このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
ブログの本体はこちらになります。あとがき・もくじもブログのこのページになります。よろしければ、WEB拍手小説投票で感想をお寄せください。


wave3

 




 

 

 目を開けてなお、そこは暗闇だった。
 ひどく寒かった。からだに触れる物体はひどく冷たかった。からだはひどく熱かった。
 ぼうっとした視界の隅に、所々緑の非常灯らしき明かりが見分けられた。その光が目の前で奇妙にうねっているので、少女は自分のほんの眼前に、プラスチックの覆いのようなものがあるのだと気づいた。足元から出て、裸の素肌をやんわりと撫でていく、冬の野辺を渡る風のような冷気。それはだんだんとおさまってきつつあった。
 仰向けになった身体は、柩のようなものの中に横たえられていた。

 「ねえ、ここはどこ」

 稚さ(いとけなさ)の残る声で、少女はいつも隣に居るものに問いかけた。今も隣に居るだろう、ふたごのきょうだいに。
答えはなかった。
 再び長い睫毛を閉じる。しんとした闇の中にたゆたう、微かな機械の唸り。微かな電子音。その音の一部は、『じぶんのなか』から聴こえてくる。視界はとじながらも、裡に無数の星の幻影を明滅させた。冬の星のようにぎらぎらと煌々と光るそのイマージュは、『じぶんのなか』の、まさしく恒星にも匹敵するちからそのものだった。冷徹なる光、冷厳なるちから、それが少女の身体を満たしていた。

 満たされながらも、少女はそれを自覚するごとに、欠落感に支配されていた。涙も出ぬほどの、涙すら許さぬほどの欠落感。

 ああ、あたしは、人間ではなく、星になったのだ。
かみさまに人の世から夜空に掲げてもらったというむかしむかしのひとたちも、きっとこんなきもちだったのにちがいない。

 どうせ星になるというなら、この柩の中に白い百合をいっぱいに敷き詰めて、白いドレスで、そのまま眠って居たかった。おとぎ話の無垢なる姫君のように。

 でも現実は何もかも、冷たくあたしを裏切るのだ。

 


 

 

 北国の夏は短い。不毛の大地と揶揄されるノースウエストの岩がちで実り乏しい大地にも、6月の半ばともなれば花は咲き、わずかばかりの畑を耕し芋や麦が作付けされる。あの、世界を恐怖に陥れたセルが倒されてひとつき近く、世間はようやく熱狂から冷めて落ち着きを取り戻しつつあった。
 複雑に入り組んだ湾を擁する海に面し、北の大高山帯、西辺の森林帯を後ろに控える茫漠とした地は今は人口も少ない。古くより都に出稼ぎに出ねばたつきを立てられぬ家が多く、また若者も長じれば多くが都やその周辺のもう少し暮らしやすい土地に住まいを移していった。それでも高山帯のふもとにはまだ森に紛れるようにしていくらか集落が存続していて、今となっては古風な暮らしを残していた。西エリアは古く文明が栄えた地でありながら、いまだに大陸のふちの森や山の中にはその恩恵を享受せず生きる民も多い。世界は破滅を逃れながらも、今も極端に偏っていた。 

 
 少女は、ベッドの上で寝転がって読んでいた本からごく薄い青い瞳をあげた。小さな小屋の中ほどを雑に3等分した布をめくって、入り口の土間を覗き見た。ほぼ同時に玄関の扉が開いて、ヘラジカの巨大な角がまず現れた。
 「ただいま」
 「お帰り」またでっかいのを獲ってきたなあ、と内心ため息をつきながら彼女は色の薄い金髪をかき上げてTシャツとショートパンツと言う気楽な格好で立ち上がり、今日の成果に得意げに笑みをこぼしている同居人に薄い笑みを返した。
 「どうだい。ちょっとしたもんだろう」黒髪を肩の長さで切り揃えた少年は、まだ幼さの残る顔で無邪気に笑った。「見よう見まねでも結構撃てるもんだ。これを下に持って行けば多少にはなるんじゃないか?」言って、携えていた猟銃を丸太を組み合わせただけの素朴な壁のさだめられた場所に掛ける。まさに山小屋と言う程度のその小屋は、無人だったものを彼ら…金髪と黒髪持つ少年のふたごのきょうだいが拝借しているものだった。

