このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Luna3






 「やべえ、不良になっちまった」



 「はあ?」その声に小隊のヤードラット人たちが思わず振り返った。思いがけなく視線を集めたその人は、今まで覗き込んでいた道端の廃墟にかかった鏡から顔を上げて、慌ててなんでもない、と両手を振った。肩をすくめて再び隊員たちはのんびりと訓練所への帰還の歩を進めた。時は夕暮れ近く、淡い紫の美しい空に桃色の茜雲が柔らかにたなびき、絵に描いたような美しい風景だった。いくさで荒れ果てた都市の姿すら、退廃と創造を描いた一幅の絵のようにうつしだして。

 ここは「その人」にとっては異星。ヤードラットと呼ばれる美しい星である。ゆえに、高く売れると見込まれて狙われ続け、それに抗う激しいいくさが繰り広げられた星である。今は敵の首魁が斃れ、統率を失ったその残党の掃討戦のさなかだった。
 その人…孫悟空は、立ち尽くして、沈む夕日に向かい歩を進める一団を後ろからしばし見送った。風が柔らかく吹き、彼の金色に強く逆立った髪をなだめるように揺らした。彼の育った星よりピンクじみた夕映えの光が、彼の翡翠色の瞳を淡く中和させにじませるように空間を満たしていた。その中を行く戦士の群れの姿は、たとえ肉弾戦にすぐれない一見貧弱なものであっても、彼の心の中をざわざわと高揚させるもの。それは、戦いを好む彼の血の証左だった。
 改めて彼は、さっきまで眺めていた割れた鏡を覗き込んだ。それは彼であって彼ではない。初めて目にした「この状態」での己の姿だった。

 「やべえ、もどらねえ」
 彼はつぶやいてこめかみの髪筋を一握りつかんだ。心の中がざわざわする。黒に戻れ、黒に。そう焦りだすその心の裡(うち)。しかし、心の中の金色の獣が、この力を手放したくないと吠え出す。この姿に変じて得た絶大な力を手放したくない、なんと愚かなことを!と吠え出す。彼の見つめるその鏡の、金の髪の後ろ、縹(はなだ)色の空に3つ連なった歪で小さい白い月が現れだすのが見えた。その光を得て、獣が狂喜する。
 「うるせえ!」
 彼は壁にかかったその鏡に拳を叩きつけた。余波でもともと崩れかけていた建物全体が大音響とともに倒壊した。もうもうと砂煙が巻き起こり、沈み際の太陽に照らされてさながら火事場のような様相を呈した。彼はしばらく肩で息をついていたが弾みで埃を吸って激しい咳を何度もした。何度も何度も。苦しくて涙が浮かぶほどに。
 無人の都市に残され、駆け寄って背を擦って(さすって)くれる人も無く、ひたすら咳をした。それが収まったときには、心の中がやけに静かだった。うつむいた頭、視界の隅に見慣れた己の黒い前髪が映った。
 
 しばらくの後、彼は力なくつぶやいた。
 「…あ、戻った」
 体と心に、いつにない虚脱感が広がっていた。いがらっぽくかすれた咽喉をひとつ鳴らしてため息を幽かにつき、ひとつ咳をしておもむろに隊を追い駆け出した。3つの月を背に、異星の服をまとって。


 
 彼、孫悟空はこの星を狙っていたフリーザを倒した男で、今はこの星の客人だった。かろうじて脱出してきたあの星から流れ着いたここで傷を癒したのち、宇宙船の修理を待っている日々、この掃討戦に乞われて参加していたのだった。今日はその初日だった。
 戦いのさなか、久々に身体を動かし戦いに身を投じた歓喜に我を忘れた一瞬、彼は意図せずその姿に…フリーザをもその力で圧倒した、伝説の戦士、超サイヤ人へと変じてしまった。やや苦戦を強いられていた今日の戦線は、おかげで一気呵成大勝利となった。が、戦いが終わっても超サイヤ人の変身を己の意思で解くことができない。なぜだ、フリーザのときはできたのに。そう訝しく思いながらもいつもどおり軽く「ま、いいか」で、そのうち戻るものと高をくくって帰還の列に加わっていた最中、初めて己のそのときの姿を鏡の中に目にしたのである。それは、己の目にもまるで別人であった。
 ギニューに身体を奪われたときもそれなりにショックだったが、それとはまた種類の違う動揺があった。

 これでは、こんなのでは、妻に嫌われてしまう!

