはどこにおるかわからんぞ。あやつはいくつか気に入りの修行場があって、毎日適当に選んでつかっとるようじゃから」
 「いいよ。どうしても急な用事だったらオラが瞬間移動で会いに行くから。それより今日はじっちゃんに用なんだ。ミクロバンドって前ブルマに貰っただろ。まだ持ってる?使ってないんだったらくれ」
 「ミクロバンド?あーあー、あのちっこくなれる機械じゃな。捨てちゃおらんからどっかにあると思うが。後で探してやろう。まあつっ立っとるのもなんじゃ、あがれ、今から昼飯じゃから」






 かつて修行をつけ始めたばかりの頃、老人はこの弟子について、これは案外難しいこどもだ、と感じたことがあった。かつて一番弟子であった男が拾い養ってきたというこどもは、その教育方針を疑いたくなるほどものを知らず、どうかすると自分より明らかに力弱いものに対してきっぱりと厳しすぎるところがあった。長いこと一人で居たからだろうか、日頃自分が強い強いと自負しているくせに、他の人間も自分と近い技量を持っていて同じくらいの体力を持っていて辛抱が効くと思っているところがあって、ちょっと立ち止まって優しい言葉をかけて気遣ってやるということを鬱陶しがるということがままあったのだった。
 あれから15年あまり。今目の前で作ってやったビーフンを食っている親子を見やると、先回って汚れを拭う鼻紙をとってやったり落ちたのを拾ってやったりと、もう7つかそこらになるのだからあからさまな赤ん坊扱いではないけれども、過去に明らかにこの子供を膝に抱いて男が逐一手ずから食べ物を与えていたのだろうと窺える仕草がふと見分けられる時があって、老人はなんだか面映いような、尻がむずがゆくなるような思いがした。
 ついているテレビを眺めながら談笑する2つの顔の似様に、自分にはわからぬ身内ならではの話題に、ちょっとした仕草や箸の使い方に、この大小が本当に親でありその子であるのだなあと、老人はサングラスの下のひそかな観察で実感を抱きもした。そう、弟子は今や、立派なとは言いがたくはあるが確かにひとの親だった。まったく、あの生意気盛りだった、男女の別もよく知らなかった坊主が、である。
 

 「ごっそさん」
 「ご馳走様でした、美味しかったです」
 親子は揃って手を合わせた。「朝飯食ったばっかしだから、こんくらいで丁度いいや」と弟子が笑った。なんでも今日は珍しく嫁が料理教室に出かけてしまって留守なのだという。昔の友人が主宰しているので、驚かしがてら行ってみるとか言っていたのだとか。なるほど、今日は食べ物をたかりにも来たと言うわけだ。
 こちらが食後の煙草をふかすと、子供が煙そうな顔をして、察した弟子がぱたぱたと周りを手扇で払っている。昔はこいつ自身養い親が吸う人間だったせいか、この一服にも何の文句もなかったのに。鼻白んで吸殻を灰皿に押し付けると弟子が切り出した。
 「さてと、じゃあ、じっちゃん、頼むよ」
 めんどくさいのう、などと悪態をついてやりつつよっこらしょと重い腰を上げると、弟子が隣に座っている子供の肩を叩いた。
 「じゃあ、父さんはじっちゃんと探しとくから、悟飯、おめえはクリリン探して来いよ」
 「え、なんで?」
 「やっぱいねえと物足りねえからな。なんならちょっと稽古つけてもらって来い。オラやピッコロばっかし相手してると幅が狭くなっちまうから。うん、そうしろ」
 不承不承子供は立ち上がった。老人は弟子を見た。
 弟子がちょっと小首を傾げて笑った。ちりん、と窓の風鈴が鳴った。一瞬考え、老人は玄関先で靴をはいている子供に呼びかけた。
 「待て待て、わしゃ今日はこの後食料の買出しに出る予定だったのじゃが、どうせなら今晩は待ち合わせて皆で外で食おう。クリリンに、5時に隣の、こいつらが修行した島の港に来るよう伝えておくれ」
 はい、と肯き、子供は少し曇ってきた空に濃い緑色のTシャツをはためかせて飛び立っていった。
 「よっし、じゃ探すか」弟子がにかりと笑ってボキボキと組んだ指を鳴らした。




