このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Life


 


 義父がはじめて2人の新居に来ることになった。

 
 「悟空さ、電話出てけれよ」
 9月に入ったとは言えまだまだ残暑も残る週末の昼下がりに、古風な呼び出し音の孫家の電話がじりじりと轟いた。悟空はその時悪阻の真っ只中の妻がやっとこ作ってくれた大量の素麺をダイニングで啜っている最中だった。電話は嫌いだし口の中にものは入っているしでほっときゃそのまま切れるだろうと思っていたのだが、寝室から妻のか弱げに命令する声がするものだから仕方なく急いで飲み込みながら椅子を立った。

 「…はい」

 食事を妨げられた恨みもあって悟空は大変ぶっきらぼうに受話器に向かって低く一声発した。こないだみたいな面倒臭いことにならないといいなあと思いつつ。こないだと言うのは、妻が寝ていたものだから仕方なく電話に出てやったら、やたら親切めいた口調で何かいいものをくれるとかいうことを言うものだからすっかり気をよくして応じてしまって、あとでやってきたカンユウインとかいう者に応対する羽目になった妻にこっぴどく怒られたのだった。くそ、今度はうかうか応ずるまい。
 「なんだ?誰だべ?悟空さだか?」
 受話器の向こうで戸惑ったような野太い声が聞こえ、その相手を判別した悟空は急いでまだ口に1本残っていた素麺をつるりと飲んでがらっと声の調子を変えた。「あ、おっちゃんか?久しぶりだなあ」
 「おうおう、吃驚しただぞ悟空さ。なんだべそんな不機嫌な声しつまってよ。チチと喧嘩でもしただか」
 「んなんじゃねえって。チチと替わろっか?」寝室に向かって呼びかけようとした悟空を義父が止めた。どうせまた悪阻で寝ているのだろうからと。だから、と義父は言う。

 「来週あいつの誕生日だべ。おらその前日、水曜日かな?からそちらへ泊りがけで遊びに行かせてもらうでな。おめでたのお祝いも兼ねてプレゼントも持ってくで、楽しみにしてろって伝えてけろ。んじゃあな」

 

 そんな舅と新婿同士の至極あっさりとした電話を切って寝室に入ると、妻が以前より少し痩せた上体を起こしながら問うて来た。
 「何だって?おっとうだったんだべ?」
 寝てろよ、と促して、悟空はこの部屋にはいささか大きすぎる、妻が昔から城で使ってきた天蓋付の寝台の端に腰掛けた。腰掛ついでにヘッドボードに置いてある夏みかんの房をひとつ失敬して口に入れる。
 「おっちゃん来週来るってさ」実に簡潔な説明である。
 「らいしゅう?」妻が首をかしげた。「来週のいつだべ?」
 「水曜だって」
 妻はまだ理由に思い当たらない風をしている。どうやら自分の誕生日がらみと言う事に気付いていないらしい。寝てばっかりいるから日付の感覚があやふやなのかもしれなかった。
 またいかにも気だるそうにして白い半袖半ズボンの寝巻き姿の妻は寝台に横になった。あまり体を冷やすといけないと言うので冷房はかけておらず、窓を開け放ってせめても風が通るようにしている。外の桜の木で蝉がみんみんとうるさく鳴いていて、それが真っ青な空に、そこに浮かぶ白い雲に溶けていくような様が目に眩しく心地よい。

 妻が妊娠した、と告げてきたのは先月の初めのことだ。その翌日あたりからずっと彼女はこんな調子である。寝ても起きても気分がすぐれないらしく、いつも青い顔で気だるそうにしている。時折頭も痛いと言う。なによりしょっちゅう吐く。ろくに食えないのに腹が減ったら気持ち悪いと言い、食ったら食ったでまたもどす。おかげで飯を作るどころではない。結婚してもう4ヶ月になろうとしていたが、妊娠までの3ヶ月で彼女の美味い飯に飼い慣らされた身としてはなんとも辛い一ヶ月だった。
 「すまねえだなあ、悟空さ」
 見透かしたように彼女が呟いた。「家の事ろくに出来ねえで。奥さんとして情けねえだよ、おら」
 「いいって」
 まあそうは言っても正直家の事はどうでもいい。食事だって、ここんところ毎日自分がそうしているように、昔してきたように、自分だけならその辺でなんか捕まえて食えば済むだけの話なのである。本当に辛いのは…
 「ああ、でも水曜おっとうが来るんならちょっと掃除せねば。10日以上もきちんと掃除してねえんだもの」顔を覆って嘆いている、白いシーツの上でタオルケットを腹の上にかけて横たわるその様子を横目で上から見る。白い寝巻きからしどけなく伸びる四肢の白さが、天窓から漏れてくる光に輝いている。少し細くなったものの、身ごもったせいか、自分が熟させたせいか、胸はより豊かさを増して、薄い布地をじかに、まろやかな線で押し上げている。寝台に半分臥せっている体勢なものだから、なおさら強調されたように見えて仕方ない。
 グレーのタンクトップに黒い功夫袴を穿いたまだ19の夫は喉を鳴らした。なにせやることを覚えたばかりのやりたい盛りの年頃であるからしてその衝動は凄いものだ。畜生、どれだけ自分がここのところ忍耐を強いられているかも知らないでそんな無防備な格好をして!

