このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
ブログの本体はこちらになります。あとがき・もくじもブログのこのページになります。よろしければ、WEB拍手小説投票で感想をお寄せください。


Warm2





 ひどく寒かった。ごつごつとしたものが顔に当たる。背中に何か重いものが乗っている。
 むき出しの腕を冷たい風が渡り、冷たいものがしっとりと濡らしていく。

 夢の中で子供は両親に寝ぼけながら訴える。
 おとうさん、腕重いよ。
 おかあさん、布団をかけて。窓開いてるよ。ボク風邪ひいちゃうよ。
 ぎゅっとして、いつもみたいにぬくめてよ。

 おとうさん、おかあさん。







 まぶしい金色の光がまぶたの隙間から唐突に眼球を打って、悟飯ははじかれたように意識を取り戻した。うつ伏せになっていてそっと持ち上げた顔に、5月の朝露が横たわっていた場所の土と混じって跡を残していた。手で無意識にそれを払っているうちに、だんだんと意識がはっきりとしてきた。小さな頭蓋の中の脳が回転を始める。
 ここはどこ?
 それにはすぐ答えが出た。昨日ピッコロという人に連れてこられた、どこかの、砂漠に囲まれた荒野。
 でも昨日は高い岩の上で寝たはず。なんでこんなところに?まわりは砕かれた山などでひどい有様。何が起こったんだろう?
 その問いには答えが出なかった。不安げにゆっくりと吸った息は薄い朝霧を含んで肺に重かった。体も重く、節々が痛かった。なんとなく夢の中でとてつもない高揚感と解放感を感じていた気がするのだが。でもとりあえず折れたりはしていなさそうだ。
 周りはしっとりと重い白の中、差し込む金色の光がゆらゆらとたゆたって、へたりこんだ膝に熱さと共に鮮やかさを投げかけている。周りをゆっくりと見回した。家の周りに似ているようで、似ていない静けさ。ところどころうかがい知れる植物は、明らかに家の周りとは違うもの。裸子植物の巨大な古風な影が山の間ところどころに物静かな巨人のように立ち尽くしているのが見えた。周囲は恐ろしいまでの静寂だった。
 「おとうさん」
 静けさに耐え切れずとりあえず呼んでみた。恐る恐る。するとどこかで鳥の飛び立つ音がした。鳥と言うよりは翼竜に近いような声。人の声はない。
 「おかあさん!」
 もっと大きく呼んでみた。どこかでイヌ科の動物の鳴く声がした。がらり、と何かが岩を踏む音が少し遠くでした。一瞬胸がときめいたが、それは聞きなれた母親の足音ではなく、4足の大きな動物の草を踏む音。
 だんだん近づいてくるような気がする。「いやあ!」悟飯はあわてて立ち上がって駆け出した。
 がしゃがしゃと何かが背中でうるさい。2分もしないうちに転んでそれが肩口から少し滑り出た。顔の横に突き出た握り手を持って引き抜いてみると、それは小ぶりの剣だった。なんだかわからないけれどとりあえず押し寄せてくる恐怖にそれを両手で持って半ば引きずるようにしながらまた早足に歩き出した。どきどきと胸が、急激な運動と恐怖に轟いているのが分かる。なんだかひどくバランスが悪い。それは昨日まであった尾を失っていたからだったが、今の彼にはそれを悟る余裕すらなかった。
 どこへ走るの?どこなら安全なの?どこに行けばいいの?家に帰れるの?
 苦しい呼吸にうつむいた目に、山吹と紺の服が映った。はっと目を見張ったがそれは己の着ているものだった。なんだ、父親に抱えられていつも見ていたあの服かと思ったのに!
