このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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beat2





 「おー、隣のじいちゃんばあちゃん、おはよっす」
 「おお、おはようさん、孫さん」

 やっと長雨の季節も終わってよく晴れた気持ちのいい夏の入り口の朝である。子供の時分から日が昇れば起き暮れれば眠るという至極健康的な生活リズムが染み付いている「孫さんちの旦那さん」はここのところ早起きに過ぎるので、朝食が出来るまでの間村をのんびりランニングするのが日課になっていた。

 夫婦が結婚してこの山村の外れに引っ越してきて2ヶ月近くが過ぎた。越してきて最初の日の朝にちょっと近所を巡って挨拶をさせられたのだけど、ほんとにこの村には年寄りしかいない。しかし皆すこぶる元気がよく、今日も朝早くから青々と健やかに伸びる稲の面倒を見たり、つややかに実った早生りのトマトやらキュウリやらの夏野菜の収穫をしたりしている。青い古びたトラックが一台家々の畑を回って収穫物を積み込んで市場に持っていくのがこの村の朝の日常で、その隙間を縫って牛乳配達の小さな三輪カーが村の舗装も満足でない道の水溜りをきらきらと蹴立てていくのが目に小気味いい。
 悟空は最初は、前の自分の家の近く、もっと人のいないようなところに住まいたいと思っていたのだけど、今はこの村がすっかり好きになっていた。もともと年寄りと暮らしていた期間が長いものだから、若者で忙しく目まぐるしい活気に満ちた都会よりはこの田舎の村はまったく肌に合っていた。それに割と彼は年寄りに可愛がられる性質だったので。
 それにこの村には、ちょこちょこ物を購うために山を下りてきてたらしい祖父を知る人も少なくなかった。挨拶に回った時に、「孫」という苗字であああの、と反応してくれる年寄りたちに彼は自然親近感を覚え、意外と快適な農村ライフを愉しんでいたのだった。

 「おっ、かぁわいいなあ。へえ、もうこんなでかくなったんだ」
 キャンキャンキュンキュンと母犬の周りで転げまわるさまざまの柄の子犬たちを掬い上げて、彼は満面の笑みを浮かべた。たちまち子犬たちが、小麦色に日焼けした彼の頬を我先にと小さなピンクの下で舐めまわして来る。
 「ちょっと目を離すとすぐどっかに行っちゃうからねえ、犬の子っこは。可愛いけど大変だよ」
 「もう貰い手を捜さねばなんねえしな。どうだい、一匹」
 隣の老爺が鍬を置いて首の手拭で汗を拭き拭き聞いてきたが、悟空は首を振った。「悪いけど、チチにもこないだ聞いたけど犬は駄目だってさ。面倒も大変だし、オラがよく食うからって」
 「そうかね。まあこれから子供さできたら犬構ってる間もねえからなあ。まあその分お励み」
 「励むって何を?」
 「子作りに決まってんじゃねえべかー。いやあ羨ましい、あんな美人の嫁っ子貰ってよ、毎晩お熱くやってんだべ?どうだこのオクラ持ってけ、モロヘイヤもな、精つくぞぉ」
 「お、サンキュ、そりゃもう毎晩大変だからな」名残惜しげな子犬たちを降ろし、ニヤニヤと笑みを向ける老人から野菜の束を受け取って悟空はあっけらかんと笑った。実際彼の妻はもうこの村の人気者だったし、そんな美人で気の利く嫁を貰ったこの男は三国一の果報者だと村のもっぱらの評判である。本人はなんだかよく分からない武道家などというある意味やくざな稼業に現を抜かしているのに、それを支える嫁はますます立派だというわけだ。まあ実態とは多少ずれた評価ではあったが。
 「よしてくださいよ、全く男どもときたら品のねえこと」老婆が口を挟んで新たにトマトを袋に詰めて持たせてくれた。「まあ、んでも、この村は年寄りばっかりだからねえ。赤ん坊が生まれれば活気もつくし皆嬉しいってもんだ。二十歳前でまだ若いから2人の時間を愉しむのもいいだろうけど、チチさんも早いとこ赤ん坊欲しがってるみてえだし、旦那さんが頑張らねえとね」
 そこに川の方の彼の家の前から声が飛んできた。
 「悟空さー!朝ごはんできただよー!早く帰ってくるだー!あ、じっちゃんばっちゃん、お早うございまーす!」
 「おーう、今帰るから待ってろー、野菜もらったからなー」
 ありがとうございまーす、というきらきらと元気な声に3人は皆にっこりとした。じゃあな、今度畑手伝うよ、と言い残して悟空はまだ朝露に濡れた野菜を抱えて家へ走り始めた。子犬たちがそれをキャンキャンと追い、緑の稲を揺らす風を起こしながらゆくその広い背中の後姿を老人たちが微笑ましく見守る。
 年寄りにとっては仲のいい元気な若者と言うのは好ましいものだ。まして力強く逞しい気のいい夫と、美人で気の利く快活な嫁であれば尚更である。「あの」牛魔王の娘夫婦と言うことで最初は少し身構えていた村の年寄りたちも、今は全くそのようなことも気にせず心から夫婦が村に来てくれたことを喜んでいるのだった。