 早速開いたクローゼットの中は、長年老人が溜め込んだ猥雑な雑誌でいっぱいだ。衣装もちではないので吊られた服は少ないけれど、こういう品がただでさえ少ない収納の大部分を占拠している。
 「だーから悟飯にはつきあわせたくなかったんだよ」弟子がひとやまひとやま後ろの板間に積み重ねながらぼやいて見せた。「こんなことじゃねえかと思った。昔っからこん中にエッチな本溜め込んでるって知ってたかんな、オラ。こんなの悟飯に見せたって知れたらオラチチにぶん殴られちまうよ」
 老人は苦笑した。本の山の下から現れたダンボールをひとつ覗き込むが、それらしきものは見当たらない。さて、どこにしまいこんだだろうか。長く目にしていないし、そんなすぐ見つかるところに置いてるはずは無いと思うが。
 2,3他の同じような箱を開けてみるが、中にはもう再生機具もないこれまた猥雑なフィルムや昔流行した服がもう薄らいだ樟脳の香りにうもっているばかりでいっかな目当てのものは見当たらなかった。あとはもうひとり私物の収納なのでそっちにはないだろう。

 「あ、なつかしいな、これオラたちの教科書とかノートじゃねえか?」クローゼットの中の最後の同様の箱を開いた弟子が声をあげた。「じっちゃん物持ちいいなあ。ていうかちょっとは捨てりゃいいのに」
 「まあそう言うな。これは思い出の品っちゅうやつじゃからな。年寄りにゃなかなか捨てられるもんじゃないぞい。ほ、なんじゃそれは」弟子が開いて読みかけているのを見ると一冊の薄いピンクの背表紙の本だ。「ああ、国語の教科書か。どうじゃ、おぬしはあの頃本当に勉強嫌いでしようがなかったものだが、勉学もものの役に立ったじゃろう」
 「立った」ちょっとにやりとして弟子が本を閉じた。正直これが一番な、とかかすかに呟いたのを聞きとがめてからからと笑うと、珍しく弟子がしまった、というような顔をして赤くなってそっぽを向いた。まあ、有効活用してあのように子供に恵まれたのなら確かに人生で一番役に立った勉強だったろう。そんなにきわどい描写はないからさすがに肝心なところは自分でどうにかしたのだろうけれど。
 こちらが見ていたアクセサリーやら小物やらを入れている小さな棚の中にも件の品はなかったので、捜索は2階に移ることになった。散らかし放題のままで階段を上がる間に、そもそもの疑問を老人は投げた。
 「大体、何だってミクロバンドなぞ必要なんじゃ」
 「あいつにやるんだ、もう誕生日だから」
 「悟飯にか?まあおもちゃ程度にはなるじゃろうけど」
 「チチにだよ」
 丁度その答えと同時にドアを開くと風が通って、陽光に、干していたシーツやらタオルやらが白く眩しくはためいた。うお、と言う声に背後を振り向けば、自分の頭より大分高いところに、弟子の気持ちよさげに風に頬をなぶらせる顔が見えた。こちらが腰を折っているとは言え、こんなに背が高くなっていたのかと驚嘆する。
 「なつかしいな、この部屋も。昔ここで寝てたんだなあ、オラ。今はじっちゃん一人で寝てんのか」
 「あ、ああ、そうじゃな」
 「ランチもいなくなっちまったんだよな」かつて入院中に色々世間話をしてやったので知っているとは言え、今更ながらその喪失を知ったような顔で弟子は呟いた。「寂しくなっちまったな。いいやつだったのに」
 ああ、と老人は形ばかり応じ、中に入った。もうどこに居るかも知れぬ、そんな別れが老人にとって今までどれほどあったろう。だが彼女が去っていった事はこの家の歴史にとって間違いなく特別で大きなトピックのひとつだった。ほんのちょっとだけしんみりとなった空気の中、また捜索は開始された。階下のラジオでもつけてくればよかったか、と老人は思った。昼下がりの海が照り返して、ぎらぎらと斜め天井に光を投げかけて騒がしく踊っている。