 たしっ、たしっと少し離れたところから追いかけてくる4足の獣の足音。いつしかそのリズムに合わせるように目から涙がこぼれ出ていた。鼻水が息を詰まらせる。のどを上げて振り向くと、霧の向こうにはっきりと狼のようなシルエットが見分けられた。三角の美しい耳がぴったりとこちらをうかがっている。銀色の荘厳なような毛並みが霧の中金色の曙光をうけていやに神々しかった。
 写真で見たならばその姿に感嘆の声をも漏らしただろう、が、今はそれは死の使いに他ならない。それくらいは幼い悟飯にも容易に察せられた。
 「来ないでよ!」
 木にしがみついて無我夢中で登った。前に父親がこっそりと教えてくれようとした木登り。そのときはてんで上手く出来やしなかったが、剣をひっかかりにし樹皮に爪をかけるようにして無我夢中に一つ目の枝まで登った。相手はイヌ科だから簡単には木には登れないはず。そうであってほしい。後ろで足音がスピードを増した。生臭い口が危うく靴をかすめた。飛び上がるようにして身体を枝に持ち上げた。があ、と相手が悔しげな唸りを発し、思わず振り返った目にその口の中の真っ赤な濡れ濡れとした色が映った。のどの奥にぽかりとあいた黒い穴まで容易に覗けるほどに大きく開いた口の中、ぬめった歯列が何度も跳びかかってくる。
 「来ないで!食べないで!」
 父親と山歩きをして何度か目にした光景が蘇ってきた。獲物を食らう獣の姿。そのときは父親に抱かれ、おそるおそる指の隙間から伺うだけだった。父親はぎゅっと自分を抱きしめながら言ったものだ。
 『あいつも腹減ってんだ。食べないと死んじまう。だから必死になって食べてるんだ。わかるよな?』
 そのときは素直にうなずいた。本で知った食物の連鎖の流れを目の当たりにし、世界の深遠を悟った気になっていた。
 『とーちゃんだって、ああいう風にして獣を捕まえていっぱい食ってきた。悟飯はかーちゃんの料理を食ってるから違うと思ってるかもしれないけど、人間だって食ったり食われたりの内に入ってるんだ。だから山は危ない。絶対ひとりでウロウロしちゃ駄目だぞ、おめえは弱い子供なんだからすぐ食われちまうから』
 ひとり。
 思い出したその言葉に心が刺され涙があふれ出た。
 おとうさんが助けに来てくれない。おかあさんもきてくれない。ボクは今本当にひとりなんだ。ひとりでどうすればいいの。
 『なにもせんでいい、生きろ』
 冷たいまなざしが背筋からひらめくように脳天を駆け抜けた。足の下で、柔らかい子供の肉を狙って必死に樹に爪をかけようとしている獣の必死の形相。食べないと死んでしまうからそれこそ必死に。でもこちらだって生きなくてはならない。生きたい。死にたくない。あんな肉塊になって食われるのは嫌だ!食われる動物の何も写さないうつろな眼が心の中に絶大な恐怖の形として蘇ってきた。
 「来ないで!来たら、これで刺すからね!痛いんだから!」
 わめいて両手でぶらんと下げた剣を獣にむける。獣は一瞬ひるんだがなおも跳躍を繰り返す。悟飯は剣を闇雲に振り回した。その切っ先が獣の眉間を打った。悲鳴を上げ、血が僅かに飛び散った。しばらくウロウロと樹の周りを回っていた獣はおもむろにきびすを返して去っていった。その跡に点々と血が草を汚していた。
 悟飯はまた泣いた。はじめて他のいのちを刃で傷つけたその手の感触の余韻に。霧が晴れて、樹の葉を朝の光がぎらぎらと金色に染め上げていた。これが4歳になったばかりの彼にとっての、はじめてのまったく「ひとり」での朝だった。





