このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 起き上がって、ううん、と伸びをした。悟空のよく鍛えられた裸の背中に、無数の筋肉が浮き上がった。
 くあ、とあくびをして目をこする。むにゅ、と唇をなめて窓の外に目をやると雨だった。そんなに激しくはないものの。

 このくらいなら修行に行けるかな。頭をかいて、ベッドの下に落ちているパジャマと下着を身に着ける。時計を見ると朝6時半。いつもどおり。と言っても、あの世では昼も夜もなかったし寝ても寝なくてもどちらでも良かったから…要するに時間と言うものがない世界だったから…また、前の生活のリズムに戻ったということなのだが。
 あの世から戻ってきて3ヶ月。下界は春から夏へ、美しく移り変わりながら日々きらめいている。

 目覚めるたびに、悟空は思う。陳腐だけれど、生きてるって素晴らしいと。幽り世とはやはり違う。生命が生きているということは、それだけで、どんなにつらい境遇にあろうとも、それぞれの魂が喜びの歌を歌っているようなものなのだ。あちらには、それがなかった。流れているのは、諦念のかすかなつぶやきの声だ。
 天国でも地獄でも、魂はそれぞれの行いによって定められた消滅のときに向かって緩やかに忘却しながら透明になっていくだけ。そのあとは消えるか、現世で新しいものになるか。自分は特権を得て体を得てあの世に好きなだけとどまっていられてはいたが、それは逆に残酷でもある。自分がそう望んでいたとは言え、だ。
 現世でも生命は死に向かって進むが、そのあとには残るものがある。あの世では、残せるものはない。それが、現世と幽り世の決定的な差なのだ。だからこそ魂は現世で歓喜する。そう、悟空自身の魂も。
 武道家として途を究めるなら、あちらに残っていたほうが良かったろう。いくら修行しても誰もとがめない。『神々の力あるしもべ』と銘打たれたものとして当然のことだからだ。同じようなつわものも大勢いた。おかげでさまざまな技や能力を身につけることができた。
 でも、自分はこの世に戻ってきた。安寧な、守られるべき、ゆえに退屈にならざるを得ないこの世界に。時間と言うものにしばられるこの世界に。でも、何も後悔はしていない。退屈を覆って余りある幸福があるから。
 さあ、その幸福が扉の向こうに待っている。悟空はひとり笑って、鳴り出した腹をひとつ叩いて、寝室を出た。台所には、朝から忙しく立ち歩いている妻と子供たちが待っている。



 「おはよっす」悟空が明るく笑いかけると、3人が振り返って口々に朝の挨拶をしてきた。食卓にはすでに見事な朝食が整えられている。早速つまもうとすると、先に顔を洗ってこい、と妻のいつもの小言が飛んだ。いつもの朝だ。
 洗面から戻ってきてうきうきと席に着き、みんなで「いただきます」と手を合わせる。そして戦場に突入する。食べ盛りの息子二人はなかなか手ごわい。十分な量を作ってあるとはいえ、うかうかしていると美味しいところを食いっぱぐれてしまう。
 「まったく、悟空さが帰ってきてからみんな食べ方がお行儀悪くっていけねえだ。みんなもうちょっとゆっくり食べるだよ」妻がのんびりと、取り分けた自分の分に箸をつけながら小言を言う。長く離れていたせいもあるだろうけど、小言には昔ほどの勢いがない。新婚の頃などちょっと汚く食べていたらすぐ手が飛んできていたものだけれど。
 おかわり。茶碗を突き出すと、競い合うように息子たちも妻に茶碗を突き出した。妻は笑って、それぞれの茶碗を受け取って、釜のふたを開けて白い手を温かな良いにおいの蒸気に突っ込んだ。