 彼らが、セルゲームの後に再び出会えたのは、前々から、もしもの時のためにどこでおちあうかと言うのを決めておいたからである。彼らが決めたのは、あの忌まわしき運命に、あの老人に出会った場所だった。
 忘れようにも忘れられない場所で、先に着いていた彼女は待った。どこをふらついていたものか、少年が現れたのは3日後だった。そして彼らは流れ、半月ほど前にこの地でささやかな二人きりの暮らしを始めたのである。この電気も水道もなく、いかにも原始的な小屋で。
 「じゃ、売りに行くか」
 折角土間に横たえた獲物を少年がまた肩に担ぎ上げ、表に出て『合法的に手に入れた』大き目のレトロかつ無骨で青いトラックの荷台に収めた。少女は慌てて自分のベッドに戻り、鞄の中に放り込んであるシャツワンピースとデニムパンツに着替え、小さなポーチの中の財布を確認して少年の後を追って助手席に飛び込んだ。小屋に鍵などかけない。そもそもついていないし、こんな絶壁の上までわざわざ盗みを働きに来るものも居ないはずだからだ。
 少年は道を選び、慎重に山道を降りた。かついで飛んだならばこんなところあっという間に越えられるのに、と少女はいつも思う。だが、そういう不満はつとめて口に出さないようにした。この少年は昔からクルマが好きだったし、運転が好きだったから。あまり乗り物に強くない少女は、頭にわだかまって形になりそうなクルマ酔いから意識を反らそうと、いまだ雪の残る白い山肌を、眼下に広がる薄く貧しい針葉樹林を見やる。空はむかつくほどに青く、遠くで鷲のつがいの連れ立って飛ぶのが見えた。その向こうはるか遠くには、世界の西の海と、薄く青い霞の中に洋上に浮かぶユンザビットの大島が見分けられた。

 彼らは、ひととしての暮らしに、自分たちをおさめ馴染ませようと今努力している最中だった。飛ぶすべを封じ車に乗り、殺戮のすべを封じ銃を携えて野山を回る。それで彼らがやっていけるのは、彼らが普通の人間より、食べものを必要とせずに生きていけるからだだからだ。その身に今も残る膨大なエネルギーは、そもそも食物の摂取を必要としない。ただ、『人間の三大欲求』までもは人間ベースであるがゆえに完全に抹消できなかったので、時折食べ物を口にはするという程度だったが。
 山の中腹には村があるが、彼らはその下道を通り過ぎた。向かうのは、山を下りきったそのまたしばらく先にある、買い物のできる多少大きな街である。

 

 

 ヘラジカを買った金を分け合い、彼らはそれぞれの買い物に出た。間近に控えた夏至の祭を待ちわびて、街は華やかに飾り付けをはじめ、花屋は繰り出される予定の山車の飾りつけの花の手配で駆けずり回っている。古風な石畳の円形の町の広場を囲むのは、今ではもう、昔ながらの木造の柱にさまざまの絵画を施した小さな家ばかりではなくて都風のマンションも数多いのだが、それらの窓にもとりどりのリボンが渡されてそれらは広場の真中の一本の大きな柱につながれていた。太陽の恵み少ないこの地に残る、古い信仰の名残である。
 広場のあちこちにも急造の花壇がしつらえられ、主婦や商店の者たちを集めてパレードの打ち合わせの真っ最中だった。おかげであちこちの店で彼女は待たされることになった。食べ物が不要とは言っても、人間らしい生活を送ろうと思えばそれなりにさまざまなものが要りようになるものだ。狩りにもほとんど出ず小屋の中や周りで一日を過ごす彼女だから、多少は居心地のいい場所にしたいというのが希望である。雑貨屋でいくらかのマルチカバーとクッション。ろうそくとマッチ。服屋を覗いて、気に入りはしなかったけど服や下着をいくつか。スーパーで、量り売りの飴玉などを少しずつ。それと、洗濯用の洗剤。本屋で、何冊かの文庫本。

