このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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Warm





 終業のベルが鳴って大教室の長机から一斉に立ち上がる音がした。昼休憩に入った安堵と空腹を訴える声がにぎやかしく部屋の外へあざやかに流れ出していく。12月はじめになり緯度の高いこのサタンシティではすっかり暖房も日常のものとなり、窓際のヒーターがうらうらと枯れ木のシルエットを映し出す日差しとあいまって部屋をぬくめていた。午後にはこの温度に誘われて居眠りをするものも続出するだろう。
 今日の午前最後の授業は選択制だった。3年に入り進学組と就職組がわかれ、さらにその中でも進路によってこと細かい対応ができるように授業はほとんど自分でカリキュラムを組んで選択をする。2年の前期までは一般教養と言う形でクラスと言う枠組みが重視されるが、3年後期の今ともなれば朝と帰りのHRくらいしかクラスメートとして全員が顔をそろえる機会はないのだった。
 ビーデルは手元の政治経済学の教科書をとんとんとまとめて手提げに入れた。この授業は教授が優しく単位がとりやすいと評判の人気の授業だったし就職で地域サービス系の資格取得を目指すコース・進学文系にとっては必須だったから学校で一番大きい教室が割り当てられているのである。おかげでクラスの分かれたイレーザとも一緒である。
 「さーお昼ね!あたしは学食に行くわ。ビーデルあんたは?」
 「あたしも学食よ。イレーザ、あんたがひとりならご一緒させていただくけど?あんた彼氏と待ち合わせ?」
 「今日はカレはお休み。風邪がはやってるもんねー。あとでまたお見舞いに行ってあげないと」イレーザがにやりと笑う。堂々と彼の部屋に尋ねる理由ができて嬉しいと見える。ビーデルは彼女とは中学の頃からつきあっているが、その奔放振りにはしばしば悩まされてきた。もう何人目になるか数え切れないがとりあえず今回の付き合い始めの彼氏にまたよからぬことを企んでいるに違いないのだ、と鼻に皺を寄せた。そんなことを考えているとイレーザが無邪気そうに聞いた。「そういえば悟飯くんは?昨日から見ないわね」
 「おかあさんが風邪なんですってよ。だからお休み。単位はとっくに取ってるからいいんですって」ロッカーに教科書をしまって、戸を閉めた音が予想以上に大きかったのでビーデルはあわてて戸を押さえた。
 「へえー」イレーザがけらけらと笑った。「マザコン。あんたも将来苦労するわ」
 うるさいわね、と睨みつけてロッカーの鍵をポケットに突っ込みながら、心の中で同じ悪態をこっそりとついた。彼の家の事情は分かっているしそうなれば本当に彼しか頼りがいのある人間がいないのだということはわかるのだが、「この時期に」そんな余裕をかましている彼…付き合いだして1年少し…がなんとも憎らしく思える。彼等が進学を希望する新設の大学の1次入試はもう年明け来月早々に迫っていたからだ。
 





 「なーなー、悟飯、まだできねえのか?」
 「待ってくださいよおとうさん、今よそってるところですから」
 「にいちゃんレモン絞ったよ、うわあ手がピリピリする」
 「ありがとう、早く手を洗ってきな。じゃあおとうさんそれに冷蔵庫の蜂蜜入れてください…ああ、もう!入れすぎですよ!」
 入試を控えた繊細な受験生と言う肩書きを背負っているはずの孫家の長男坊は、その頃家の台所でうろちょろしている父親と弟に指示を出し孤軍奮闘していた。昨日から母親が珍しく風邪を引いて寝ているので、多少なりとも家事のできる彼にこの家の食の責任がいっぺんに降りかかってきた次第である。父親がいなかったころ、母親が育児に疲れているのを少しでも助けようと本をたよりに徐々に料理をするようになって、今ではまあ通り一遍のものと量はつくれるようになった。料理自体はなんとなく実験に似ている気がするからそんなに悟飯は嫌いではない。
 父親と自分だけなら、その辺の動物などで適当に腹は満たせるけれど、弟はそういうわけにはいかない。父親が山に連れ出してそういうものを食べさせようとしても嫌がるのだという。弟は何だかんだ言って甘やかして大切に育てられてきた幸せものなのだ。それに母親のおじやなどもちゃんとつくってあげなくては。だから学校など行っている場合ではない。自分がいなかったらこの父親はどんな無茶なものを母親と弟に食べさせるかわかったものではない。
 「かあさん旨いって。喜んでたぞ」
 できた鶏肉と卵の雑炊、それとホットレモンを寝室に運んできた父親が弟とニコニコと帰ってきた。そっくりな大小はそっくりに母親のことが大好きなのである。弟の悟天などもう8つだしそろそろ母親離れが始まってもよかろうと思うのだけど、まだ家では母親の後ろをついて回っているのだと父親は苦笑する。最近は寒がりの弟が修行にもなかなか応じてくれないとたまにふざけて嘆いている。
 多めに作ったその雑炊で男3人も昼食にした。味は当然のこと量も足らなかったから食べ終えた後微妙な空気が流れたがさすがに父親も弟も文句は垂れなかった。なんと言っても悟飯は怒らせると母親に似て怖いし強いのだから。
 「さあ、午後からは悟天はちゃんと勉強しなさい。でかあさんの様子見といてくれな。にいちゃんは食料買いに行ってくるから。…おとうさんは?」
 「おめえ車で行くんか」
 「ええ、練習がてら」
 「じゃあついてってやる」
 ずるうい、と弟が非難の声をあげたが、ゲームをしないように厳命して悟飯と父親は家を車で後にした。悟飯が免許を取ったのはついこないだである。山道も多いし一応父親についてきてもらった方が確かに心強い。

