このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
ブログの本体はこちらになります。あとがき・もくじもブログのこのページになります。よろしければ、WEB拍手小説投票で感想をお寄せください。


wave2

 




 

 

 「アンニュイですなあ」誰かが窓の外を見ながら言った。
 「アンニュイよねえ」誰かが手に持った紙をひらひらさせながら付け加えた。

 長雨の7月、窓の外は薄暗くしとしとと雨が降っていた。オレンジスターハイスクールのシンボルである校名入りのオベリスクに刻まれた星も雨に煙って、今は午前最後の授業の始業の鐘を天辺のスピーカーから響かせるのを待っているところである。
前の時限は本来なら外での体育の授業のはずだったのだが、雨が多少強かったものだから中止になってしまっていた。その替わりに、夏休みを控えて羽目を外すであろう女子達を集めて、『いかにそれが女と言う性にとってリスクが大きいことであるか』というお説教を多分に含んだ保健の時間になったわけだ。ついでにみなの手元に配られた件の紙が一層気を滅入らせる。

 「どお?アンニュイ?」
 隣の椅子で仰向けにしなだれかかった幼馴染が、にやにやしながら同じく手に持った紙をひらひらさせる。横目で見やってビーデルは冷たく答えた。
 「あんたは何にも悩んでなさそうね、イレーザ。もう書いちゃってんじゃないの」
 「悩む要素なんてないもーん」
 男子達はずるいことにこの時期は体育館での体育なので、まだ更衣室から戻ってきておらず教室は女子ばかりだ。授業中に内職でやすりをかけて磨いていた爪にベースコートを塗りながら、脳天気極まりないこの悪友は笑って見せた。もとよりこの友人には進学する意志もないし、前々から親戚のコネのある地元の企業に入れてもらえるみたいなことを言っていた。その旨が机に置かれた白い紙に丸っこい大きな字で記されている。太いボールペンで黒々と記されたその筆跡ははまったく彼女のポリシーそのもののように見えた。そう、そのように『文句ある?』という高笑いを発しているかのようだ。

 白い紙は進路調査票だった。教室のどこからか、こんなもの夏休み前に配らなくてもという愚痴が聴こえる。隣から漂ってくるトルエンの匂いのせいにしながら、ビーデルも自分の手にしたそれを見て鼻に皺を寄せた。
 今は高2の7月初め。あと3週間ほどで夏休みになるという時分。
 9月に休みが明けて、9月後半から前期末試験。10月になると後期に入る。この調査票は、後期から進路に合わせて選択授業が多くなるこの学校のカリキュラムにおいて重要な指標になる。9月前半には調査票をもとにした、進路カウンセラーによる個別の進路指導が控えている。2年生たちはすでに終わった中間テストおよび担任やクラブ担当のつけた評価からカウンセラーがくださるありがたいお言葉に基づいて、これから自分で将来の指針を立てて授業を組み立てていかないといけないというわけだ。提出期限はあさってである。
 ビーデルが憂鬱なのは、休み前に担任がそれをチェックした上での家庭訪問が行われるからである。その上で休み前に2回目の進路調査が行われるはずだった。『こども』にとって、進路は一人だけで決められるようなものではないのである。

 鐘とほとんど同時に男子達がどやどやと教室に帰ってきた。文学史の黴の生えたような古いこの地方の詩のページを開きながらまた窓の外を見やる。詩に歌われてるのと同じ、憂鬱な雨だ。救いといえば、その家庭訪問前に修学旅行をかねた臨海学校が控えていることぐらいだ。

 


 

 

 ビーデルが悪人退治を趣味にするようになってからもう随分になる。父親がヒーローと言うものになってからしばらくして、この古く寂れていた町は父親の名を冠するようになり幾分活気を取り戻して人も流入してくるようになった。おかげで市長は今も父親に頭が上がらないのだが、警察署長は急激に悪化した治安に頭を抱えるようになった。宴席などで度々会う機会があってそういう愚痴をこぼしていたところに、それなら手伝わせて欲しいと彼女の方から乞うて出た形である。
 勿論まだその当時は今よりまだ彼女も幼かったので、警察内には父親の手前表立って実力を疑う言動はなかったものの相当の抵抗と反発があったようだった。幾度かは現場の人間からも面と向かってやめておけと親切面をして忠言されたこともあるし、学校の女子からのそれは凄いものだった。怪我をしたらどうするの。殺されるかもしれない。そんなことをして顔に傷でもついたらどうする。その言葉の後ろ側には、どうせあの父親の娘なんだからどうにでもなる、好きにさせておけ、という諌めも聴こえてきた。あの娘は言ったって聞きゃしないのだから、と。
あの娘は普通ではない、武術などやっている変わり者なのだから、と。