  待ち合わせは晩の5時で、まだ時間がある。少女は本屋で買った本を眺め、飴玉を口に放り込みながら広場に面したベンチで時間を潰すことにした。街を見下ろす山裾に鐘の音が響いて、しばらくして広場に子供や学生達が集ってきた。待ちかねたとばかりに大人たちが手招きし、子供達の素人演奏で楽隊の曲がはじまり、リボンと花で飾った棒を使ったダンスの練習が始まる。まだ各々普段着のままではあるが、広場の一角に設けられた衣装合わせの様子を見れば、本番の華やかだろうさまが想像できた。
 彼女達の育った場所ではそのような祭はなかったし、このような伝統的なもののなにかしらもなかった。いつからか2人で生きてきた街にはびこっているものといえば、無責任と言う名の怠惰だった。居るのは、このような伝統を守るという執念めいた責任を放り出してきた若者と、それを悔いながらも今更戻れぬと嘆きを繰り返す年寄りばかりだった。そしてそれらを馬鹿にしながらも他の行き場所を知らぬ子供達だった。
 更衣室から出てきた彼女と同じ年の頃の娘が一人、くうるり、とスカートの裾を広げて廻って見せた。その裾からのぞくペチコートにすら細かく施された、一目一目白く細い糸で編まれたレース。かぶりものを華やかに彩る、花の図案を一目一目、細かく頻々と色糸を変えながら写し取った刺繍。遠い昔に近所のなにがしがしているのを見て知っていることだけれど、膨大な努力と時間と技術がそこには縫いこまれている。彼女はそれを眺めて改めて震えた。ひとの世界の内包する途轍もない重さに。

 口の中に残った飴玉をばりん、と噛み砕くと、中心に隠されていたミントっぽい風味が口の中に広がって彼女はしかめっ面をした。ミントの香りに交じって、広場中に立ち込めている6月のバラの香りが鼻腔に忍び込んできて、まじって非常に不愉快な気持ちになった。鼻を何回か鳴らしていると、それをきっかけにしてかベンチから少し離れたところで先ほどまで談笑していたまだ学生らしい若者の一人が話しかけてきた。

 「君、このへんの子かい?」
 決して爽やかとは言いがたい外見で、そいつは取って置きだろう笑顔の中心で白い歯を不自然に煌かせて語りかけてくる。山男の家系なのだろう、そろそろ鬚も伸び始めるだろうという四角い日焼けした無骨な顔。パレード用なのだろう、花で飾り付けられた黒いフェルトの帽子を手に揉んでいるのがなんとも不似合いである。
 つんと澄まして横を向いているのに、なおもしつこく食い下がってくる。同じ歳のくらいだけれど学校は何処か。この街にはよく来るのか。どこに住んでいるの。自惚れではないけれど昔からこういう口説きにはしょっちゅうあっていたから慣れっこだったが、あまりにしつこいから横目でじろりとねめつけてやった。相手はなぜかそれを興味を持ったものと勘違いしたらしく、さらに調子に乗ってくる。
 「今度の祭には、またおいでよ。俺が色々と案内してやるからさ」
 「うるさい、ぶっ殺すぞ」
 ついぼそりと漏らした言葉に、そいつはいささか過剰にも思える反応を返した。びくりとにじり寄ってきていた手を引っ込める。こんな言葉、彼女の育った場所では挨拶代わりだったからつい口をついて出てしまったのだが、ド田舎の純朴な町の純情青年には過激に過ぎる台詞だったようだ。
 「んだとぉ」
 こういう台詞を女から発せられた場合の男の反応は二択である。やだなあ、とか言って速やかに作り笑いをしながらそそくさと引くか、女ごときに馬鹿にされたといきり立つか。今回の場合後者だったらしい。「ちょっと綺麗な顔してるからって、気取るんじゃねえぞ!」

 北国の遅い夕方に向けて傾き始めた陽が街の尖塔に隠れ、鐘楼からまぶしい光を漏らし輝かせている。彼女は白い半袖のシャツワンピースを揺らして、ゆらり、と立ち上がった。相手は一瞬ひるんだものの、獲物に手傷を負わされた狩人の目で睨みつけてきた。その目をも恐れず…なんの恐れる必要があるだろう?…彼女はそのアイスブルーの目に彼女のうちの星をひとつ瞬かせた。短刀のやいばのように。
 おおい。遠くで聞きなれた声が彼女の名を呼んだ。それで彼女はわれに帰った。金髪を翻してきびすを返し、荷物の入った紙袋を持って、向こうで手を振っているもののところへゆっくりと歩いていった。残された男はそれを見送ってまた震えた。逆光で陰になってよく表情は伺えなかったものの、少女と同じ氷の瞳に秘められた、少女にも勝る殺意を見て。

 「本当むかしっから喧嘩っ早いね、お前は」
 帰途の悪路の中、暗い車中の隣で少年が苦笑した。
 「…うっさい」
 「で?」事情を聞いた少年はおかしそうに言葉を継いだ。「どうする?あの街の祭、見に行くか?」
 「行くもんか」
 そうか、と優しい声がした。山道の中、ろくな明かりもなく、車内は真っ暗だった。窓の外、はるか下の方に微かな家の明かりが揺れている。トラックの天窓のすぐ上には、降る様に近い星空。