 目の色が変わったのに気付いた妻が身を翻そうとしたが遅かった。いきなり横ざまに覆いかぶさって彼女の胸に服の上から顔を埋める。少しもどしたもののすえた臭いがするが知ったことじゃない。外で蝉がうるさかろうが日差しがきつかろうが知ったことじゃない。幾ら暑かろうが今時分が欲するのはこの女の体温だ。体内のじっとりと濡れた熱さだ。この体の柔らかさを掌に焼き付けることだ。
 鎖骨に、首筋にひとつふたつと、柑橘の香りの赤い吸い跡を残しながらにじりあがり、そのまま唇を吸おうとすると本気で胸元をぼかぼかと打たれた。
 「いやっ、さっきだって吐いたんだもの、絶対やだべっ」
 「そんな事言ってもうひと月もしてねえじゃねえか!」なかば悲鳴のような声で悟空は心の叫びを口にした。ひどい時には彼の体のにおいや体温ですら鼻につくといい、この部屋の隣の空き室で布団を引いて一人寝させられていたのである。まあむしろその方が自分で始末できるから有難いっちゃ有難かったのだが、熱帯夜の中でそんな悶々としたことにひとり耽っているなんて結構情けない。
 「おねげえだからもうちょっと辛抱してけれよっ」彼女が腹を庇いながら身を捩った。「赤ん坊のためだべっ。今が一番大事なときなのに、そんな目の血走った状態で手加減無しでめちゃくちゃされたら流産しかねねえだよ!ただでさえ常人より力が強いんだから!」手元にあった妊婦雑誌が、悟空の顔にばさばさとヒットした。
 しぶしぶ悟空は寝台から降りた。メシ食ってくる、と出て行く背に少し心細げな声が追いすがってくる。
 「浮気するんじゃねえだぞ」
 ちょっと振り返って、悟空は口を尖らせて見せてから寝室を後にした。

 

 まだ食卓の青いガラス鉢に残っていた素麺をかきこみながら、視界の端にある先月号の同じ雑誌を睨みつける。見出しには『袋とじ・新しくパパになるための心構え』とか言う文字が躍っている。…全く!

 あんまり辛そうだから修行で出かけるのも控えて家にいてやったら、どうせ家で暇にしてるんならせめてこれくらい読めと色々渡されて嫌々ながら(無責任だと罵られるのも嫌なので)一応目を通すだけ通しているのだが、なんだかぱらぱら読んだだけでも出産と言うのは随分おっかないことらしい。”異常”なんとかだの、手術だの、入院だの、不安だの、痛いだの、心構えだの、それはそれは力(りき)を入れて臨まねばならぬのだろうことが察せられる言葉だらけだ。その上、昨日読んだこの雑誌の件の袋とじにはそんな嫁さんを気遣ってやれとそりゃもう口を酸っぱくして何度も書かれていて、もう十二分に遣ってやってるつもりの悟空は心底辟易した。
 面白い内容といえば袋とじの中の、妊娠中の夜の生活の手ほどき位のものだった。そこだけは繰り返し読んだ(下世話な言い回しをすればおかずにしたのだった)。出来るようになった暁にはこんな格好でやってやろうとかそういうことだ。さっき耐えて耐えて耐えまくっていたのが切れてしまったのは多分そのせいだったのだろう。
 要するに、悟空はこの妊娠と言う事態に一ヶ月にしてすでに飽き飽きしていた。修行のおかげで『腹の中になにやらいる』ということはなんとなく判るしだんだん僅かずつではあれどそれがはっきりしてくるのは少しは楽しくもあったが、正直言えばそれは二人の甘い好き勝手な若い情熱に溢れた生活の絶頂だった三ヶ月目にして、いきなり飛び込んでぶちこわした闖入者だった。まあ一応『交尾』という言葉でその行為を最初に理解したのだから、『やれば』『できる』というのは自然の成り行きとして当然と言う事ぐらいわかっていたつもりだったのだが。
 少し陽も傾いてきた頃悟空は寝室に一声かけて家を後にし裏の山のほうに向かった。夕食を獲って食べるのだ。妻は妻でその時食べられるものを勝手に食べるだろう。昨日買い物に行って冷蔵庫に色々入れてやったばかりだもの。

 憎らしいほどに晴れて七色に移り変わる夏の夕暮れの下、悟空は故郷の山へと山道を登りながら、なんだかなあ、と軽いため息をついた。道端でカマキリの雌が、草に卵を産み付けてるのが見えた。その周りに微かに漂っているのは、哀れ食い散らかされた雄の体液の臭いだろうか。種を残して用済みとなって、せめても雌の栄養となった、その名残。
 茜色の温い風に乗って届いてくる蝉の声も、もう終わりだ。草原を、影濃く揺らしてさわさわと去っていく。もうすぐ、夏は終わる。ああ、人間も、ひと春の発情期が終わったらさっぱりそんなこと忘れて暮らせたらいいのに。

 悟空はひとつ息を吸って傾斜を増してきた道を駆け出した。体を十分動かせなくてくさくさしてるから余計なことを考えるのだ。義父が来るのは、いい気分転換になるだろう。


 

 