 30分ほど、またクローゼットの中やら、そこも見つからないので天井裏の物置の中に弟子を潜らせてまで探したものの、どこにも見当たらない。さすがにもう誰かが間違えて捨ててしまったのかと諦めかけた頃にようやくそれは見つかった。


 「あ、あったあった。悟空よ、あったぞい」
 「ホントか」
 「ほら、これじゃろ」
 目当てのミクロバンドはなんのことはない、2階の部屋の自分の机の奥深くにしまいこまれていた。試しに老人自身が嵌めてボタンを押してみると、あっという間に世界が巨大に膨れ上がり、天井が怖ろしく遠くなった。折悪しく、本格的に雲の出てきた空から風が吹いてきてうっかり足元が危うくなった。
 「おっと」慌てて弟子がしゃがみこみ(大きくなった図体でいきなり覆いかぶさってきたものだから雪崩れ込んでくるようで逆に怖ろしかった)掌で周りに壁を作ってくれた。戻ってふう、と息をつきながら渡してやると、サンキュ、などと言いながら弟子はそれを受け取った。
 「やれやれ、疲れたわい。この有様をまた元に戻すかと思うと大儀でかなわん」老人はベッドに腰掛けながらぼやいた。
 床一面に広げられたもの、もの、もの。掃除用具やら文房具などの雑多なもの、今の住み込みの弟子の衣類、リネン。年中暖かくて季節もないから衣替えをせずに済むので衣類が少なくてよいのは幸いだったが。以前いた女の置いていった本やら服やらのいくばくか。本、音楽ソフト、救急箱やら身の回りのもの、そしてアルバム、記念の品。
 「確かにちょっとは捨てたほうがいいかも知れん。なんせ100年以上はまとまって捨てた覚えもない」
 「100年!」机の付属の椅子の背もたれに顎を凭せかけた弟子が思わず首を上げて素っ頓狂な声を出した。「昔も聞いたことあるけど、じいちゃんいったいいくつなんだよ」
 「言ったじゃろ、内緒じゃよ」
 「ケチ」昔と同じくぷう、と頬を膨らませた弟子に向かって言い訳をする。「わしゃ元々そんなに余計なものを買わんから、これだけですんどるんじゃ。おぬしが死んだ時に2,3度チチの見舞いにおぬしの家に寄ったが、まあおぬしの家だって構えてそうそう時もないのに沢山ものがあったではないか。写真だの、悟飯の小さい頃描いたものだの遊び道具だの。そういうもんは簡単に捨てられん、そういうもんじゃろよ」
 「…」弟子がちゃらり、と手の中のミクロバンドを鳴らして、こちらを見た。顔は丁度後ろから差しはじめた日が濃い影を投げかけているので判然としなかったけれど、その目がなにか言いたげに揺れているのを老人は感じた。感じたので、少し目をそらし、サイドテーブルにあった煙管に葉を詰めながらゆっくりと聞いてやった。
 「なんじゃい」
 「…これさ、チチが筋斗雲に乗れなくなったからやろうと思ったんだよな」
 「…ほう?」
 「長いこと留守にしてたし、これでも使ってまた一緒に筋斗雲使ってどっか行ったりして、機嫌とっとかねえと…なあ、じっちゃん」

 一瞬殺気に似た、強い言葉にならない思念がこちらに向かって飛んできて、また洗濯物がゆるくはためいた。風もなかったのに。

 眉を顰めると、弟子が首を振って笑い、立ち上がって床のものを拾い集めて適当にまたもとの箱に放り込み始めた。丸めた背中から声が聞こえた。
 「…いや、いいや。忘れてくれ」

