このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 「大変な回復振りですよ、奥さん。この分ならあさってにはケージから出て普通のベッドに移っていただけるでしょう」
 おめでとうございます、と脇の看護婦が微かに拍手のような真似をして微笑んだ。説明室の、レントゲン写真を見るために落とされていた照明がぱちりと点けられ、窓のブラインドがさわやかな音を立てて開けられて5月の昼下がりの日の光がチチの微笑んだ顔と医者の眼鏡を白く輝かせた。
 「ではあさって…ええと、今日が5月の11日ですから、13日にそうしましょう。その日その前にまた検査をして」
 「えっ」
 「えっ?」手元の万年カレンダーを見遣った後にカルテに文字を連ねようとしていた医者が、ずり落ちかけてきた分厚い黒縁眼鏡の縁から彼女を怪訝に見返してきた。
 「どうなさいました、奥さん。何か不都合でも?」看護婦もおずおずと声をかけてくる。
 「きょ、今日はもう11日だか!なんて事だべ。すっかり忘れてただ。昨日が結婚記念日だっただなんて!」
 脱力した医者と看護婦は愛想笑いをし、ばたばたしてましたもんねえなどと世辞めいた言葉で、顔を覆い嘆く彼女を慰めつつ椅子から追い出しにかかってきた。おまけに部屋を出しなに余計に付け加えていった。
 「というわけで病棟を移るための手続きを明日事務のほうでお願いしますね。一旦そこで精算させていただきますのでご用意のほうを。それと奥さんは今まで重篤患者の付き添いということで無料で同室に滞在していただけましたが今後一般病棟ではできなくなりますので、宿泊先のご検討もお願いします」

 

 ああ、全く忌々しい!

 

 

 「やったあ、やっとこの狭いところから出れるんだな!あー、早くあさってになんねえかなぁ」
 「あさってはどうでもいいんだ」無邪気に医療用のケージの中で喜んでいる夫の顔がますます忌々しくてチチは椅子の上からにらみつけた。「悟空さ、なんで昨日が結婚記念日って教えてくれなかったんだべ!」
 「え、そうだったっけ?」
 「忘れてたんだか!」
 「おとついくらいにそういやもうあの武道会から5年か6年だなあ、と思ったけど。結婚したのって昨日だっけ」
 「結婚式した日も覚えてねえんだか!」
 「おめえだって忘れてたんだろう?」
 う、と言葉に詰まって手元の銀行の通帳を取り落としてしまった。拾っていたところにとどめの一発が飛んできた。
 「しかしまあもうそんなになるか。考えたらあの頃はオラもガキだったよなあ。ずっとオラおめえが『ヨメ』くれるってのを食いもんのことだと思ってて」
 カラカラと笑う夫の声に顔から血の気がうせて傾けていた丸椅子から危うくそのままばたりと倒れそうになった。思わずケージに音を立ててしがみついてすごい形相で覗き込む。
 「な、なんだよ。…言ってなかったっけ?」
 「初耳だべ!」
 「そうだっけ。でもさ」
 「なんてことだべ!悟空さがそこまで常識はずれと思わなかっただ!そんでくれるもんなら貰いにくるぞとか軽々しく答えてたんだな!おらじゃなくても誰でも良かったんだべ!」
 「いや、そんときゃそうだったけど、」
 「悟空さの馬鹿あー!」

 病室を飛び出しても追ってきてくれる姿など普段でも期待してはいけない。まして今なんて追ってこれるはずもない。だのに戸口を振り返ってしまう自分がますます情けなかった。
 深くため息をついてそのままとぼとぼと一階の電話室のほうに行くためにエレベーターホールへと向かっていった。ポケットには実家に電話をするくらいの金はあるだろう。下りボタンを押してまたため息をつく。
 金の無心をするなんてことが、気持ちのいい用件であろうはずもない。

 

 



 