 広がったその動揺は、己の変貌についての恐怖を呼び覚ますものだった。自覚した、自分の裡の金色の獣は、今も内心で不気味に唸りを発している。もっと破壊を。もっと血を!黒い鎖に繋がれ、なおもそう暴れながら。
 彼は、夕食の後疲れたと部屋に早めに引っ込み、なじんできた床(とこ)に身体を投げ出しながら思った。もう、フリーザはいない。あれほどまでに強い敵など、もうそうそういない。こんな雑魚の戦いで、自分が超サイヤ人になる必要も無いではないか。あの金髪になる必要もない。だから、おとなしくひっこんでおけ。
 まぶたをきつく閉じた。心の中、黒い鎖でいっそうきつく獣を縛り付けた。窓の外には、衛星と呼ぶには小さすぎる風情の、ほとんど小惑星に近いようないびつな3連の月が寄り固まるようにして輝いている。


 そういえば、と彼は眠りに入る一瞬思った。自分がはじめて、自分の姿をはっきりと鏡の中に見たのは、いつのことだっただろう?









 彼の妻は鏡を見るのが好きだった。と言う風に、彼の目には映っていた。朝一番に鏡台に向かい、白いうなじを決然と晒して丸く髪を纏め上げて始まる彼女の一日。時折居間の鏡で後れ毛を確認するその仕草。出かける前に鏡台で薄化粧を施すときの真剣極まりない横顔。床に着く前に、自分を焦らすように長い時間をかけて丁寧に長い髪を梳り(くしけずり)ながら乾かすそのゆったりとした手つき。どれもが、時にはもどかしくあったものの愛すべき彼女の姿だった。
 彼女の長く柔らかい黒髪を彼は愛した。不意に求め合うときに髪が乱れるのもいい。それをほどいた時に彼女がどこか覚悟を決めて女の顔になるのも好きだ。唇を重ねるときに自分の黒い前髪と彼女のそれが交じり合うのも、彼女が上になって自分の上に落ちかかってくる髪のその感触も、手櫛で優しく梳いてやるといかにも心地よさそうに目を細めるその表情も。結婚してからさらに丈が伸びて、最初はうなじで単に縛っていたのをやがて上に大きくまとめるようになった。その長さは彼にとって幸福の象徴でもあった。

 彼女のほうはと言うと、金髪、それもならず者がことさらに虚勢を張って逆立てた様が大嫌いだった。何でもまだ自分と初めて出会う前、義父がまだ魔王と恐れられていた頃に、城を狙ってきたそのような姿のならず者たちに攫われあわやひどい目に合わされそうになったのだと言う。義父によってすぐ無事に助けられはしたものの、あのおっかない武装はそれから身に着けた用心だったのだ。
 「だから、おらあんな格好した不良、だいっきらいだべ。悟飯ちゃんにはあんな格好、絶対絶対絶対させねえんだ」よく妻は街でそのような姿のものを見るたび、またはテレビで見かけるたび、口を酸っぱくして言ったものだ。
 「でも人を見かけで判断しちゃいけねえんだぞ」一度、妻の膝で不安そうに目を瞬かせた幼い我が子を気遣って彼は口を出してみた。その正論に妻は一瞬打たれたように顔を赤くして黙ったのだがしばらくして口を尖らせて言い募った。曰く心のだらしなさがおもてには表れるものだ、初めて会った人の第一印象をよくして安心して貰うためにも人は自分がどう見えるかには自分を律してちゃんと気を配らないといけないのだ、何だかんだ言ってつきあいはその最初の印象に左右されて続いていくのだから云々。
 それも確かに正論ではあったので彼はそれ以上追及するのをやめた。息子の躾に関しては完璧に彼女の領分だったし、どうせ自分たち父子がそんな姿をすることなど到底あるまいと思ったから。手間暇と金をかけて髪を染めてよく分からない薬など使って髪を逆立てるなんてはなはだ無駄なことだ。この息子だってそれほど馬鹿ではないだろう。
 自分がそんな不良になることなんてありえない。別に正義の味方を気取るわけではないが、(まっとうに働いている人間ではないものの)自分がまっとうな人の道を踏み外すことなども到底あるまい。そんなの、自分が自分で無くなるときでしかありえないだろう。例えば記憶を失うような。そう、そんなのは自分が自分でなくなるときだ。