 1日目はそのように明け、その日はその樹の周りから恐る恐る剣を下げて歩きとりあえず水を探した。飲めそうな水は少なかったがとりあえず少し高いところ、狭い岩場の間に泉を見つけて渇きを癒した。羊歯と苔に覆われた岩の隙間に身を横たえられそうな空間を見つけたのでそこでうずくまって身を休めているうち、生水に腹がやられひどい腹痛に襲われた。泉と岩の隙間から離れた場所に用足しの場所を定めた。なにかの本で読んだ動物の習性を思い出したのだ。この排泄物のにおいに惹かれて何か危険なものが来るかもしれないし、水源を汚してはいけない。だから少しねぐらからは離しておかないといけない。
 水をどうしよう。ひどい腹痛と寒気の中で考える。沸かさなければだめなのだろうか、でもそれには火が要る。獣除けのためにも火は必要だ。
 痛む腹を堪えながら落ちて乾いた羊歯の葉や木の葉、枯れ枝などを集めた。父親が石を打ち合わせたり木を擦り合わせたりしてごく短い時間で火を起こしていたのを思い出しつつ試みたのだが、それは悟飯にとってひどく悪戦苦闘を強いられることだった。いつか読んだアウトドアの本の知識を加えながら試行錯誤しやっと火がついたときにはもう夕方で全身汗だくでひどく空腹だった。しかし食欲がないのでその日は何も食べなかった。
 たきつけにした葉はまだしけっていて煙がひどかったが、かえってこれが目印の狼煙になるような気がして安心した。ひょっとしたら探しに来た親がこれを見つけてきてくれるのではないかと。
 水を沸かそうとしたが入れ物がないのでどうやって沸かせばいいのかわからない。悩んだ挙句大きな肉厚の植物の葉に入れて沸かしてみて何とか大丈夫だった。下痢のときにはまず水分を取らないといけないから、空腹を満たすためにもとりあえず何回も沸かして飲んだ。火を見張るためにうとうとと浅い眠りにつく。脇の泉からはじまる小川がさらさらと水を流すのを聞きながら。ただひとつのことを思いながら。

 死にたくない。たすけて、おとうさん、おかあさん。


 2日目の昼過ぎにようやく腹痛が治まり、また剣を手に今度は食べ物を探しにさまよい出た。暗いグレーの曇り空だった。家より緯度が低いところらしかったが標高が高いのか肌寒く、少し悪寒がして足元がふらつく。やっと食べられそうな実を見つけて、また必死に木に登って貪った。美味しくはなかったが少し甘いそのみずみずしい果肉が今まで食べた何より美味しいものに思える。途中また別の獣に出会ったが剣を構えてどうにかやり過ごした。
 3日目は熱を出した。昨日余分目にとってきていた実をかじりながら岩の隙間にうずくまって過ごした。柔らかそうな羊歯の葉などを下に敷いてせめてもの保温にした。ひどい空腹が襲ってくる。時たま実の殻にためた湯冷ましをすすりながらうとうとと夢を見る。幼い呪詛に満ちた夢を。