 家に帰ると白いテーブルクロスの上に見事な朝食が用意されていた。小言に導かれるように手を洗って来てから、早速それをぱくつく。朝はパンのこともあるけれど米が多い。具沢山のおかゆであったり、ちまきであったり、白飯であったり。それに色々なおかず。品数が多いから作るのも大変だろうとは思うが、常備菜も整ってきて多少は楽になってきた、と妻は自慢げに語る。今はもう家事そのものが面白くて仕方がない時期らしい。漬物を漬けたり乾物にしたり、貰った梅の実を甘い酒にしたり、そういったことは村の年寄りは喜んで色々教えてくれる。また彼女はとても料理が上手だったから、逆に今風の料理を人に教えたりもしているようだった。そしてまた野菜などを貰ってくるのである。
 天窓から降り注ぐたっぷりとした光は幸福の輝きのそのもののようだ。それにこんな美味の朝食と汁やらなにやらのふうわりといい香りが加わって、さらにちょっと顔を上げれば綺麗に微笑んでくれる妻が居るのだから完璧といっていい。胸がいっぱいなような気がしてそれがまた食欲をそそる。神殿に居る頃は食事といえば割と事務的な作業で(なにせ相手があの無表情な神の付き人だし、神はそもそもものを食べないでいいようだったから)栄養が最優先のちょっと味気のないものだったけど、結婚してからは彼は本当に毎日食卓につくのが楽しみで仕方がない。
 「まあ、こんなに野菜貰っちまって、改めてお礼さ言わねえと」
 「精つけろってさ、じいちゃんが。頑張ってあかんぼ作れって言ってたぞ」
 「や、やんだぁ」妻が赤くなって頬を手で覆うのをにっこりと見やりながら悟空は続けた。
 「犬のあかんぼも元気だったぞ。もう母犬について外に出てきてたんだ。すっげえ可愛かっ…」
 そこまで言ったところでいやな予感がして、は、と口を噤むと、妻がにやり、と笑って流し目をくれる。
 
 「悟空さぁ、おらは?」

 きた、と内心戦きながら悟空はそっぽを向いて炒めた肉を頬張った。そらきた、またきた。
 「なあ、今日は特別おしゃれしたんだべ。どう?」
 「ど、どうって」
 今日はこれから2人で海に出かける予定なので、確かに妻はいつもと違う、ちょっと露出の多い夏らしい格好をしている。ごく薄い桃色の、胸ぐり深目で短い袖を少し膨らませたシャツに、下に綺麗な大き目の花柄の袖無しワンピース。いつもの髪型と違って下で二つにまとめ、白い細いリボンを編みこんで纏めているのが新鮮だ。食事の支度にその上に白いふりふりのエプロンを纏っているのがなんとも初々しい。
 卓の向かいで腰をちょっと浮かせて、きらきらした期待のこもった眼差しでこっちを見つめてくる。「なあ、可愛い?」
 「オ、オラ、よくわかんねえっ」
 真っ赤になって彼は箸を置いた。しかし迫ってくる妻の大きな黒い目の輝きに負けて恐る恐る肯かざるを得なかった。しかし妻の追及はここからが本番なのだ。

 「じゃあ…おらのこと、好き?愛してる?」
 
 「そ、そんなん言えねえって言ってんだろー!」
 「なんでそんなに嫌がるんだか!」
 「言えねえったら言えねえよ!何でいつもそんなに言わせたがるんだよ!」
 「フツーの夫婦なら言い合うもんだべ!何で可愛いってのもそんなイヤイヤなんだべ!おらは犬っころより劣るってんだか!犬には可愛いって言えてなんでおらには可愛いって言えねえんだ!」
 「だ、だって…てか、何でわかんねえんだよ、いつもあれだけっ」
 其処まで言い合ったところで妻の目にぶわーっと涙が溜まって来た。慌てて席を立って寄って、頬に唇を寄せようとすると胸板を押し返された。「悟空さはおらの身体しか興味がねえんだか!?いっつもすることしか頭にねえんだか!」
 かっと頭に血が上った。「何言い出すんだよっ」
 「お…おらが、生理になったらそれまであれだけ傍に引っ付いてたのが嘘のように修行ばっかしでっ、こないだなんて3日も帰ってこなかったじゃねえだか!おらとやれなかったら一緒に寝ても意味がねえってことだべ!?」
 「違うって言ったじゃねえか!」その時も帰ってから散々そう責められたのにそれを蒸し返されて正直頭にきたのだが、妻が本格的に泣き出してしまったので…喚くでもなく暴れるでもなく、こうやってしくしくと泣かれるのが実は一番こたえるのだ…慌てて宥めにまわるほか無かった。椅子に座った妻の綺麗に編みこまれた髪の毛を崩さないように、立ったまま上からそっと、そっと抱きかかえながら。
 「なあ、機嫌直せよ。海行くんだろ。ずっと楽しみにしてたじゃねえか、おめえ」
 「…」求めてるのはそういう言葉じゃない、と言う顔をしながらも妻は泣き止もうと試み始めた。
 「新しい水着も買ってさ、フツーの海水浴はじめてだって。海が開いたらいっとうに行くんだって。…朝っぱらから弁当もいっぱい作ってくれたんだろ。きっと海で食べたらすげえ旨いぞ。な」

