このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 最初何故そちらに進んだかといえば、占いババの宮殿の玄関がその方角に向いていたのでまっすぐそちらに向かって走り出しただけのことである。

 それがその修行の始まりだった。どんどんとそのまままっすぐと真北へ向かって進んでいったのだが、一刻も過ぎた頃にはあまりの自分のあてどのなさに12歳の少年はだんだんと不安になってきた。

 いったい世界を巡るといってもこんなことで本当に良かったのだろうか?
 なにせ周りは見渡す限りの砂なのである。天球は一面の蒼、身を焼き焦がすは、纏っている黒い忍者服が疎ましくなるほどの日差しの強さ。それでなくても服はすでにかいた汗でぐっしょりと濡れ、乾くそばから白い塩の粉を吹いた。当然身体は渇きを訴え始める。足取りはどんどんと重くなり、ざくざくと砂を分け、次第にずぼりずぼりとやっとのことで砂を抜け出てまた踏み入れ、果てはそれさえも休み休みになってきた。救いは日差しに干からびる前に夕暮れを迎えたことであった。

 ああ、「ま、いっか」なんて飛び出してきてしまった自分はなんて浅慮だったのだろう!乗り物や筋斗雲に助けられて忘れていたけれど、世界とはこんなに広大で、自分はこんなにひ弱いのだ!
 
 日が落ちてすっかりと冷えた白い砂に片頬を突っ伏しながら、少年はぼんやりと弱弱しい風に身を任せて横たわっていた。夜なのにやけに明るいのは上空の、おそろしいまでの星の光のせいだ。それを横目に感じつつ、癒えるはずも無い渇きと、忍び寄ってくる飢えに体が侵食されていくのをじっと感じているしかなかった。今日邂逅した、今は亡き祖父の涙が出るほどに懐かしかった笑顔と離れがたいぬくもりを思い出しながら。なんとはなしに、このままでは自分もそちらに行くのだろうか、などと心の奥底に考えながら。
 しかしこのまま眠ってしまって、また明日朝になればあの日差しに今度こそやられてしまうのは自明である。それでは祖父に誓ったもっともっと強くなるという望みだってこんなところであっけなく費えてしまうのだ。それはあまりに情けなく格好悪いことではないか。なんとかしなければ。…なんとか?
 そのとき、砂に押し付けていた耳が微かな異音を聞き取った。さくさくさくさく、と、砂を慌しく踏む微かな音。
 少年はそっと起き上がる体制をとった。耳は砂につけたまま。
 神経が研ぎ澄まされていく。風紋を残していく風が、身体に鋭敏に感じられる。その心地よいような刺激。息を殺して、「そちら」を見定める。

 星明りの中、今まで臥していた砂の丘の下、渇いた川のような地形のそばに、走っていく小さなものが見えた。目をその丘の影になっている闇に凝らすと、枯れかけた茶色の藪のすぐそばに小さな巣穴が見えた。それは、その中に入って行った。
 そっと、そっと匍匐前進をしながら息を鼻から静かに吸う。文明の世界に浸って忘れかけていた感覚が体の奥底から吹き上げるように蘇ってくる。これは、動物の残した匂い。糞尿の匂い。枯れ河を辿るように残っている、あれはその足跡だ。その微かに湿気たような跡、そこからわかる、近くの水の気配。
 そして、獲物の気配。