 医療用ケージというものはさすが最先端の科学の結集であって今となってみればありがたいことこの上ない代物だった。入っている本人からすれば退屈極まりない代物であったとしてもである。なんといってもこの夫を多少おとなしくしておいてくれるという意味においては絶大な効果を発揮していた。
 それに入っている間は付き添いといっても妻であるチチのやることといったらたかが知れたもので、夫が気分を悪そうにしていたらナースコールをしたり、汗を拭いてやったりちょっと吸い口で何か飲ませてやったり暇つぶしに付き合ってやったりという程度だった。はっきり言えば24時間付き添っていても退屈極まりないのはチチの方だって同じで、暇な時間帯には病院ボランティアのさらに手伝いのようなことをして時間を潰すといった按配だった。おかげで『美人でしっかりものの』チチはちょっと病院内では名の知れた存在になりつつすらあったりした。それは見舞いに来ていたことで縁の知れた『あの牛魔王』の娘であるという肩書きつきだったのだが。
 おめでたくケージから解放された夫はまるで子供のようにはしゃいでいた。固形物の摂取に許しが出たものだからやれ何が食べたいと言ってみたり、果物をむけと言って来たり、久しぶりにちゃんと画像を見るテレビのチャンネルを変えろと言って来たり、頭がかゆいと言ったりギプスの中がかゆいと言ったり車椅子に乗ってよそに行きたいと駄々をこねたり、よほどできることが増えたのが嬉しいようだった。
 しかし勘違いされては全く困るのだが、まだ両手両足にギプスがはまった状態なのだからこの夫単体ではなにもできやしないのである。そりゃもう布団をかけなおすことすらまともにできやしないのである。それこそ排泄すら!夫婦になったのだからいつか遠い未来には下の世話をすることもあろうと心のどこかで考えてはいたけれど、実際やるとなったらやはり相応の勇気のようなものは必要だった。さすがにそういう時は夫もしおらしいもので、しばらくは多少ばつが悪そうにしている。

 とりあえずチチは世話に関しては、心の中でこれは育児なのだ、と割り切ることにした。これはオムツも取れていない子供なのだ。わがままを言ったなら適当にあしらって時には怒り、粛々と身の回りの世話をやいてやればよい。なに、本当の育児に比べたら24時間やらないですむだけマシと言うものだ。子供のように目を離していられないわけでもないし始終かまってないといけないわけでもない。
 読書にもテレビにも興味のない、喋るのも得意でない夫は、多少からだの痛みの取れてきた頃から瞑想と戦いの妄想で時間を潰すことを覚えた。それにも飽きれば呼びつけてくるから多少相手をしてやればいいのだ。

 地球平和の代償につき合わされるこちらの心情も知らず、どこまでも勝手なものである。にやにやと薄目を開けて空想に耽っているそのさまははたから見ればはっきり言って不気味ですらある。

 

 

 

 

 目覚ましが鳴った。細い白い指が布団の周りを探り、音源にたどり着いた。
 シーツに波打つ黒髪がゆるゆると動き、滝のように持ち上がった。今日も、退屈しのぎと世話焼きに費やされる一日の始まりである。

 「おはようございまーす、博士、奥様」
 「おはよう、チチちゃん。まあ、今朝も豪勢ねえ」
 「おう、おはよう」

 食堂にブルマの父親と母親も入ってきたので、食卓にチチは次々と皿を並べた。病棟を移る直前になってこの夫婦が見舞いに来たのだが、そこで話がついて退院までの間チチはこの家の客用に作られた別棟に居候することになったのだった。家の一人娘も、その彼氏もいなくなってしまったので寂しくなったから、という誘い文句だったが、病院近くでよい宿が見つからなかったので正直ありがたかった。その礼に朝飯だけでも用意させてもらっているという次第である。
 「チチさん、悟空のやつまた手術だって?」ウーロンがラーメンのチャーシューを取り除きながら聞いてきた。
 「んだ。明日な。肋骨と骨盤に入れてたボルトとかを取るんだって」
 「あちこち骨折してるから大変ですよねえ。5日に一回は検査したり手術したりですもんね」サラダを取り分けながらプーアルが頷いた。「じゃあ僕たち明日はお見舞いいけそうだと思ってたけどやめといたほうがいいかもしれませんね」
 そうだなあ、などと答えを返して、食堂の壁の時計を確認する。病院の通用門が開くのは8時だ。今7時半、そろそろ身支度をして出かけないといけない。いつもどおり後片付けだけロボットに頼んでいると、ブリーフ博士が声をかけてきた。
 「今日は午前中に見舞いに行こうとおもうんだけど、構わないかね?明日以降は少し忙しいもんでね。悟空くんに報告もあるし」
 「今日はかまわねえですだよ」
 「じゃああたくしも。どうせなら一緒にいかが?ちょっとチチちゃんもたまにはのんびり目に行きましょうよ」
 ちょっと迷ったもののチチは頷いた。もう病棟を移ってから一週間。たしかに1、2時間骨休みにのんびりしたって罰は当たるまい。