 まったく、結婚してから幾度…最近特に多いのだけど、こういうやり取りが繰り返されたことだろう。たとえ「好き?」と聞かれてうん、と肯いたところでどうせこちらが「好き」という言葉を言わなければ(しかもこいつが望むように情熱的に、自ら)満足しないのだから全く面倒極まりない。しかし自分にはそんな真似絶対無理だ。それが自分と言う人間なのだからいくらそれがフツーだろうとこうして誤魔化して諦めてもらわないと。帰らなかったのは悪いと思うけど、言い訳だけどちょっとしたトラブルに巻き込まれたのだからってあれほど説明したのに。
 そりゃ、好きって言ったらこいつがとってもとっても喜ぶのは分かっている。できるならそうしてやりたい。でも口に出したらなにか泣き出してしまいそうな、自分がなにか何処か変なところへ堕ちてしまいそうな、歯止めが利かなくなりそうな気がする。だからいつも抱いて体で伝えてるつもりなのに、そればかりだと逆に不安にさせてしまうのらしい。そういうことばかり考えてたら、なんだか自分がこいつを本当に好きなのか、というところから…そもそも好きって何なのだろう、というところから分けが分からなくなってきそうだ。
 しかしこうして妻の白く細い背中を抱いていると、熱い頬と息を胸元に感じているとまた何かがこみ上げてくる。こういうのが好きと言う気持ちじゃないのだろうか。それを思うと手を這わせたくなって、ひとつになりたくて、自然抱きたくなってしまうのだけど、けして身体だけが好きなわけじゃない。とっても気持ちよくて離れがたくなってしまうけど、絶対身体だけが好きなのじゃないと思う。でも具体的にどこが好き?と聞かれると…

 考えているうちに、妻は離れて顔を洗いに行ってしまった。追いかけると支度をするだ、と言われたのでとりあえず残っていた食事を片付けて皿を流しに入れて置いてやった。その後走ってるうちに泥で多少汚れたのでシャワーを浴びて居間に出るとすっかり機嫌を直した風に見えた妻が鞄にいろいろ詰め込んでいたのでほっとした。そうだ、何もかもいやな事は置いておいて、楽しく遊びに行けばいいではないか。こんなよく晴れた、楽しげな夏の一日だもの。






 
 筋斗雲を飛ばして彼らは山を降り、東の海に面した海水浴場へと向かった。今日は7月の初め、海水浴場が開く日である。下界では多くの車や飛行機が近くの町から次々に海水浴場に詰めかけ押すな押すなの賑わいである。
 「ひゃあ、すっげえ混んでんな」
 「まるで芋を洗ってるようだべ」
 「なあ、あんな混んでるとこ行かなくてもさ、前みたいに誰もいない島にのんびり行ったほうがいいんじゃねえのか。そのほうが好きに泳げるじゃねえか」じりじりと照りつける太陽に肌を焼かせながら悟空は一応聞いて見た。まさに海水浴日和、見事に青い空を映した東南の翠緑の海には無数の小島が浮かんでいる。師匠の家もこの海をずっと行った先にあるそのような小島のひとつなのだ。
 「だめ。おら1回こういう賑やかな海水浴場来て見たかったんだべ。おら山育ちでまともに海で遊んだことねえんだもの。こういう、若い人たちがいっぱい集まってくるようなところ憧れてただよ」
 そんなものだろうか。鞄に入れてきた情報雑誌を妻が指差した。「いっぱい海の家もあって、今日は海開きのいろんなイベントもあるんだ。夜になったら花火も。な、楽しそうだべ?こういうのは夏のお祭りみたいなもんだって割り切るんだよ」