 悟空は、舌なめずりをした。1年近くも遠ざかっていた狩りの喜びに脈打つ心臓を必死で押さえながら。








 一月ばかりが過ぎた。といっても、なぜか月が世界から消えてしまい正確にひとつきを計ることも出来なかったので、すでにこの頃になると悟空の月日の感覚はかなりあやふやになってきていたが。
 旅立って二日目から、彼の活動時間は主に夜になった。砂漠を昼間のこのことうろつくことの愚を悟ったからである。昼間は地ネズミのように陰になる場所の砂に穴を掘ってそこで休み、夜に星明りを見ながら枯れ河をたどり走る。数日目には砂漠を行く民と出会い、方角を教えてもらって何とか無事に砂漠を脱出することができた。
 南西亜大陸の東を縁取る大山脈地帯は人もまばらである。悟空が最初に修行として挑んだのは登山であった。生まれ故郷の山とは違う山の形、岩の質。高山を選んだのは、カリン塔で薄い空気のところが心肺を鍛えるというのを学んだせいもあったのかもしれない。砂漠の民から学んだもののひとつに水がどれほど一人での旅で重きを成すかがあったので、しばしば氷河から下り来る渓流で水を皮袋に満たしてはひたすら上を目指した。ひとつの山頂を極めればまた下に降り、また次はその隣の峰を目指すのである。或いは歩いて、或いは出来るだけ険しい岩場を、腕だけでロッククライミングしながら、そのように色々な方法で自分を鍛えながら。だから、ひと月ほどもたつけれど、地図上は彼はほとんど同じようなところをうろついていたのだった。
 小型のラクダや猿が多かったので獲物には不自由がなかった。植物には乏しい山だったけれど、いつだったか島での修行中に見たテレビ番組でサボテンが食べられるものだと見知ったのを思い出して、そのとおりテレビで見た同じ形のものを試しに焼いてみたら結構美味だったのは幸いだった。勉強は嫌いだったしテレビもさほど好きではなかったけれど、確かにこうして一人になってみれば身になることもあるものだ。

 (では、この世界で一番長い河はどこかな?悟空、答えてみぃ)
 (知らねえよ)
 (この前も教わったじゃないか、悟空。ここだよ、この大陸のこの辺り)
 (そんなの知ってて、なんか役に立つのか?)

 昔々誰かが作ったであろう石垣に腰掛けながら昼飯を食らっていた悟空は、ふとそんなことを思い出しておもむろに石垣の上に上って伸び上がって空を見た。眼下に広がる風景を見た。
 それは、多分この大陸の、この山のずっとずっと北のほうにある。この山たちをみなもととして、ゆったりと金色にたゆたっている。
 地理の教科書…といっても、師匠の用意したそれは何処かの本屋で買ってきた子供向けの図鑑だったけど…の、その一ページの大きな見開きの写真を思い出して悟空はうっとりと目を細めた。ああ、それを実際に見に行くのもいいかもしれない。
 青い空の上のほうで、子育て期に入ったつがいのコンドルが鳴いた。石垣から飛び降りて、焚き火の跡をぐりぐりと踏み消す。大分傷んできた、砂漠の民に貰った長尺の服が高山の風にはためいた。
 なるほど、勉強と言うのは、確かに世界をちょっと面白くするものだ。そうだ、どうせ世界を巡るなら、あの頃習った「世界の一等」を全て見に行ってやろう。そして、いつか友人に、「おめえ、これ本当に見たことあるか?」と自慢してやれればいい。
 あてどもなさ過ぎて今までどちらへ進むかも決められなかった旅に、一筋の光明が見えてきた。




 時折出会う山の人間達に尋ねその源流にたどり着いたが、探し当てたそれは山の中腹に湧き出た驚くほど小さな泉だった。近くの村のものに聞くと水の源はもう少し上の方の氷河の群れだというが、岩の間を潜って集められ湧き出たこれこそ確かに世界一の大河の流れの源だと言う。なるほどそばにはどこぞの誰かが立てた証明の碑もあるのだった。
 これが本当にあの、写真で見たような向こう岸もはるかな大河になるのだろうか?とりあえず決めてみたのだからと、その流れを追いかけて悟空は走り出すことにした。道は想像していたよりもはるかに大変だった。
 なにせ川と言うのは山の険しく削られたところを流れ下っていくものだから、ただでさえ足場が悪くて仕方が無い。旅立ってからふたつき近くが過ぎていたが、まだ尻尾は生えないままだったから、幼い頃のように尾も使って巧みにバランスを取ったりいざと言うときは何処かに絡めて身体を支えるということもできはしない。それでも出来うる限り早く下っていくという自己目標を立てていた悟空はしばしば足を滑らせて痛い目にあった。
 怪我をすれば薬草を探して自分で手当てをする。育った山とは植生がまるで違ったからなかなかそれは容易なことではなかったけれど。そして腹が減れば渓流で魚を捕まえて焼いて食らう。幼い頃の山の暮らしのように。
 ふたつきほどの間に、身体はすっかりと野生へと戻っていた。むしろ今となっては、ブルマと旅に出てからこっちの文明の世界のほうがなにかよく出来た夢のような気すらしていた。ただたまに、あのころ覚えた味や温かい身体を清める湯が懐かしく感じることもあったけれど。
 幼い頃と違うのは、自分がその生活の便利さを知っているということである。幼い頃はこのような暮らしに疑問を抱くこともなかったから、どんな冷たい水でもどんな味気ない食べ物でも不満を抱くこともなかった。世の中の、何処かにいるという自分と同じらしい「人間」という生き物は、自分のようにこうして獲物を追いかけて暮らしていると思っていたのだった。でも、自分は今は知っている。自分のほうが特殊なのだ。そして、それはどうやら「セケン」というものの中では笑いものになることなのだ、と言うこともうすうす分かっては来ていた。
 ああ、でも、こうしていると分かる。自分は山のこどもなのだ。あの砂漠で悟ったのだが、自分にとってこうした暮らしはそれこそ体の芯に染み付いたものなのだ。そしてあの瞬間、どれだけその感覚の覚醒が喜ばしく思えたことか。それを思い知った今、またあの文明の世界へやすやすと戻れようか?この身体を、全身を躍動させる狩りのための研ぎ澄まされた神経こそ、おのれの強さの要なのではないのだろうか。
 それを捨てずにいるためには、自分はもう一生、そのように生きていくのが幸せなのではないか?
 その考えが、自然と彼の足を人里から遠ざけた一因かもしれなかった。またあの便利な暮らしを知ってしまえば、と。その誘惑の強さを実はこころはよく知っていたのだから。