 この3日間で父親については諦めがつきかけていた。初めの日は動転していて父親が死んだということを半ば忘れかけていたが、やっと心が理解できたのだった。あの自分にとって叔父と言うおそろしい人と父親との戦い。宇宙船の中に聴こえてきた父親の断末魔に近い悲鳴。自分にとって絶対の、最強であった存在の父親があんな目にあわされているなんてとがくがくとあの時は宇宙船の中で震えていた。何がどうなったのか分からないが父親はそれで死んでしまったのだ。あんなに毎日一生懸命修行をしていたのにそれでも敵わなかったのだ。父親は自分が物心ついたときから、ほとんどそれしかしてこなかったような人なのに。本人や母親からは聞かなかったけど、祖父からはよく父親がどれだけすごいかとよく聞かされそれを信じきっていたのに。
 なぜあの叔父よりもっと恐ろしいものと、一年後、よりによって自分が戦わないといけないのか。自分は確かになにやら物凄い力を持っているらしいが、そんなのこうして生きていたって何一つ実感出来やしない。下げている剣だってろくに扱えやしない。むしろ引きずって歩いていてしばしば足を傷つけるほどだ。
 なんでこんなことになってしまったのだろう。4歳児は精一杯に己の運命を呪った。これから自分がどうなってしまうのかまるで見当がつかなかった。大方の予想ではよくても一年の後その叔父の仲間とやらにあっけなくやられてしまう。そうでなくたってこのままでは…と改めて思い至ると、また涙があふれ出てきて顔の下の岩をしとどに濡らした。
 それもこれも自分が父親の子で、サイヤ人とか言う宇宙人の血を引いているからなのだろうけど、そんなの全く今まで知らなかったことなのに。父親だってそうだ。まったくそんなこと知らずに地球人として自分たちと幸せに暮らしていたのに。あんな悪い宇宙人じゃなくて、誰よりも優しくておだやかな人なのに。なんでずっと忘れたままでいてくれなかったのだろう。ずっと弟である父親のことをほったらかしにしていたくせに。
 父親の孤独な生い立ちについては聞いたことがあったし、ごく稀に父親がそれについて寂しそうな顔を覗かせることもあった。でもその分父親は死んだ養祖父や自分たちに家族として限りない愛情を注いでいた。それこそ甘やかしすぎるくらいに。あの温かいたくましい胸板が無性に恋しかった。抱きしめてくれる太い腕が無性に懐かしかった。

 こんな運命を与えたのは実際その父親に他ならなかったのだが、悟飯の胸に湧いてくるのはむしろ父親の抱いているであろう同じ気持ちへの憐憫めいた共感だった。なにより父親自身が一番ショックだったのではないか、と。それを想うと今は黄泉の国にいるであろう人の気持ちに、我がことのように胸が痛んだ。でも一方、「嘘つき」とひそかに唇を噛まないではいられなかった。絶対に守ってやると言ってくれていたのにと。
 母親だって、自分に絶対武術なんかさせないと、危ないことなんてさせないとあれだけ言っていたのに。なぜ来てくれないのだろう。理屈ではまだ3日だから見つけられないのだろうと分かってはいるのだけれど、感情が伴わない。熱が上がってきたらしくひどい悪寒がして悟飯は自分の腕で自分の肩を抱きしめた。その腕は情けないほどに細く頼りなげだ。ちらちらと岩の隙間の前で熾き火になって赤い名残を焦らしていた火が、ふっと光をあっけなく失う。
 また火をつけなければいけないとは思うものの、体が動かなかった。一人になってからまともに眠っていない。眠いのに神経がひどく苛立って眠れない。際立っていく疲労が胸元で激しい渦を巻いて、力を散らしていってしまう。失ってしまった尾がそれでもたしたしと苛立たしく地を叩こうとする。実際にそうできなくて余計思いが募っていく。

 寒い。
 おかあさん、早く来てよ。
 柔らかい腕で、ふかふかの胸に抱きしめてよ。
 早く来てくれないと、ボク死んじゃう。今に死んじゃうんだから。そしたらおかあさんとっても哀しいでしょう、だから早く来て。
 
 漏らした嗚咽がぜいぜいとのどに痛い。ふるふると声も無く唇がわななき続けるそばを静かに涙が伝っていく。もう獣に聞きとがめられることを思って大声で泣き叫ぶ事はなかったが、この隙間に横たわるともうひとりでに涙があふれてくるようだった。こんなじけじけと苔にしけった空間はもう嫌だった。家の温かくお日様のにおいのする布団で眠りたい。暖かいお風呂に入りたい。自分でももうすでに嫌なにおいがしだしていると思う。
 日常とはいかに有難いものだったのだろうか。文明に守られた生活がいかに楽だったものだったのだろうか。そして親がその生活を維持してどれだけ自分を守ってくれていたか。詰まった鼻に苦しくなってきた息の下でぼんやりと考える。誰にともなく祈り願う。いや、あの緑色の恐ろしいひとをまぶたに浮かべながら。神様はまだ見た事はなかったが、そのものが神様と表裏一体の存在と言う事は父親に教えられていたので。