 なるほど下に降りてみて悟空は納得した。そりゃあもういろんな人間が浜にはあふれている。親子連れだの、男女連れだの、女のグループ、男のグループ。それらが我先にと浜の空き場所を求めて突進し、シートを広げてパラソルを広げるなり海に次々飛び込んでいくのだ。なんだか見ていると、世界をめぐっている頃によく見た、鹿の類やらの動物が大移動する途中にどんどん川を渡る様子が思い出された。まあなんだってこんなに必死なのだろうか。
 前に新婚旅行で行った浜は割りと落ち着いた雰囲気で、男女がムードと言うものを愉しむような感じだったからここまで騒々しくは無かった。作ってきた昼飯をとりあえず食らいながら、周りをきょろきょろと見渡す。子供ははしゃぎまわり勢い余って転んで泣き喚き、親はそれを叱り付け、やれあちらで狭いからもうちょっとあちらに陣地を寄れと言い争いをし、やれあちらでもう疲れたとごね、そうかと思えば男たちが見目のよい女を捜してきょろきょろとし女たちはそれをあしらうかのように怪しげな視線を振りまいてたりするのだった。
 浜にはスピーカーから大音量でノリのいい音楽が流され、さながら浜自体が一個の脈打つ生き物のように見えた。まあ確かにこういうのもたまには悪くない。結婚してからと言うもの頻繁に街に連れ出されてよく分からない「素敵なスポット」とか、映画とか言うものにつき合わされてきたけれど、それに比べれば全然マシだ。
 「フツーの人は今日はお休みの日だもの。皆が皆好きな時に海にこうして来れるわけじゃねえし、はしゃぐのも当たり前だべなあ」 
 「フツーの奴等って大変なんだな」
 「何言ってるだ、悟空さもその内フツーに働いてもらわねば困るべ」
 
 フツーねえ。サンドイッチを頬張りながら悟空は内心ため息をつく。
 なんで女と言うのは、好きと言わせたがるのもそうだけれど、フツーと言うものがそんなに大切なのだろうか。この2ヶ月近く、どれだけその言葉を妻から聞いたことだろう。大抵はそれは「自分はフツーじゃない」という意味合いでの責めを多少の差はあれ伴うものだから、ここのところそれを聞く度あまりいい気はしなかった。妻の言い方が嫌みったらしくないのが救いだったけど。
 彼女はフツーが好きだ。でも自分はフツーではない。自分があまりフツーでないのは自分自身にだって自覚はある。でも自分はそもそも「フツーではない」力を求めて生きてきた人間なのだし小さい頃は「フツー」の比較対照なんて自分の世界には存在しないものだったから、どうにもそんなところに今更自分を収めようとするなんて心地が悪くて仕方がない。いやそもそも彼女が愛するのが「フツー」なのなら、そもそも彼女はフツーでない自分のどこが好きなのだろう?
 また浮かんできた考えに彼は眉を顰めた。どうしただ、と問うて来る妻になんでもねえ、と笑い返すが、胸の奥がじくじくとする。考えることから逃げてはいけないのだけど、このままだとよくない深みに嵌りそうだ。そこで麦茶を飲み干してからおもむろに聞いてみた。
 「なあ」
 「ん?」
 「ぎゅっとしていいか?」
 急にそんなことを言われた妻は真っ赤になって目を丸くした。「な、何言い出すだよ!こったら表で、人目のあるところで、非常識だべ!お、おらちょっと焼きそばでも買ってくるから、待っててけろな!」
 言うなり慌ててビーチサンダルを履き、妻は浜の奥、海の家があるあたりに走って行ってしまった。要求を跳ね除けられた悟空は唇を尖らせてビニールシートの上に寝っ転がった。シートの下で砂がさらさらと動き、パラソルの外の足がじりじりと陽に灼けていく感触がする。熱い潮風の中に重い空気の層があって、それが青々とした山の間を巡って黒い風になっていくのが見えてくる気がする。それに乗って上下するかもめの白い翼。凧揚げ大会でもしているのか、とりどりの凧が青の中にアクセントとしてに加わっている。あまりに騒がしく跳ね回る種々の夏の気配を少し遮断して、彼は陰の中で少し拗ねた。