 家と同じ6時には起きて身支度をし、簡単な居室の掃除の後に一家の朝食の準備をして8時には『出勤』、そして半日後の8時には『退出』というのがこの一週間のチチの生活リズムだった。
 今となっては古風だが『可愛い専業主婦』というものがチチのあの幼い約束からの夢だったので共働きなどは結婚するまで全く考えたこともなかったのだが、最近はもし都に住んでいて自分が勤めていたらこのような毎日なのかも知れないとふと考えたりもする。新婚の頃に働こうとしない夫に業を煮やしてそうすることもあるかもしれないと脅したら都会嫌いの夫は必死に反対していたのだが。
 2時間出勤が遅れたのだが所詮ひとの家だからさして家事等の暇つぶしの手段があるわけでもなし、ゆったりと居室に備え付けの風呂に身を沈めながらチチは物思いにふける。与えられた客用の別棟は商売上の付き合いのあるVIPなどにも泊まってもらえるよう作られたものだから、意外とシンプルな本棟のインテリアよりよほど豪勢で贅沢だった。湯口の彫刻から滑らかな湯が供給されて、各種の花の香りをたたえた入浴剤を泡立ててゆく。浴室備え付けのテレビではメロドラマの再放送が流されていた。
 その安手のドラマの台詞を借りれば、人生というのはそういう些細に見える選択の積み重ねである。選択できないのはどういう親のもとに生まれるかと言うことくらいだ。もし自分があの時押し切っていたなら、ひょっとすればこの西の都で自分も働き、息子にももっと良い教育を与えられていたかもしれない。そのような自分や周りに感化されて夫も働くと言ってくれたかもしれない。
 自分は結構看護婦とかに向いているのかもしれない。もしくは折角学校まで通ったのだから免許を取って飲食店などで勤めたり店を出したりという選択肢もあるだろう。夫はどうだろう。いつかテレビを見ていて国の軍人やレスキューに興味を示したことがあった。その時は自分が『あんな最も規律でがちがちに縛られているところに入ったって3日でやめるのがオチだ』と笑ったのでそれきりになってしまったのだけれど、今考えれば勿体無い事をしたと思う。

 そこまで考えたところで、かぐわしい香りのため息をついて顔に湯をはたいた。ゆったりと湯船に波打つ乳白色の湯に身を任せる。怪我してからというものまともに湯も浸かれない夫や狭い宇宙船に押し込められている息子のことを思うと多少後ろめたい気分にもなったが努めて考えないようにした。向かいの大鏡に映ったしなやかな腕をそっと持ち上げる。しずくがぽたぽたと顔に降り注いだ。
 一人取り残された頃に頭の中に巣食った黒い澱が、溜まった疲労の影から心を侵食しようとする。名づけるならそれは劣等感や置き去りにされる哀しみと呼べる類のものだ。あれほどそばに戻ってきてくれることを望んで、そうすればこんな黒い澱など全て忘れられると思っていたのに、なぜこんなにそばにいてなおそれを感じなければならないのか。

 『ヨメ』をくれる者なら誰でも良かったくせに。

 あの人にとっては結婚なんて林檎をくれてやるくらいの些細な取引に過ぎなかったのだ。
 そこにどれだけ、切実な思いが篭められているかなんて知りもしない。

 あの人にとって、自分にとって、この『選択』は正しいものだったのだろうか?

