このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Luna2







 「じゃあ明日は昼くらいに悟飯ちゃんと武天老師様のところに出かけるんだべな」
 「おう」
 「おらは行けねえけど宜しくお伝えしてけろ」

 しどけなくまだ熱気の残った裸身を白いシーツの上に折り重なるように晒して、夫婦はそのような会話を楽しんでいた。ひと勝負終えた後の、この気だるいような、静かな、でも何かしらの期待に満ちた時間が妻は好きだった。まだ寝ないで、と言外にねだりながら交わす言葉の甘やかな、響きにもならないような幽かな響き。それを時折遮るように啄み(ついばみ)合う唇。乾いていきながらも、戯れに指を滑らせるごとにまた温かな湿気を満たす肌。それらを感じながら互いの再びの昂ぶりをじっと観察し合うような、この時間が。

 寝室は天窓から入ってくる白い月明かりが白いシーツに反射して、違和感を感じるほどに明るかった。
 「満月だべかな」
 「満月じゃねえな、少し足りねえ」
 夫は幼い頃からの習慣で、月の満ち欠けには敏感だった。満月の晩に現れると彼が養祖父にさんざん言い聞かされてきた化け物の話のせいだ。初めてその化け物に養祖父を殺されたときの話をしてくれたのはいつだったろうか。このような晩の寝物語だったかもしれない。いつもとは違う、低くこもったような声で、胸板にぎゅっとこの頭を押し付けられながらだった。
 だから、満月の晩だけは、早く寝よう。
 その、どこか哀しげな言葉に胸を衝かれながらも、ひどく嬉しかったのを彼女は覚えている。見せてくれた心の深淵は、当時まだ再会して間もなかったこの夫への理解の糸口になってくれた。表に見せる明るく無邪気で暢気なばかりではない、孤独に絶え入る幼子の顔。他の人にはけしてのぞかせない、月の裏側のように。
 そしてその言葉に、結婚してからずっと従ってきたのだった。じゃあ、明日は満月だし、早く帰ってきてな、と囁いた。

 「本当におめえはじっちゃん家行かねえのか」
 「だって村の用事があるもの」
 ちぇ、と夫がつまらなそうに唇を尖らせた。親子三人で行きたかったとか、じっちゃんも喜ぶのにとか、お前だって懐かしいだろうにとかそんなことをぶつぶつと言っている。その表情がいとおしくて、そっと頭を枕から持ち上げて頬に唇を寄せ、背に絡ませていた腕に力を込めると、夫がひとつ微笑んで体重を預け前髪を指でゆるく梳き上げてきた。顕れた白い額にひとつ唇を落とし、そこからこめかみ、まぶた、耳朶へと。そこが特に感じる妻の反応を愉しみながら、本格的に再びの行為に没頭を始めていく。

 その誘いがいまどき珍しい郵便で来たのは一週間ほど前のことだった。師弟の間柄ではありながら5年も特に音沙汰の無かった互いに遠慮するかのようなその手段だったが、かつての同門で集まろうという内容に夫は顔を輝かせて、珍しく自分で筆を取って葉書などしたためたものだった。電話でもよかったのだが夫は電話と言うものが基本的に嫌いな人だったから。夫は一人が長かったせいか自分から他のものに働きかけようとか会いに行こうとか言う欲求が稀薄だったが、けして世間を疎んじているというのでもない。普段顔をあわせる村の老人たちとはそこそこ上手くやっている。
 自分が夫の師匠の家に行かないのは本当に村の用事もあるからだけど、夫にゆっくりと再会を楽しんで欲しいのもあったし、なんだか自分だけが疎外感を感じるような予感がして気後れするからである。かつて幼い頃の夫と一緒に旅をしたあの綺麗なひとにつまらないやきもちを焼くのも嫌だった。そりゃあの家は自分にとってもかつて出会ったばかりの夫と訪れた思い出の地ではあるが、今回はいい。
 その判断に、のちにどれだけ後悔するかも知らず、そのときはそう思っていた。雲に乗れなくなったから、それがどうしても言いたくない本当の理由だったとしても、夫にしがみついてでも着いて行くべきだったのに。


 ひとつのどを仰け反らせた。振り乱して顔にかかった髪を急いだ手つきでかき上げる間も無く、間断の無い愛撫に反応してしまう。その足首を掴み、身体を開かせながら、不意に夫が熱っぽい声で言った。顔は影になってよく見えなかった。