 だから外に出るのは億劫なのだ。家でじゃれあっていれば落ち着くし楽しいし、いざと言うときにはすぐそういう展開に持ち込めるのに、出先ではそういうわけには行かないではないか。キスをするのすら容易ではない。出先にしたって誰も居ないところならまだしも、「フツーの男女のフツーのデートスポット」など、人の多いところではどうしようもない。しかし妻は雑誌やテレビを見てはそういうところに自分を連れ出そうとするのだ。まあ街にはそういうことをするための施設もあるにはあって1回興味本位で入ってみたこともあるが、結構金がかかるし入るのが恥ずかしいとか言ってそれ以降妻は嫌がるようになったのだった。
 今もまだ鞄の中にはその雑誌が入っているがまったくなんて憎らしい物体だろうか。思いながらも彼は取り出してぱらぱらと眺めてみた。楽しそうに腕を組み歩く男女の写真と数多くの愉しむための場所。しかしその愉しさなんて今の自分には到底理解できない。そもそも理解するためには余りに基礎的な一般常識を知らないのである。
 聞き逃すと分けがわからなくなるテレビよりは、自分のペースで理解できる、本や雑誌を読むほうを彼は好んだが、なんにせよ自分のペースで物事が運ばないというのは好きではない。神殿にいる間は何だかんだ言って、神や付き人は彼の理解のスピードと言うものを尊重してくれたし、早く物事を導くよりはその過程を重んじてくれたから、さまざまな勉強も腰をすえてかかることが出来た。世界のこと、生き物のこと、簡単な人の歴史、そしてごく簡単ではあるけれど計算やらのもろもろのこと。しかし下界でちゃんと人の間で暮らすとなったらなんと多くの「常識」や「フツー」のことをいちどきに学ばないといけないのだろうか!そして自分ときたらなんてものを知らないのだろうか!
 今自分を苦しめているのは多分そういうコンプレックスなのだ、と一応分かってはいる。多分、こんな自分に彼女が愛想を尽かしやしないかと心のどこかで恐れているのだ、と思う。だけどそんなのにびくびくしてるなんて自分のごく小さな一部だし、男らしくないしみっともないから表には出しやしないけれど、たまに思ったリするのだ。

 自分にはこんな事は必要なのだろうか?いやそもそも、自分はこんな、人と交わって生きていてよい人間なのだろうか?

 その問いは、何処か自分にある地割れの奥、とても旧くて深くて気味の悪いところからじわりと滲み出てくるそんな気がする。飛び込もうにも飛び込めないその気味の悪い沼は例えるならば、戦えと自分に命ずる心の中の崇高な山の奥深くにあって、彼が神殿にいる間に見つけた心のもっとも奥まった深淵だった。
 それは黒く不気味に、しかし何かしらの快美を匂わせて横たわってはいたが、あの白い部屋において精神を散々参らされた時にも飛び込めなかった禁忌の沼だった。そこに飛び込むのを恐れるうちは自分は大丈夫なのだ、となぜか思える気がする。でも、其の中には一体何が湛えられているのだろう?
 なにか、そこに、自分のなにか大事なことが沈んでいる気がするのだけど…。



 
 「いい加減にしてけろ、しつこいだよっ」
 遠くのほうから妻の声が荒い足音と一緒に近づいてきた。何事かと顔を上げてみると、焼きそばや飲み物をいっぱい抱えた妻が2人ばかりのなにか派手な薄手のジャンパーを着た男たちに後をつけて来られている。
 「どうした、チチ」
 「あっ、悟空さ。何とか言ってやってけろ。この人たちがなんだかコンテストに出ろってしつこいんだべ」
 「お、彼氏?」
 「カレ?ってなんだ?」
 「おらの旦那だべ!」妻は悟空に腕の中のものを押し付けてから男たちに向き直って怒鳴った。悟空のほうは、何をやってるんだか正直よく分からないので、余りに五月蝿いようだったら追い払えばいいや、と思いとりあえず焼きそばを啜ることにした。なに、妻だってこのくらい撃退できるだろう。
 「えっ、結婚してたの!?全然まだ若いのに!なんだそうかぁ」
 「いや、それでも構わないよ!今これからこの浜のミスコンをやるんだけどね、出場者が足りなくて困ってるんだよ!助けると思ってさ、出てくれないかなあ、頼む、お願いします!」
 「ミスってのは結婚してない娘っ子のことだべ!?おら人妻だもん、それに人前に出るなんてこっ恥ずかしいだよ!」
 「いいんじゃねえのか」どうやらそんなに無体な要求でもなさそうなのでいい加減鬱陶しくなってきた彼は無責任に言い放った。「そんな危ねえことじゃないみてえだし。困ってんだろ、そいつら」
 「そうだよぉ、それに賞品もいいんだよ。一等にはこの海で取れたでっかいマグロ一本出しちゃう。そこの市場で売れば結構な値段だよ。お嬢さんそんなに綺麗なんだからきっといいとこ行くって」
 「ものわかりのいい旦那さんもさ、いい体してるねえ。腕相撲大会もあるんだよ、出てみない?まあそっちはすごい強いチャンピオンが居るからなかなか優勝は難しいと思うけどね。こっちも賞品いいよー」
 夫婦の目がきらり、と光った。