 流れはやがて高山帯を下りきり、中腹の密林へと入った。
 森を行くのは山よりもさらに大変だった。赤道に近づいてきた湿気た森の中には毒を持った生き物も多く、何度かそれにやられて寝込む羽目にもなった。すでに擦り切れていた靴を捨て、鬱陶しくなってきた長い衣服を裂いて脚絆を作り蔓でさらに巻いて脛を守る。木の皮を柔らかくして巻いて足を守る。なるべく猿のように木の上で眠りながら行く。ときおり大きな豹と戦いながら。昔祖父に習った、虫除けに身体に燻した煙を纏わせるといいというのを思い出して実践するようになった。
 如意棒で藪を払いながら、蛇や蟻を追い散らしながら流れを見失わないように進む。森の中で流れはだんだんと、支流を集めて太さを増していった。緑の巨大な天蓋の上からは毎日のように細かく散らされた雨が降ってきていて、川はその雨滴を集めているのである。青い匂いの樹冠の下を、とりどりのインコやオウムが頻繁に飛んだ。ここはなんとまあ凄い生き物の宝庫だろうか。そしてなんと美しくも人を寄せ付けない世界なのだろうか。
 尻尾を生やしたい、早く鍛えたいと願い続けていたからだろうか、森に入って数日目に木の上で目覚めると、服の下に尻尾が丸まって生えてきていた。前に再び生えたときよりずいぶんと早いが、彼は素直に喜んだ。それからは下に降りず、尻尾で木から木へ飛び移る修行に入った。 
 見違えるほどに太くなった流れは巨大な世界一の大滝となって山から下り落ち、いよいよ強さを帯びた日差しに虹を作って煌いた。前に山から見下ろした感じでは、もうしばらく森を行けば、楽な平地の草原地帯になるだろう。尻尾の修行に納得が行った頃に、悟空は山を降りてそこへ向かった。そして森を出る寸前のことだった。