 「どうもご苦労様でした」
 もう中を歩き慣れた警察署のロビーで、若い警官が引き渡した犯人の縄を受け取り片手で敬礼をした。雨だとて犯罪は起こる時には起こる。通学途中の朝の日課にしているランニングの途中でひったくりに出くわしたのだ。合羽は着ていたもののすっかり頭も中の服も濡れてしまっていた。
 「冷えてしまったでしょう。よければシャワーでも使っていったら?」顔なじみの中年の交通課の婦警がすすめてくれる。
 「ありがと。でものんびりしてたら2時間目に遅れちゃう。学校のロッカーに替えの服あるからいいわ、大丈夫」
 そう、と微笑み、婦警は若い部下の婦警達にまたきびきびと指示を飛ばし始めた。この忙しく、張り詰めた雰囲気は嫌いではない。帰ろうとする彼女に何人かが手を振ってくれた。そのようになるまで彼女は努力で居場所を少しずつ広げてきた。いつかはここに、ちゃんと正式に、というのがいつしか芽生えた彼女のささやかな夢だった。

 

 学校に着いたのは1時間目の終わり際だったので、ロッカールームに置いてあるTシャツとスパッツを抱えて女子更衣室に入り、何処かのクラスが使っているのだろう雑然として静かなそこで一人着替えた。下着まで濡れてしまっていたのだがあいにくそれは今日は替えを置いていなかったものだからひどく不愉快だったが仕方ない。部屋を出てまたロッカールームに濡れたものをしまいこみ、丁度1時間目終わりの鐘も鳴ったのでペットボトルの水を飲みながらぼんやりと教室に歩いていく。
 廊下に次々と人があふれ出てくる。1時間目は2年生は個別選択の授業だったので、次のクラス別共通授業のための教室移動に忙しいのだ。すれ違って挨拶してくる生徒の群れの中から急いでいる様子のシャプナーが駆け出してきた。
 「おう、ビーデル。今登校かー?朝居なかったじゃん」
 「あら、シャプナー、おはよう。ちょっとね」腕につけた無線を指差す。
 「大変だな。俺ちょっとションベン行きたいから急ぐわ。また教室でな」
 そうすれ違い走っていく向こうから、ひとかたまりの黄色くオクターブの高い声が聞こえてきた。

 「えー、悟飯クンちって家庭訪問ないんだー、いいなあー」
「「うん、だって僕の家凄く遠いし、さすがに先生もくるとなったら下手したら泊りがけになるからってね」
 「ほんと悟飯君ってそんな距離を毎日どうやってきてるわけー?そういえば、こないだの父親参観の日にこなかったよね、おとうさん。やっぱりそんなに遠いんだ?」
 「あ、ああ、通学用のクルマが一人乗りだからね、一緒に来れなくって」
 「引っ越しておいでよー。なんだったらうちに下宿してもいいよ!あたし悟飯くんにごはん作ってあげちゃうよ!」

 「あ、ビーデルさん。おはよう」
 囲まれていた男子が、彼等の教室の向こう側から軽く手をあげて声をかけてきた。囲んでいた女子は気付くと目交ぜをして先にドアを開けて中に入って行ってしまった。ちょっときょとんとそれを見送ったあとでその黒髪の男子は、まだ教室の手前に居るビーデルのところに早足で近づいてきた。
 「今朝居なかったね。どうしたの」
 「…ちょっと朝から正義の味方してただけよ」
 「そうなの。いつもみたく手伝ってあげられたらよかったんだけど」応えて笑いかけて、その黒い目が不意に何かを見つけたようにしてついで急いで逸らされた。もうちょっとちゃんと拭いたほうがいいよ、とボソリと告げて、先に教室のドアを開けて行ってしまう。一瞬遅れて意味を察してビーデルは真っ赤になった。湿気た下着に白いTシャツが貼り付いて微かに下の刺繍が透けていたのだった。ざっと拭いたものの濡れたままの、まだ短いぼさぼさの猫ッ毛がひどく恥ずかしくなった。
 「なーにやってんの」急に後ろから肩を叩かれて飛び上がって振り向くと、イレーザの緑の目がにやにやとこちらを見ている。
 「大きなお世話よ!」