 かくして彼らはそれぞれ浜の大会に参加することになったのだった。先に悟空が腕相撲大会に出場することになったが、所詮一般人など彼の敵ではない。かえっていかに怪我をさせないかの方で気を遣わなければならずそれが大変だった。まあそれも気をコントロールする修行だと割り切った悟空は順調に勝ち進んで行った。妻は2回戦くらいまでその様子を見た後彼女のほうのコンテストとやらに出場しに行ってしまった。
 物凄く強いのが居るというので会場は目を輝かせた子供たちでいっぱいになった。チャンピオンは逆シードで、決勝で当たる流れだ。準決勝も秒殺で勝ち抜いた悟空に少年たちの羨望の眼差しが集まって、彼は悪い気はしなかった。もし子供が出来ても、こんな風に自分を見てくれるならなかなか楽しいことかもしれない。もしできるんなら男のほうがいいかな、などとちょっと思ってみたりもした。
 決勝戦が始まる前になって浜の向こうのほうで妻の出るほうの大会が始まったらしく、観客はぐっと減ってしまった。チャンピオンはさすが長いことこの座についているだけあって(この地方のアームレスリングだかなんだかの大会の王者なのだという)なかなかに強そうで、組み合った時も他のものとは段違いの実力を感じた。そんなやつを叩きのめすのもなんだか気の毒だし少年たちの間ではこの対戦者も結構な人気だったから、ちょっと苦戦する振りでもしてやろうと悪戯心を起こしてみた。
 「おにいちゃーん、ガンバレー」
 「どうしたの、しっかりー!」
 チャンピオンが悟空の手の甲を台に押し付けようと顔を真っ赤にして頑張っている。が、本当にいいところまで来ているのに全く其処から微塵も動かなくなってチャンピオンは動揺を隠せないようだ。ちょっとの間の後で素早く目にも留まらぬ速さで悟空は相手の腕を優しく台の反対側に倒してやった。下手をすると腕を折ってしまいそうだったので加減が難しかったけど。一同あっけにとられた後優勝者が宣されて大きな歓声が上がった。顔を真っ赤にしたチャンピオンが来年も必ず来いだのなんだの喚き散らしたがへらり、と笑ってかわしておいた。どうせやるなら次は世界一の奴とやりたいな、と思いながらカプセルに入れられた賞品を受け取って、彼は付きまとおうとする子供たちをあしらいながら妻の会場のほうへ向かった。なんだか結構な人だかりである。

 かなり後ろのほうだから人の頭が邪魔でよく様子が見えない。まあ見えないなら仕方ない、海ででも入って遊んでいようかときびすを返しかけたところで司会の声がした。「はい、では次は特別参加してくれました、18歳の新婚ほやほやのチチさんですー、どうぞ!」
 同時に男どものおお、というどよめきの声が起きた。なんだろう、とこっそりと彼は人ごみの中で少しだけ身体を浮かせて覗いてみた。なんだ、なんのことはない、さっきと同じ紺色の少し裾のついたワンピースの水着に白いパーカーを羽織ったなんでもない妻の姿ではないか。何やら恥ずかしそうに司会のインタビューに答えている。
 「すっげえな、ちょっと田舎くさいけど可愛いなぁ、あの子」
 「ダントツじゃねえか?あれで人妻ってんだからもったいねえよな」
 「くそう、結婚できた男が羨ましいぜ。独りなら絶対オレいってみるね」
 前に陣取る自分と同じ年の頃の男たちのグループからそんな声が聞こえてくる。料理が今の趣味だとか、色々な質問に答えていく妻の姿が多くの男の目を惹きつけているのが分かる。なんだか嬉しいような気もするが、なんだかこの舞台までの距離が歯がゆい気もする。その内妻はなにか芸をと求められ、今彼女の気に入りの流行の曲を歌いだした。
 「うーん、恥じらっちゃって、いいねえ」
 「その辺のアイドルとかより全然よくね?」
 「おい、写真撮っとこうぜ写真」
 「意外といい体してるよなー、うーん、やりてー」
 「新婚だもんな、純情そうに見えて毎日やりまくってんだろうなあ」
 
 歌が終わって引っ込んでいったところで、観客席の一角から急に騒ぎが起きた。スタッフが駆け寄ってみると、腰を抜かした若者の横でカメラがぐちゃぐちゃに潰されて転がっていた。騒ぎの主はすでに見当たらない。騒ぎを鎮めようとスタッフが駆け回って、あっけに取られていた司会が気を取り直してステージ裏を覗き込んだ時には、すでにさっきの出場者の少女は姿を消してしまっていた。