 お願い、いくらでもいい子にします。だから家に帰してください。あの生活に戻してください。



 そのように祈りながらそのまま熱に浮かされ3日が過ぎた。祈りは聞き入れられる事はなかった。いつも風邪を引いて熱を出したときに優しく額を撫でてくれた母親の白くたおやかな手はない。あるのは死にいざなう冷たく熱いものの掌。最初は気軽に死んじゃう、と口に出来たその深淵がだんだんと足元を切り取ってしまおうと待ち構えている。そのように眼前に現実のものとして迫った死はのど笛を噛み切られ血泡を吐いてうつろな目をしたうさぎの骸の姿をして、ゆれる脳の中に間断なく「死」という字を映し出してまたささやき続ける。それと交互に目に浮かぶのは、生きろと命じるあの冷たい眼差しだった。
 死の影を忘れるため、やがて幼子はその人の面影とその言葉をを努めて思うようになっていった。甘やかして優しく抱いてくれた父母のことよりも。





 食べなければ死ぬ。
 脳裏に響くその人の言葉が命じるまま、その思いだけで、一人になってから1週間目、熱を出したままながら動き始めた。手足に力が入らないが、自分を叱咤してとにかく力を搾り出す。体の奥底から力を搾り出す。鞘に入れたままの剣を胸に抱え、半ば杖のようにして歩いた。そのようにしてじわじわと開けられていくみずからの力の源に気づくことなく。風のひどい暗い日だった。ぜいぜいとなる喉の先、小さな唇が渇きと熱にひび割れて吹きつける風に痛かった。
 弱ければ死んでしまう。
 いつか父親に教えられて、そんなのおかしいよ、と幼い博愛主義をひけらかした自分がとても愚かしく思えた。そうだ、今こんなにつらいのはなぜだ。それは自分が弱いからだ。せめて小さいときの父親のように、野山で生きていけるように強くならなければ。最低限それだけは。そうでなければ、いつか来る助けを待っていることも出来ない。
 いっそのこと死ねば父親と同じ世界にいけるのかもしれないとここ数日寝ている間に何度も死の誘惑が心を優しく撫でたが、やはり死の骸の幻影を思うとあきらめきる事は出来なかった。獣に生きながら食われずとも、野たれ死んでしまえば行き着く先は同じ、血を噴出す肉塊だ。そして腐り虫に食われていく。そんなのは絶対に嫌だった。ドラゴンボールで生き返る事は出来るのかもしれないが、そんな状態になって生き返れるものだろうか。
 分かっている事実はただひとつ、そうなりたくなければ強くなるしかない。生きろ、生き抜け、生き延びろ。全身の血があの人の命令に呼応してそう叫ぶ。それはかつて致命の毒を食らってなお生き抜いた父親から分け与えられた、己に半分流れる呪わしき血の声に他ならない。