 そんな具合のままで水曜日がやってきた。いくら親娘同士だからってしょっぱなからこんな家のありさまを見られたくないと頑なに主張する妻に付き合って、悟空も朝っぱらから布団を干したり書いたものを買って来させたりさせられた。幾ら家事が嫌いとは言えこのくらいは養祖父と暮らしていた頃やカメハウスや神殿にいた頃だって言われればやっていたことだ。自分で腰を上げてするのが億劫なだけなのだ。
 妻は掃除機の排気の臭いにまた気分を悪くしながらも、悟空がほったらかしていた汚れをせっせと掃除した。ついついためていたシンクの食器もちゃんと洗い、カウンターもテーブルも磨きあげ、空き部屋も掃除して客用布団も用意し、寝室もシーツをちゃんとかけなおし、取り込んだまま籠にほったらかしていた洗濯物もちゃんと畳んだ。あんまり張り切りすぎたので後半はソファーでぐったりしていて、その分指示のもとに悟空が風呂掃除やトイレ掃除などさせられることになった。洗剤の刺激臭と無駄なアロマ臭に悟空まで気分が悪くなりそうになった昼前になって、義父が自前のフライヤーに乗ってやってきた。

 「チチ〜!ようやっただ!めでてえ、まんずめでてえだ!」
 「おっとう!久しぶりだべ!」
 朝っぱらから暑くって汗よけに額にタオルをねじり巻いて、ランニングに短パンで手足をびしょ濡れのままで、親娘の4ヶ月ぶりの再会にひしと抱き合う様を玄関先でぼさっと突っ立って見ていた悟空はまたなんだかなあと少し思った。親娘のやることなんだからやきもちなんか焼くのも馬鹿らしいとは思ったのだが。
 「ほれほれ、あっついし、家ん中に入るべよ、チチ。体はえらぐねえだか?ん?痩せちまってよう、ちゃんと食ってるか?」
 なんだか自分の家のように、義父は妻を家の中に引き入れる。大きい体で何とか玄関を潜ってリビングに入るなり、義父はカプセルを開けて色々な包み紙の色々な品を取り出して見せた。腹回りのゆったりとした服、腹帯、負ぶい紐、子供用の小さな玩具、彼女が実家にいた頃気に入りだったという素朴な焼き菓子、etcetc。
 「あんれまあ、やんだ、おっとうってば気がはええだよ」
 「まーだ男か女かもわかんねえもんなあ、まんず選ぶのに困っただよ。でもって食べ物もどうかと思って随分悩んだだ。チチはこんなとこまでおっかあ似だべ、悪阻も重いらすいからな。本当はもっと豪華なケーキなんど買ってこれたらよかったんだが」
 「ケーキ?なして?」
 「あんれ」義父が、後ろのソファで手持ち無沙汰にしていた悟空を振り返った。「悟空さに言ったべ、誕生日だから行くって」
 「…ああ!明日だったべな、おらの誕生日」妻がぱちりと両手を合わせた。「やんだ、悟空さ知ってたんだべ?言ってくれねえからおら自分でもすっかり忘れてただよ。おっとう、ありがと。覚えててくれただな」
 「なあに、嫁に行ったとは言えおめえは大事なおらの娘だ。忘れるわけあるめえ。さあ、おらおめえの手を煩わすのもなんだから食事はちゃんとおめえたづの分までこさえさせて持って来たでな、早速昼飯にするべ」

  そう言って親娘は折り詰めにした料理を取り出して皿を並べ、ご馳走の支度をはじめた。しばらくして用意も整い、さあ食べるかと言う段になって食べ物のにおいにやられた妻がまたトイレに駆け込んでしまった。おろおろと覗き込む義父を尻目に、二人で食べててと妻はまた寝室に引っ込んでしまった。
 食卓にひとりぽつねんと残された悟空は久しぶりのご馳走を前にしてはいたものの、つまみ食いもしないままでぼさっとまた座ったままだった。そこに、妻を寝室に見舞いに行った義父が戻ってきて、小さすぎる椅子に尻を下ろした。
 「まんず大変だべなあ」それだけ言って手を合わせて義父が食べ始めたので、悟空も黙々と料理に手をつけ始めた。義父の城の料理人のつくったものだからそんなにまずくは無いはずなのだけど、やっぱり何処か味気ない。せっかく、久しぶりに一緒に食べられると思ったのに。しかもなんだか義父は不機嫌そうだ。かといってなんだか面白くないのはこちらも同じなので機嫌をとる気もさらさら無い悟空はひたすら食べた。食べ終わったところで、義父が言った。
 「ちっと、おらたちで出かけようや。悟空さ、おら悟飯さんの墓参りに行きてえとずっと思ってただよ。連れてっちゃくれねえだか」