 しかしその「自分が自分でなくなる」ことは、ヤードラットでの戦いにおいて頻発した。超サイヤ人になることを望んでいるわけでもないのに、戦いのさなかに不意に人格が入れ替わるような感覚で変身してしまう。一度フリーザとの戦いで堰を切った怒涛の力の渦が、いつも彼の奥底で金色の獣の姿をとってそのときを待ち構えている。
 通常の状態であれば敵をある程度痛めつけた後、逃げるのを促すのが常だった。しかし超サイヤ人の姿になると力が余っているためか、そのつもりは無くとも相手に深手を負わせることが多い。そして獣はその血に…必ずしも赤いものばかりではなかったが…酔うように歓喜し、更なる血を求める。なんとかそれを押さえつけようとする。戦闘が終わっても自分の意思ではそれを容易に解くこともできなかった。ひどい時には戦いを共にするヤードラット人たちにすら牙を向けようとそいつは舌なめずりをするのだ。どうにかその衝動だけは抑えるものの、笑顔を向けることもできない。話しかけられても粗暴な受け答えをしてしまう。2日、3日とたつうちに、繊細で敏感なヤードラット人たちも彼のそのような内心に気づき、惧れの表情を見せるようになってきた。


 「明日は休んでいれば良い」
 5日目の晩、小隊の長にそう促されたとき、まだ金色の姿をとっていた彼は思わずその顔を睨み返した。真夜中、逗留しているこの地域の長の屋敷の中庭廊下。この家の跡取り息子でもあるその人は続けた。
 「このままでは、お前は敵を殺してしまう。それを恐れているのだろう?そうなれば歯止めが利かなくなってしまうかもしれないのを恐れているのだろう?こちらから乞うて戦いに借り出したのにこのようなことを命令するのも悪いが」透明で薔薇色じみた瞳が月の光を映じて三つの星を宿しゆっくりと細められた。
 思念に秀で、その分膂力に乏しいヤードラット人の繊細なのどが彼の目を釘付けにした。そのはかなげな影。うなじにぞわりと、金色の獣が身構える感触が伝わってくる。
 彼は頭を打ち振って、その場に関係ない質問をした。「宇宙船は、まだなおらねえのか」
 「まだだ。まだ…長い時間がかかるだろう、申し訳ないが」
 怒りと焦燥に自然と眉が逆立ち、思わず胸倉を掴もうと手が伸びる。しかしその手がいきなり雷に打たれたように見えない力に弾かれた。
 「…その、不思議な力で、この状態をどうにかしてくれる事はできねえのかよ」打たれて少し赤くなった手で彼は顔を覆った。速い風が天を流れ、庭の、桜に似た木を揺らし、その柔らかな花弁の幾枚かを彼の足元に散らしてゆく。
 「それは、私のすることではないだろう?君が、自分自身でどうにかするものだ。少なくとも、君の星に…君の家族のところに帰るまでにね」

 彼は無言でその場から、よく晴れた夜空へと飛び立った。ここのところの日課の、廃墟の破壊に向かうために。その人の、悟りきったように見送る視線から逃げるようにして。





 危ういバランスを保った廃墟の塔の天辺、破壊もせずに、結跏をする。少しでも気を静めるため。胸の中には力が波を打たせ、冬の嵐の海のような怒涛を巻いている。それを何とか凪にしようと、呼吸を整えようとする。
 廃墟の都市のはるかかなた、月明かりに凪ぐこの星の海を見てイメージを高めようとする。昔、神殿で課せられたこの課題に四苦八苦した頃を思い出しながら。あの世で、界王拳を会得するために、それこそ末梢神経の一本にまで精神をめぐらせた感覚を思い出しながら。