 『カリカリしちゃって、みっともないの』
 隣から差し出されたルーズリーフを一瞥して、その隣に凄い速さで細かい字を書いて突っ返した。
 『なんのことよ』
 『最近悟飯くんがもてるからって』すぐさままた帰ってきた紙にはニヤニヤ笑う顔文字のようなものすら添えられてある。2時間目の数学の教師は厳しい。たとえビーデルであろうと私語は許されない。だけど老教師は目は悪かったから、教室後ろのほうに陣取っていればこのくらいの事はわからないはずだ。
 話題の人は教室前のほうに陣取っていた。最近仲良くしている男子が目が悪いものだから、ここのところずっとあのあたりに座っている。
 『関係ないわよ、あんなひと』
 ぞんざいな字で書いて返すとイレーザがおとといのやり取りのようにそれをひらひらとして口の端で笑った。この悪友ときたら、こちらの今の心情などお見通しといわんばかりにいつも掌の上でつつきまわして遊ぶのだ。それは自分達が友達と言うものになったまだほんの子供の頃からそうだった。肩肘を張る自分、それをからかって遊ぶイレーザ。それが自分達の付き合いの形だったし、実際ビーデルは、学業や身体能力、財力、ついでに(ひそかに)容姿において自分が彼女に秀でていると思いつつそれでもどうしても彼女にはかなわないと感じている。特に、こういう人間関係やらが絡むことに関してはとみにそうだった。
 その中でも特に、男女の関係については、この悪友はこの学校の誰にも追随を許さないのだ…そう考えかけてビーデルは頭を振った。そんな指摘されるようなみっともないことであってたまるものか。
 (どしたのよ、ビーデルは)イレーザの向こうの女子からひそひそ声が問うてきた。
 (あ、見る?)イレーザが手にしていたルーズリーフをその娘に差し出そうとするのをビーデルは慌てて手首を掴んで止めようとした。
 (なにすんのよ、やめて、イレーザっ)
 (あはは、ほらこっちこっち)お手玉をするようにイレーザは紙を反対側の赤いマニキュアの指先にたくみに移してしまう。(ほら、ね、ビーデルが悟飯君のことでね)
 (なになにっ?)前の席の娘もくいついてきた。(やだ、まさかやっとあんたたち)
 「静かにしたまえ!」

 しゃがれてはいるが太いよく通る声が飛んで後ろのほうの女子達は首をすくめた。立ちなさい、と名指しをされたビーデルは恐る恐る椅子から腰を上げた。真っ赤になってうつむいた視線の端、段になった教室の下の方で、その人が振り向くのが見えた。
 「何をさわいどったのかね。いつも言っているだろう。私は君がどういう立場の子供だろうと他の者とは区別はしないのだよ。君にとっては勉学など無用のものかもしれないが、せめて他のものの邪魔にならんようにしたまえ。さ、その紙が原因か。持ってきて見せてみたまえ」

 そんな!

 真っ赤なのか真っ青なのか自分で分からない顔色になった隣で、唇を尖らせたイレーザが意を決したように立ち上がった。びっくりして振り向くとイレーザははおもむろに手にしたその紙をビリビリに破いてにっこりと言ってのけた。
 「ビーデルのプライベートに関することですから、許してやっていただけます?」

 おお、というどよめきの波のあと、周りの女子から拍手がとんだ。教師は茹蛸のようになったハゲ頭を蛍光灯の明かりにてらてらさせながら怒鳴った。「いいから、ビーデル君は降りてきたまえ!」
 ま、なんか適当に言い訳してこよう。そうイレーザがウインクをし一緒に通路に出ようと後ろから肩を押してきたところで、急に顔の下の方でアラームが鳴った。
 「あ」
 「あら」
 「正義の味方は辛いね、ビーデル!さ、悪を滅ぼすため行っていらっしゃい!」
 通路に出たところを、イレーザが後ろから派手に背中を突き飛ばした。慌てて教室の段差で踏み切り、勢いで黒板の手前まで大ジャンプしてしまった。
 「危ないわね、イレーザっ」
 「いいから行ってきな!」段の高いところでイレーザの明るい金髪が光に映えて高らかに輝いた。「さ、悟飯君も行くのよっ」
 ぎょっとして振り向くとその人は戸惑ったように腰を浮かしかけている。「い、いいわよ!今日はあたし一人で行く!すみません、先生!」
 そう慌てて教室の前の扉から駆け出していく背後から、シャプナーの威勢のいい声がした。「いいからてめえも行くんだよ!いつものことだろが!センセー、そういうわけでスミマセーン」
 どっと教室の中が沸いた。がたんと席を蹴立てる音と同時に、ビーデルは廊下を猛烈なスピードで玄関に向かって走り出した。

 