 そこで皿を片付けたあとで男たちは二人して山のほうに向かった。悟空は筋斗雲で、義父はフライヤーで。今日もいい天気で残暑が厳しかったが、南のほうにもくもくと白く高い入道雲が見える。熱い風が日焼けしそうな額をなぶる。とても好きな感触だ。なんとなく、自分が筋斗雲に乗れてよかった、と改めて悟空は思った。
 しばらく山地を飛んで、雲はある山の中腹の、粗末な庵のそばに降り立った。前の広場にフライヤーも下りた。どこだべ、と問う声に、悟空は近くにある山肌のそば、少し小高くなったあたりを指し示した。
 「ありゃあ、荒れ放題でねえか。草もこんな伸びちまってよう。悟飯さんがお可哀想だべ。チチはここに来たことねえんだか」
 そう言えばずっと雨がちの季節だったし、なんだかんだで妊娠まで遊びまわったり家事やら人に言えないことやらに夢中で一回も来たことが無いのだった。
 「嫁としてそりゃあいけねえだ。ちゃんとご先祖のお墓のお世話をせねば。あいつもそういうところはまだ娘っ子で気が廻らなくていけねえだが、悟空さも、もうちょっとまめにせにゃあ」
 ぶつぶつ言いながら義父は生え放題になっていた夏草をぶちぶち抜き始めたので悟空もそれに倣った。抜ききったところで悟空は久しく使っていなかった井戸を開けて水を汲んできて、言いつけられるままに墓全体にかけた。墓石もろくになくて、一個だけその辺の瓦礫の中から大きめの石を据えたばかりの、本当に簡素な墓である。義父は、携えてきた花と饅頭と、養祖父の昔好きだったという酒と煙草と、なにやら香のようなものを供えて長いこと手を合わせていた。悟空はその横で踵座りになり、蝉の声を聞きながらぼんやり雲を見ていた。こんな日は、よく近くの川で泳ぎを教わったものだ、などと思い出しつつ。
 しばらくして、義父が養祖父の最期について訪ねてきたので、気はすすまなかったけれど説明してやると義父は顔を覆って泣いた。
 「なんとおいたわしい。…そのうち、もっと立派におらがこの墓を整えてやるべよ」
 「いいって」
 「なしてだべ」
 「いいんだよ、これで。墓はいいんだ。オラにとってのじいちゃんの大事な形見は、四星球なんだから」
 にっ、と笑って言いはしたものの、実際悟空にとって手ずから養祖父を埋めたこの墓は、なんとなく記憶の片隅に封じておきたい場所だったのだ。義父は不承不承肯いて、最後に、また参りますなどと墓に声をかけて、立ち上がってフライヤーのところに向かって行った。じゃあ自分もまた筋斗雲を呼ぶかと思っていたら義父が手招きする。なんだと寄って行ったら、懐を探っていくらかを取り出してきた。
 「チチが心配だで、おらはもう戻るだよ。あいつの面倒見ててやるから、悟空さはこれであいつにやるプレゼントさ買ってくるがええだ」
 掌に渡されたのは多くは無いが、まあそこそこの額だった。大体、悟空がここのところお使いに出されている時に渡される3日分の食費くらいだ。目をぱちぱちさせた悟空の肩に義父の大きな手が乗った。「あいつもしつこい性格だで、誕生日くらいなんかやらねばあとあとネチネチ言われるだぞ。まして二人での初めての誕生日じゃあな。まあこんな時くれえなにか形に残るもんくれてやらねえと」
 唇を尖らせて、悟空はその札を穿いていた茶色の膝丈のパンツのポケットに押し込んだ。確かに、先だっての自分の誕生日に今もベルトにつけている時計を貰ったのに今回自分が妻に何もやらないのは不公平と言うものだ。
 「おっちゃんもさ、そんなにチチが心配で大切なら、やっぱり一緒に住めばいいのに」
 「なんだべ急に」
 「これから赤ん坊産んだらもっと大変なんだろ。あいつも向こうにいた方が色々楽なんじゃねえのかって思うんだけど」

 義父はちょっとまじまじと悟空を見て、まあまあ、などと答えにならないことを言いながらフライヤーに乗って先に行ってしまった。なんだかはぐらかされた気になった悟空は足元の石ころを蹴ったが、思いのほか飛んだそれは道の向こうまで転がって、草むらに隠れていた狐の親子がキャンキャンと赤い毛並みを翻して逃げて行った。

 結構真剣に言ったことだったのに。
 そのほうが、あいつにとってシアワセなんじゃないかと思ったのに。

 


 

 

 とりあえず、それなら買い物に行かねばなるまい。悟空がやってきたのはたまにお使いに出されているちょっと離れた町にあるショッピングセンターだった。さすがにいつものスーパーでは女の好みそうな何ほども無かろうと思ったのだ。
 道すがらちょっと考えては見たもののなにをやるかなんてまとまりやしない。エントランスの案内板とにらめっこしていた悟空は途方にくれた。いつも自分は食べ物しか興味ないからわからなかったが、呆れるくらいこの中は品物だらけだ。
 「どうすりゃいいんだよ」
 ぶつぶつ言いながらぶらぶらうろついていると、たまさか、書店の入り口の吊り広告で、タウン誌の特集に「彼女に本当に喜ばれるプレゼント大アンケート・結果発表!」などと書いているのを発見した。こりゃついてるとばかりに入って、またうろうろと件の雑誌を探したが見あたらない。 そのうち店長の初老の男がやってきて、聞いてくれた。
 「何かお探しですか」
 「うん、これこれ」悟空は後ろ歩きで入り口の近くまで出て吊り広告を指し示した。「これ探してるんだよ」
 「ああ、それならばここに」店長が指して、ついで手渡したのは悟空のすぐ脇の平台に山積みになっていたちょっとぶ厚めの雑誌だった。「レジへどうぞ、お客さん」
 「いや、いらねえ」
 「はい?」
 「なあ、これ中見れねえの?ちょっと中身見てえだけなんだけど」雑誌にはちょっとした付録がついていたものだから、十字に紐がかけられていて、他の雑誌のようには立ち読み出来ないようになっていたのだった。
 「お客さん、立ち読みは困りますよ」
 ぶー、と悟空は頬を膨らせた。かと言って雑誌を買うのも癪だし予算が減る。3ヶ月の妻の教育とこの1ヶ月のお使い生活でそれくらいは節約志向が身についていた。贅沢は敵である。そこで悟空は食い下がった。「なあ、頼むって。ヨメにプレゼントしなきゃいけねえんだけど、なにやっていいかさっぱりなんだよ、オラ」
 ヨメ、と店長は目を丸くした。「まだ若いのに」
 「ケッコンしたばっかしでよくわかんねえんだもん」
 店長は苦笑して、皺深い顔を優しく綻ばせた。
 「そりゃ大変だ。…雑誌は他のお客さんもいるし特別扱いはいけないから見せてあげられないけど、そうだね、やっぱりなにかアクセサリーかお花が喜ばれるんじゃないかね?なに?お誕生日?」
 肯く悟空の二の腕をはたきを持っていた腕で叩いて、店長は教えてくれた。
 「お洋服もいいだろうけど好みがわかれるからね、気に入らない服を貰っても余計機嫌が悪くなるものだ。新婚さんなら指輪はあるだろうし…ネックレスかイヤリングかな?それにお花でも添えてあげるといい。2階に行ってご覧、若い人の好きそうなアクセサリーのお店がいくらかあるからね」
 「サンキュー、おっちゃん!」
ぱあっと顔を輝かせた悟空は店長の手をぶんぶん握って、あっという間に二階へと降りて行った。