 

 

 

 「じゃあ本格的に組み始めていくからね、君の宇宙船。来月の頭にはできてると思うよ」
 そんな会話をしている横でチチはタオルをたたんだり夫人が持参してくれた花を花瓶に活けたり隣のあまり家族が世話焼きに来ない老人に声をかけたりちょこまかと動き回っていた。やがて夫妻がいとまを告げて病室から出て行くと丁度昼飯のワゴンが病棟内に回ってきたので、ちょっと配膳の手伝いなどしたのちにいつもどおり盆を貰ってきて簡易テーブルの上に置いてやった。
 内臓にも相応のダメージがあったものだからまだあまり極端に硬いものは食べられないので、メニューはおかゆのようにやわらかいものが中心だった。大き目のスプーンによそって口元に運んでやる。夫は素直にひな鳥のように口を開けて待ち構えてスプーンを口の中に入れては軽く咀嚼して飲み下す作業を繰り返している。それこそ一心不乱に、いつもどおりに。だけど珍しく今日はその途中で言葉をつむいできた。
 「今日遅かったじゃねえか」
 一瞬そのまなざしにどきりとした。5月も終わり近く、昼下がりの病棟の喧騒が少し換気用にドアを開けておいた隙間から白い部屋に忍び込んでくる。窓の外は柔らかな雨が降っていて、分厚くない雲が白く天を覆っている。
 「博士たちが一緒にくるんならと思ってな」
 「…いいけどさ」珍しくなにか言いにくそうにしている。眉をひそめて首を傾げたが、あごで残ったプリンを指された。仕方ないとはいえ横柄そうなその仕草に頬を膨らませる。本人はたちまちけろりとして無邪気なものだ。
 「チチ、あーん」
 もう一週間ほど三度三度繰り返しているとは言えやはり多少は照れくさいものだ。くしゃみを我慢しているような顔をしつつ小さなスプーンを口の中に入れてやるとにっこりとして美味えからおめえも食べろよと珍しくのたまってきた。目で促すのに抵抗できず自分にもよそって食べてみた。確かに美味しかった。微笑をこぼすと夫がにんまりと笑って言った。
 「間接きす、ってやつだな」
 思わずプリンの容器を取り落とした。カラメルの茶色をベージュ色の床に撒き散らしてしまって慌てて枕もとのティッシュを何枚か引き抜いて床にかがみこんだ。拭きながら顔が真っ赤になっている自分を自覚する。いきなり何を言い出すのだろう、この状況で!
 あーあ、まだ半分あったのに、などと暢気な声がベッドの上からしている。ベッドの下には導尿のバッグがあって目をそらした。全くこんな状況なのにとやたらと腹が立ってきた。
 「ば、馬鹿なこと言ってんじゃねえだよ!小学生じゃあるめえしだなっ」
 「そだなあ。オラたちもう大人だもんな、そんなことくらいで喜んでちゃおかしいよな」
「だべ」改めてウェットティッシュで床を拭きあげて、チチはことさら威勢よく立ち上がって見せた。それを始末するついでにあらかた食べ終えた盆を持ち上げようと手を伸ばす。
 「だから、しようぜ」

 横を見ると夫が持ち上げた寝台の上で無邪気に笑っている。三日月形に細められていたその目がゆっくりと開き、一瞬白い部屋を写して透明にきらめいたように見えた。その奥にある真摯そうな光。
 するって、何を!
 そう怒鳴って殴りつけたい衝動に襲われたのにそうできなかったのはその光がどこか不安げで切実だったからだった。盆を取ろうと前かがみになった体が急に自分で生々しく感じられてきた。重力であばらの下に存在を主張する胸の奥で何かが反応をはじめ、自分がこの身に蓄えているどろりとした女という粘性のものが瞬時に全身の毛穴から噴出したように思う。この人は感づいているのではあるまいか、自分で慰めることを覚えてしまったこの穢れた肉体を。
 夫が微かに首を傾けたのを見とめて意図を察して少し体の力が抜けた。唇に神経が集中する。甘やかに開きそうな唇が震えて、夫の名を微かに呼んだ。
 「ごく、うさ」
 「いい匂いするな、今日。…なんか」