 出かける前に本で検討したメニューのレシピ控えをポケットに入れて、悟飯は車を降りた。車をカプセルに戻し、さっさと歩き出す父親のダウンジャケットの背中を追いかける。並ぶとほぼ同じ背丈になった親子はのんびりと話をしながらショッピングモールに向かった。近所のスーパーでもよかったが母親が本か服でも買えと多少多めにくれたからである。
 「んー、これだときついな。なあ別にオラ靴なんていいんだけど」
 「だめです、今の奴がもうぼろいんだから買ってあげろっておかあさんの命令です」
 父親が胴着でないときにジーンズといつも合わせているスニーカーは、なんと新婚時代に買ったのを未だに履いているのだった。普段は大体胴着だし家周りでは突っ掛けなので出かけるときくらいしか履かないからだ。19年ものだとさすがに痛みも目立つし型として古臭い。しかしそんなものまで父親が死んだ後も残していた母親の律儀さと言うか想いの深さには感心させられるばかりだ。微笑んでいると女性の店員がにこやかに声をかけてきた。
 「仲がよろしいご兄弟ですね」
 顔を一瞬見合わせて親子は盛大に笑った。スニーカーを選び、本屋や服屋に寄った後に食料品を買って彼等はまた車に乗って家路に着いた。

 「兄弟なあ」まだおかしそうに父親が助手席で笑った。もう夕方近い冬の山道がところどころ茜色に照らされている。ライトの場所が分からなかった悟飯に父親が脇から教えてくれた。
 「おとうさんもおかあさんも早くに結婚しましたからねえ」
 「それもあるしオラ死んでたからなあ。まあ確かに10くらいしかほんとの歳では違わないんだからな…悟天とならまだ普通に親子に見えるんだろうけど」
 精神と時の部屋に入っていた時間を含めれば、父親は今本当の歳では31。自分は級友よりひとつ上の19。母親はこの間38になったし悟天は年が明ければ9つになる。この計算で行けば自分は父親が12の時の子と言うことになってしまう。そう言うと父親は、さすがにそれは無理だと笑った。かあさんもガキだし。あ、いやかあさんはそのままだから姉さん女房ってことかな、とか、12といえばあいつと出会った年だな、とか楽しそうにつぶやいている。
 父親の顔の向こう、山裾の切れ間に烏が空を渡るのが見えた。窓の外を見やり昔のことでも思い出しているのだろうその眼差しは限りなくいとおしげだ。あの世から帰ってきて1年半、父親と母親は本当に、仲がよすぎてこちらが困るくらいに仲良くやっている。父親の顔は逆光に縁取られ、どこかやはり同い年くらいの恋する少年のような感じさえして悟飯はひそかにどきりとした。死ぬ前、特に師匠になってからは一応子供の前だからと言うので父親も多少気を張っていたのだろう所もあったが、最近は悟飯にもそういう相手ができたからだろうか、時折自分の前でも隠さずこういう顔を見せるようになった。そういうところに悟飯はなんとなく父親の老いを見るような気持ちがするのだった。歳をとるに連れて角を落とされていった母親に感じるのと似たようなものを。
 「で、おめえはどうなんだよ」
 「どうって?」
 「結婚しねえのか?もう18なのに」
 「…しませんよ。まだ学生だし、大学にもいくんだし」
 「まあ普通そうか」普通ではない結婚をした父親はあっけらかんと笑って続けた。「でもHくらいしてんだろ」
 車のハンドルが思いっきり切られ、あわや崖下に転落しそうになった。あわてて中から舞空術で支えながら悟飯は怒鳴った。「してませんよ!」
 「どんくさいなー、悟飯は。もう1年にもなるのに」おなじく車を支えながら父親がきょとんとした顔で言うのを軽く殴りつけたい気持ちになった。「好き同士ならしちゃえばいいじゃねえか。オラだって好きって気づいたら早かったぞー?」武勇伝を話し出しそうになった父親を急いで押しとどめる(誰が父親と母親のそんな具体的な生々しい話を聞きたいと思うものか!)。確かに最近の懸案のひとつではあったが自分にだっていろいろ考えるところはあるのだ、友人たちにも言われてることだけどなおさらこの父親にどうこう言われてたまるものか!車を道に戻しながら悪い悪いと頭を掻く父親を、ブウ戦からこっち父親よりは鋭くなったまなざしで睨み付ける。父親は子供っぽく唇を尖らせそっぽを向いた。なんかおとうさんの方が弟みたいですよ、と再びハンドルを握りながら嫌味を言うと父親はそうかもなあ、と無邪気に笑った。おめえはしっかりしてるから。ビーデルも安心だな、だのなんだのと。
 おとうさんは気楽でいいですね、と内心また嫌味を述べて悟飯はひそかにため息をついて車を走らせた。