 「おめえ、月みたいだ」

 言葉の意味を斟酌する間も無く、身体を貫かれた。肩越しに見上げた天窓に、ほんの僅か真円に足りない月がぽかりと浮かんでいた。いつも満月に近づくごとに激しさを増してゆく夫の欲望に、全身で応えてゆく。
 先日5年目の結婚記念日を迎えた。子供も4つになり寝室も分け、ある程度手がかからなくなった。そのうち、夫が望むようにもうひとり作って、慌しくも幸せな日々に追われるのも良いのかもしれない。修行のあいまに子供たちの世話を焼き、困ったような幸福そうな笑顔を浮かべるだろう夫。下の子の出現に戸惑いながらも、兄になったという自負に顔を輝かせるだろう息子。ちょっとはしっかりとしてくれるようになるかもしれない。そう、大変だろうけどそんな日常も悪くない。そんな日常が、続いていくものだと思っていた。







 夫と子供が帰ってこない。夕食を馳走になっているのかもしれない、と思いつつ一応帰ってきて彼らが食べられるだけは用意した。冷蔵庫にしまって自分だけ、一人の食卓でそれを口にする。新婚の頃夫が修行で家を空けていたときは一人で食べることもあったが、子供が生まれてからはそんなことは絶えて無いことだった。ひどく心細く、味気ない心持がした。
 どうしているのか電話をかけようかどうしようか悩んでいるうちに、夜も更けてしまった。時差があるから、今から電話をかけてもあちらではより遅い刻限になってしまう。昨日早く帰って来いと言ったのにどういうつもりだろうか。いつもより楽な後片付けを済ませ風呂にいつもよりのんびり漬かり、いつも夫が匂いを嫌がってできないマニキュアやペディキュアを塗りつつドラマをいつもの習慣で見ながらやたらと腹が立ってきた。そうこうしているうちに晩のニュースショーの時間になり、日付が変わる頃の猥雑な深夜番組の時間になる。ため息をつきながらテレビをぶつりと消し、突っ掛けを履いておもむろに外に出た。
 「なにが満月の晩の化け物だべ」
 5月も終わり近く、すっかり葉桜になった木の下にしつらえたベンチに腰掛けてひとりごちた。構えてから5年を経た我が家の白い丸屋根の上に、これまた白く丸い、飴玉のような月が浮かんでいる。満月を眺めるのは久しぶりのことだった。長く月は失われていたし、結婚してからは夫に付き合ってゆっくり見上げたことなど無かったから。
 夫の言う化け物の存在をまるごと信じていたわけではない。もし今そんなものが現れても、夫が何の苦労も無く倒してくれるだろうという信頼もあった。今ここにそれが現れて自分に襲い掛かってきたとしても、何とか逃げ切れるだけの自信もある。そんなものにこの平穏な幸せな暮らしを踏み潰されてたまるものか。
 結婚してからと言うもの夫はまるで働こうともしなかったが、それを許してきたのは修行を続けなければ夫の宿敵にいつか彼が殺されるかもしれないという恐れからだった。強く、もっと強く。自分を置き去りにしてもそう燃え上がる夫の願望をそのような気持ちで許してきたのだから、そんなよく分からない化け物などになおさらやられるようでは困る。まったく、あの夫ときたら。
 まだ腹は立っていたが努めてそれを鎮めようとした。こんなつまらないことに腹を立てているから、あの雲にも乗れなくなるのだ。だから夫も、こんな自分から解放されて羽を伸ばしすぎているのに違いない。
 故も無い自虐だったが、それはそれに気づいた日から彼女の心の中に巣食ってしまった小さな魔物だった。そのように濁ってしまった己の心を密かに呪いながらため息をついて改めて月を見上げた。なにかそのとき、遠くで立て続けに地鳴りがしたように感じ、月から目を外して辺りを見回そうとした、その刹那。