 それが、自分達の、ひとの世界との距離なのだ。と、少女は思う。彼らが新しく生活と言うものを始めるに当たって、長く馴染んだ…ふるさとと呼べるかもしれない街を選ばなかったのは、そこに自分達をまた引きずり込むなにかしらがべとべとと小汚く貼り付いている気がしてうんざりしたからだ。そこに戻るにはふたりはそこでは名を知られすぎていたし、その上で戻るならいずれ力を知られてろくでもない人生のルートにゲートインするのは火を見るより明らかだった。
 人生には、いくら取り繕ったっていくつかのルートが存在して、そこに入ったなら最早後戻りは出来ない。みずから決意してその道に進んだならまだしも、いつしか引きずり込まれる、と言うことほど胸糞の悪い事はない。そして彼らは一度大失敗を犯したのだった。うっかり見誤ってしまったのだった。彼らがその体験から学んだのは、それまでにも増して思い知ったのは、ニコニコと近づいてくる奴にろくな者はいないと言うことだ。だから彼らはひとがろくに近づいて来れないような場所をすまいに定めて、必要があれば人里に満たしに行くという暮らしを選んだのである。
 しかしそれは、とどのつまり、なるべく彼ら2人の間に余計なものを入れないで暮らすと言うことに他ならない。たとえ生まれた時から分かちがたい絆に結ばれていると臆面もなく言えるほどの間柄としても、ひとりで生きるよりふたりで生きるほうが数倍難しいのだ。そしてこの暮らしは、終わる目途もなく、きっとこのままなら永遠とは言わないまでも、永く歳ふるまで続いていくだろうものだった。そこに、なんの生きている意味があるだろうか。

 帰って、食事を取る必要もなく、蝋燭も勿体無いので彼らは早々に互いの床に着いた。部屋を区切った向こうで、衣擦れの音がする。自分と、相手の衣擦れの音がする。少女はそれを息を詰めてやり過ごした。もう幼い子供の頃のように、寂しいと、哀しいと、相手のベッドにもぐりこむ事はできない。だから、この暮らしはひとりより、一層哀しい。

 寝台にもぐりこんだものの、その閉塞感に閉口して、彼女はそっと小屋を抜け出した。外は、もう夏近いとは言え北国の山地、はるか北極から吹き付ける冷たい風が渡っていた。

 突っ掛けの音を潜めながら小屋の少し先の泉まで来て、しんとした静寂の中で岩場に腰を掛けた。つま先が冷たく、ひどく心細い気持ちがした。そのまま仰向けに岩にもたれて見上げた空には、当然ながら今も月はない。
 無理やりに植えつけられた殺戮の使命ではあったけれど、彼女は、月が奪われたのが孫悟空のせいだとあの老人に教えられて、以来孫悟空のことをひそかに憎んでいたものだった。そんな子供じみた理由、ふたごの少年にも話した事はなかったけれど。彼女が最後に月を見たのはもう5年以上も前だからまだ少女の頃だったけれど、また月が消えたとまわりの大人たちが騒ぐのより、ずっとショックだったのを覚えている。ほんの子供の時分に、ご覧、またお月様が復活したのよ、と母親に手を引かれて見上げさせられた月の美しさをよく覚えていたから。

 母親は笑ったものだ。これで、昨日読んであげたお話の兄妹も夜道で迷わなくて済むわね、と。

 
 その昔話に言う、親に森に捨てられ魔女に捕らえられた兄と妹の話を思い返す。
 魔女に捕まったきょうだいは、魔女を殺してお宝を奪い、無事に親元に帰りました。めでたしめでたし。
 めでたしめでたしのあと、彼らはどう生きたのだろうか。

 本で読んだことがあるが、魔女と言うのは必ず女であるとは限らない。不思議なわざをつかうものを総称して、むかしのひとは男女の別なく魔女と呼んで恐れたのだという。
 自分達にとっての魔女のかけたこの身の呪いは、神の力を持ってしてももう消える事はないもの。それを知りつつ、なお願って自分達の呪いを僅かなりと減じようとしてくれたあの者。
 星ばかりで空っぽの夜空にその面影を浮かべようとしても、もうおぼろげになりかけていた。

 根性のない奴。

 惚れてるなら、さっさと探しに来ればいいのに。
 少女は心の中で、お月様のような後ろ頭を持つ男にそっと悪態をつく。

 伸ばした手の先に小石が触れたので、指先に挟んで泉に放り投げた。水に静かに映じていた天の星が、ぐちゃぐちゃと波紋にかき乱された。

 