 2階、女性の服飾フロアに降りた悟空は面食らった。いつもエスカレーターで通り過ぎるときに、この階だけ変なにおいがするなあとは思っていたけどなんだこれは。あからさまに顔をしかめながら、Tシャツに短パン、こないだ海に行った時に穿いていたビーチサンダルと言うなんともラフな格好の悟空は化粧品各社のブースのスペースを通り過ぎた。出かける時とかにたまに妻からも同じような臭いがしていることがあるけれど、こんなに集まって交じり合っていると気分が悪くなりそうだ。本当に、なんだって女はこんなものをつけるのだろう。口紅なんか不味いだけなのに。
 平日の昼過ぎとあって客は凄く少なくて販売員たちが暇にしているところに現れた、ぼさぼさ頭の見るからに場違いな田舎者の悟空は物凄く浮いていた。販売員のオネーサン達が顔を見合わせながら興味津々注目する中で、そんなこと意に介さない悟空は大股にアクセサリーのコーナーまでやってきた。また場違い感がアップしていることには気付かない。とりあえず悟空は、ガラスのショーケースに並んだものを端から眺めていった。どうやら、そばにある小さな札が値段らしい。いち、じゅう、ひゃく、…

 あれ?
 悟空は急いでポケットの中の、今の全財産を掴みだした。1枚、2枚、3枚…桁がひとつ違うではないか!

 眼のいい悟空は急いで、目に入る範囲の、その店のショーケースの札を確認した。どれもこれもそうだ。
 「こんな高いのかよ!」
 それを聞いて、…運が悪いことにそのあたりに入っているのは、都でも有名な高級ブランドのショップだった…店員の、やたらさっきのような化粧品のにおいをさせたがりがりに細い女が上目遣いに堪え切れなくなってくすりと笑った。諦めた悟空は、そばにあったフロア端の階段から足早に1階へ降りて行った。買えないのなら、こんなところ1秒でもいられるものか。
 本当は、2階の逆の端のほうにはちゃんとそれなりのお値段の、まだ若い娘向けの装飾品がちゃんとあったのだ。書店の店長はそれを指して言ってくれていたのに、エスカレーターから『アクセサリー』の吊り看板を見て、そっちしかないと勘違いしてしまったのが不運だった。それにも気付かない悟空は、なんだかもう疲れて、時計塔のあるアーケード中庭のフードコートで、冷たい茶をぐったりと啜っていた。
 暑いし、そのくせ店に入ると冷房で寒いし、人は多いし(平日だし決して多くはない)、茶を飲んだら小便に行きたくなってきたし、ちっとも目当ての物は買えないし、変な臭いでまだ鼻がむずむずするし、ああ、もううんざりだ!
 もういっそ、いつものようにあいつが食べられそうなものだけ買って帰ろうか。自分も小腹が減ってきた。フードコートからはさまざまのいい香りが漂ってくる。でもいつも妻は『悟空さに金渡してそんなとこで食わせたら、あっという間に使い果たしちまうから、絶対買い食いはしちゃなんねえだ!』って口を酸っぱくして怒るのだ。ケチ。
 大体あいつがちゃんと飯を作ってくれたら、買い食いなんてしようと思わなくて済むんじゃないか!トイレで用を足している間に、だんだんと悟空はいらいらしだした。でも、本当に辛そうだし、そんなこと怒れやしない。だから、本当に、あっちに行ったほうが楽なんじゃないかと思うのに。頼れる義父の下で、大事に可愛がられて。欲しい物もいっぱいくれて。
 ずっとそんな風に可愛がられてきたくせに、わざわざ苦労することもないじゃないか。自分と二人で、苦労するよりも。
 本当に、そう思ってるんだ。でも、さっき義父に言った後で、しまった、とちょっと後悔したのは何故なのだろう。