 「へへー、大漁大漁っと」
 密林は近づいてきた夜の予感に、外のマゼンダ色の夕焼けの光を惜しんでうきうきと色めき立っている。ほとんど季節も無いこの赤道直下の密林だが、今は乾季に入りかけた子育ての時期であり動物達も多くが子に与える獲物を求めてうろうろと活発にうろついているからだ。ぎゃあぎゃあと盛んになにかの鳴き声がする。
 今日は実際いい獲物が取れた。森の中央部には見かけなかった小型の草食恐竜を見かけたので、格闘の末仕留めたのである。おかげで少し手足にその鋭い剣峰で傷を負ってはいたものの、彼はその手に道すがら集めてきた薪になる枯れ枝を岩の上に並べ、獲物をその上に横たえた。丸焼きにするために使う適当な丸太を手に入れるために辺りを見渡していると、なにやら森の奥のほうで妙な気配がした。
 眉を顰めると、なにか酷く異質な光のようなものが目の端にちらついた。身構えると、それを察したのかいきなり筒先が藪の中から現れ、一発こちらに向かってぶっ放された。ひらりと避けて樹を蹴って幹に取り付いたが、下のほうで折角の獲物が、弾に入っていたらしき人工的な蛍光色の鳥もちのようなものにベタベタに汚されてしまっていた。
 「やい!何すんだよ!」
 悟空がその方向に向かって怒鳴ると、そちらから2つのヘルメットの頭が現れでた。一人は老人に足を突っ込んだばかりと言う年頃の男、もう一人はまだ二十歳前かというようなひょろ長い男。
 「教授、とりにがしましたぁっ」
 「うん?待てよ、今あれは喋ったな。なんだ、動物じゃないのかもしれない。ちょっと呼びかけてみなさい」
 「え、えええっ」
 何やらごちゃごちゃと言っているが食いものの恨みはおそろしい。あたかも威嚇する獣のような気合いを発しながら、悟空は樹を見る間に飛び移って2人の男の前に降り立って怒鳴った。
 「折角のオラの獲物をどうしてくれんだよっ。あんなにべとべとでもう食えやしねえ。おっちゃんたち何者なんだ」
 二人は抱き合っておびえた風を見せたが、気を取り直して歳かさのほうがヘルメットについたライトをそっと弱くつけた。もうあたりは紫の闇に包まれて、常人では視界が利かなくなっていたので。久しぶりに見た人工の光に悟空は顔をしかめた。気付いた若者のほうがそれをとりはずし、その手袋の中に柔らかく包んだ。丸い眼鏡に柔らかくその光が反射している。
 「それは悪いことをした。すまんかった。いや、この辺になんだか見慣れない、やたら大きな猿のような尻尾の生き物がいるとこの辺のジャングルの中の住民でここんとこ噂だったんだよ。それを聞いて私達はお前さんの正体を確かめに来たんだ」
 意外と頑丈そうな顔をした、白髪交じりの無精ひげばかりの渋紙色のおもてをくしゃりと微笑ませて、「教授」なる人物は弁解した。
 「僕達は西の都の大学で、猿を研究している学者なんだよ」ばさばさの黒い髪を後でひとたばねにした眼鏡の若者が、少し安心したように続ける。「もともとこの森でずっと猿の生態を調べていたんだ。君の噂で、ひょっとしてまだ発見されていない新種の猿かと思ったんだ。捕まえて詳しく調べようと思って」
 ぷう、と悟空は頬を膨らませた。「ひでえ。オラが猿に見えるって?」
 「その尻尾を見ればねえ。それに樹から樹へ飛び移って移動したり、とても人間業とは思えない逃げ足の速さだったり、村人達がそう思っても仕方ないと思うよ。それに君は実際凄い格好だと僕は思う」
 「お前さんは何でこんなところに一人で?よかったら、私達もこれから夕食だから、お詫びにおごらせてもらうからわけを聞かせちゃくれんかね?」

 そこで悟空は、導かれた彼らの森の中のキャンプで夕飯を相伴になることにした。久しぶりの人間世界の味付けははじめはしょっぱく感じられたものの、やはり美味しかった。といっても彼らも保存食が主だったからたいした量と内容ではなかったのだが。
 「なるほどなるほど、じゃあこれから世界中をそういうふうに巡って行こうってことかい」
 「君今いくつだい」
 「今何月?」
 「今日から8月じゃよ」
 「じゃあもう13になってると思う」スプーンを置いて悟空は答えた。5月の武道会の時点ではまだ12だったけど、6月の頭くらいにひとつ歳をとったはずだから。もともと拾われっ子だった彼には確かな誕生日と言えるものはなく、一人になってからは大体何回目の夏がきたとかそういう曖昧な感情で自分の歳を把握してたのだが、いつか師匠に同じことを問われた時、祖父に拾われた日でひとつ歳をとると勘定しようか、と提案されたのだった。
 「アバウトだなあ」
 「いいじゃんいくつでも。でここんとこはずっとこの森にいたんだけどそろそろ飽きたし、外に出てまた河を追っかけて走ろうと思ってんだ。もう明日にでもそうする」
 「じゃあ私達もそろそろこの森を出ようかね」
 「そうしましょうか」
 「へ?」
 「そろそろ学会のために西の都へ帰らなきゃいかん。その土産に新種の猿が見つけられればと思って粘ってたんだが」教授は肩をすくめた。「というわけでしばらく同道させてもらうよ」
 「帰るには僕らも、川沿いの道をずっと下っていかないといけないからね」
 あからさまに不満げに眉を曲げ何か言いかけた悟空に、2人は口を揃えて言い聞かせた。
 「この森の先のサバンナは動物保護区なんだ。今までどおりに動物を狩って食べていては捕まってしまう。怖いレンジャーのおじさん達に鉄砲で撃たれてしまうんだから!」