 

 2日後、彼らは中腹の村に降りてきていた。おりしも夏至の祭の日、山肌にへばりつくようにあるこの村の小さな広場にもふもとの町と同じように柱が立てられ、ささやかながら花をちりばめた神輿が村の狭い道を練り歩いていた。が、彼らが来たのは日暮れ近くになってそれもあらかた終わり、村の女たちが撤収に汗をかき、男たちが村に一軒きりの酒場で改めてエールをあおり始めた頃合だった。
 「まだかー」
 「今行く」
 村の小さな雑貨屋兼ドラッグストアの老婆をやっとのことで探し出して買い物を済ませ、手洗いを貸してもらった少女はため息をつきながら店の外に出た。本当は今日こそ人里に近づきたくなかったのだが、のっぴきならない事情だったので仕方ない。下腹を押さえながら少女は苦い顔をする。なんでまた、こんな身になってすらこんな毎月の苦しみはご丁寧に残っているのだろう。あの戦いまで長く眠っていたので、すっかり予定日などを忘れていたのだった。
 店の、まだ飾り付けの残っている柱にもたれた少年をチラチラと見ながら、若い娘達が、ふもとの町とはまた微妙に異なる意匠の刺繍を施した豪華なスカートをからげて何回も行き来する。腹痛の苛立ち紛れに少女が睨みつけると、紅を差した唇を尖らせて肘で互いをつつきあい駆けて行った。
 「お待たせ、じゃあ帰ろうか」
 「ちょい待ち」少年が手を上げて制し、広場の向こう側に灯りのともっている酒場を親指で指した。「なんかあの店、さっきから変な感じに騒がしいんだよな。ちょっと覗いていこうぜ」
 この少年の物見高さのせいで自分達は何回も痛い目にあってきたのに、と少女は内心うんざりしたが、しぶしぶ後についていくと、確かに店の中が変だ。とおりの者達も覗き込んで、なにやら見守っている風だ。中がどうなっているのかまでは窺えない。少年が人垣の後ろからどうかしたのか、と前に立っていた長身の男に尋ねると、男は興奮した様子で長い腕を振り回して説明した。
 「いやあ、祭の見物客かしんねえけどよ、ここで酒飲んでた金髪のおっかねっぽい姉ちゃんがいたんだよ。でな、赤い顔してふらふらしてたんだけど、俺等が入って来たとき立ち上がったらいきなりぶっ倒れてなあ。酔ったのかと思ったらすげえ熱なんだ。女将さんが今ふもとに車出すか、って相談してるところだよ。
 で何が驚きかってさ、おもむろにくしゃみを一発したらあら不思議、金髪だったのがいきなり色が変わって、まるで入れ替わったように別人よ。まるで魔術みてえだよ、はあ」
 へえへえ、と聞きながら人垣を分けて前に出た少年がちょっとの間の後、ちょっと後ろで飽きるのを待っていた少女を急いで手招きした。「見てみろ」

 着ていたのだろう上着を上から被せられて仰向けに赤い顔で床に横たわっている女の顔には、確かに二人とも見覚えがあった。昔に研究のために老人が撮っていた孫悟空の研究のためのビデオに映っていた顔のひとつだ。カメハウスや、武道会で見かけた顔。そう、確か、ランチとか言う名前。
 彼らは顔を見合わせた。そこに、様子を身に裏から顔を出した女将が声をかけた。
 「なんだ、あんた達、ひょっとしてこのお姉さんの連れかね!?」
 前に一度か二度この村には降りてきていたものの、まだ知られているほどでもなかった二人は、この女と一緒に祭の見物客のよそ者であると思われたらしい。
 「ち、違う」少女は反論しかけたが、余計な一言を言ってしまった。「確かに知ってはいるけれど」
 「じゃあすまないけれど、知り合い同志、どうかこのお姉さんを病院に連れてっちゃくれないかね。悪いけどあたしは店をあけるわけに行かないんだ。村のもんもみなここで締めの寄り合いをするもんでね、頼むよ!」
 少年が肩をすくめて、床の女を抱きかかえた。少女は思った。何が人情豊かな村だ。

 そのまま小屋に帰る車の中でも、女は眠ったまま何回もくしゃみをしてはそのたびに髪の色も雰囲気も交互に一変させていた。

 