 トイレから出てきたところで、中庭中央の時計塔が午後の3時を打った。賑やかな音楽に、集まってくる幼い子供たちとその親。あるいは祖父母。

 「おじいちゃーん、早くぅ!お人形さん、いっぱい出てくるよ!見て見て!」
 小さな男の子供が、はしゃぎながら呼ぶ声に、曲がった腰を引きずりながらも嬉しそうに急ぐ老人。

 「…そっか」
 悟空は小さな声でそう呟き、ちょっと、片方の腰の辺りを丸く撫でるような仕草をした。かつてそこに着けていたものをなぞるように。そうしてしばらく考えて、最後に両の手で太腿をぱんとはたいて、エントランスから外に出て行った。やがて筋斗雲が家とは逆、西の方向に猛スピードで飛び去って行った。

 


 

 

 

 西の果て、森深き聖地のはるか上空。
 朝も遅くになって起き出して来たヤジロベーが、塔の下の階で植物の手入れをしていた仙猫を覗き込んで告げてきた。
 「おい、なんだか筋斗雲がこっちに来るぞ。孫のヤローじゃねえのか」

 

 白い美しい尾をひょこひょこ揺らしてカリンが上階に上がると、まさに孫悟空が塔の手摺を飛び越えてくるところだった。
 「よう、久しぶり。カリン様、ヤジロベー」
 「そんな久しぶりでもねえだろ」4ヶ月前の武道会でも会っているし、神殿から出てくるときに塔にも立ち寄ったので、実際にはヤジロベーの言うようにさほど久しぶりと言うわけでもない。「何しにきやがった、人の寝起きによぅ」
 「オラここに忘れ物してなかったか?」大あくびをしてあわせの中をぼりぼりと掻いているヤジロベーを尻目に、孫悟空はカリンに向かって問うて来た。
 「なにをじゃい、いきなり」
 「ドラゴンレーダーだよ。オラが超神水飲む時に持ってきて多分そのままだったと思うんだけど」
 「ああ、そういえばそんなものあったな。ちょっと待っておれ」
 下の階のながもちから持ってきてやると、孫悟空は受け取ってカチカチとスイッチを押してほっと安堵した顔を見せた。
 「よかった、ちゃんと動いてら。いやー、参ったよ。ブルマに借りに行こうと思ったんだけど、あいつさ、ヤムチャやウーロンたちと一緒にリョコウ行っちまってんだもの。そういやここに置いてたんじゃないかって思い出せてよかったぞ」
 にかりと笑う顔は、雲に邪魔されない夏の日差しを背負って逆光の中変わらぬ白い歯を輝かせている。用が済むなり帰ろうと踵を返す淡白さは相変わらずだが、まあせっかく大陸の端から端まで遠来来たのだからとカリンは茶を勧めた。強い日差しに晒され続けてのどが渇いているらしく、じゃあ、と孫悟空は石畳に腰を下ろした。茶を用意する間の馥郁たる香りが薄い空気を潤していく。

 「なんだよ、またなんか願いをかなえる気なのか?」
 ヤジロベーが聞いた。
 「んー、まあな」
 「またろくでもない戦いがあるとかじゃねえだろな」先だっての武道会でろくでもない目に合わされたヤジロベーが鼻に皺を寄せた。「誰か殺されちまったのか?」
 茶碗を置いてやると、孫悟空は口にして、あちぃ、と舌を出した。カリンはちょっと小首を傾げて笑ったが、何か気になる。こいつらしくなく、何か言い淀んでいるような。同じことを感じたのだろうヤジロベーがまたなんだよ、とせかすと、孫悟空は意外な理由を口にした。
 「チチがあんまりツワリってのでしんどそうだから、ドラゴンボールで治せねえかなー、って」

 ぶうっ、っとヤジロベーが茶を吹いた。

 「ち、チチってあの時、お前と一緒に筋斗雲で行っちまった女だろ!ツワリって」
 「赤ん坊できちまってさあ、大変なんだよ、今。吐きまくるし寝てばっかりで飯も作れねえしさあ」
 さすがのカリンの糸目も思わず見開きそうになった。孫悟空が縁を結んだということは武道会から帰ってきたヤジロベーから伝え聞いて知ってはいたものの、本人からまさかこういうことを聞こうとは。
 「ん?なんか変か?」
 「い、いやあ、てめえもやることやってんだなあ、このっ」汗をかきながらヤジロベーがその背中を叩いた。なんだよ、などと照れるでもなくきょとんとしたその表情など初めて会った時の12歳のままではないか。

 でも、そうか。
 若者の成長とは、なんと早いのだろう!
 そして、紡ぎだす人生の、なんて眩しいことだろう!