 己を御することが、戦いにおいてなによりの肝心要であると心から悟らされたのはいつのことだったろう。あの白い部屋を出た後、一度破壊されかけた心を立て直したときのことだったろうか。結局は神殿での修行の全ては、自分がそれを納得し会得することに繋がっていたと今は思う。自由気ままに、何の考えも無く遊び半分でとびまわり戦っていた子供の頃の自分とは違う。己、と言うものがどのようなものであるか、少なくとも修行を経て分かったつもりではあった。結婚と言うものをして肉の悦びを覚え、多少心身に変化はあったものの、何を感じ、何を喜び悲しみ、どのように世界に向き合っていくか、自分と言う存在を把握していたつもりだった。ひとりの地球人、孫悟空として。
 しかしそれは覆されたのだ。自分は妻とは違う星の、まったく違う感性を持った宇宙人に由来する人間なのだ。兄と称する人間の心底からの冷たさと狡猾さを目の当たりにして、記憶を失わず育っていたなら己もまたこうなっていたのだ、と気づいたその瞬間、幸福に整いきっていた心が激しく軋んだ。「どちらが、本当の己なのか」と。
 蛇の道を走りながら時折心の奥底から囁かれるその問いをいくら振り払ってきただろう。違う、あの女を、息子を愛する気持ちを持つこの自分こそがほんものなのだ。それが何より大事な真実ではないか、と。しかし、戦いを求めて止まない、それこそ己のもっとも要であり核の部分は、戦闘民族であるというその一族に由来するものなのだ。
 自分は戦うことが好きだ。それこそもうどうしようもないくらいに。時折妻に、彼女と戦いとどちらが好きかと戯れにまた詰る(なじる)ように問われることもあったが、笑って誤魔化しながらも本当は戦いを内心選んでいた。
 こればかりは自分でも御しがたい。長い入院生活の間、どれだけ自分が戦うことを愛し、武術を愛しているかを思い知ったことだろうか。病床の上でも今すぐは不味いと思っていつつも、どれだけあの、先だってひどい目に合わされたあのベジータとかいう敵の襲来を待ち望んだことだろう。また戦う日を思い描いたことだろう。退屈な入院生活の大半はその「楽しい」想像に費やされたのだ。それこそ妻がまたそれで機嫌を傾けてしまうほどに。自分が宇宙に旅立った日も、そのような自分に呆れて妻は買い物に出かけてしまっていたのである。挙句無断で飛び出したのだから、それはもう怒っているに違いない。
 怒っている。なのにのこのこと自分がこんな不良になって帰ったら、それこそ嫌われてしまうかもしれない。それですめばまだいい。
 このままでは、自分に向けられるヤードラット人たちの戸惑いと恐怖の表情は、地球に帰ったときにいとしいものたちが自分に向けるそれになるだろう。特に妻は、必ず。そのような表情を向けられて、自分が平静でいられる自信がない。今はまだ我慢はしていられる。しかし彼女を前にしてはどうだろう。それこそ…可愛さ余って憎さ百倍になりはしないか。彼女を手にかけてしまいはしないか。かつて、満月で大猿へと変じ己を失って祖父を踏み潰してしまったらしいように、今度はこの金色の獣…自分の裡にはっきりとあるこの金色の大猿の化け物が彼女を殺めてしまいはしないか。


 閉じたまぶたの裏に、白く力なく倒れた彼女の裸身と、その表面を赤く彩る彼女の流す血が一瞬浮かんで思わず目を見開いた。こめかみを冷や汗が流れた。してしまった想像は目を開けても猶消えず、心の片隅にはっきりと巣食った。鼓動が早まり、罪悪感とともに「それ」が湧き上がってくる。自分自身がはっきりと形を変えつつある。
 「…チチ…!」
 彼は結跏を解いて顔を覆った。その金色の髪を、三連の満月が照らした。思えば、初めて自分が彼女への想いと欲望に気づいたのは満月の晩だった。あの晩、このように…あの時は男と女が為すべきことのなにもはっきりとはわかっていなかったから、どうしたら良いか正体も知れない衝動だったけれど…彼女を絶望的なまでに、どうにかしてしまいたいと望み、それを必死に恐れて抑えていた、ちょうど6年も前の自分。恐ろしいまでの自分の欲望が彼女を傷つけるのではないかと本気で怯えていた。今になってまたこんなことに悩む羽目になるなんて。
 それでも会いたい。顔を見ていない日数はまだひと月にも満たなかったが、もう一年も彼女のことを抱いていないのだ。その柔らかな胸に包んで欲しい。このささくれ立ったひどい気持ちをどうにかして欲しい。三日月のようにしなやかで、満月のように自分を狂わせるその優しいからだと心で。