 
 翌日からの旅はそうして全く今までと違うものになった。ジープに乗った2人を追いかけながら悟空は走った。川沿いに引かれた道はこの地方の動脈だったが、貧しいこの地方の財政を反映して酷く荒れたものだったし、しばしば湿地に途切れたりもした。
 短い時間ならジープなど追い越すのも簡単なことだったが、持続的に、帰路を急ぐ彼らについていくのは容易なことではない。裸足になった足の裏はたちまちひどく傷つき、最初の日は湿地に踏み入ったこともあって昼食後車に載せてもらう羽目になった。ずるだけど、そのようにして着いていかざるを得なかったのは狩ができないことで食料の確保が難しくなると思ったからだ。
 「明日はちょっと大きな村に出る。お前さんに靴と服を買ってあげよう」教授が、がたがたと揺れる後部座席の隣で笑った。悟空はずるをしたことが悔しくて、拗ねた風をしてそっぽを向いて湿地の動物達を見ていた。河の対岸に、濃いピンク色のフラミンゴの群れが集っている。川のこちら側の葦の森の中には、大きなカバが子供を連れて昼寝をしている。はるか遠くの黄土色の草原では、角を煌かせた鹿か何かの巨大な群れが、ひたすらに何処かを目指しているのが見えた。その周りに狩をしようと隠れ付きまとう肉食獣の影も。
 「すげえな」
 呟いた悟空に、教授が双眼鏡を差し出した。促されて覗き見る。視界の中で、ピンクの翼が雲が沸き立って、夕暮れを控えた金色の光の中に次々と羽ばたいていった。思わず双眼鏡を下ろして天を仰ぐ。そんな言葉口に出したことも無いけれど、「美しい」という感想が心の奥から素直にわいてきた。天と地と、生き物の織り成す姿。なんと美しく尊い景色だろうか。
 「凄いものだろう。でもこれでも、昔に比べたら大分動物の数は減っているんだよ。だからこの地区を区切って、ここでは動物を獲らずに殖やす試みをしているんだ」若者がハンドルを握りながら話しかけてきた。
 「なんで減ってるんだ?」
 「無駄に人間が、動物を殺してきたからね」教授が引き取る。「とても綺麗な羽根だ。だからそれを手に入れたくて、鳥を殺して手に入れる。或いは例えばあの犀、その角が身体にいいからと殺して切り取る。希少価値があって高く売れるから、金儲けのためにね。まだ種として残っているのは幸せなほうだ。有史以来、数え切れない種類の動物が、これまで人によって滅ぼされてきたんだよ」
 軽い車酔いとともに、なんだかよく分からない感情が沸き起こってきて悟空は眉に皺を寄せた。滅ぼした、滅ぼされる、なぜかよく分からないけれど心にこすれる言葉。いやそれより、…それよりも。
 「オラだって、動物をたくさん殺してきたぞ」
 そう言った所で、がたんと車が揺れて止まった。「いけない、またぬかるみに嵌った。ちょっと悟空君、すまないけどまた押してくれないかな」