 八百の齢を経た仙猫は細い目をもっと細めた。若者の得た善き縁と、隠れもない、相手への愛情と思いやりに。いや、しかし。いやいや、

 「いやいやいや!いかんぞ、悟空!」
 孫悟空が振り返った。カリンは続けた。
 「そのようなことでドラゴンボールを使っちゃあいかん!」
 「なんでっ」
 一応言い返しては見たものの、本心では理由を悟ってる目だ。なのに、そう願わずにおれなかったのだろう。そう見透かしながらも、改めてカリンは優しく諭してやった。
 「神は先だって願いをかなえた折、おっしゃられたな?皆おのれの欲のためにだけドラゴンボールをつかうのなら、もう神龍をこのまま、死んだままにしておこうと思っておられたと。ポポ氏からそう聞いておるぞ」
 「…うん」
 「妻を想うお前の気持ちは尊いものじゃ。しかし、それとて、結局は自分達だけ楽をしようと言う利己的な欲に基づくもの。子ができて、体に変調が起きるのは多かれ少なかれ差はあれど、子を育むことに慣れるためすべての女の体が体験する、大事な段階なのじゃ。わかるか?世の中にはもともと病を得た上で、それでも子を産もうとそういう苦しみも甘んじて受けているような女も沢山おるのじゃよ。それを、自分達がドラゴンボールと言うものを知っているからと言って、うかうか楽をしてしまったら申し訳ないとは思わんか?負けだとは思わんか?」
 「…」
 「前におれが言ったろ」ヤジロベーが懐手で腕組みをして脇から言い添える。「あのジジイとかが死んだ時にさ。病気や事故で死んだ連中だって悔しさは同じだってよ」
 「厳しいかも知れんがこれも妻が母になるための、そしておぬしが善き夫、善き父親となるための修行じゃと思え。人生是修行じゃよ。これも武道と一緒のことだが、大きな力を持っている者は、あえてそれをひけらかすことを誡めねばならん。ドラゴンボールに願いをかける事は、神に願いをいたすことと一緒。そして神はおっしゃったのじゃろう?『私へのねがいはこれきりだ、世界は自分達の力で切り開くしかあるまい』と」

 
 孫悟空は崩した胡坐のままで首をのけぞらせ、真摯な瞳で、天井を、いや、その向こうにある神殿を仰いだ。今は如意棒もなく下界と繋がっていないけれど、遠い遠い空の果てに確かに今も人々を見守り見下ろしているだろう場所を。 

 
 しばらくして、孫悟空は首を戻してにっ、と笑った。ちょっとまだ、痛いような笑いで。
 「わかった。でもそのうち、オラのじいちゃんの四星球だけでも捜すのは許してくれよな」
 「もう帰るのかよ」
 「おう、チチ待ってるし。…げ、さっさと帰らねえと、もう6時じゃねえか。時差?ってのあるからわかんねえよ」

 カリンはまた目を細めた。ポケットから銀色の時計を取り出して確認している、その手の、なんと大きくなったことだろう、と。

 急いで下の階に降りてまた駆け上がり、腰を上げて筋斗雲を呼んだ孫悟空の背中に、とって来たあるものをカリンは放り投げた。さすが鍛えているだけあって孫悟空は素早く身を捩ってそれをキャッチして見せた。
 「なんだ、この小さな草?カリン様」
 「さっき仙豆の苗を間引いておったのじゃよ。持って行け。仙豆ほどの力はないし、元々の病などの原因までは取り去る事は出来んが、そのまま妻に食わせてみぃ。少々苦いが、そうさな、一日くらいなら、気分が悪いのもしのげるやもしれん」
 「ほんとか!?」
 「わしからの結婚祝いじゃよ」やってきた筋斗雲を杖で指して、カリンは続けた。横でずるいずるいとぶうたれているヤジロベーの声を押しやって。「ああ、その筋斗雲も手狭になったら、新しいもっと大きなのをやろう。その時はまた来るがよいぞ」
 「いいよ、こいつで。狭くなったからって乗り換えちゃ可哀想だもんな」孫悟空は嬉しさに高潮した頬で爽やかに笑った。ポケットに入っていた小さな手拭に、その苗を大事に大事に折り込みながら。
 「でも、ありがとう、カリン様!早速食わせてみるよ。ヤジロベーも、またな!」

 「おお、速い速い。全速力で行ってしもうたの」
 「朝っぱらから迷惑なこった」ヤジロベーがまた、塔の縁の柱にもたれて大あくびをした。「あんまりばたばたと行っちまうから、祝いを言うのも忘れちまったじゃねえか」
 ったく、と悪態をつく太った腕を見上げて、仙猫はくつくつと苦笑した。「おぬしも、いい加減下界で嫁でも探したらどうじゃ。いい歳した男が」
 「やなこった。女なんて面倒くさいだけじゃねえか」
 「だからおぬしは、人間が練れてないと言うのじゃよ」

 


 

 

 

 「ひゃっ」
 「な、なんだべこの音はっ、隕石だか!?」
 あまりに慌てていたので目測を誤って家の白い丸屋根の上に飛び乗ってしまい、悟空は半分転げながらもうすっかり陽も落ちきった地上へ降りた。寝室にある家の裏口を開けようとしたが鍵がかかっている。危うく引き壊しそうになったところでがちゃり、と音がして、扉が向こうから押し開けられた。
 「ご、悟空さ!?なしただ、今の音は悟空さだっただか!?」
 たまたま起きていたのだろう、白いネグリジェ姿の妻がまだ青い驚いた顔を見せた。悟空はまるで噛み付くように言った。
 「チチ、これ食えっ」急いでポケットの中の手拭を取り出す。開こうとして力が余って、肝心の苗がひらり、と夏の夜風に舞った。
 「わ、わ、わ」
 「な、なんだべ、これっ?」
 危うくドアの溝に落ち込みそうなところで、スライディングで悟空は左の掌にその小さな、まだ双葉のような苗を捕まえた。ほっとついた息でまた掌の上のそれが揺らいで慌てる。
 右手の指でそっとそれをつまみあげて、しゃがみこんだまま妻を差し招いた。その段になって、物音に驚いた義父が、リビングに続くドアから何事かと様子を見に来た。暗い裏口で、室内の温かい我が家の光に頬を照らしながら、悟空は今度は優しく妻に言った。
 「食え。いい薬だ。カリン様に貰ったんだ。オラからのプレゼントだ」