 とりあえず沼に入って魚を何とか捕まえた。足を滑らせて何度も溺れそうになった。本や父親の教えの、あるいは母親に山菜取りを手伝わされたときの記憶をたよりにその辺に生えている草を摘む。茹でれば食べられるものも意外とたくさん生えている。
 熱に浮かされながら、食欲もなく味もあまりしないけれどとにかく食べて眠る。食べたものが、自分に半分流れている血の持つ体の働きによってすばやく効率的にエネルギーに変わっていく。数日そのようにしているうちになんとか熱も引いて動き回れるようになった。次第に探索範囲を広げて頭の中にマッピングをしていく。
 自分に向かってくる毒蛇に剣を向け、その鎌首を切り落としたのは一人になって10日あまりもたった頃のことだった。血を噴出してのた打ち回るのをしばらくガクガクと体を震わせて見ていたが、結局それを焼いて食べた。いつも母親に言われる『いただきますってのは、食べ物の元になってる命をいただくって言う感謝の言葉だから、有難く残さず食べなさい』という言葉が胸の中でぐるぐるしていた。剣ではらわたを抜くときには吐き気がした。蛇の胃のなかにあったさまざまのほかの生物の死体。蛇はこれらを食らって生きてきた。飢え死にしないために。でも自分も飢え死にしたくないからこの蛇を食らうのだ。食べ終わった後で、かちりと心の中でなにかの環が嵌ったような気持ちがした。
 血で汚れた手を泉で洗う。水面に顔を映してみる。最後に鏡で見たときとは別人のようにやつれてぼさぼさの髪をした貧相な子供が映っていた。ふっくらとしたみずみずしい頬はかさかさと汚れ、たまった疲労が目の下に隈となっている。好奇心をたたえいつもわくわくと勉学の喜びに輝いていた目は、今はもう日々の糧を得ることしか考えられなくなってしまった。母親がいつもかわいらしいと褒めてくれた尾も失ってしまった。
 こんな子、全然かわいくない。自分はおかあさんがいつも可愛がってくれたような子供じゃなくなってしまった。見つけても、自分だと分かってもらえないかもしれない。それに今日生き物を殺してしまったし、悪い子になってしまったのかもしれない。筋斗雲にももう乗れないのかも。
 してしまった想像に心がひどく痛んだ。だから来てくれないのだろうか、と筋の通らないことを思いかけて頭を振る。そんなはずはない。あれだけ愛してくれていたのに、捨てられるはずがない。こんなに愛しているのに、こんなに恋しいのに。
 おとうさんの言うことよくわかったよ。おかあさんの言うこともちゃんと守る。帰ったらちゃんといっぱいお勉強します。だからボクを見捨てないで。生きて帰ったらちゃんと抱きしめて。ボクのことを諦めないで。

 おとうさん、おかあさん、としばらくひたすらに父母を小さな声で呼び続けた。もうずっと誰とも口をきいていない。言葉をつむいでいないと、自分が人間であることすら忘れそうだった。まだ流れる涙は炎を映してぎらぎらとオレンジ色に頬で輝いている。外はしとしとと雨が降り出していた。
 そろそろ6月、家では長雨の季節に差し掛かるだろう頃。母は今何をしているのだろう。あの家に居るのだろうか。父親は何をしているのだろう。もうドラゴンボールが集まって生き返ってもよさそうなものなのに。ひょっとしたらもうなにかの原因で生き返れないのかも。もう会えないのかも。また悪い方向に働きかけた想像に、みるみる心の力が奪われそうになるのが分かった。
 あわてて心の中にあの人の眼差しを思い返し、今感じられる唯一のぬくもりである火に精一杯近づくようにして涙をぬぐった。もはやその人は悟飯にとって生きる力の源である神のような存在になっていた。母親はいつか帰るべき日々の象徴、父親はあるべき強さの象徴。
 その父親が胸の中でささやく。
 男の子がそんなに簡単に泣いちゃいけないんだぞ。頑張れ、悟飯。
 母親が胸の中でささやく。
 待ってるだぞ、悟飯ちゃん。いつか、いつかかあさんの所に帰っておいで。
 いらだっていた幻の尾が、ふわりと毛並みを取り戻し、ゆったりと落ち着きさらりと空に解けるのが判ったような気がした。

 夜半になって篠つく雨の中、遠くの方で一機のジェットフライヤーが暗い空をスピーカーからひとりの子供の名を呼ばわりながら渡っていく。眠りに落ちたその子供はそれに気づくことはなかった。
 悟飯は知らない。今居る場所が、祖父の城に程近い南の原野の一角であるということを。心を病み疲れて倒れてしまった母親のかわりに、祖父が必死に自分を探し回っているということを。関係機関にも捜索願は出されていた。が、この広い世界から4歳の子供を探し出すのはまさに海底から一粒の砂を拾い出すのと同じことだった。結局11ヶ月の間彼は発見されることなく決戦の日を迎えることになる。