 近づく肌が発する熱同士が交わる境界線が感じられた、気がした。
 その線を越えたとたん、院内放送がけたたましく鳴った。「13時からドクター回診です。患者様は病室でどうぞお待ちください」

 配膳の回収や回診などでそれから2時間あまりがあわただしく過ぎた。明日の手術の説明にもあまり耳を貸さず夫はたまに惜しそうな目でこちらをちらりと伺ってくる。それに気づかない振りをして医者の言葉に耳を傾けながら気づく。折角だからとちょっといい入浴剤を今朝選んだ効能だったのかもしれない。確か『そういう効果』のある花の香りが入っていた。少しだけみたいだったからさして効果もあるまいと思っていたのだけど、相手は異常に鼻がきくこの夫だということを忘れて甘く見ていたのだ。
 失態だ。こんな場所でそんな気分になられたってどうしようもないのに!
 その日は引きとめようとする夫を振り切って早めに帰った。傘がなかったので走って。雨が体に染み込んだ甘い香りを、心に蘇ろうとする甘い思いを洗い流してくれるように思ったから。朝抱いたような大事な疑念すらうやむやになってしまうではないか。今までだってそういう甘い曖昧に、幾度かたをつけるべき大事なことを台無しにされてきただろう。

  全くずるい。今は子供のような顔をしておとなしく世話を焼かれていればいいのに、なんだって今更そんな男の顔をするのか。夜毎見せていたまなざしを持ち出してくるのか。
 そんなのは、せめて自分で歯が磨けるようになってから要求してくればよいものを。

 

 

 

 

 

 一週間ばかりが過ぎた。チチの入浴剤はともすれば男の使いそうなミント系のやたらと硬派なものになった。それまでは都の華やかな装いを多少意識して下穿きのズボンもはかず色合いも軽やかなものを身につけていたのだが、風邪気味になったこともあいまって家にいた頃のようなかっちりとした格好に戻った。
 ブルマの母親などは可愛いのに勿体無いなどと言って、ともになにか服でも買いに行きましょうよなどと誘ってきすらしたのだけれど、実用性が一番ですからなどとなんだかんだ言い訳をして断り続けた。その朝もそのとおりきっちりと着込んでカプセルコーポレーションを出てきた。

 病院は住宅区の一番外側の臨海地区にあって、裏は海浜公園に面している。通用門からは丁度夜勤明けの看護婦の一団が出てきていて、その中の数名はチチを見ると頭を下げた。看護婦というのは意外と派手なのだな、と最初思ったものだが、そうでないとやっていられないらしい。間近に働く姿を見続けて多少抱いていた看護婦という職への憧憬もすっかり薄らいでいた。もうとっくに入院から1ヶ月以上が過ぎている。