 「ごちそうさまあ」次男坊が箸を置いて手を合わせた。次に長男。そして最後に自分。
 「はい、おそまつさま。で、今日はどうするんだべ、悟飯ちゃん。お天気いまいちだけど」
 「うん、でもひどくならなさそうだし、行くよ。これからみんなに電話かける」
 「おとうさん、お天気もっと悪くならないよね、山のほう」次男坊が食後の茶を飲みながら見上げてきた。
 「ん?なんで?まあ、平気だろうと思うけどな。昼から晴れるだろ。父さんも修行に行くし」窓の外の山のほうを見やる。悟空の天気予報は結構あたるのだ。
 「言ってたべ、今日はこの子達と、トランクスくんとマーロンちゃんと、あとビーデルさんとで山の方でキャンプするんだって。カプセルハウスとかなしで、テント張って、本格的に。明日の夕方までな。な、悟天ちゃん」
 「へえ、いいなあ」
 「昼前集合だから、それまでにいっぺえ弁当こさえねえとな。あ、それでマーロンちゃん送りにクリリンさんも来るはずだからな、悟空さ」
 「そっか。じゃあ久しぶりに2人で修行でもするか。オラたちはキャンプ行っちゃだめなんか?」
 「ダメ」妻が意味ありげに笑って、チラッと悟飯を見た。悟飯は電話の前でなにか考えているようだ。悟空は小首を傾げたあと、ちょっと考えて得心して言った。「ああ、あのビーデルって娘も来るからか」
 ぎょっと悟飯の背中が緊張して、振り返ってなんだか恨みがましい目で見てきた。悟空は頭をかきながら笑って椅子を立ち上がった。「じゃあ、オラは修行に行ってこよっと。クリリンがこっち着きそうなくらいに戻ってくらあ」




 長男は、いわゆるセーシュンというのの真っ只中だ。なにやら自分が死んでいる間に、学校で知り合ったという女の子と仲良くなっていた。
 「悟飯もやるねえ」卓の向かいに座ったクリリンが、茶を飲みながら言う。「学校に通いだしたとたん、あんな可愛い子と仲良くなるなんてさ」
 「可愛いか?」悟空も茶を飲みながらのんきに聞いた。この歳になってもまだ女の子の可愛さの判断基準はよくわからない。
 「可愛い可愛い。ミスターサタンの娘だなんて信じられねえよ。よっぽど美人の嫁さんだったんだろうな」

 子供たちは先ほどキャンプに出かけていった。11時過ぎ。妻はちょっと早めだけれど、親たち3人だけのための昼食の準備にかかっている。ブルマも送りに来るかと思ったがトランクスはすでに母親のひざに甘えてる年齢でもないので一人で荷物を背負って空を飛んで来たのだった。世間様は平日である。社長のブルマは忙しいのだ。
 「で、悟飯とビーデル?だっけ?はもうつきあってるのか、悟空」せんべいをパキリ、と噛みながらクリリンが聞いてきた。その頭には長めに伸ばした黒い髪の毛。なんかまだ見慣れないな、と悟空は苦笑する。だって長年クリリンといえばあのくりくり頭だったのだから。そりゃ修行時代にもたまに頭を自分でかみそりであたってる姿を見た事はあるけれども。
 「さあなあ、オラ知らねえよ」
 「お前に聞いたのが間違いだったよ。どうなんですかね、チチさん」
 「さあなあ…でも、微妙なところ、ってとこだべかな」
 「へえ、でもまあそんな感じだったかな、なんかぎこちない感じだったもんな。青春青春。あの小さかった悟飯がねえ」
 
 セーシュンねえ。悟空はまた苦笑した。死んでいる間に本当に見違えるほどに大きくなったのには驚いたが、まあそれは離れていた年数を思えば当たり前のことだ。でも悟空が本当に息子が大きくなった、と思ったのは息子に好きな女ができた、と気づいた瞬間だった。息子が、昔の、新婚の頃の自分のように女に心を奪われている。隠してるようだけれどバレバレだ。3ヶ月見てきたが、武道会のときはまだその気配だけだったのがだんだん大きくなり、夏に入った頃には、つまり学校が休みに入って会えなくなった頃にはそわそわと上の空でいることが多くなった。
 別に積極的に心を読んでいるわけじゃない。でもわかってしまうんだ、これが。息子は自分が心を読めるから警戒しているようだけれど。