 「信っじられない。なんであそこまでお膳立てしてあげたのに何にもないわけ!?」
 放課後…といっても半日授業の日だったものだから、まだ昼過ぎ、ビーデルとイレーザは街のショッピングセンターにいた。臨海学校用の水着を買おうという口実とにまんまと誘い出されたのだが、やっぱり逃げておけばよかったとビーデルは強く思った。
 「なんで何かあるのよ」
 更衣室の中のイレーザに向かって、ぶすりとした声で聞き返す。
 「あんな映画みたいな逃亡シチュエーションなんてそうそう作れるもんじゃないのよぉ、分かってんのあんた。あったしだったらもうそのまま勢いでこのまま連れて逃げて!とかお願いしちゃうところよ」
 「バッカじゃないの」
 「バカはあーんた」じゃーん、とばかりに更衣室のカーテンを開け、黒をベースに体形を引き立たせるラインが入ったビキニ姿を披露してくる。
 「あ、いいじゃない」
 「そお?イマイチじゃない?で?なに?進路の話だけして帰ってきたって?調査票もう出したかって話だけだったって?」更衣室の段差からふんぞり返って見下ろしてくる。もともとビーデルは小柄でイレーザは多少普段でも並ぶと背が高いのだけど、こういう体勢だと本当になにか妹扱いされているかのようだ。唇を突き出してそっぽを向くと、オーバーなアクションで首を振って水着のまま降りてきて、適当にその辺のラックから選び出した一枚を押し付けてビーデルを中に押し込んでしまった。

 「じれったいの。…まあ、あんたがあたしとは違うってのは重々分かってるつもりではあるけど。あんたとはそこが面白くて付き合ってんだけどもね」
 「…だって、ずるいじゃないの」
 服を脱ぎながらビーデルはTシャツの中に隠れるようにして言ったのだが、聴こえてしまったようだ。なにが、とカーテンの向こうから声がした。
 ちょっと服を脱ぐ間考えたあと、答えた。「あの人、何にも知らないのよ。普通の友達すらいない、まして周りに今まで同じ年頃の女の子なんていなかったのよ。それを、ちょっと仲良くなったからって言っていきなりあたしが独占するのはどうかと思うってことよ」
 「刷り込みで親鳥のあとをピヨピヨついてまわるヒヨコちゃんじゃあるまいしって?わっかんないなあ。みんなもう半分認めてるようなもんよ、あんた達のこと。あの娘たちだって、だからあんたの前では遠慮してるのよ」
 「そういうの迷惑だわ、こんな雰囲気」
 「はっきりしないからよぉ」
 「何も知らない癖に」
 裸の状態で水着を着やすいように手繰っていると、カーテンの下の方から急に顔だけが突き出されてビーデルは悲鳴を上げた。しー、と口に指を当てながら、イレーザはカーテンの隙間で笑った。そして声を潜めて悪戯っぽく問うてきた。

 「あたし知らないことあるよねえ、あんた達の秘密。あの子が『アレ』ってこと以外にさ。さあ、言って御覧なさい」
 「悟飯くんのプライベートに関することなのでお答えできません」
 「どしても?」
 頬を膨らせる。この友人には全くかなわない。でも、これは世界のトップシークレットなのだ。冗談ではなく、余人に知られてはいけないことなのだ。

 もう孫悟飯がクラスに再び加わってから2ヶ月近くになるが、ビーデルはその間ずっと彼がクラスに溶け込めるようにと影ながら心を砕いてきた。秘密にしてはいても、イレーザもシャプナーも彼の異能を目の当たりにして気付いているし、クラスでもなんとなく「あいつは只者ではない。どうも『あの事件』に深く関わっているらしい」という空気があった。まさしく浮世離れしたこの人が、復帰後にも世間知らずゆえにやらかす数々のことがらに、ビーデルはひやひやしっぱなしだった。
 当然、もっと力を抑えろ、もっと普通にしろ、普通の、常識の、学生らしい振る舞いとはこの程度なのだと説教をするのはビーデルの役割だった。その時はおとなしくふんふんと話を聞くものの、どうも真剣に隠そうと言う意志も薄いようだったし、なにせ力が有り余るのかどうしたって身体能力の高さは隠し切れはしなかった。当然あちこちの部活等から目をつけられる。先月あたりから彼女が孫悟飯を悪人退治につき合わせるようになったのは、その断りの口実作りの意味もあったのだった。
 分かっている。自分のこの矛盾。あの人に他の人と仲良くしてもらいたいと思いつつ、あまりに深く親しくするとえらいことになるのではないか、とずっと案じてきた。そして最近、自分の中にそれ以上の感情が混ざっていることを自覚して、それがビーデルのアンニュイの一因だった。
 この人の秘密は、私だけのもの。
 あなたが皆が考えるよりずっとずっと普通でないのを知っているのは、私だけ。

 実際には彼女の父親だって知っていることだし彼の仲間内ではそれはごく当たり前のことなのだったが、そこは少女ゆえの視野の狭さみたいなものである。この、学校と言う日常の世界で、彼と言う異邦人を見守る優越感。彼と言う異邦人を諭し導く優越感。そう、まさにそれは優越感だった。それはけして綺麗な感情ではなく、褒められた感情でもない。それに気付いたのはかなり早い段階だったのだが、その時に、ビーデルの中にあの戦い以来芽生えていた感情にブレーキがかかってしまったのだった。
 イレーザはしばらく辛抱強く答えを待っていたが、もくもくと水着を着るビーデルを眺めたあと、肩をひとつすくめてカーテンを閉めてしまった。