 しゃがみこんだ妻が、悟空の目をじっと捉えた。逆光だけど、涙に揺らぐ眼差しで。その青褪めて冷たい頬を、土で少し汚れた左の指でなぞって、悟空は妻の口元に苗を差し出した。「一日くらいなら、きっと、具合もよくなるからって」
 妻の細い指がそれを受け取って、悟空の指ごと、そっと唇に寄せた。緑の若葉が、そっと柔らかい唇に飲み込まれていった。
 「本当だか…?悟空さ、そいつぁ」
 「ん」
 覗きこんできた義父に、悟空は力強く肯いた。「どうだ?チチ。効いて来たか」
 「どうだべ?チチ」

 少しの間の後、悟空はいきなり前に体勢を崩した。妻が首根っこにしがみついてきたのだった。ぎゅうっ、と抱きしめられた後いきなり離されて、今度は後ろにのけぞりそうになった。
 「ホントだ!すげえだ、なんか嘘みたいだ、気持ち悪いのもだるいのも、頭痛かったのもすっかり平気だべ!」
 「ほんとかっ」
 「ホントだか!?嘘さついてねえだろうな!?気ぃ遣って無理しちゃねえだろうな!?」
 「ホントだべ」そう振り返って微笑む顔に、室内の光が映った。本当だ。久しぶりに見る、頬のいい血色だ。久しぶりの、晴れ晴れとした笑顔。それが、自分に向き直る。

 「ありがと、悟空さ」
 「…一日しか、きかねえらしいけどな。でも、楽になったんなら…良かった」安堵のあまり鼻の奥が痛くなりそうな悟空の手に、そっと妻の手が触れた。
 「でも、嬉しいだ。偉いお方に無理言ってくれたんだろ。ありがとうな、悟空さ」

 ああ。
 口の中で応じて、悟空は微笑んだ。なんだか、言葉をつむいだら、泣いてしまいそうだったので。

 「よかっただなあ、チチ。ほんとにええもん貰ったなあ。ありがてえ。まんずありがてえご利益だ」
 「…そうだ、おっちゃん、これ返すよ」悟空は逆のポケットに突っ込んでいた、貰った金を差し出した。「ちょっと茶を飲んだから、その分だけ減っちまったけど。買い物しなかったから」
 「ええだよ。その金で、明日二人でどこぞでも、久しぶりに遊びに行けばええ。…じゃあ、おらは帰らせてもらうべな」
 「えっ」
 「ええっ、おっとう、なして」
 「折角の貴重な時間だ。邪魔ものがいちゃあまずかんべ?」義父は片目を瞑って見せた。「夫婦水入らず、仲良くおやり。悟空さ」
 呼びかけられた悟空はまだしゃがみこんだままできょとんとした。
 「おめえになら、チチをやって安心だ。今日本当にそう思えただよ。だから、ここで、2人で幸せにやるだ。そうだな、できるだな、チチ。うちに戻ってこなくても、でえじょうぶだべな」
 妻が後ろを振り返って、何の迷いも無く力強く肯いた。じゃあな、と寝室を出た義父は、早々に鞄を持って、玄関の脇からそのままそのまま、などと言いながらまたフライヤーに乗って行ってしまった。

 

 フライヤーが天上の天の川に紛れて見えなくなるまでそのまま裏口で立って見送っていた夫婦は、やがてどちらともなく顔を見合わせた。

 「さてと、明日はどうするべ」
 見上げてくる妻の顔に、悟空は微笑んだ。そしていきなり横抱きにして庭に連れ出し、ぶんぶんと横に揺すった。裸足のまま、まだ少し昼間の熱の残る裏庭の草を踏んで。
 「やんだ、そんなに振りまわさねえでけれよっ、また気分が悪くなったらどうするだっ」妻はしがみつきながら笑った。

 

 

 「明日のことより今だ」
 「うん」
 「チチの飯が食いてえ。一緒に飯が食いてえ」
 「うん」
 「一緒に風呂入りてえ」
 「やんだぁ」
 「そんでもって」
 「だめ」近づいた唇を妻の掌が遮った。「歯ぁ、磨いてからな」

 

 くすくすと笑った夫婦の耳に、柔らかな鈴虫の音色が、柔らかい夜風がそっと響いた。

 

 「してえしてえって、まるで悟空さの方が誕生日みてえじゃねえだか」
 「だめか?」
 「いいんだ。おらも、ずっとそうしてあげたかったんだもの。悟空さのために。だから、嬉しい」

 抱きしめあった、その温かさ。

 失った、家族の幸せ。入り込めなかった、よその家族の幸福な場面。それで、男らしくなく、たまに胸が痛くなるとしても。そんなことで、ちょっと心が捩れそうになっても。
 この女がいれば。この女が自分を、苦労は承知で選んでくれるなら…。

 

 
 優しく、してな。妻が、耳元で甘く囁いた。

 悟空は、まかせとけ、と耳元で熱っぽく囁き返した。

 

 今夜だけ少し辛いのは休憩だけれど、
 …人生是修行、だ。









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