 自分も、新婚の頃はあんなふうに見えてたのだろうか、と思うとなんだか面映くもある。一言声をかけるにも、手をつなぐにもどきどきと迷っていたあの頃。若かったんだなあ、あの頃は。でも、成り行きだけれど、いきなりケッコンと言う形でまとめられて良かった。たぶん、なにもないところで自分がこの女に惚れても、多分どうして良いかわからなくて、どこぞのドラマみたいに無茶なことをして、馬鹿なことをして、支離滅裂なことをして、毎日苦しんでいただろう。結婚まで行き着けなかったかもしれない。それを思うと、ちょっと損をしている気もするけれど、自分はこれで本当に良かった。
 「なんだべ、人の顔見てニヤニヤして。気味悪いだな」妻が顔をしかめて食卓にサラダとソーセージと薄い酒の瓶を置いてきた。「一応置いとくから、お昼までの間飲みたかったらどうぞ、クリリンさん。帰りは自分で飛んで帰るんだべ?」
 「ああ、ありがとうございます。悟空、飲むか」
 「ん、じゃあ少しだけならな」
 「じゃあ」しゅぽん、と良い音がして栓があいた。かちり、と親友同士は笑顔でグラスを合わせた。あの修行時代にはなかったコミュニケーションのかたち。自分たちも歳をとったな、と思う。さらに飲みながらにやにやと思う。
 悟飯、頑張れよ。レンアイってのは、楽しいぞ。







 山の中腹あたり、小川のほとりの少し小高いところまで徒歩で登ってきて、一行はキャンプを張った。荷物と用足し用のテント、3人の男の子用のすこし大きなテント、2人の女の子用の小さめのテント。無論この中では最年長者は悟飯だから、悟飯が何もかも仕切ってやらないといけない。もっともチビどもの面倒を見るのは慣れているからどうってことない。テントを張るときに自分たちでやりたがって騒ぐのも織り込み済みだし、それは一応させてやるものの、失敗してまた騒いで結局自分が全部やる羽目になるのも織り込み済みだ。チビたちの親だって、自分がついてるなら何も危険な事はないと快く預けてくれている。
 チビどもは今は魚を探して大騒ぎだ。悟天はもともとこの山でよく遊んでいるけれど、都会っ子のトランクス、海の孤島育ちであまり山を見慣れないマーロンはおおはしゃぎだ。悟天は魚の上手な捕まえ方などを披露して得意げである。
 今回違うのは、ビーデルがいることである。


 「ね、悟飯君はよくキャンプとかしたりするの」
 悟飯の脇でコンロを組み立てていたビーデルが聞いてきた。
 「ん、ああ、おじいちゃんがキャンプとか好きな人だからね、たまにね」
 祖父は割と旅行好きで、たまにバイクツーリングで野宿をしながらふらふらと旅をしたりする。父親が長く不在の頃、それに何日か付き合わされたこともある。父親が死んでいた頃にも何回か一家は祖父とキャンプに行ったし、そういった時悟飯はテントの張り方などのアウトドアの知識を教えてもらったのだった。別に悟飯にしてみれば小さい頃ひとりで半年生き延びた経験があるから雨風をしのげる場所さえあればあとはどうにでもなるのだけれど、母親や弟と楽しもうと思えばそうは行かない。この道具も祖父の使い古しを譲ってもらったものだ。
 「いいわね、こういうの」
 「えっ」悟飯の心臓がどきりと跳ねた。
 「私、あまりこういう経験ないから。たまに旅行に行ってもホテルとかばかりで。キャンプなんて学校の林間スクールで一回だけだもの。今日は誘ってくれてありがとう」
 ビーデルが、組み立ての説明書を一生懸命見ながら、照れくさそうな声でぽつりと言ってきた。悟飯は曖昧にうん、などといった後、母親の作ってくれた弁当の食器セットを取り出しながら、自分の顔が赤くなるのを感じた。