 「若い、若いねえ」
 不意に背後から男の声がして彼は驚いてうつむいていた顔を振り向かせた。塔は鐘楼の一部だったのだが、床のきわに並んだ柱の一本に寄りかかるようにして、ヤードラット人の、老人と呼ぶにはまだ若そうな男が甕を手にニヤニヤとしていたのである。さっきまでまるで気配も感じなかったのに。
 「なっ…おっさん、いつの間に!いつからそこに居たんだよ」彼は真っ赤になって気色ばんで立ち上がった。その男は、酒臭い息を吐きながら笑った。
 「ほんのさっき、な」
 彼は首を傾げる。まったく来たことに気づかなかった。いぶかしげな顔をしていると、男は近づいてきて頭上にある鐘に繋がる紐を何回か揺すった。無人の廃墟に静かな鐘の音が響いた。わけが分からず見守っていると、男はおもむろに塔の片隅から下に飛び降りた。かなり高いところだったのであわてて駆け寄ってみて見ると、舞空術のようなもので落下スピードを落として建物の玄関に降り立ち中に入っていく。入っていく前に、悪戯っぽく誘うように見上げてきたので、彼も後に続いた。
 建物の中に入ってみると、そこは寺のような施設だった。崩れかけた複雑精緻な彫刻が壁一面を埋め尽くし、ろうそくのような明かりがそれを陰影濃く浮かび上がらせている。外観の簡素さに反してのその見事な様に、普段そのようなところを訪れたためしも無い彼も思わず感嘆の声を漏らした。
 男は祭壇らしきものの裏をあさって、酒瓶と器を取り出した。男の分と、もうひとつ。床に座らされ、酒を注がれた。警戒心はあったものの、一口呷った。香りの良い、甘くややきつい酒が胃の腑にきゅうっと落ちてゆく。
 「意外といける口だね」男は皺を浮かべて人懐っこく笑って、さらに注いで来ようとした。が、彼は頭を振った。
 「酒はあんまり好きじゃねえ。わけがわかんなくなるからな」男を睨み付ける。「おっさん何者なんだ。どういうつもりなんだ」
 「ここの管理人みたいなもんだよ。お前さんの噂を聞いて顔を見に来たってわけさ、孫悟空。酒はその御代とでも思ってくれ」
 なるほど、と彼はため息をついた。「あんま酒なんて勧めんなよ。俺は今気が立ってるんだ。酒に酔ったら暴れだして、おっさんに怪我させるかも知れねえぞ」
 「お前さんはそこまで馬鹿でもないさ。まあ今は多少力を制御できずに悩んどるようだがそんなのちょっとの間のこと。焦ることも無い」
 にっこりとする男は実際には似ても似つかないものの、義父にどこか似たところがある、と彼は感じた。なんとなく安心して杯を受けた。伽藍の隅の壁は崩れ、天が見えていたが月は隠れて、だいぶん気持ちが落ち着いたように感じる。
 「この星には3つも月があるから、そりゃ落ちつかんだろう。特に今夜は。サイヤ人ってのは難儀な生きもんだね」
 「知ってんのか」
 「昔はたまに…その頃儂はよその星にいたんだが見たもんだよ。大猿になってよその星を攻めてた姿もね。だいぶん昔にやつらの星が消えっちまってからは姿を見たのはお前さんが初めてだがね。しかしフリーザに忠実に仕えて宇宙で暴れまくっていたサイヤ人のその末裔が奴を倒したというのも面白い巡り合わせってもんだ」
 
 彼は無言で、金色の前髪をわしわしと掻いてまた酒を呷った。あの戦いのことを思い出したのだった。本意ではなく殺めてしまったあの敵の断末魔の様相。前にピッコロ大魔王を破ったときその身体を貫いた際には感じなかった罪悪感がその身を駆け巡る。思えばあの時、一度は自由意志で解いた変身をあの時再びしてしまってあいつを殺めたことが何か良くなかったのかもしれない。その後星が崩壊し、宇宙船の中で気を失うまで変身を解くことも忘れてしまっていたのだから。

 「超サイヤ人なんて…なりたくなかった」
 「ふん?」男はからかうような、馬鹿にした目で彼を見やってきた。何を世迷言を、と言う風に。
 「戻りたい」昨日の晩から、ずっとこの姿だ。「こんな姿、こんな力いらねえよ!こんなんじゃ帰ることもできねえ。地球に帰ることもできないなら、あいつにやられたのと大して違わねえじゃんか!」
 「かと言って、お前さんは手にしたその力を潔く捨てることができるのかい?もう絶対にならないと誓えるのかい?できないだろう。サイヤ人と言うのはそんなもんだ」
 言葉に詰まった。肩で息をする。酔いがまわってきたのか体の自由が失われてきた。いや、これは。
 「何か、酒に入れやがったなっ」
 杯を取り落とした。その音がさっきの叫びの余韻とともに伽藍に響いた。冷たく埃っぽい、不思議な動物を破砕タイルで描き出した床に這い蹲る。
 「ちょっとな。まあ今日のところはおやすみ。何もかも忘れて」
 睨み付けたが、まぶたがどうしようもなく重い。目を閉じる寸前、男は言った。