 じゃんけんの挙句に小屋のベッドを明け渡す羽目になったのは少女のほうだった。とりあえず自分用に買ってきた鎮痛剤は解熱の効果もあるので、それを飲ませて一晩様子を見ようと言う次第になったのだった。布団も取られたものだから、少女は女の寝ている傍らの粗末な絨毯の上にこないだ買ってきたクッションやらを広げてそこに陣取ることにした。泉で汲んで来た水を残されていた鍋に張り、タオルを適当に絞って今は濃い色の髪のまま眠っている女の額にあてた。先ほど朦朧としながらなんとか薬は飲んでくれたので、上手くすれば明日の朝にはマシにはなるだろう。
 人間としての習慣でなんとなく毎日眠ってはいるものの、このからだには睡眠だってさして必要ではないのだ。少女は短い夜のなぐさみに、これもこないだ買ってきた文庫本を選んで今晩読破しようと決めた。

 丁度読み終わって、さて次はどうするか、と窓の外を見やると、外はもう明るくなりかけていた。白夜のおきるほどではないけれど、緯度の高いこの地では朝はとても早い。腕時計を見ると、まだ朝の4時前。薄い葡萄色の光を帯びた朝の霞が、粗末な小屋の隙間から忍び込んできている。少女は立ち上がって、肩をはだけかけた女の布団に手を掛け、その寝息を確かめた。喉の奥がまだゼイゼイ言っているようだが、昨日ほどは辛くなさそうで安堵した。
 と、女が深い海色の瞳をゆっくりと開いた。

 「…ここは、どこですの…?」
 細くかすれた声で、女は誰にともなく問うた。枕元に立っている少女を見ると、ぼんやりと目を瞬かせて、ついで微かに微笑んだ。
 「そうだわ、わたし、風邪を引いて倒れてしまったんでしたわ。あなたが助けてくださったのね、お嬢さん」
 うなずくと、女が水を要求した。薬缶で湯冷ましにしておいたものを小さな茶碗についでやると、からだを起こしてそれをおいしそうに飲んだ。
 「ありがとう、改めてお礼を言います。わたしの名前は」
 大きな咳交じりにそう名乗り出そうとしたのをとどめて、少女は先に女の名を言い当てて見せた。女は目を丸くした。「まあ、ご存知ですの」
 「カメハウスに、昔いた人だろう」
 「まあ、それもご存知ですの?失礼ですけど、あなたはどういう」

 「…孫悟空の、ちょっとした知り合いさ」

 その頃になって起き出して来た少年が、真中の布から寝巻きのまま顔を突き出してきた。それにちょっと頭を下げて、女はついで綻ぶようにまだ赤い頬で笑った。
 「まあ、なんて懐かしいお名前。そうなの、悟空さんのお知り合いなのね、あなたたち。まあ、こんなところでそんな方にお会いできて嬉しいわ。…あの子、元気かしら?あの子が結婚した後から会っていないけれども」

 きょうだいはまた顔を見合わせた。自分よりかなり上のあの男をあの子呼ばわりするこの女は、一応知ってはいたけれどもう結構な歳なのだ。それより…

 「孫悟空は、死んだよ」
 口を開いたのは、少年のほうだった。言葉に重なって、外の木で寝不足の鳥がひとつ鳴いた。
 「え?」それで、女は聞き返した。笑顔のまま。
 「孫悟空は、死んだんだ。あんただって知ってるだろう、セルとの戦いで。もう蘇らない」
 女の笑顔が、強張った。起こしかけていたその身体から力が抜け、薄い敷布団の上にゆっくりと倒れこんだ。

 「嘘」女がひとつ、あえぐように言った。少女を見て、問いかける。少女が答えずに居ると、仰向けのままゆっくりと顔を白い細い手で覆った。そして、小さい声で問うた。
 「…亀仙人様や、クリリンさんや、ヤムチャさんたちは…?」
 そいつらは無事だよ、と少年が教えると、枕に緩やかにうねった髪を広げた女は頼んだ。
 「わたし、また熱が出てきたみたいです。ごめんなさい、もう少し、寝かせていただけますか…」

 きょうだいは無言で、それぞれの服を手に間仕切りを出て行った。そして、しばらく小屋を留守にした。

 

 

 少年は銃を担いで狩りに出かけ、少女は車の鍵を借りて山を降りる。あまり慣れていない運転に時折気をとられながらも、少女は考える。
 孫悟空の妻も、夫の死を知ったときには、あんな風だったのだろうか。あれに似た、白くたおやかなあの手で、同じように顔を覆って。
 そして、あれよりも、もっと酷く泣いたのだろうか。