 学校が休みになってからは、さすがに2人の課外活動とも言える悪人退治もお休みだった。なにせ自宅から学校のある、ビーデルの住んでいるサタンシティまでは1000kmもあるのだから、自分が飛ばしたってそこそこの時間はかかる。その間に悪人に逃げられてしまうからだ。
 悟飯はクラブ活動もしていなかったから(もっともシャプナーなどは悟飯が『金色の戦士』ということを知ったので熱心にボクシングに誘ったりはしていたが、そんなことしたら相手に命の危険がある)学校に行くような口実もない。ビーデルだってクラブ活動をしていないのだから、学校には夏休みの間通ってこない。つまり夏休みになって2人の会う事はまったくなくなってしまった。
 夏休みになる前から、2人の間にはなんとはなしに微妙な空気があった。つまり、どちらかが切り出すか、切り出すまいか、ということだ。なにを、と言われて説明できるような単純なことでもない。なにかを、だ。

 武道会で秘密を知られたことによって、当然ビーデルは悟飯の中で他の友人たちとは一線を画す存在に昇格した。別にクリリンの言うように、父親の言うように彼女になったとかいきなりそんなわけはない。
 自分の桁外れた力は、そして金色の戦士であることは、なんとなくクラス中に広まって、でも皆があえて口にしない暗黙の了解みたいなものになった。まだブウの記憶は人々から消え去っていない。悟飯が、そして父親が、弟が、ブウと戦った戦士のひとりである、というのはわかる人ならわかる事実である。悟飯が武道会から学校と言う日常に帰還して、ひと月の課題はそのようにさわさわと漣の立つクラスになじむことだった。その防波堤になったのは、ビーデルの無言の圧力である。
 悟飯はなんとなく、クラスの皆が、彼女が権力者の娘であるから、彼女に一種媚のような態度で接して、彼女をクラスの中心的存在にしているのだ、と思っていたところがあった。でも、彼女はもともと明るく、人の気持ちを纏め上げることがじょうずなのだ。厄介ごとも平気で引き受け、多少口は悪いけど面倒見がよく、弱いものをよくかばう。級長などはしていないが、よく提案などをして助けている。つまり彼女の人気の大方は彼女の人徳なのだ。
 2ヶ月目になってクラスになんとなくなじんだ頃から、ビーデルは悟飯を自分の趣味の悪人退治につき合わせるようになった。すると、次はクラスに、そして学校全体に別の漣が起きた。要するにビーデルにとって、孫悟飯は特別な存在であるのか、という波である。彼女は、直接言い寄ってくる男は少ないものの、男子生徒にとって人気の存在だから。そして、いつの間にか自分の方も女子生徒からそのように見られる存在になっていた。悟飯は父親に似て自分に向けられるそのような感情にはとんと鈍かったが、たびたびそれとなく他の生徒に質問をされることで、自分たち2人の置かれた立場に気づいた。
 悟飯は母親の見るドラマや、自分が見てきたアニメなどのせいでわりとませた子供だったから、そういうとき男子と女子が次にいたるべきステップと言うものが当然わかっている。自分たちは、半分公認のような関係で、あとは、付き合うか、付き合うまいかをはっきりさせることだ。でも、それを言うに値する感情が、二人の間にあるのだろうか。2人ともがそれを持ち合わせているのだろうか。
 問題は、その部分である。そして、それがはっきりしないまま、夏休みになったのだった。





 昼からは父親の予報どおり見事に晴れた。みんなで弁当を食べ、午後からは川遊びをし、昼寝をし、悟飯の指導の下で食べられる実や草やきのこ、そして魚などをとった。晩の食材である。
 ビーデルは主に女の子同士、マーロンと行動をともにしている。たまに悟天ともはしゃいだりしている。教室にいるときとは違う、素直な笑顔。彼女はやはり、人前では気を張って生きているような面があって、いつも何かしら強がっているようなところがある。強くありたい、強くあらねば、という気持ちの表れなのだろうか。それは彼女に母親がいないことに関連しているのかもしれない。母親は、セルゲームの少し前に病気で死んだ、と一回聞いたことがある。自分が父親を失ってたのと同じくらい、彼女も母親がいなかったのだ。なんとなく、悟飯は親近感のようなものを覚える。
 親がいない、というのは、子供にとっては他人の想像以上に大きいことだ。自分が、いっとき弟の父親代わりをやろうとして肩肘を張っていたのと同じような気持ちなのだろうか、彼女の意地っ張りと言うのは。