 「罪悪感を感じるということは、お前さんがちゃんと超サイヤ人の力を支配しているという証さ。地球人の心でね。お前さんが奥さんから教えられた命の尊さが、ちゃんとお前さんに根付いているしるしだよ。それを忘れずに落ち着いていればいいのさ」

 さて、儂も懐かしい我が家に帰るとするかね。そう言い残した男の足が、暗く降りかけた視界の中からふっと掻き失せるように消え、同時に彼の意識も暗転した。


 

 翌日目覚めたのは、もう夕方も近くなってからだった。気はすっかり落ち着き、変身は解けていた。館に戻ると、隊長に呼ばれ、疎開していた女子供を率い留守だった館の主、隊長の父親に引き合わされた。見た瞬間彼は鼻白んだ。悪戯っぽく笑うその人、この地方の長は、間違いもなく昨日ひどい酒を飲ませてくれたあの男だったからである。
 やがて星にいたフリーザ軍の残党も概ね去るころには、彼はある程度力をコントロールできるようになった。不意に意図せずではなく、自由な意志でその姿に変われるようになったのである。ただ、一度なってしまうとやはり戻るのは多少苦労を伴ったし、なった場合の嗜虐性の発露には悩まされるままだ。
 地球に戻るための宇宙船の準備はまだできない。その間、彼は瞬間移動を学ぶことになった。長であるあの男を師に、あの建物で。それは、超サイヤ人のコントロール以上に苦戦を強いられる修行であった。



 美しい星での、地球よりも長い一日が繰り返され、ゆっくりと季節をめぐらせていった。花咲き乱れる春から、天高くさわやかな夏、そして実りの季節へと。

 不思議な声が急に頭に響いたのは、秋のある朝のこと。持ちかけられた思いがけない故郷への帰還の誘いに、思わず彼はそばにいた師に伺いを立てた。納得の行くように、と言われた彼はそのようにした。納得の行くまで、わざを極めることを選んだのである。
 未だなかばである瞬間移動の習得、そしてまだ完全ではなかった、己の力の制御を。もう自分が間に合わないことで無駄な犠牲を出したくない。血に狂った己のままで戻って、家族を傷つけたくない。悩みながらの判断だった。そこには、妻にすぐ会うことを恐れる気持ちも無いではなかった。愛想をつかされているかもしれないし心変わりをされているかもしれない。そんな彼女に会って、まだ完全に馴致していない己の中の獣が疼くのが怖かったのである。彼女が怖かった、その単純な意味においては、その時地球で彼のかつての師匠が言っていた言葉はまったく的を得ていたわけだ。
 やがて瞬間移動は完成し、変身を解くこともコントロールできるようになった。宇宙船も折りよく完成し、彼は長い睡眠を取りながらの帰途に着いた。師も、その息子である隊長も心から彼が地球に帰ることを喜んでくれ、宇宙船に向かって、飛び立つ寸前まで大きく手を振り続けていてくれた。
 
 三連の月をかすめ、宇宙船は星をあとにした。なつかしい、彼の育った地球へ向けて。
 










 彼はうっすらと目を開けて、黒い瞳を闇の中に瞬かせた。枕もとの水差しを手探りで取り、裸の上半身を起こして渇いたのどを潤した。
 家の寝室は真っ暗だった。月は世界から失われていたから。新婚の頃は、毎晩自分たちを覗き見るように月が煌々とこの寝台を照らしていたものだ。宇宙から帰りついた後に再びこの部屋で床について見上げた寝台には、当然のことながらそれは無かった。妻の心が閉ざされていた日々の苦悩とあいまって、ひどく心細い思いがしたものである。
 ここ2日は久しぶりのこの家での睡眠だった。おとついの昼まで彼と息子は神殿で一年近くにわたって修行をしていたのだから。実際の外の時間…つまり、妻の感覚にしてみれば一日足らずのことだったが。当然のごとく彼は妻を激しく求めた。妻との温度差に焦れながら。
 (ちょっと、やりすぎちまったか)
 眠るとき以外にはなるべく変身したままでいる、その習慣だったから、ゆうべは初めてこの姿で妻を抱いた。ヤードラットでなるべく不必要な嗜虐性をそぎ落とし、さらに神殿でもう一段、平常心に近い状態にまで精神を保てるように修行をしたつもりだったのに、やはり彼女を前にしては理性がどうにかなってしまう。別にことさらひどいことをしたわけではないが、いつもはしないような意地悪な言動をしたり、無理に押さえ込んだり、彼女が恥ずかしがって嫌がることもついついしてしまった。まだまだ修行が足りないと言うことかもしれない。あちらも嫌がりながらもいつもより良い風だったのが救いではあるけれど。だって、必死に隣の息子を憚って声を抑え、口を自ら押さえるその苦悶の表情などたまらないではないか。