 月が一瞬、数倍にも膨張したように見えた。視界が白熱して思わず目を覆うと、風が天から吹き降ろしてきて彼女の洗い立ての髪を嬲り、葉桜のピンクの蘂をばらばらと落とした。恐る恐る目を開けて光に焼かれ暗くなった視界で再び空を見上げた。しかし、そこにはさっきまで確かにあったはずの満月がなかった。
 よく晴れた晩、覆い隠すような雲の一片も無い。なのにそこには、真っ暗な闇が広がるばかりだった。先ほどまで周りを青白く照らし上げていた光はなくなり、地上はおもむろにさっきとはまるで違う闇に放り出されたようだった。どこかでなにか、異変に気づいた鳥たちのぎゃあぎゃあと騒ぐ声がし出した。
 急に恐ろしくなって、彼女は家の中に駆け込んで急いで鍵を閉めた。一人きりの家の中、酷く鼓動がうるさかった。例の、化け物なのだろうか。しばらく耳をすましてみたがそれらしき大きな足音はしなかった。夜中だったが実家に電話をかけ、眠り込む前だった父親に明日来てくれるように頼んだ。表向きは父親の飛行機で夫と子供を迎えに行くためだったが、なにかひどくいやな予感がした。その晩は、居間のソファでいつでも逃げられるように支度をしながらうとうとと夜を明かした。



 そしてその予感は的中してしまった。








 闇の中で、なにかひどく遠いところからゆっくりとした老人の噺が聴こえる。内容はわからないものの、なにかのおとぎ話を語り伝えるかのような調子で。
 潮騒の音がしていた。新婚旅行で行った先の宿のような。だんだんと光が…赤いような光が硬く閉じたまつげのさらに先から漏れこんで、視界を緩やかに赤暗く染め上げてきた。でも、昨日あまり寝ていないせいもあってまぶたは持ち上がらなかった。
 身体に力が入らない。なにか額の上に冷たいものが乗っているのは分かる。なにもかも、よく分からなかった。ひたすらに暗い澱(おり)が、意識を埋めていくようだった。感じる事実は、その隙間を縫って時折水面に細かにたどり着く泡粒のようだった。

 「…というわけじゃ」なおも続いていた老人の声が、その言葉とともに一旦途切れた。
 「そんな」父親のものらしい、太い低い声が割とそばからした。「悟空さが、…宇宙人だったなんて」
 「思えばいろいろとおかしなところもありはしたがの」
 
 聞いた事実は心の上をただ滑っていった。ただ、その名前が彼女にとって大事だったので、意識はそれだけを掴もうと指を伸ばし、それに吊られるようにまぶたが徐々に開いていった。開いたまぶたに、夕焼けの光がいきなり飛び込んできて、彼女は思わず腕をかざして身をよじった。
 「チチ!」
 脇から父親の毛むくじゃらの太い腕が伸びてきて、起き上がろうとする彼女の背を支えた。「よかった。おめえ、もうずいぶん倒れちまってたんだ」
 「気分はどうじゃ」
 父親の肩の向こうから、厳かに作ったような声がした。逆光で、禿頭に海に沈もうとする陽光が反射し、ひどくまぶしかった。が、彼女は目を細めながら、必死にそのひとの顔を見た。派手なサングラスの奥の目を、そのまなざしを、必死につかまえてさぐろうとした。家には彼女たち3人だけだった。父親が、ブルマとクリリンは仲間を集めに行ってしまったのだ、などとなにやら現状の説明をしているのだがまったく耳には入らなかった。
 「…帰ってゆっくり休むがええ」
 白髭の下から発せられた言葉は、なにもかもが現実であることを厳然と宣言するに等しかった。







 
 1日、2日は父親の城で養生させられていたのだが、彼女の家にある、夫が集めていた宝珠と如意棒を譲り受けたいと言われ結局は家に帰ることになった。夫の仲間たちが訪れ来たものの、その事実もよく覚えていない。なにもかもが、まだ暗い澱の中のようだった。
 明かりもつけない家の床には、突如として消えた者たちの所持品が散乱している。主婦として毎日嬉々としてこの家を整えていたという事実そのものが遠いまぼろしのようだった。家の外の菜園や花壇はたちまちにして荒れ果て、季節の長雨に打たれながら腐っていく哀れな姿を晒していた。まるで身篭った頃のように、ひたすらに眠く倦怠感がひどい。ものをまともに考えられない混濁の中で、ひょっとしたらそうなのかもという期待めいたものが一時期生まれはしたが結局は違っていた。
 朝遅くに起きてとりあえずなにかを口にし、あとは居間の絨毯の上で横になって過ごす。時折思い出したように表にさまよい出て、息子を探しに行こうとする。それを父親か近所の人にとどめられてなかば錯乱しながら家に戻され、そのうち疲れて眠ってしまう。最初の頃はそのような毎日だった。近所の人や父親が気遣って様子を見には来るものの、彼女は子供の部屋も寝台も、もちろん自分と夫の寝台もかたくなに使わせようとはしなかったので、泊り客は居間で夜を過ごすことになった。そのうち医者が呼ばれて、一時的に入院が検討されたが、どうしても家にいないととごねる彼女を憚って自宅療養と言う形に落ち着いたのだった。
 