 「悟飯さん、よそ見してたら焦げるよ」
 声をかけられて、悟飯はあわてて岩魚の刺さった枝を焚き火から遠ざけた。トランクスが横にしゃがみこんでニヤニヤと笑っている。「ビーデル姉ちゃんがさ、もうカレーもできるってさ」
 「そ、そう。ご飯のほうはどうかな」
 「俺たちじゃわかんないもんね、飯盒での炊き方なんて。見てよ、悟飯さん」
 「ああ、そうだね、じゃあトランクスくん、魚のほうは見ててくれよ」
 「あのさ、悟飯さん、なんでビーデル姉ちゃんを今日誘ったの」
 「えっ」悟飯はぎくりとした。「い、いやだったかい」
 「ううん、楽しいよ。でもさ、せっかく悟飯さんが誘ったんなら、もうちょっと悟飯さんがかまってあげればいいのにってハナシ。俺は気を利かせてるつもりなんだけどね、悟天もマーロンもまだガキじゃん?恋人同士の微妙なニュアンスなんてわかんないからさ、困っちゃうよね」
 このマセガキ!
 ひらひらと笑顔で手を振るトランクスに背中の中で悪態をつきながら、悟飯は飯盒を棒で叩いて確認する。少し、焦げたにおいがした。ふたを開けると、案の定下のほうはおこげの域を超えて黒くなっていた。
 ビーデルが慰めながら、そこにカレーをかけてくれた。チビどもにはきれいに炊けた部分。自分は焦げの入った部分。顔をしかめて食べていると、悟天を挟んだ向こうにいるビーデルが少し笑いかけてきた。焚き火の照り返しに、少し伸びてきた髪がふわふわと赤く踊っている。
 彼女のカレーは想像していたよりもおいしかった。母親には遠く及ばないものの。でも、なぜだかおいしいですよ、と素直に口にできなかった。言おうとしたのだけれど。
 


 その晩は、明日の虫取りの下準備をした後、みんなに星の説明をして、持ってきた望遠鏡を順繰りに覗かせて早々に眠った。なぜだか、誘わないほうがよかったのかも、と言うような気分だった。あれだけ誘いたくて仕方なくて、3日もどうやって誘うか考えたのに。悟天がキャンプしたい、と言い出したとき、口実ができた、と思ってとても嬉しかったのに。

 わかっている。会いたかったのだ。40日の休みはあまりに長い。どうにかして、会いたかったのだ。そう思う時点で、自分の心はわかっている。でも、あちらはどうだろう。
 夏休みに入ってから3週間と言うもの、電話もなかった。夏休みに入るまで電話してきていたかと言うとそうではないのだから、いきなりそんなしてくるはずはないと言うのはわかってはいるけれど、あちらから連絡を取ろうとはしてくれなかった。つまりは、まだ自分はその程度の存在でしかないのかもしれない。ビーデルは人気があるから、イレーザなどに誘われて遊びに行っているのだろう、とか、トレーニングに忙しいのだろう、とか理由をつけようとした。でも、理由をつけようとすればするほど、自分の存在がその理由以下だ、と言うことを思い知らされる気がするのだ。
 やっと誘えて、それに応じてくれたときは嬉しかった。電話の後ろのソファでたまたまテレビを見ていた父親と弟が物珍しそうな顔で見ていたくらいだ、自分は浮き足立っていただろう。それから、いろいろ計画を立てた。キャンプがうまくやれるように。こっそりアウトドアについて勉強しなおしたりもした。母親もなんだかそんな自分を見てみぬ振りをしていたようだったが。