 泣くのだろう。 
 あんなに、好きあっていたのだもの。

 ずっとスパイしていたというからには、『孫悟空の私生活』というものは当然あの醜怪なる老人には筒抜けだった。それこそ『昼も夜も』。彼らきょうだいがデータとして見せられたのはそのほんの断片的な、主に昼の一部に過ぎなかったけれど、孫悟空と、孫悟空に寄り添うようになった女、そして加わったこどもの暮らしは吐き気を催すほどに幸福めいて、むしろ自分達の失ったものを、欠落感を際立たせる苛立たしいものだった。彼らが孫悟空を殺そうと考えていたのは、別に本人をどうしようもなく憎んでると言うとかそういうわけでもなかったし、せいぜいあいつのせいでこんな身体にされたんなら、という腹立ちの解消のようなものだった。でも、幸福な生涯であればこそ、その影には彼を失って泣くものがいる。
 今も、あの男の妻は泣いているのだろう。
 そして、あいつも、あの男の親友であるあいつも、まだ泣いているのかもしれない。今は、どうしているのだろう。

 そんなことをなおも考えながら昼過ぎに帰ってくると、ベッドには金髪の女が眠っていた。眠っていたように見えたので、また薬缶に湯を沸かそうと薪を組みはじめた。電気のない小屋の中は昼も暗い。ランタンは昨夜蝋燭を使い果たしたので今街で買ってきたのだった。少年はまだ帰ってきていないようだった。
 マッチで竈に火をつけ、部屋が暖まってくるのを見計らって水を汲んで帰ってくると、間仕切りの向こうから、なあ、と声がかかった。腹減った、とも。まあこんなこともあろうと予想は出来たので町の総菜屋で買ってきておいた柔らかい煮物を鞄から取り出して中に入ってパック容器とプラスチックのスプーンごと差し出した。あんがとな、と女は汗で濡れたのだろう金髪を後ろにかき上げてそれを受け取って食べ始めた。

 「…一応聞いとくけど、ほんとに死んじまったのか」
 おもむろに女が聞いてきた。目尻には、どちらの姿で泣いたのだか知れないが、涙のあとが見分けられて少女は顔をしかめた。肯く前に、女は笑った。
 「いや、いい。あいつはそういうガキだよ。ヒーロー様って奴だからな。そうなんだろう。…それまで、幸せにやってたかな、嫁さんと」
 「…ああ」なんだか苦しくて、窓の外にそっぽを向いて少女は続けた。曇りかけたガラスの向こうに、今日もよく晴れて樅の樹の緑が鮮やかだった。「こどもがひとりいるよ」
 「そっか…」女はまた煮物に口をつけ始めた。

 「オバサンはなんで、あんなとこにいたの」

 少女は話題を逸らすために聞いてみた。孫悟空が15の時の武道会から追い始めたカメラに断片的に映っていただけだから、この女のことを詳しく知っているわけではない。なぜ、この女は、ひとりこんなところにいるのだろう。
 「その前に、教えてくれ。天津飯は無事だよな!?知ってるか、天津飯って三つ目の奴」
 「あ、ああ。生きてるよ」
 「よかった。…おれは、あいつをずっと追っかけてるんだよ。で、最近あいつが北のこのへんで修行してるかもしれないって聞いてきたんだよ。でも寒いな、この辺は。あっけなく風邪引いちまってこのザマよ。おれも歳だね」
 おっかけてる、って?
 首をかしげながら湯冷ましと解熱剤を差し出した少女の手から、湯冷ましだけ取って女はゆったりと笑った。「さがしてんの。惚れたから、ずっとな。ずっと旅してるんだ、あいつを追っかけて」

 少女は眉を顰めた。女の、夢見るような遠くを見る視線、それが酷く美しかったから。濃い緑の眼差しが、少し日焼けした頬の上、薄く皺の出た目元をも気にさせないほどに少女めいて輝いている。まるで夏の緑の色のように。

 
 「…どれくらい」
 「もう10年にもなるかなあ。あのガキ…あ、孫悟空な…が結婚したすぐ後からだから。でもなかなか見つかるもんじゃないな。あっちはどこに居るかわかんないし、あちこちどっか行きやがるからなあ」
 「…」
 もう一度少女は苦笑しながらまたベッドに横たわった女を見た。咳をしながら、ああ、煙草吸いてえ、などと一人ごちている。
 「そんなに会えないくせに、諦められないの。いい歳して馬鹿じゃないの、オバサン」