 恋をすることで、自分がこんなに醜い人間になるなんて。
 それを、この恋愛において百戦錬磨である友人には、なおさらすがり付いて打ち明けたくなかった。そういう自分を、ビーデルはなおさら嫌悪する。

 

 


 

 

 臨海学校はサタンシティのはるか南、東南海に面するあたりだった。むしろ孫悟飯の家から割と近いと言うようなところなので、特例として彼だけは現地集合になった。2年生たちがはるばる朝早くから近くの町の空港から貸しきり中型機に乗って、目的地の近くの空港まで行き、バスで更に半刻、ようやく目的の浜に着いたのは昼近くになった頃だった。
 待ち合わせの宿泊施設の前でバスを降りたクラス一同は色めき立った。玄関の前で待ち受けていた孫悟飯の後ろには彼によく似た兄と思しき年頃の男、その腕の中には男に酷似した幼い子供、男の隣には麦藁帽子に白いサマードレス姿も眩しい美女が立っていたからである。

 「よ、おめえらが悟飯のくらすめーとっちゅうやつか。オラ孫悟空、悟飯の親父だ。よろしくな」

 「お、おとうさんっ」
 「なんだよ、ちゃんと挨拶しただろ。ほれ、悟天も」
 「は、はじめまして、悟天といいますっ。にいちゃんがいつもおせわになってますっ」

 「うっそぉ、悟飯くんのおとうさんなの!?若ーい!」
 「かっわいい、弟さん!悟飯くん、こんな弟いたんだ!」
 「…ってことは、おい、そっちの人はおかあさんなのか!?」

 恥ずかしそうに微笑む母親の前で、孫悟飯が担任に真っ赤になって説明する。家庭訪問も参観も行けなかったからって今日ついてくるって父が言い出して聞かなかったんです。担任の中年の女教師が苦笑しながら、邪魔にならないなら。あとで面談みたいな感じでお話しましょう、などと答えた。とりあえずほかのクラスの邪魔にもなるので、生徒は先に宿に荷物を置いて、すぐ着替えて浜に集合するように言われた。それならというので突如現れた意外性溢れる家族は別れて行ってしまった。
 歩いていく先、浜の隅の森のほうには、住んでいるのをそのまま持ってきたと思しきカプセルハウスがひとつ建てられている。キャンプ場も併設されているから他にも小さなカプセルハウスはそのあたりにあったが、あそこまで普通の家っぽいのもなかなか珍しい。ビーデルもあの騒動以来、まだあの山村の家を再訪はしていなかったのでその佇まいは少し懐かしかった。

 浜に一旦集合し、宿のプライベートビーチの区画で生徒達は準備されたバーベキューの昼食に興じた。柵の向こうの一般のビーチの方では、孫悟飯の一家がビーチパラソルを広げ、本人も交えて担任と母親が作ってきたのだろう弁当を囲んで話に興じている。離れているから内容は伺えないが、たまに担任が興味深深柵越えに伺っているこちらクラスメート達を叱りつけて来る。
 「ビーデルは知ってた?あんな家族だって」
 女子に聞かれて、ビーデルは肉を咀嚼しながら肯いた。武道会前の休学中に自分が孫悟飯の家まで行ってともに修行をしていた事は父親にも秘密にしていたので周りは知らないことだ。
 「かーちゃん美人だよなあ。さっき聞いたんだけど、両親が19の時の子供なんだってよ、悟飯って」
 「にしてはなんか歳が離れてるように見えるけど」
 「しかし発想が大胆なおとうさんよねえ」イレーザがジュースを呷り秋波めいた眼差しをとばす。「若いし、いい体してるし。あたし、割と好みだなあ」
 「でもよぅ」意外と面倒見のいいシャプナーが、追加の肉を網に並べながら首を捻る。「俺、あの親父さんと弟、どっかで見た気がするんだよなあ」

 ビーデルはその言葉にギクッとした。周りでそういえば、などと何人かがおなじく首を捻る。そりゃ見たことがあるだろう、シャプナーもイレーザも悟天が少年の部で戦ってるのを見てるはずだし、他の者だって邪悪な魔術師に世界中に顔を配信されたあの親子の顔を見ているのだから!イレーザがそんなビーデルの様子を見てちょっと考えて、また家族のほうを見てちょっと考えた風をし、耳打ちをしてきた。
 (例のトップシークレットなの?あれが)
 見つめ返すとひとつ鼻を鳴らすようにして唇をゆがめ、いきなりパンパンと手を叩いて注目を集めた。何事かとビーデルが冷汗をたらしそうになって見守るそばで彼女が卓の下から袋を取り出す。
 「はーい、ではうちのクラスの人には、今晩のキャンプファイヤーでのダンスの最初の相手のくじを引いてもらおうと思いまーす」
 イベント好きのイレーザはレクレーション委員なのだった。彼女は囁いた。「あたしにも秘密とか面白くないので、ビーデルといえどもズルはしてあげませーん。2回目以降のお相手として、頑張って名乗り出ることね」