 半刻の後。

 人でにぎわう浜から離れた無人の岩場の影で、その少女はぐったりと岩に凭れ掛かっていた。白い腕のそこここに赤い擦り傷を作って、折角綺麗に編みこんだ髪を乱して、身体を半分海に沈めてしゃがみこんで。
 「…悪い」
 そのからだの横で、彼は低い声でぼそりと詫びた。寄せたからだがどくどくとまだ脈を打っている。上半身は熱く汗を噴いているのに、下半身は…最前まで一番熱かったそこは、今は波に洗われて酷く冷たい感じがした。ざあざあと繰り返して熱を奪っていく波の音がやけに大きく聴こえる。夕立が来るのか、岬の上の空には黒い雲が集まりだしている。
 頬の下にあった、捩れてしまった彼女の水着の肩の紐を直すと、波に掻き消えてしまいそうな声がした。
 「ひどいだ。こんなとこで、無理やり。信じられねえ。非常識だべ」
 そのとおりなので彼は何も反論しなかった。彼女が立ち上がって、塩水で解ききった髪を撫で付けた。どこに、と聞くと、帰るのだ、と言う。もう一度ごめん、と詫びると、振り返らずにそのまま素足で岩場を越えていった。


 帰り支度をしていると雨が落ちてきたので、彼らはカプセルで持ってきていた車で帰ることになった。乗り込むなり、たちまちざあっ、と世界を閉ざすようなスコールが天から落ち始めた。根性のあるものは海の家などでやり過ごすつもりらしいが、あの祭りのような賑やかさが嘘のように、つぎつぎと乗り物が浜を遠ざかっていく。助手席の窓からその様子を後ろに見やって、彼はそっと息をついた。
 車内は無言だった。5分位してその沈黙に耐えかねたかのように、妻がカーラジオのスイッチを捻った。浜でも流れていた今流行の、いかにも夏らしい賑やかな曲が流れ始めた。バケツをひっくり返したような天井を叩く音に負けじと、ボリュームは徐々に上げられていった。

 窓の何処かの隙間から、少し冷たいような風が雨粒を少しだけ含んで漏れ入ってくるのが、助手席を倒して目をつぶっている彼の顔に時折かかった。窓の外は一面のグレーの空で、窓ガラスを飛沫が冷たい花を咲かせながら叩いて流れ落ちていく。
 帰ろう、と、あの会場から妻を連れ去った後岩場で彼は妻に言った。今すぐ雲に乗って帰ろうと。でも妻はいきなり勝手に連れ出された怒りもあったしまだ全然海に浸かってないとかなんとか言って絶対嫌だと反抗した。それが酷くもどかしくなって気がついたら彼女の柔らかな身体をごつごつとした岩に押し付けてしまっていた。だめだ、と思いつつ胸の中のひどいものに押し切られるように、最後まで突っ走ってしまったのだ。
 心の中はめちゃくちゃに酷い状態なのに、それでも彼女の身体に溺れてしまう自分が酷く情けなかった。こんなのでは本当に、自分が身体だけしか欲していないのだ、と思われても仕方ない。もっと優しく、上手いこと扱ってやりたいのに。いつも、そう願っているのに。
 音楽が途切れてニュースの時間になった。少しの後、車が急に止まって地図を広げる音がした。薄目を開けて見ると、妻が地図を見て何か考え込んでいる。
 「…どうした」
 「この道が先のほうで雨がひどくて崩れて通行止めになっちまっただよ。今言ってただ。だから別の道をさがさねえとなんねえだ」
 「じゃあちょっと待ってようぜ。どうせ夜までは降らねえよ、こんな雨。止んだら筋斗雲で帰ればいいんだ。そしたらすぐだ」
 「こんなとこでだか」
 言ったものの、妻もそれが得策だと思ったのか地図をしまって余った飲み物を水筒の蓋に注ぎ始めた。ごく、ごくと妻の細い喉を飲み物が流れ込んでいく音がした。細い彼女の右手の指が彼の横のサイドブレーキを引いた。カーラジオはまた歌に戻って、一転気だるげな女性ボーカルの曲を流している。夏の夕暮れのような、甘い湿気にこもった歌声を。
 
 そっと左指を伸ばすと、手が触れ合った。上から包み込む。が、抵抗する様子はない。



 「嫌いにならねえでくれ」


 日焼けになりかけた腕で顔を覆いながら彼は小さな声で言った。雨の音に掻き消えてしまうのじゃないかというくらいの声で。
 その顔の上の腕を、彼女の手が取ってそっと退かせた。彼は思わず抵抗したが、結局は彼女の黒い瞳に捕らえられてしまう。

 「呆れてんだろ。オラ自分でもフツーじゃねえと思う、あんなことしちまって」
 「…なんで?なんかおら、怒らせることしただか?」
 「おめえは悪くねえよ」そこまで言って口を噤もうとした彼を、妻の濡れた目が見つめた。もう一度嫌いにならないでくれ、と言うと、ならないから教えて、と小さな声がした。