 彼女は、今日一日を本当に楽しんでくれていただろうか。自分といるこの時間を、楽しんでくれているのだろうか。
 悟飯はそっとため息をつきながら、ランタンの光を落とした。女の子のほうのテントは、とっくに真っ暗になっている。寝袋にもぐりこんで、隣に寝ている弟の頭に顔をうずめた。少し、父親に似たにおいがして、安心できるような気がした。
 父親は、長いこと母親に会えないことが多かったのに、よく我慢していられたものだな、とかそんなことを考えつつ。





 その晩は、久しぶりに荒野にひとりだった頃の夢を見た。ねぐらにしていた小さな洞窟。そばに小川が流れていたところを選んだのは、必要もあったけれど、家に似ていて落ち着ける気がしたからだ。さらさらと流れる水の音は、自分の子供部屋で毎日聞いていたのとよく似ていた。
 帰りたい。あの頃何度そう泣いただろう。ある程度たくましくなってから逃げ出して帰ろうとしたこともある。でも、まだその頃の自分は、師匠に教えてもらうまで空を飛ぶこともできなかったから、砂漠に阻まれてどこにも行くことができなかった。それに、生きることで精一杯だった。狩をして、日々の飢えをしのぐだけで。最初の頃は、本当に毎日飢えていた。生き延びられたのは、多少なりとも植物の知識があって、何が食べられてそうでないのか知っていたおかげだ。母親がいつだったか買ってくれたアウトドアの本と、父親が野山で教えてくれたことのおかげだ。
 さらさらと流れる水の音にあわせて、毎日泣いた。帰りたい。抱きしめて、おかあさん、と。おとうさん、生き返ったなら、早く迎えに来て、と。
 さらさらと流れる水の音にあわせて、毎日、毎日。

 




 ぴしゃん、と、その音が破られた。はっ、と悟飯は目を開いた。視界が、目やにと涙で曇っていた。自分の頭を支えた腕枕の下は、あの頃と似た岩の感覚がマット越しにあった。
 そっと感覚をめぐらせる。朝早い。朝の川の匂い。誰かが、その川のそばにいる。まだすやすやと両脇で寝ている悟天とトランクスを起こさないように、悟飯は起き上がってテントのすそをめくった。

 「あ、おはよう、悟飯くん」
 テントから少しはなれた小川の対岸から、小声でビーデルが挨拶をしてきた。手には双眼鏡を持っている。悟飯のではない。自前のものだろうか。
 「お、おはよう」
 まだ、夜も明けきらないうちだ。山の朝の空気は冷涼で、日も照ってないから肌寒いほどだ。彼女はパジャマの上に長袖のパーカーを着て、足元はスニーカーだ。何をしようと言うのだろうか。
 「…バードウォッチング、しようと思って。実は、ちょっと楽しみにしてたんだ」
 ああ、なるほど。確かに、野鳥観察をしようと思えば、朝早いうちが良い。そういうことだったのか。
 「ボクも、混ざって良いですか」
 ちょっと間が空いた後、ビーデルがうなずいた。悟飯はあわててスニーカーを履いた。





 「昔、子供の頃よ。林間スクールに行ってね、こういう風にバードウォッチングをみんなでしたの。それを思い出して、今日、しようと思って用意してきてたのよ」
 2人は河原から、林のほうに入った。小声でささやくように、ビーデルが教えてくれた。
 「自然指導員のお兄さんに、いろんな鳥を教えてもらったわ。それで、鳥が好きになったの。でも、町に暮らしてたらなかなか野鳥を見る機会もないものね」
 「見たいなら、そう教えてくれてたらよかったのに」
 悟飯はこぼした。そしたら、ハンドブックとか、いろいろ用意してきていたのに。
 「そうね」ビーデルは小声でそれだけ言って、黙った。林の奥から、目覚めた鳥の声がかすかにしてきている。だんだん、世界が青の中に白く浮き上がってくる。