 それで、老人は火をつけて、なかば止めていた息に煙を混ぜて深く吐き出した。
 まったく、齢をいくら重ねても、この浅はかで軽率な性格は直りきらない。昔から姉に詰(なじ)られ続けているとおりだ。
 伊達に仙人と呼ばれているわけではない。弟子がぶつけたかった自分への恨み言は、自分が茶化して発した冗談でこの弟子の妻をひどく傷つけたことだった。それのせいで、本当に嫌だと、怖いのだと弟子が思っていると、だから帰ってこないのだと彼女が心を閉ざしてしまったこと。
 広くなった背中に向かって詫びの言葉をかけようと、老人は白鬚を持ち上げた。でも、おそらくこの弟子は自分がそれを悟ったことをこころで読んだ。その上で忘れてくれと言った。今自分がことばにすれば、かえって傷つけるだろう。
 だから、老人はまた茶化した。
 「のう、悟空。折角だから、エッチな本の数冊でももってゆくか?こっちも荷物が減っていいわい」
 ちょっとぴくっとして、弟子が座り込んだまま振り返って唇を尖らせて見せた。「いい、怒られるから」
 「ほんに尻に敷かれきりおって。ああ、そんな適当に詰めたらかえってまた出して詰めなおしてと手間がかかる。もうよい。早いが買い物もあるし、そろそろゆくか」

 




 曇り空のおかげで今日は暑くなりすぎずに済んだ。ボートでかつて修行をした島に渡り、島の市場で書置きを手がかりに買い物をすることにした。
 
 夕方の近づいてきた島の市場は夕飯の材を求める女たちや、近くのささやかな缶詰などの工場の勤め、または畑仕事を早めに切り上げた男たちでにぎわっていた。5年ほど前に少し大きなスーパーがもうひとつ向こうのもうひとつ大きな島に出来たのだが、日々の買い物にまで船を使うのも億劫な島人は日頃はここを未だにつかっているようだ。
 久しぶりに顔をあわせる人に手を上げながら進むと、連れ立って歩いているのが15年前にこの島で修行をしていた少年の長じた姿だと思い至る者もたまに居て、そういう人たちは一様に驚いた後に感慨深そうな、懐かしそうな顔をした。弟子はそれに笑い返しながら歩き、ある者には声をかけたりした。嫁のお供で慣れているのだろう、弟子は貸しかごを率先して担いで、時折はこっちのほうが安い、などと買い物に口を挟んだりもした。
 はじめてこやつをここに連れてきたときには、賑やかに人と人とが金とものをやり取りしている姿に目を丸くしていたものだけれど。そう老人は微笑んだ。あの頃のこいつときたら、金と言うものが理解できず、また計算も出来なかったから、どうやら金を渡すとものと引き換えられるのだとわかったあとも、渡すだけ渡してしょっちゅうおつりを貰い忘れて傍らに居たもう一人の弟子に呆れられていたものだった。社会勉強だからと初めてひとりで買いものに行かせてみて、まるで小学校前の子供にそうしたように、後ろからこそこそと皆で物陰から見守ってはらはらしていたのも、今となってはいい思い出である。





 老人が8ヶ月の修行の間にまだ少年だったこの弟子達に施したのは、武術の技よりもむしろ、「基礎となるもの」だった。体力の基礎、動きの基礎、知識の基礎、そして人と共に暮らすことの基礎。
 この弟子が長らく一人でいたために人との関わりに無頓着な点があるのとはまた逆に、もう一人のほうには、同様に身寄りはないけれど幼い頃から大勢の中で上下関係に気を配り続けながら厳格な規律の下に暮らしていたために、ともすれば人に気を遣いすぎる面があった。かてて加えて周りが皆ライバルであったから、特に最初の頃には敵愾心ばかりが目立っていたものだった。よって2人の間には、少なくとも最初のひとつきほど、暦が本格的に秋になる頃までは明らかな摩擦があった。この弟子はぶつけられる嫌味等に理解が鈍かったものだからたいていは柳に風と言う有様だったが、存外こちら側も一旦攻撃材料を見つけるとねちねちいつまでも根に持っているようなところがあったので、老人が把握している限りでも2,3回は二人は取っ組み合いの喧嘩をした。まあ両者とも最低限の意地はあるのか、例えばおろかな子供が仲の悪い兄弟の行状を親に言いつけて更に怒りを買うようなそんな真似はしなかったので、共に暮らしていたおとなたちは板ばさみにならずにすんでいたのだが。
 ゆえに、老人は、なるべく2人が、人として営む家庭と言う最小限の単位と言うものを理解してゆけるようにとひそかに心を砕いていたものだった。所詮は擬似家族に過ぎなかったがその試みはある程度は成功し、いつしか少年二人は友人と呼べるようなものになった。この弟子の、人に対して頓着のない様子は本質的には変わらなかったけれど、人と交わることの基礎は得られたのではないかと思う。むしろ、この弟子に対して自分が授けてやれたことなどそれくらいしかないのかもしれない。