 病室に入ると夫が床の上に座り込んでいた。
 「おう、おはよう、チチ」
 「まあた勝手に降りて腹筋してただな!」
 昨日もこうで散々叱ったというのに、また今朝もやるなんて何の嫌がらせだろうか。いくら鍛えているとはいえ男の体を一人で介助してベッドに横たえることはそうそう容易なことではない。あちこちをかばいながらやらないといけないのだから。
 「だってオラじっとしてらんなくってよぉ。せめてギプスがない腹ぐらい鍛えさせてくれよ」
 だからといって腹といえばこないだ開いてボルトなど取ったところではないか。いくら修行馬鹿とはいえ何を考えているのだろう。
 内心ため息をつきながらさてどうするかと考える。昨日はたまたま看護婦が通りがかったので手伝ってもらえた。引き戸を開けて確認するが、今病棟の反対側のほうで急患か何か出たらしく慌しそうにしていた。仕方ないので歩み寄ると夫ははいはいを覚えたばかりの子供のように
床にへたり込んで無邪気な微笑を見せた。まるでこれから抱き上げてくれる母親の腕を期待するようなまなざしで。
 脇から手を背中に回し担ぎ上げようとすると、不意に唇が近づいてきた。重なるか重ならないかのところで慌てて顔を伏せた。頬を夫の唇が掠める。
 「残念、はずした」
 「…ふざけてんじゃねえだ。とっととベッドに戻るだよ。でねえと飯抜きだ」
 飯抜きは困るな、と夫はまた無邪気に笑う。チチの努力にもかかわらずあの未遂事件からどうも夫はこれを一種の暇つぶしのゲームとして位置づけたようだった。何かにつけ隙を狙おうとしてくる。
 このゲームは初めてのことではなかった。新婚の頃や、育児に構いきりの頃にも夫の中でたまに起きていたブームのひとつで、その頃はこちらも初々しかったものだからわざと焦らしたり引っかかってきゃっきゃと喜んでいたり付き合ってもいられた。だがそういう夫婦のじゃれあいにも時と場合というものがあるではないか。
 自分でも固いのかもしれない、と身を横たえざまに唇の端を奪われて体を強張らせながらチチは思う。折角息子がいないのだから、この状況を楽しむのも手だとは思う。だけど、だけど。
 急いで夫の体に布団をかけた。夫の体の中心で、変化して存在を主張しているものを隠すために。夫が切なげに自分を見たが、断じてそれには応じるわけに行かない。だから、単に唇を奪われるのだってだめだ。そんなことを繰り返していては、いつか許してしまう。

 椅子にかけなおし、今取り掛かっているレースのドイリーに手を掛けた。繊細な銀色の鈎針は手に冷たく、心の震えを忠実にその針先に映し出す。白い穢れない色の糸を操りながら、努めて今は宇宙のかなたに居るであろう息子のことを考えた。自分はもういい歳をした一児の母親なのだ。
 だから、公の場で好いた惚れたとのぼせあがっていてはいけない。些細な事ぐらいで、そのへんの娘子のようにいちいち胸をときめかせたりしてはいけないのだ。こんな、頬に残った夫の唇の湿気の名残ごときに心を激しく漣立たせていてはいけない。
 心に鉄壁の防波堤を築かなくてはならぬ。清く正しく美しく。それはあの父親の娘として生まれた自分のつとめなのだ。結婚をして忘れてしまったその檻を、都会の口さがなさは否が応でも思い出させてくれた。

 

 やはり、自分には都会暮らしは無理なのかもしれない。いくら生活に困ろうとも。
 自分にはこの選択肢しかないのか。
 形を取り戻しかけた心が黒くゆがみだす。あとで、薬でも貰ってきたほうがいいかもしれない。

 朝食のワゴンの気配にうきうきと戸口を眺めてこちらに気付きもしない夫の後頭部を眺める。窓の外の初夏の朝の光に蝉の声のように染み入ってくる救急車のサイレンの音をぼんやりと聞きながら。



 

 「疲れてるんじゃないですか」
 不意に後からかかった声に無人の手洗い場で薬を飲み下していたチチは顔を上げた。鏡の向こうに、ふよふよと浮いた猫が小さな丸い目を瞬かせている。足音がしないものだから、気付かなかったのだ。
 「プーアル。どうしたんだべ」
 「お見舞いに来ました、ウーロンと。今あいつは後ろのナースステーションで看護婦さんに声をかけてて。…呼んで来ますから、待っててくださいね」

 
 一緒にやってきたウーロンが携えてきたのは車椅子だった。
 「今日はいい天気だから、外の空気でも吸おうぜ」

 5月も末になって、西の都の面する海はだんだんと夏の色を濃くしていた。病院の裏手の海浜公園はU字型になっていて、病院は丁度そのヘアピンカーブの頂点あたりに位置した最も奥まったところだった。左手側に折れた少し先にはマリーナがあって白いヨットの群れがきらきらとした波頭を時折映しながら仲良くマストを上下させている。その奥が新商業地区でおしゃれっぽい店並みがここからも伺える。更にその向こうには西の都を反映させてきた大きな港があって大型の船がいくつも停泊していた。右手側に折れると高級マンション群に隣接した小規模のビーチ、その向こうは大学などのある文教地区だ。