 3,4ヶ月ほどそのような生活が続いた。それはまったく長くてひどい、たまらなく暑く、きちがいじみた蝉の声の煩い夏だった。週に一度、決まった曜日に医者が呼ばれ彼女を診て行く。彼女は自分がおかしくなっているということは十分に承知していたので、一応ちゃんと食べ薬も飲む、素直で優良な患者だった。ちょくちょく隣の老婆やその夫が食べ物を携え彼女を訪れた。事の真相は彼らにちゃんと告げられる事はなく、表向きには2人とも戦いの挙句に行方知れずになっているということだけ伝えられていたのだったが。
 父親は娘である彼女の面倒見と、行方知れずになった孫の捜索、そして自分の仕事とでやつれ疲れていた。それでも父親はけして彼女を息子探しには行かせようとしなかった。秋に入る頃には、薬の効き目もあってか、一時期の悲惨な有様からは彼女は抜け出したかに見えた。そして、秋が過ぎ、年が変わり、ひとりの寒い冬が過ぎていった。

 彼女は、そこで「待つ」ことを選択したのだった。





 待って、待って、待ちわびた末にその電話が入ったのは、当人のいない、息子の5歳の誕生日が間近に迫った日のことだった。桜にはまだ少し早い、春の昼下がりのこと。電話を切った後に、彼女はいくつか瞬きをして、しっかりとした足取りで靴を履き表に出た。途端、つい今までうららかな陽の光を満たしていた青空が真っ暗に暗転した。
 村の畑のそこここで、異変に驚き悲鳴を上げる年寄りたちの声がしだした。
 「チチさんっ」たまたま近くの畑にいた隣の老婆があわてて駆け寄ってきた。「まあまあ、なんだろうねこれは!前にも1回か2回こんなことがあったけど…!でも心配ないよ、ばあちゃんがついとるからね。落ち着いてね、落ち着いてね。家へ入るかい」
 自分を守ろうと背中を抱いてくる老婆の細い腕を彼女は優しく取った。この一年弱、どれほどの迷惑と心配をこのひとはこの腕でやさしく受け止めてきてくれただろうか。真実をなにもかも話すことができないのが何よりも心苦しかった。でもそれでも話せなかったのは、このひとの前ではあくまでも普通の家族でありたかったからだ。きっとなにもかもが元通りに戻った後、それまでとなんら変わらず接してくれる身近な人が欲しかったからだ。夫の仲間たちにはそれははなから期待していないことだ。
 「ばあちゃん、ありがと」彼女は微笑んだ。「おらもう大丈夫。旦那がもう帰って来るんだ」
 「連絡があったのかい」
 「ううん、…あ、いや、そんなもんだな」要領を得ないような顔をしている老婆の顔を、再びさっきまでとなんら変わらぬ陽の光が照らし上げた。「あの馬鹿亭主、ひとに散々心配かけておいて。帰ってきたら一発ぶんなぐってやるだよ」
 一瞬きょとんとした後、老婆が明るく笑った。「そうだねえ、そうしておやりな。ああ、すっかり明るくなった、なんだったんだろうねえ。肝が縮んだよ。休憩がてらちょっとお茶でも呼ばれて構わないかい」
 「ええだよ。何かピアノの一曲でもおつけするだ」
 友人同士は笑いながら家に入っていった。すっかりまた温かく整えられるようになったその家に。「この家にいつか帰ってくる」その希望をよすがに、再び整えられたその姿は、彼女の心そのものに他ならない。



 