 購ったものを冷蔵のカプセルにしまい、港のはずれ、小さな無人の浜を望む石垣の上で、師と弟子は氷菓子を並んで食べた。昼飯からこっちろくに茶も飲まずものを探し暑い中うろつきまわっていたので、さすがにのどが渇いたので。
 「もう計算もちゃんとできるようになったようではないか。九九はちゃんと言えるようになったか」
 「ちぇ、馬鹿にすんなよ。神様にも散々勉強させられたしさ、もうそんくらい言えらあ」
 「そりゃ賢くなったもんじゃ。あの頃はどれだけ風呂上りに暗誦させても、3の段あたりになるともうつまずいておったのに。最初の武道会の後おぬしが飛んでいってからしもうたと思ったわい、まだ九九はとても卒業させられるレベルではなかったのにと」
 からからと笑う声が、夕暮れの迫って青紫に沈み始めた島の西の海に広がっていく。
 カップの下で氷で薄まった葡萄味のシロップをストローで吸い、男は顔をしかめた後で懐かしそうな顔をした。「この島も少し変わったな。でも前のまんまだ。オラじっちゃんたちがフグにあたって寝込んで病院に入ってたとき、暇だからあちこちうろつき回ってみた。ワクワクしたなあ。世の中には、いっぱい人がいるんだな、オラこれからここで暮らすんだって。山んなかで一人で住むのとは全然違う暮らしが始まるんだって」
 同じように練乳味の水を啜りながら老人はふうん、と相槌を打った。初めて聞く話だった。むしろ今だからこそ語れることなのかもしれない。弟子は少しの間の後続けた。



 「たまに、もしオラのじいちゃんが死なずに居たら、…オラが死なせずにいたら、今頃オラはどういう人生だっただろうって考える」



 その言葉の押し殺した響きに、老人は思わず白い眉を持ち上げて、横目で傍らの弟子を見上げた。サングラスと言うのは便利な代物だ、と思う。弟子は身体を折り曲げ、膝の上に頬杖をついて、整った鼻梁をまっすぐ海に向けて逆光の影の中にはるか遠くを見つめる視線を沈ませていた。二人の足元に咲くハマボウフウの白い花が、ハマヒルガオの薄紫の花が、夏の光を惜しむようにその身に受けていた。

 「…もしもの人生を考えることほど、無駄でつまらんこともないぞ」
 
 「でも、思うよ。オラは本当はもう死んじゃってる人間なんだ、と最近思う。じっちゃんは長いこと生きてきてさ…」
 そこまで言ってまた弟子は黙った。口下手なのは相変わらずなのか、と老人は思った。勉強の時もそうだった。ものを考えていないわけではない。考えてないわけじゃないからたまになにか質問しよう、より良い答えを得ようとはする。するのだがうまいことそれを口に出来ない。
 挙句、自分の中で完結をして、それを棚上げにしてしまう。それは師としてよく把握している、この弟子の性格だった。



 共に暮らしているなら時間をかけて向き合ってどうにか質問を引き出してやれるしあの頃は自分はそう努めてきた、が、今はそうではない。
 だから、こいつが変に完結してしまう前に導いてやらなくてはならぬ。