 「いい気持ちだなあ」夫がぼさぼさの髪を潮風になぶらせる。
 夕暮れには少し早い午後遅く、初夏の照りつける日差しもだんだんと和らいで海辺には心地よい風が通っている、平日の午後。学校帰りの子供達、大学生だろうか、フットボールを投げあう若者達。散歩を愉しむ老夫婦。そういう人間達もまばらで、海は陽光をたたえてただ爽やかに波打っていた。時折抜ける風が公園の中の道沿いに植えられた椰子の葉をさらさらと揺らし、月桂樹の香りのよい花を撫でてゆく。
 「あんまり外に出てなかったのかよ、今まで」
 「おう。だってこないだまで小便の管でベッドに繋がれちまってたからなあ。検査で病院の中行き来するくらいだったから」
 「はは、お前がおとなしくベッドでじっとしてるなんて考えたら変な感じだな、ええオイ」
 チチが車椅子を押し、ウーロンと夫はのんびりと会話を愉しんでいる。何回か見舞いに来ていたが、この二人は意外なほど仲がよかった。夫にとってこの子豚ははじめての同性の歳の近い身近な存在なのらしいから、それも当然の事かも知れない。
 男同士と言うのは気楽でいい、と思う。どろどろとした肉にまつわる欲からも醜い依存からも浮遊してこの風のように解放されているようだ。ジグザグに折れたゆったりとしたスロープを降りると護岸で固められた波打ち際にたどり着いた。いくつかのベンチがあってそのそばに車椅子を据付け、ウーロンはそこに腰を下ろした。カジュアルっぽい気軽な靴を半分脱ぎ、ぶらぶらとさせている。
 あ、かもめだ、と夫が首をのけぞらせた。しばらくその航跡を目で追ったあと、車椅子の後ろでハンドルを握っていたこちらと目が合って、夫はそっと笑った。
 その瞳にまた胸が苦しくなったように思って、チチはハンドルから手を離して言った。「なんか飲み物でも買ってきたらよかっただ。ちょっと病院のロビーで買ってくるから、お話でもして待っててけろ」

 
 レモンティーを2つ、アイスのカフェオレを1つ、ジャスミンティーを1つ。
 抱えて病院の玄関を出たところで、待ち構えていたのだろうプーアルがレモンティーをひとつ持ってくれた。というより貰って浮き進みながら飲み始めた。
 「もうそろそろ、ブルマさんや悟飯くんはナメック星についた頃でしょうかねえ」
 「…だなあ」
 ブルマの計算が正しければ今日明日にはつくはずだった。到着したら何かしらの連絡をしてくるはずだったが未だにない。
 「早くドラゴンボールを見つけて、何もかも元通りになればいいんですけれど」
 「…したって、またあのベジータとか言うのが来てボロボロになって戦って。その繰り返しなんだ、これからきっと」

 スロープの途中で立ち止まったチチを、プーアルが見た。遠くで車椅子に乗った影が小さな影と、髪と耳を揺らしてじゃれあっている。

 「悟空さはまた悟飯ちゃんを戦いに担ぎ出すんだ。悟飯ちゃんは戦えるのだから戦うと駄々をこねておらに逆らうんだ。悟空さはまたボロボロになってやられるけど、また戦いたいとか言ってあっけなく逃がしちまうんだ。おらはその度こうやって看病をする。文句も言わず善い妻の顔をして」
 「…」
 「まったく見上げた救世主一家だべなあ、おら達は。それが宿命とかいうやつなんだべかな。それとも魔王と呼ばれたおっとうの業を、こうして晴らしていくことがさだめとかいうやつなんだべか」

 