 

 全くその日は見事な晴天だった。昼食の片付けのあと腹ごなしに砂浜の清掃をさせられ、レクリエーションのあとで自由時間。その中でビーチバレー大会。今日は一日こんな感じである。なぜ今日キャンプファイヤーをするかといえば、明日の午後には遠泳大会が待ち受けているからだ。疲れてぐったりしては盛り上がりに欠けるではないか、というのがイレーザの主張である。今日騒いでそのまま遠泳に疲れを持ち込むのもどうかと思うのだが。浜での日程は今晩と明日の晩の2泊。明後日の晩のもう一泊は、この付近から定期船が北のほうに向かって出ているのでクルーズがてらその船の中で過ごすことになっている。
 ビーチバレー大会女子の部は、ビーデルと、もう一人クラスの運動が得意な女子が組んだおかげで彼女のクラスの圧勝だった。その前に行われた男子の部は惜しくも準優勝だった。シャプナーのコンビは孫悟飯ではない。さすがに相手に怪我の危険があると言うので本人が固く辞退したからである。シャプナーはそれに盛んに悔しがっていた。戦力になるものを分かって使えないなど、なんて悔しいことだろう、次の体育祭には絶対借り出してやると息巻いている。彼は、そんなシャプナーに苦笑し、クラスの男子に交じって盛んに自分に声援を送ってくれていた。すっかりもうクラスの一員といった風だ。

 プライベートビーチの脇にたてられた赤と白のコントラストも美しい彼の家のパラソルの中で、母親がニコニコと青いワンピースの水着にパーカーを羽織ってそんな息子の様子を見ている。幼い彼の弟は、女子達の膝の上で可愛がられてご満悦だった。父親が何をしてるかといえば、時折海に入っては魚を獲ってきて、持参したのだろうパラソルの中の大きなクーラーボックスに放り込んでいる。時折、母親の隣に腰掛けては何か手渡したり、息子達に無邪気に手を振ったりしている。
 いい家族なのだろう、と思う。とてもついていけないと、あの戦いの折話を聞いて感じたほどの秘密を抱える家族にはとても見えなかった。傍目からは、どこにでも居そうな、ごくありふれた幸せな家庭に見えた。ずっと、その幸せが過去にも未来にも永遠に続いているような、そんな家族に見えた。母親が病がちで早世し、父親もあのようである自分から見たら、眩しいほどに。青い青い、この夏の空のように。
 戦いの折に、その後に、ビーデルが知ったのはこの家族の長い別離の真相だった。孫悟飯はまだ、そのきっかけになった昔のあの戦いのことは詳しく話そうとはしなかったが、ふとした瞬間に窺い知れるのはその人が蘇ったとて、いや蘇ったからこそ未だ消えぬ悔恨と自責の念だった。自分が今は亡き母に抱く、もっとこうしてあげていればよかった、ああしてあげたかった、というようなものとは全く違うであろう、それもまた、今は彼女だけが同級生として独占する彼の内面の痛みだった。
 イレーザが選んだのに反対して自ら決めたいささか地味な濃い緑色のセパレートの水着の胸を反らして、ビーデルはそろそろ日も傾いてきた空を仰いだ。かもめが気持ちよさそうに茜色の夏の夕暮れの風に乗っている。ああ、今、ここからあのように飛べたらいいのに。
 2ヶ月前に覚えた空を飛ぶすべではあったけれど、サタンシティと言う街中ではさすがにそうそう使うわけにも行かず、たまに休みに一人山のほうに出かけてトレーニングする程度だった。家の中ならとも思うのだが、1回見られた父親にそんなひこう少女のような事はやめなさいとか怒られてしまったのである。
 自分はなんとも半端な立場だ。半端に普通で、半端に普通ではない。
 どのように、今後自分は、この非常識と付き合っていくべきなのだろう。

 今なら、まだ引き返せるのじゃないか。今なら、まだ諦められるのじゃないか。行こうか、戻ろうか。

 どちらにしても待つのは、またクラス中に巻き起こるであろう荒波である。ビーデルがイレーザをかなわないと思うのは、自分が内心情けないほどに他人の目を気にするたちだからだ。口では彼女に倣って文句ある?と言えても、内面でそのとおりきっぱりと処理しきれない弱さを抱えているからだった。父親が救世主と言うものになって、他人の目と言う嵐のような現実が彼女を襲って子供ながらに色々とあったその時にからりと笑って居てくれたからこそ、どれだけその振る舞いに困らされても彼女はビーデルにとって大事な友人なのだった。親友と呼ぶには面映い、そんな感情ではあったけれど。