 
 次の日は靴も買い与えられ、短パンにTシャツベストと言う探検隊チックな服をあつらえられた悟空は寡黙に車を追って走り続けた。乾季とは言うものの、だんだんと川は幅を増し、動物達の姿は青黒い雲をたたえた空の下に遠くなっていった。動物保護区は大半があちらで、この道をもう丸一日も行けばこちら側はその区域から抜けるのだという。
 車を追ってがむしゃらにスピードを出して走り、時折わだちやぬかるみに嵌ったらそれを持ち上げまた進む。前の日傷ついた足が酷くもどかしかったが、薬を塗られ手当てをされたのが効いたのかさほど痛くはなかった。久しぶりのまともな靴は多少新たに足を傷つけたが、裸足で小石などを踏むよりはよほどいい。
 昼前に向こう岸でいくつかの発砲音を聞いた。向こう側の細い道を、慌ててトラックが走っていくのが見えた。レンジャーと言う仕事のものが、不法に動物を狩ったものたちを追いかけているのだと教えられた。夕方には、教授の旧友だという人を野生動物の保護センターなるところに尋ねていくのに付き合った。中に入るのがなんとなく気兼ねして、建物の周りの金網にもたれて待つ。気配に振り向くと、猿の子供が檻の中の樹の上からつぶらな瞳でこちらを見ているのだった。
 悟空は俯きかけた。その種類には見覚えがあった。少し前に山に登っていた頃、仕留めたものと同じ黒い毛皮に白い顔。
 俯きかけて、唇を噛みかけて、思い直したようにきっぱりと見つめ返した。精一杯に、同じように尻尾を立てて。





 
 「どうしたんだね、もう寝なさい。明日も早いのだよ」
 夜中、車のそばに張ったテントをめくると、教授が落としたランタンを手がかりになにか書き物をしていた。2人で満杯のテントには悟空は入らず、ここ数日はジープの後部座席で毛布をかぶって寝ていたのだった。
 「うん、ちょっと」
 なにか用事をしているのなら、と幕を戻して去りかけた悟空に、後から呼び止める声がかかった。

 「そうか、もう別れて行くか」
 「うん」悟空は焚き火に顔を照らしながら肯いた。「靴と服ありがとう。でももう行く。明日あいつにも挨拶したら」
 「そうか…そうだな」

 並んでジープのタイヤにもたれ座った老人と少年は、天を見上げた。地平線の2点を軸に、ゆったりと巡る天の星々。北天も南天も全ての星を味わえる、赤道の特権の光をその身に浴びながら。
 「私には孫がいてな」
 「ふうん」
 「お前さんと同じ歳だよ。…だからと言ってなんてことはない。お前さんはお前さんだし私の孫は私の孫だ」
 「オラにもじいちゃんが居た」
 「そうか。もう亡くなられたのかね」
 「うん」
 「狩りも火の起こし方も、その人から教えてもらったんだろう」
 「そうだ」
 「見事なもんだよ。お前さんは幸せだ。そのおかげでどこででも生きていける。こんな小さなうちからね」

 焚き火をいとおしげに見やって、教授は微笑んだ。それは夕食前に、悟空が起こした火だった。火を起こすことは実際、悟空にとっての優れた技能のひとつだった。特に火打石やマッチなどは持っていなくても、粗朶とほくちさえ用意すればどこでも火を起こせる自信があったし、そうしてこなければならなかった。それは彼が祖父に教え込まれた、「獲物は必ず火を通して食べなさい」という言いつけのせいだったのだが。
 そういうようなことをぽつぽつと言うと、教授は肯いた。
 「そうでないと、寄生虫などにやられたりするからね。懸命なことだよ。…なあ、知っているかね」
 「なにを」
 「人間と動物の、一番の違いだよ。なぜ、ヒトはヒトになりえたのか?文明を築くことが出来たのか?」
 悟空は首をかしげた。たしか師匠の授業で同じようなことを言っていた気がするのだが見事に忘れてしまっていた。或いはその時うたた寝をしていたのかもしれない。
 「それは火なんだよ。道具を使う動物は居るんだ。猿とか、中には鳥もなあ。でも火を扱えるのは、人間だけなんだ。獣人とかの存在でかなり「ヒト」についての定義は難しくて、学者たちの間で散々長い間もめたんだよ。でも、言葉と火を扱える知能を持つものをヒトと定義する、と最終的に決まったのさ」
 「…」

 「よってお前さんはきっちりとヒトなんだよ。どうもお前さんは、自分は尻尾があるしっていうんで、人間ではなく動物でありたいと思っているような節があるが」
 教授はくつくつと笑い、悟空は鼻白んだ。昨日尋ねてみたのだが、やはり自分のこの尻尾は学者から見ても例が無いような異形なのだということを改めて告げられていた。ま、いっかとその時は思いはしたものの、『この尻尾が自分を人間でないものに思わせる』という事実は、別に卑屈になっているわけでは無いけれど多少彼をそのような考えに傾かせたのは紛れも無いことだったから。