 サイドボードの時計は、まだ5時かそこらだ。緑色の蛍光塗料が柔らかく闇の中に沈んでいる。チクチクと時を刻むその音の一つ一つが、来るべき戦いが確実に近づいていることを教えている。傍らの妻の柔らかな寝息が、闇に溶けるように満ちている。横たわりなおして、その小さな耳朶に唇をつけるようにしてひとつ、ゴメンな、と幽かに囁いた。
 宇宙から帰っても、やはり彼はできるだけ彼女の前で変身はしないで置いてきた。何度か彼女が修行場に顔を出したときにその姿を遠目に見られることはあったが。自分の変身したときのありようについては、宇宙から帰ってひと月近くの後、関係を修復した日にありのままを話した。戻らなかったわけも、すべて。汚れてしまったのだ、と自らを嘆く彼女を慰めるように、自分の穢れも愚かさもありのままに、不良になっちまった、と。
 超サイヤ人は戦うための姿。それは2人でいる間は、家では、不要なものだから。それが2人の間のそれからの暗黙の了解だった。けして互いを軽蔑も恐怖もするのではないけれど、どうにもならないことで余計な波風を立たせないように目をそらしていることそのものが愛情表現だったのである。そのようにお互いにそれぞれ付着した生活の穢れと戦いの穢れを緩やかに受け入れながら、再び彼らは表面上は地球人同士と言う顔をして愛情を、平穏な暮らしを構築してきたのだった。それを破るような真似をしたのはなぜだろうか。



 「…悟空さ…?」
 間近からしたその声に我を取り戻し、慌てて姿を変じた。力の余波が寝台のシーツを波打たせ、彼女の長い黒髪を嬲った。驚いてしがみついてきた妻の髪を優しく撫でる。妻は変身してしまった彼の金色の髪に気づくと不服そうに唇を曲げた。
 「起こしちまったか?まだ5時だぞ、寝とけよ」
 「ううん、もう起きるだ」体の下から猫のように抜け出るようにして妻が寝台を降りた。「今日はピクニックだべ?お弁当いっぱいつくらねえといけねえもの。その前にシャワーも浴びねえと」言いながら鏡台を覗き込み、乱れた髪を手で梳いている。真っ暗な中、彼の放つ柔らかな光をあかりにして、下に落ちた下着などを身に着けている。
 その様子に微笑んで、もうちょっと近づいて照らしてやるようにすると、彼女がつぶやいた。
 「やっぱり、太陽みてえだな」
 「なんだそれ、こうしてぴかぴか光るからか」
 「違うだ、その光るじゃなくて。…昔おらのこと悟空さ月みたいだって言ったべ、そのお返しと言うか、そう思ってただよ」言って彼女は鏡の中で唇をゆがませた。「月はなくなってもいいけど、太陽がなくなったら世界は真っ暗なんだべ。だから、な」
 彼はそれには何も答えなかった。彼女は身支度をして、弁当の下ごしらえをするために寝室から出て行った。



 お前ばっかりが怖いわけじゃない。
 多少の苛立ちを含みながらそう思い、うつぶせに枕に顔を、金色の前髪を埋めた。彼女の髪の香りがした。東に面した窓の向こうが葡萄色に変わりゆくのを、寝返りを打った視界の脇に見た。もう朝が来る。あと7日で、その日がやってくる。




 彼の胸の中、馴致された金色の獣が、彼女の手を求めて寂しげな遠吠えを発していた。もうお前を傷つけたりしない、お前を守るから、だから撫でてくれと切々と訴えかけるように。彼女と言う月の、光を切望して。
 
 力を与えてくれるその月の光を求めて、狂気染みた歓喜を与えてくれるその月の光を求めて。






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