 「あなたね、ちょっと酷いんじゃないの」
 真夜中、手術室前の静か過ぎる廊下に声が静かに響いた。硬い長椅子の隣に腰掛けたその人が、タバコを灰皿に押し付けながら彼女を睨みつけてきていた。
 「なにがだべ」廊下には二人きりだった。彼女の息子と夫の親友は今別室で手当てを受けていて、夫の師匠はそれに付き添いながら入院の手続きをしてくれている。仙猫とその従者は久々の下界に買い物に出ている。彼女の父親は今師匠の家の留守番からこちらに向かっているはずだった。
 「孫君のことに決まってるじゃないの。いくら息子可愛さとは言え酷いわよ。皆呆れてるわ」

 「一発ぶん殴られなかっただけでも有難いと思ってるだ、悟空さも」
 ちょっと考えた後に彼女はそう言った。

 本当は、殺してやりたいとすら思っていた。あの意識の澱の中、どれほど夫を嘘吐きとなじっただろう。死なない、守ってやる、と一緒になったばかりの頃に約束したのにと、どれほど詰め寄ってやりたかっただろうか。約束を破って、自分を危険に晒すならともかく、いとしい息子を守ることもできずに。すぐに蘇って、息子をあの大魔王の手から取り戻すこともせずに。あまつさえ、たどり着くのが間に合わない間に、息子を戦わせ傷を負わせるような真似をして。
 自分がどれほど、生き返るのを待っていたかも知りもせずに、修行に明け暮れて。どれだけ、抱いて心の闇を払って欲しかったかも知りもせずに。
 自分が月ならあの人は太陽だ。この1年弱、何者も、どんな薬もこの闇をぬぐうことはできなかった。そばにあの人と言う太陽が無ければ自分はきっと永遠に朔月(ついたちづき)なのだろう。自分を悪夢のようなこの闇の日々から本当に覚めさせてくれたのは、皮肉なことに、あの人が蘇るしるしであるあの闇だったのだ。



 まだ眉をひそめて何か言いたげな傍らの女に一瞥をくれて、彼女は続けた。
 「子供もいないおめえには、わからねえだろうな」
 我ながらひどい言い方だとは思ったが、彼女は会話を切るように、祈りの形に組んだ両手の上に額を乗せた。壁の時計を見上げた後で。子供の治療に付き添わず、今ここであの人をじっと待っている、それが何よりの証立てではないのか。
 その彼女の様子を見て唇をかんだ後、女は立ち上がって廊下の少し先の自販機でカップのエスプレッソを購った。ひとつ買った後で彼女に、あなたもいる?と呼びかけてきた。
 彼女はかぶりを振ったが、女はそれでも2つのカップを手に帰ってきた。
 「ごめんな」彼女は詫びた。
 「ううん」女は頭を振った。「気が向いたら飲んでよ。まだまだ、下手したら朝までかかるんだから」

 そこに治療を終えた一団が帰ってきた。彼らもここで待っていることを望んだが、もう夜も遅いし病室で休ませることにした。包帯をそこここに巻いた息子の手を取りベッドに横にさせながら、彼女はまた息子の身体をぎゅっと抱きしめた。
 夕闇の中飛ぶ一機の飛行機の中みつめていた、葡萄色の水平線に沈みこむような白く丸い光。それが、どんなに希望の光に思えたことだろうか。夫が自分にとって太陽の光の部分と例えるならば、この子は自分の体温の一部、いや太陽のあたたかさの部分だ。文字通り血を分け与えて育ててきた子供のぬくもりが、身体に染みとおってゆく。
 しがみついてくる息子の身体は、別人のように逞しくなった。あの可愛らしい尾ももう無い。けれど、間違いようもなく、いとおしい息子その人だ。
 しばらくの抱擁ののち、看護婦に促されて母子は離れた。部屋の明かりが落とされ、彼女は夫の師とともに、またあの廊下へと戻っていった。この師も、また時折病んでいた彼女を気遣って訪れてくれていた一人だった。窓の外には、また月を失ってしまった世界の、その中心のひとつの明かりが重たげに闇のそこにたゆたっている。



 早く、顔を見せて、自分と言うこの月を照らして。
 怒っているけど、とても怒っているけど、それでも自分はあなた無しではいられないのだから。

 そう思いながら、祈りながら、彼女は椅子に掛けて冷めかけたカップを口にした。その黒く、闇の澱のような、狂気の権化のような苦い液体をちびちびと飲み下しながら、そのたびに祈っていた。



 ひととせ近くの恨みと憎しみと愛を、どう伝えたものか悩み迷いながら、長い、長い夜をこめて。








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