 

 

 「ビーデル姉ちゃん」
 そろそろ宿に入って入浴かと思っていた頃合に、昼寝のあとで父親に水泳の特訓を受けていた悟天が柵の向こうから呼びかけてきた。
 「おかあさんが呼んできてって」
 「あたしを?」孫悟飯を見ると、ビーチバレー用のポールを引き抜いて撤収を手伝っている最中だった。ボクお風呂わかしてくるんだ、と悟天はそのまま家のほうへ駆けて行ってしまった。
 訝しげにパラソルのほうに近づいていくと、丁度彼の父親がパラソルの柄を息子と同じように引き抜いている最中だった。あの、と声をかけると振り向いて日焼けした顔を笑わせた。
 「おう、久しぶり。ビーデル、だったっけ」
 「失礼だぞ、悟空さ。お久しぶりだべ、ビーデルさん、ブウの時以来だな。これな、愉しんでたから渡しそびれたんだけど、おら皆さんで食べてもらおうと思って菓子焼いてきたんだべ。晩御飯のあとでよければつまんでもらってけろ」母親が綺麗な東洋風の布で包んだ箱を差し出した。「あの子に言付けたら、また恥ずかしがって反対されちまうでな。おらたち明日の朝には帰るから、あとはよろしくな」
 パラソルを閉じながら父親が隣で笑った。「悟飯、みんなと上手くやってるっぽいな。よかった」
 「ええ」
 「あの子は田舎もんで世間知らずなもんだで、力の加減とかなくて皆驚かせてるんでねえだか」

 正直に顔に出して言いよどんでしまったビーデルを見て母親が苦笑した。
 「気苦労かけてすまねえだなあ。あの子はうっかりな所もあるから、余計なことまで言ってなければええんだけども」
 「まあ、ばらしちまってもいいんじゃねえかとオラは思うけど。どうせ記憶消してもらうんだしさ」

 「えっ」
 「だって、ブウの記憶消すときについでにオラたちが超サイヤ人とかそういうことも消してもらわねえと、だろ?」しゃがんでマットを巻いていた父親が、傍らで肯く妻を見て、ついでビーデルを見た。目が合った瞬間、ビーデルは自分がショックを受けた顔をしているのに自分で気付いた。

 寄せて、返す波の間、あの瞳にどちらにもよく似た黒い2つの眼差しがビーデルを見た。茜色に縁取られた、精悍な顔。緩く髪を束ねた、白い卵型の小さな顔。なぜかビーデルは、めまいの起こりそうな動揺の隙間に、自分がおとぎ話の中で謁見を賜る娘のような気分になった。幸福に肩を並べて玉座に座る、王と王妃の幻像。何にショックを受けているのか自分で判然としなかった。

 「悟空さは馬鹿いうでねえよ。いくら記憶が消えるからって何もかもばらされちゃあサタンさんの信用ががた落ちで、ビーデルさんも困っちまうでねえか」
 そう諭す声に、そうなのか、と自分で思って、それだけじゃない、と気付く。確かにそれは動揺の一部分だった。なんだかんだ言ってビーデルは救世主の娘であるということにアイデンティティの多くを拠らしめて育ってきた娘だし、たとえこの一家、この孫悟飯の父親という真実世界の救世主の存在を知りつつも、真相を自分から明かそうとしなかったのは、一家の望みとは言え彼女の保身の一種だった。だからこその、さっきの畏怖の…王の前で裁かれる咎人の心情の幻影だったのだろう。
 でも、それだけじゃない。上手く言えずに顔を伏せそうになったビーデルに、思いがけず優しい声が下から覗き込むようにかかった。

 「すまねえ。大丈夫、おめえは別だ。それにこうして楽しくしてる記憶まで消しちまうわけじゃねえよ。そのへんは神龍も意外と気が利くんだ、安心しろ。な」

 「…そっか、んだな。ビーデルさんは、他人じゃねえもの」軽くそのぼさぼさ頭をはたいて母親が優しい笑いを浮かべた。
 「そうだな、多分、悟飯にとっちゃ…」そこまで言ったところであわてて拳骨がまたその広い額にとんだ。なんだよ、と尖らせる唇の前で、さっさと行けと言う仕草をする。家のほうから、微かに「お風呂わいたよー」という幼い声がした。パラソルを持って立ち上がり際に、もひとつ付け加えていった。「今晩は悟飯が居なくてさびしいってんで、悟天もそっちで寝させようと思うから。わりいけどあとで面倒見てやってくれ!あいつがいるとオラたちのんびりできねえからさ!」
 真っ赤になってもう、とこぼす顔をビーデルは見つめた。気付いて首をかしげて少し待たれたところに、口を開いた。