 一瞬緑の瞳が少女を鋭く睨みつけた。が、なぜか顔が熱くなってうつむいてしまった少女を見て、くしゃみを我慢したような顔をした。
 「今時の子はきついこと言うね。一応言っとくけど、全然会えなかったわけじゃねえよ?世話になった身だから怒んないけど、てめえなんか下手したらおれの娘ってくらいのガキじゃん。もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃねえの?
 でもさ、人の勝手じゃねえ?それこそさ。そばに居たいから探す。そう決めたんだ。正直避けられてるんじゃないかとか思うこともあるけどさ、…でも、知ってんだろ、おれはこんなまともじゃない人間でろくでもないけど、あいつと一緒にいられたなら、きっとそんなこと気にせず生きていける。あいつの前なら、おれは普通の女になれるんだ。思い過ごしかもしれないけれど、顔を見ればそう思えるし、離れたってそう思えるから、おれはその幸せな空想にのっかって、きっとずっと、これからも捜していられると思うのさ」

 ストーカーじゃん。そうボソリと言って笑うと、女は頭から毛布をかぶり際に見返して、うっせえ、殺すぞなどと言いながらもにやりと笑って見せた。そのように笑ったのは、少女が自分でも意外な、優しげな笑みを口の端に浮かべていたからだった。
 あの戦い以来、いや、あの運命につかまってから、よその人間には誰も見せてこなかった、そんな笑みを。

 

 

 

 「ところで、電話ないですか?このへんって」

 翌朝、すっかりと復活した女は…濃い色の髪の女は、荷物を抱えてトラックの後ろの荷台から運転席に向かって問いかけてきた。麓まで送っていく途中だった。
 「今から行く街の役場とかにいけばあると思うけど?」ハンドルを握った少年がバックミラー越しに答える。「なんでさ?」

 「久しぶりにお名前を聞いて、カメハウスにお電話したくなりましたの。懐かしいですものね。亀仙人様とクリリンさんは今もいらっしゃるんでしょう?」
 「だ、駄目だ」思わず後ろを向いてそう言ってしまって、少女は自分でその言葉に赤くなった。
 「はい?」
 「あたしたちがここにいるとか、言ったりしないでくれ、あいつには」
 ぱちぱちと大きな目を瞬かせた後、慈母の目で女は笑った。深い色の髪を、よく晴れた6月の風に、透明になびかせながら。「はいはい」
 喋ったらぶっ殺す、などと悪態をつく少女を、少年と女は優しく見つめた。「あなた、もう一人のわたしにそっくり。でも、すこおしもうちょっと意地っ張りね。…あ、街が見えてきたわ。本当に色々ありがとう」

 女は街の入り口で、細い白い腕を大きく青空に振って、きっぱりと歩いていった。

 

 
 「…じゃ、あたしもこのまま行く」
 「そうか」差し伸べた掌に、少年が車の鍵をほうった。それを掴む。手の中に収めた銀色のものが、きらきらと輝いた。荷物は、小さな鞄がひとつきり。ちょっとそこらに出るように、生理用品と、財布と、飴玉とハンカチと文庫本だけ。
 飛んでいけば楽なのにと悪戯っぽく笑う自分にそっくりの青い瞳を見返して、少女は笑った。それじゃつまんないだろ、と。あの女が投じた波紋が止まないうちに。きっとまたあの小屋に帰れば、閉じられた空間ですぐにそれは止んでしまうから。

 「もし、あいつが来たなら、あたしは先に行ったと言っておいて」
 「これ以上一緒に居たなら、ヤバいことになっちまうもんな」

 互いに互いに近づくものを監視する、2人きりの牢獄。いつか待つのは、ほんとうに人でなくなる、そんな行為だろう。自分達が、人間ベースである限り、その欲求からは逃れられないから。
 くつくつと笑って、双子のきょうだいは頬をよせて、互いの頬にそっと口づけた。そっくりにまっすぐで柔らかな、金髪と黒髪が交じり合う。久しぶりの、そしてたぶん最後であろう、幼子の頃から繰り返してきた、大事な親愛の情の表現。

 

 青いレトロなトラックが、山裾から臨む世界の中央の大草原に向かって走り出した。
 世界は広い。でも、あたしはあんたの居場所を知っているから、のんびり行ったとてきっと会えるだろう。世界の北西の果てから、南東の果てへ。あの波打つ浜へ。
 勘違いするなよ、ただ、顔を見たいだけだから。忘れてしまいそうだから、もっかい見たいだけだから。

 

 目の前に、ゆくてに広がるのは、星の光をも消すほどの眩しい世界の光輝だ。


 

 



あとがき・もくじ(ブログ)
小説投票
拍手する + 拍手する