 だんだんと夕暮れの色を帯びた風が顔に吹き付けた。抱えていたジュースの缶から噴出した水滴が白い二の腕を冷やし、同じ風に打たれた。柔らかい肉球がそれを温めるようにそっと触れた。

 なぜ、この猫になど吐露してしまったのか。それほどまでに自分は抱え込んでいたのか。
 「嫌なら、辛いなら離れればいいんですよ」
 強情に唇を噛み、傲然とそっぽを向く可愛げのない自分。肉球がそっとはなれた。声は何処か怒っているようにも聞こえた。
 「でも、生きていてくれて本当に嬉しいから、傍から離れたくないんでしょう。それさえ分かってれば、十分じゃないですか」

 肯いたのかそうでないのかよく覚えていない。しばらくしてプーアルは手の中のジュース缶をその小さな身体に全部抱えると、先に待っているものの方へ飛んで行ってしまった。長く伸びた陰に導かれるように、チチはゆっくりとゆっくりとスロープを降りていった。
 半分くらいまできたところで、見舞いの二人は車椅子に手を振って、商業地区のほうへと岸壁の道をのんびりと去っていった。

 車椅子の後のベンチまでようやっとたどり着いたとき、夫はじっと暮れ掛けた海をまっすぐと眺めていた。橙色を帯びた空に宵の明星がひとつ輝いている。
 「座れよ」
 肯いて、車椅子の背後に腰掛けた。腰掛けたままで、赤子の乗った乳母車にそうするように、無言で夫の乗ったそれのハンドルを前後させた。
なにすんだよ、と夫が微かに笑って、言葉を続けた。
 「もうちょっとの辛抱だからさ。仙豆ももうできる。そしたらおめえに看病で苦労かけなくて済むからさ」
 それには答えなかった。喉が詰まった黒いものでごつごつするので、ベンチに置かれたままのジャスミンティーを開けて口にした。こんな美しい黄昏には似つかわしくない味だった。
 「そしたらちゃんと修行して、今度はちゃんと勝つ。な。そしたら、今作ってもらってる宇宙船でどこか行こう」
 「…またそんな夢物語みてえなことを」
 「ひでえ。オラちゃんとブルマの父ちゃんに注文する時、おめえも載せれるようにって考えたのに」
 どちらにしても世迷言だ。無言のまま居ると、夫がギプスを嵌めた腕を曲げて、ハンドルに乗っていた冷たい指にその先端を添えてきた。腕が滑り落ちて、車椅子の背面に頭をつけて後ろから夫のからだを抱きかかえる格好になった。

  「覚えてっか?もうすぐオラの誕生日だぞ」
 車椅子の背面を頭で押すようにして肯いた。
 「前払いで。今、ちゅーさせてくんねえか。今年はそれだけでいい」
 また、頭で背面を強く押した。手を添えて、勢いづいた椅子を回転させて上目遣いに睨みつけた。誰もいねえよ、と夫が言ったので、諦めたようにそっと目を閉じた。

 接していた唇が離れたあと、夫が囁く。
 「退院したら、家で、…ふたりきりで。それまで、辛いけど我慢する」

 

 
 黄昏に頬を染めて、目もとの睫毛に濃い影を作って、うつむく唇。それを下から掬い取るように、もう一度。
 それでも、どうか理性が崩れないようにと、必死で決壊しそうな己を抑えていた。唇をなるべく強張らせて。
 どうか感情の波が何もかもを、あるべき己を押し流していかないようにと。何もかも理性を手放す快楽をこの身に刻み込んだ男の腕の中で。

 

 

 きっといつか許してしまう、何もかもを。どんな勝手な要求をも。どんな勝手なこの人の生き方をも。でもそれはいつか取り返しのつかない未来へと自分たちを導いてしまうのだ。
 そんな予感を潮騒の音の中に感じながら。かもめの鳴く声に、もう空を飛べなくなった己を呪いながら。
 それでも、帰ってこないという言葉にずたずたにされる、そんな未来までもは想像も出来ずに。






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