 本当はあの時あの男たちを殴りつけてやろうかと思った。聞いた途端今まで感じたこともない酷い怒りが目の前を覆った。なんで自分の妻をあんな男どもの口さがない、下卑た視線と軽口に晒さなければならないのか。
 自分が軽々しく「出ればいいじゃないか」と言ってしまった事を酷く後悔した。妻が恥ずかしいと言っていたのはこのようなことも込みだったのかもしれない。でもこんな酷いの、考えていただろうか。聞いたらきっと泣くに違いない。だから殴りつけてやろうと一瞬思った、思いっきり。でもそれを思ってしまった自分に吃驚して戦いてしまったのだ。今、一瞬殺してもいいと思わなかったか。自分の女を穢されたような気がして。
 自分の妻は確かにその賞賛に値するほどに綺麗だ。この自分をも虜にしてしまうほどに。でも、この女は、この女の秘められた甘い芯の部分は自分だけのものなのだ。誰にも覗かせたくない。誰にもそんな対象にさせたくない。
 身体だけじゃない、そういう営みそのものだけじゃない。このように頬をなぞる優しい手つきそのもの、向けてくる、自分を見つめて、と訴えかけてくるような切実な眼差しも、そういった特別なもの全てを。それは、もう絶対に、自分だけのものなのだ。
 でも、こんなこと、どう説明したものだろう?だから、みっともないと思いながらも、彼にはこう言うしかなかった。

 「もうあんなの出るな。他の男に見せたくねえ」

 ちょっと驚いた顔で彼の顔を見つめた後、妻は薄暗い車内で嬉しそうにそっと微笑んだ。
 「そうだな、おらは悟空さの奥さんだもの。はしゃいでその辺の娘っ子のようにあんなの出たのが間違いだったべな。ごめんな?
  …でもな、はしゃいでみたかったんだべ。おら子供の頃からおっとうと一緒だとろくにその辺でよその子と遊べなかったし、ちょっと大きくなってからも家のことしてあまり好きに遊びに行くことさ出来なかったからなぁ。15からこないだまでは全く修行ばっかしだったし」
 彼の熱い火照った頬を、再び指がそっと撫でた。まだラジオからは気だるげな歌の続きが流れている。雨は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
 「そんでこれから赤ん坊さ出来たらいよいよよそへ出かけるどころじゃなくなってしまうもの。4,5年はのんびり外出することも難しいって言うべ。だから、今のうち精一杯愉しんでおきたかったんだ。何より悟空さとあちこち行けることが嬉しかったんだもの。…ずっと、夢見てて、そうしたいって思ってたから。悟空さはなんかつまらなそうだったけど、おらは本当に嬉しかったんだべ、それが」
 唇が優しく重ねられた。
 「あかんぼ作るの、ちょっと延ばした方がいいんじゃねえのか。別にオラはそんなに」
 さっきしたことも置いておいて彼が囁くと、妻は首を振る。「だって、悟空さが好きだもの、おら。だから早く欲しいから逆に今いっぱい急いで愉しんでおきたいんだ。…悟空さもおらのこと好きだべ?それが分かるから逆におら聞くんだべ。嫌われてるかどうかじゃなくて、好き同志だから、同じ位好きがどうか知りたくって聞くんだよ。おらがこんだけ好きなくらい、悟空さもおらのこと好きならいいな、って思うから。本当に嫌われてるかもしれないって本気で思ってたら、あんなふうにとても気軽に聞けねえだよ。夫婦のコミュニケーションって奴だ」
 「そんならすぐ泣くなよ」
 唇を尖らせると妻が可笑しそうに笑って、ゴメンと可愛らしく詫びて上にのしかかってきた。



 寄り添うからだの奥に、それぞれの鼓動の音がする。この世の何より、近くていとおしい音。世界を閉ざす雨の中、響き渡るその音。耳を済ませているうちに、何もかもが柔らかくほどけていきそうな、そんな音。
 
 「…しないんだか?」
 「しねえよ」
 「珍しい。まあさっきしたばっかりだからだべ?」
 「違うよ。こうしてようぜ、雨が止むまで。な」
 



 雨が止めば、家に帰ろう。すっきりと洗われた夏の大気の中、二人で寄り添って。
 或いは柔らかな夕映えの中を、或いは大きな虹の出た中を。
 
 家に帰って美味しい食事を食べて、また二人で寄り添って眠ろう。
 そしてまた、晴れたら二人で出かけよう。
 ちょっとフツーではないかもしれないけれど、これが二人の、噂に聞くセーシュンってやつなのだろう。




 ほら、それは、今ラジオから流れてくるように、限りなくうきうきとして限りなく活気に溢れて。
 夏そのもののような、まぶしく、熱く、ダイナミックに素敵な予感に満ち溢れて。







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