 ねぐらのそばの木に刻まれたしるし…それは彼がかつて読んだ漂流記をまねて日付を記したものだったが…が、そろそろその年の終わりを告げようとしていた。朝起きて、彼はのんびりと恐れなくそのねぐらから歩き出て、上のほうのがけに軽々と登って、生えていた野ぶどうの実を集め木の下で手づかみでむしゃむしゃと食べた。手と口の周りを紫に染めて。
 ふと、その顔に大きな影が差した。いつもの子だ。
 「なんだ、またキミか…こりないなあ」
 ブドウの実を、殻の器から口の中に一気に流し込んで2,3m先に跳んだ。いままでいたその場所を大きな口が掠める。ひょいひょいと逃げ回っておもむろに上空に跳び、がけに突っ込んだ相手の尻尾をすっかり手に馴染んだ剣で切り落とした。気絶から覚めて悔しげに急ぎ去っていくのを笑って手を振って見送って、枯れ木に気で火をつけて炙り始めた。いいにおいが立ち込めてくる。
 恐竜は悟飯にとってはともだちだった。仲良くはしてくれないけれど、ある程度意思が通じてやりあうことのできる数少ない存在だった。いつからか恐れず外を歩くことが出来るようになってから、出会えば今のようなやりとりだったけど、たまに話しかけたりもしている。
 もう半年近くがこの荒野で過ぎた。一月ほどたった頃一度逃げ出そうとしたこともあったが砂漠の苛烈さにすぐ舞い戻らざるを得なかった。舞い戻っておとなしく「その日」を…それはさまざまな意味を含んでいたが…待つことに決めた。開き直ってからは(父親の楽天的な性格を受け継いだせいかそれはかなり早い段階だった)力の使い方のコツがなんとなくわかるようになってきた。剣の使い方も我流で覚えた。根が真面目だし、食べ物探しに慣れてからは割と暇が出来てきたので素振りを繰り返すうちに力もついてきた。いつか父親が見せてくれたのの見よう見真似で気も引き出せるようになった。それは剣にまさる優れた武器になった。
 別に両親が恋しくなくなったわけではない。今だって眠る前焚き火に当たれば自然に涙がにじんでくる。来てくれないことに恨めしい気持ちがないではない。でも泣けば力が失われていくだけだから、無駄には泣かない。父親がいつか言ったように誰かを守るとまではまだいかないけれど、自分を守るくらいはちゃんとできなければ。男の子だもの。
 父親が来てくれないのにはきっと理由があるのだ。母親が来てくれないのはきっと家でその日を待っているからだ。いつか帰った自分をちゃんと美味しい料理と温かい腕で出迎えられるように。それが心の一番安寧な落としどころだった。恨むより信じる、それが彼にとって一番自然な心のありようだったから。


 いい具合に焼けた肉を剣をさばいて上に放り上げると、青空の中に見慣れない緑のものが見えた。
 目が合うと、それはにやりと笑って降りてきた。

 「久しぶりだな、孫悟空の息子。どうやら生き残っていられたようだ」
 「ええ、頑張りましたからね。そろそろだと待ってましたよ、ピッコロさん」

 久しぶりに口を聞いた人間が、落ちてきた肉を弾き飛ばし眼前に立つといきなり軽く打ちかかってきた。悟飯はそれを腹の前で両手であわてて受け止めて、その人をまっすぐ見つめてにっこりと笑った。相手は居心地が悪そうににらみつけた後ひとつ鼻を鳴らした。
 「名はなんと言った。孫悟空の息子では呼びにくくてかなわん」
 「孫悟飯です」
 「これからしごいてやるから覚悟しておけ」
 受け止めてじんじんと痛んで痺れた感覚の向こうに、ほんのりとした温かさが伝わってきた。

 それは半年振りの、悟飯にとって有難く泣きたいくらいに懐かしい、ひとの体のぬくもりだった。







あとがき・もくじ(ブログ)
小説投票
拍手する + 拍手する