 

 「おじさまは、いいひとですね」
 「ん、そうだな」
 「いいおとうさんじゃないですか」ビーデル自身はほとんどあの戦いの折にもまともに顔をあわせず言葉も交わしていなかったので、孫悟飯の語るような破天荒で困った父親、というイメージを抱いていたのだったが、話してみれば子を思う普通の父親、という感じが強かった。
 「参観は授業なんか見てもつまんねえってサボったんだどもな」こういう場所なら、ほんとに悟飯がちゃんとやってるかわかるからって。そう言って、くすりと幸せそうに笑って…知り合った当時より、黄昏の光を差し引いても、その横顔はとても美しく見えた…隣のひとは続けた。「悟空さも学校なんか通ったことなかったから。やっぱり多少は興味があったんでねえかな。下手したら悟飯と合体して通うことになってたかもとかへんな事言ってただども」

 宿のほうから誰か女子の呼ぶ声が聞こえてきた。もうすっかりと浜は静かに、ひと気も無くなっていた。一般の浜に残っていた海水浴客も、あらかた帰り支度を終えてしまっている。海とは反対側の山の端に沈んだ茜色の残照のそばに、白い星が、黒々とした大きな目の隣に輝いて見えた。

 「もう行きます。その前に、ひとつだけ聞いていいですか」
 「ん?」
 「おばさまは、普通じゃない、秘密ばっかりのおじさまたちに、疲れたりしませんか」
 ちょっときょとんとしたあと、弾けるように孫悟飯の母親は笑った。ひとしきり笑った後で、答えた。

 「まあ、おらも大概普通じゃねえし。宇宙人だなんて知らなかったけど、おらあの人が普通じゃないところに惚れたんだ。だから悟飯が生まれた時尻尾があろうが、むしろ嬉しかったんだべ。いくらあの人が普通の神経してないって嘆いても、結局はそれを面白がってたんだべな。長い事離れて、やっと気付いたことだけども。
 でもな、あの子は悟空さとは違う。地球人として生きたい。尻尾をもう生やしたくない、できれば戦いなんてせずに全然強さと関係ねえ学問の道をずっと生きたいと思ってたんだ。だから、全然遠慮はいらねえ、びしびし普通の人間として躾けてやってけろ。それは、おらじゃ無理なことなんだよ。田舎でひっそりと、その秘密に酔ってあの子達を世間から隠して愛でてたおらにはな」

 


 

 

 「おかあさんと、なに話してたの」
 浜に組まれた真中のやぐらに、火のついた薪が次々と投入された。たちまち大きな炎が上がって歓声が起きた。持ち出されたベンチに腰掛けた彼女の上の方から、こっそりと声がかかった。
 何処か心配げな黒い瞳。日焼けをした額が、あの父親によく似ている。手にすでに眠そうな弟を引いて、いつしか彼は隣に立っていた。
 「…女同士の話よ」くすりと笑って答えをはねつけ、早速始まったダンスの順番を促して、そのたくましい、白く飾り気のない半袖のTシャツの腕をひとつ叩いた。浜は生徒全員が踊れるほど広くはないから、クラスで何組かずつ出て入れ替わりで踊るのだ。じゃ、と弟を隣のベンチに座らせ、ダンスなんてやったことないよと本当に弱り顔をしながら歩いていく。

 賑やかな音楽が始まった。
 「どう?愉しんでる?」手にした紙コップに炭酸飲料を継ぎ足してくれながら、イレーザがジャージにミニスカートと言う砕けた格好で笑いかけてきた。

 「そうね」
 ビーデルは笑った。
 「あのひとのおかあさんも言ってたけど、愉しんだもの勝ちってことよ」

 

 「そぉよ。やっと、あんたにも分かったみたいね」

 やぐらの前で、他の女子と組んでなんだか頓珍漢な踊りをしクラスの笑いを取っているひとを見て、ビーデルは、今は暗く、でもきらきらと星の光を映している先ほどまで居た波打ち際を見た。

 
 普通であることも、そうでないことも。
 それを愉しんで大事にしていけば、きっと、いつか、この友人のように。そして、あの女性のように綺麗に。
 そして、いつか、あんなに素敵な『ふたり』になれるはず。

 

 だけど、踏み出すにはまだ少し怖いから、もし、あなたが手を差し伸べてくれるなら、私は飛び立とう。
 あなたが教えてくれた普通ではない世界に、この思いに、鳥のようにまっすぐに。

 

 
 夜の森の中に潜む、幸福を取り戻した家の明かりがそっと揺れて消えた。


 

 



あとがき・もくじ(ブログ)
小説投票
拍手する + 拍手する