 「昨日は、楽しかったですか」
 双眼鏡を覗いている彼女の横顔を横目で見ながら、悟飯はそっと尋ねた。
 ビーデルが、こくんとうなずいた。そして、枝の上を指差した。「ね、あの鳥、なんていうの」
 悟飯はなんだかはぐらかされたような気になりながら、その指の先を目で追った。「あれは、アカゲラですよ。キツツキの仲間。メスですね、あれは」
 「そっか。きれいね、あの赤いところ」
 ちょっとの間、沈黙が落ちた。林の奥のほうから、どこからか、滝の音がしている。




 「わたしね、鳥になりたかった、ずっと」
 不意にビーデルが言った。
 「鳥になって、自由に空を飛びたかったの」
 それは、心の意味だろうか。実際に、の意味だろうか。意味を図りかねた悟飯は、まだ双眼鏡を構えている彼女の横顔を見つめた。
 「だから、悟飯君が、わたしを飛べるようにしてくれて、とても嬉しかったの。わたし、悟飯君と会えて、よかった。会えなくて、さびしかった」
 彼女は、双眼鏡を下ろし、上を見たまま赤い頬でそう言った。後のほうは、滝の音にまぎれそうなくらいに小さな声だったけれど。
 

 聞いたとたん、全身の毛穴が開くような気持ちがした。


 「…ボクも、会いたかったです、ずっと、ビーデルさんに」
 それでも、悟飯は答えた。自分がどのような顔をしているかわからなかったけど、なんだか胸の中がどうにかなりそうなくらいぐるぐるとしていたけれど、どうにか、小さい声でそう答えた。

 いつしか、2人は指をつないでいた。同じ枝の先を見つめて、目をあわさないままで。枝の先にはカケスがいて、かすかな声でジェーイ、ジェーイと鳴き始めている。羽根のあざやかな青が、火照った目許に心地よかった。
 「…あのね、悟飯くん」ビーデルが、そのまま上を見ながら話しかけてきた。
 「なんでしょう」
 「悟飯くんは、卒業したら、西の都か中の都の大学に行くの」
 「…そうですね、多分」
 「あのね、多分、こんどパパがサタンシティにも大学を作ってくれるの」
 「えっ」
 「わたしも、進学するつもりだったから。でも、都は遠いし、パパが一人暮らしを許してくれないでしょう。だから、もうこの際作ってしまおう、って。強引なんだから」
 「す、すごい話ですね、それは」
 「…できたら、行くわよね。パパが、作るからには良い先生を呼ぶって言ってるわ」
 ビーデルが、こちらを見て、なにかのこめられた声で問いかけてきた。水色の瞳が、かすかな不安におののいている。

 「…」
 悟飯はちょっとのあいだ考えた。でも、答えはひとつだ。悟飯は、しっかりとその目を見て、安心させるような笑顔でうなずいた。

 「行きます。一緒に、行きましょう」
 「うん、一緒にね」
 「一緒に」
 その先は、言えなかった。まだ、言えなかったけれど、つないだ指の先から、きっと彼女も同じことを思っている、と言うのがわかった。

 一緒に、いつまでも。
 僕の秘密を、分け合った君とともに。

 悟飯は目を閉じて、彼女の額にそっと微笑んだままの唇を寄せた。どこかでざあざあと流れる滝の音が耳に心地よかった。
 きっと帰れば、父親には、知られてしまうかもしれない。ひょっとしたら、そこまできて何もないなんて、意気地がないとか思われるかもしれない。でも、かまわない。
 自分たちは、まだ17なのだから。おとうさんたちが、結婚したよりまだ子供なのだから、まだあせらなくてもいい。
 子供は、子供らしくって、おかあさんも言っているでしょう。だから、のんびり、時間をかけてやりますよ。夏休みは、まだこれからだし。




 …だから今は、まだ、これで。不満そうな顔しないで。ほら、チビたちも後ろの木の陰から覗いているのだから、ね。






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