 「わしとて本当は死んじゃってる人間じゃよ?ピッコロ大魔王に殺されて、神龍も殺され、本来なら生き返ることもかなわなかったはずじゃ。それを神に願って生き返らせてくれたのは、おぬしではないか。
 わしゃもう本当に長い、長いこと生きてきた。下手をしたら、自らもういやだ死にたいと願うだろうほどの長さをな。それでも死を覚悟した時は人生これで終わりかと絶望し、生き返ったときには思うたよ。生きられて良かった、やはり生きていたい、おぬしら、皆とまだまだ生きていたいとな」







 弟子は刻々と色を変え光を失っていく海を変わらず遠い目で見ていて、ぼさぼさの黒髪を風になぶらせていた。襟元で薄いカーキ色のシャツがはためいて、ふとすればその表情は、はるかな昔によく見た、国と国とのいくさに借り出されてゆく名もなき一兵のそれにすら見えた。そうだ、この弟子には昔からそういう時代の空気のようなものがふと感じられるようなところがあった。それが、いくさを生業としそのためにこの星に遣わされた宇宙人の血なのか、育ちによるものなのかは今考えてもわからないところだったけれど。

 「おぬしだって、そうじゃろう?」
 「…うん」
 「ならばそれで良いではないか。これが、わしがおぬしに師匠として授ける最後のことじゃよ」


 
 
 弟子が、…悟空が、は、と頬杖を解いて、こちらに向き直った。向き直って、後ろから照って来る茜の光がその顔半分を明るく照らした。
 「ありがとう、じっちゃん」
 笑って、軽く頭を下げてきた。
 「一緒に改めて、クリリンにも、後で言ってやろう。…おぬしは、大人になったのう。今日一日で実感したわい。いい大人になって、宇宙一にもなって、なおさら子の親になったものが、いつまでもわしのしるしを負ってることもあるまいよ。前に、おぬしが結婚した武道会の前にも言ってやったが、ずっとあの胴着を着続けおってからに。もうとっくに追い越されているものにそういう真似をされると、ある意味嫌味にも思えてならんわ」
 「いやまあ、最近戦うときは亀のマークつけてなかったんだけど」いきなり明るい表情になって悟空が頭を掻いて笑った。拍子抜けして鼻白むと改めて笑顔を作り直して続けてきた。「でも、オラ、じっちゃんに習えてよかったと思う。きっと、オラのじいちゃんだって多分そう思ってる。今日荷物ん中にアルバムあったろ。じいちゃん写真の中ですごく楽しそうだったから、きっとそうなんだと思う」
 

 うっかり、サングラスの中ににじみそうになったものを老人は押し隠した。まったく、サングラスと言うのは便利だ。
 悟空が、更に笑って続けた。いつか、疲れきってその辺でへばっているのを杖で小突いて言葉をかけてやった時返してきたのとおんなじ、晴れやかな笑顔で。



 「師匠って、たいへんなもんだな、じっちゃん。オラは、まだまだひよっこだ」




 
 そして、おもむろに立ち上がって、おおい、と海に向かって手を振った。
 老人は思った。やはり、その影の、なんと大きくなったことだろう。
 手を振る先の空中から負けじと大きく振り返すのは、親友となったかつての修行仲間。そしてもうひとり、息子であり、彼の今の弟子でもある子供。見上げる顔の向こう、海風に千切れた雲が騒がしく空を七色に染まりながら駆けて行くのが、目に美しく鮮やかだった。
 老人は、また不意に、昔の一番弟子、二番弟子との日々を思い出した。今朝見た夢、あれは何かの兆しだったのか。
 
 「さあ、オラ腹減っちまったよ。久しぶりに、あの頃いつも昼食べてた店でも行きてえな。そのつもりなんだろ?」
 ああ、と笑って立ち上がる。そして願う。どうか、死のうなどと思ってくれるなよ、と。
 そう、真剣に願う。どうかこいつらが、楽しく年老い、人生を豊かに過ごしてゆけるようにと。


 自分は、それが、武術の極意だと教えた。それは、今でもいっかな変わらない。長い長いこと抱き続ける、人生で最大の信念だ。

 
 
 









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