 日焼けをした腕を三角ずわりの膝小僧の上に組み、頬を凭せ掛けると、頭をおもむろにぐりぐりと撫でられた。

 「だから、言っておく。人間を嫌いになっちゃいけないよ。どんなに身勝手に思えようとも、どんなに馬鹿に見えようとも、動物と同じにヒトも大事に思わなくてはいけないよ。そしていつかは、一緒に居たいと思えるヒトを見つけなさい。一生、一緒にね」
 「一生」
 「それは、狩りと同じくらい、大事なこの世界の掟なんだよ。一対一で動物に向き合い、その骨身を感謝しながら食らうことは罪でもなんでもなく、人間の最も根源的な自然な姿なんだ。お祖父さんもそう言っていたのだろう?
 食べるのと同じに、そうやって一緒に暮らして殖えて種として残りゆく、それが生き物としてのつとめであり掟なんだ。…お前さんは、動物をたくさん見てきたから分かるはずだね」





 頭の手を払いのけたかった。でもできなかった。
 頭の上の星がやけに眩しいと思った。
 知っている。そんな人間を見つけたら、自分はこのような暮らしをきっと捨てなければならない。今離れ行こうとしているようには、きっと気軽に離れてはゆけない。祖父と同じく、いやそれ以上にそう思える人間がこの世に居るのだろうか。殖える、それがどういう意味かはわかっているけれど、とても自分とは結びつかなかった。それが分かるには、まだ彼は肉体的にも精神的にも幼かったし、無知だったのである。
 





 彼は翌朝学者達と別れて、それから多くのものを見た。世界で一番長い河の果てを見て、世界で一番高い山も登った。人に尋ねたりしながら、多くの世界一を見てきた。その途中で多くの動物の営みを見て、また食らってきた。修行に明け暮れる度に、狩りの生活に没頭するたびに、しばらくすると心の底で思い出さずに要られなかったその言葉。自分がヒトであると諭す言葉。それが、彼をかろうじてヒトの営みに繋ぎとめ続けた。時折出会う人の暮らしを見て、また彼なりにさまざまなものを感じながら。時折心に浮かぶ寂しさに、自分がどれだけ、今まで会って来た者たちを…ヒトとの交わりを、心の中に大事にしているかを思い知りながら。


 それは少年の中、ヒトの世界を守らなくては、という想いへと少しずつ熟し、後に猛毒をも飲み干す勇気へと開花することになる。そして。








 「悟空さ」
 肩をゆすられて、悟空はやっと目を見開いた。今まで完璧に無になり、世界にあまねく、ヒトの、動物の、植物の気に融合していた己が、急速にわが身に…我が家のリビングの絨毯の上に結跏した自分自身の身体に帰ってくる。
 目をしばたたいた。この瞬間は、ちょっと気をつけないと上手くおのれを取り戻せないことがある。ふ、と息をつく。戻ってきた感覚に、雨の音がゆっくりと染み入ってきた。今日は修行にも出れず、家でこのように瞑想をしていたのだった。足を崩して少しぼんやりと窓の外を見ていると、いきなり温かいものを手渡された。
 「まったく、折角家にいるんだからちょっとは悟飯ちゃんの相手もしてやってけろ。おらこれから昼飯作るからな。頼むだぞ」
 負ぶい紐を付けられたまま手渡された息子が、ゆっくりと腕の中で目を開いて悟空を見つめてしばたたかせた。その、透明に濡れた動物のような無垢なる眼差し。まだ生まれて4ヶ月の我が子。
 「…おう、まかせとけ」
 そっと小声で妻に応じて、今は20歳の若き父親となった彼は微笑み、息子を大事に抱きかかえて窓辺に立った。外は8月の、温かい雨だ。背後には、妻の操る人工の火の気配がしている。彼は鳴り始めた腹に…それでも、一人狩りで満たそうとしなくなったおのれに苦笑しながら、息子の頭を優しく撫でてやった。その腕の中に感じるしっとりとした体温と、妻の背中の名残のそれ。今は自分が失ってしまった尾が、息子の尻の先で機嫌よさそうに揺れている。



 そう、人間と言う名のこの枷は確かに時に厭わしくもあるけれど−−。







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