 
 
 付き合いだして1年にもなるのに2人の関係はまあそんな按配だった。翌日は母親も回復したので悟飯も登校し、放課後、前の晩の電話で示し合わせたとおりに彼等は学校のロビーで待ち合わせて寒風の中外に歩いて向かった。今日は願書の提出日だからだ。去年ビーデルの父親であるサタンが、ほとんど一人娘のためだけに設立を決めた大学は、潤沢な資金と多すぎる支援者、人望のおかげで突貫工事の結果、サタンシティの郊外になんとか無事に来春開学を迎えようとしている。まだ工事はそこここで続いているものの、すでに動き出している学生課の周りには多くの受験生が集まっていた。オレンジスターハイスクールの大学進学組の生徒も大半ここを受けるし、東の都が壊滅したことで長らくこの近在に大学と言うものがなかったから期待が大きい。何より優秀な教授陣がすでに発表されていて人気が高かったしサタンのネームバリューもある。最初の年度は運営も様子見で少数精鋭で行くので定員は少なめで、かなり倍率が高くなっているという噂どおりかもしれない、とビーデルは不安を覚えた。
 周りのものは、理事長の娘になるビーデルなら受験なんて、とやや嫌味をこめて言うが、それだけは彼女が断固拒否するところである。これは父親にも散々いい含めてあるし、挨拶に来た学長にも頭を下げて頼んでいる。ビーデルは特別扱いと言うものが嫌いだった。それは彼女の正義感にもそぐわないものだし、あの戦いの真実を知ってからはなおさらのことである。自分はそんなに偉い人間ではないのだ。彼女の父親については、悟飯の父親や仲間たちはある一定の理解と評価をしてくれているが、自分はそのさらに娘にしか過ぎないのだから。
 「ずいぶん人がいるね」傍らの彼がのんきな口ぶりで言った。進学組理系でダントツトップの頭脳を誇るこの人には、何の緊張も気負いもない。高校の教授陣も進路カウンセラーも、何も問題はないと太鼓判を押している。どうせなら中の都、または西か南の都の国立大に行くべきなのに、と残念がるほどだ。その噂を聞くたびにビーデルは去年ここに誘ったのは軽々に過ぎたのではないか、と後悔する。この人の夢である学者になるには道を誤らせてしまったのではないのかと。
 町の方にまた肩を並べて帰りながら、ビーデルは傍らを歩く彼を見あげた。街路樹もすっかり葉を落とし、煉瓦の石畳に時折その名残がかさかさと音を立てている。空は雪が降りそうにどんよりとしたグレイだった。そのグレイをバックにすきっと掲げている、出会った頃より鋭くなった面差し。宇宙人とのハーフ、経験してきた数々の戦い、なによりセルを倒した少年であるという事実。あの戦いの時、神殿で彼の母親や仲間たちから教えられたさまざまなことの、語られる口調に反してのあまりの重さに目が回りそうだったことを思い出す。でも戦いが終わってみれば彼は本当に普通の、いや普通より優しくてどこか繊細な男子だった。田舎育ちでどこか世間ずれしてるところは多々あったけれど。この宇宙で誰よりも強いのに戦いを好まず、学者になることを夢見る平凡なただの男子にすぎない。
 「聞いてる?ビーデルさん」
 「え?」
 「やっぱり聞いてなかったね。僕メガネを作ろうと思うんだけど、これから見立ててもらえないかな」
 そこで2人は近くの商業ビルに向かった。同じ高校の人間もよく遊びに来る場所だから、校内の有名人である二人にあちこちから挨拶が飛んでくる。彼等が1年前に付き合いだして夏休みがあけそれが周知になった頃にはかなりの校内での反響があった。先日の文化祭でも校内投票の結果ナイスカップルとしてなにやら恥ずかしながら賞をもらったほどだった。
 上の階でほとんど度の入っていないメガネを選び、だんだんに下に降りて一階に至ると、パーティグッズのへんで寄り集まっているイレーザとシャプナー、ほか見知った顔があった。
 「あらあ、デート?ビーデル。余裕ー」
 「よう、悟飯、久しぶりだな。おっ、メガネなんかかけちまって」もうすでに地元のジムに就職が決まっているシャプナーが手を掲げてきた。何だかんだ言ってシャプナーと彼はクラスが分かれてしまったもののいい友人をやっている。あの戦いの記憶はとうにみなの中から消えてはいるのだけれど、悟飯が並みの人間ではないということはみななんとなく覚えているしその後の学園生活でも知ってきたことだ。シャプナーは特にその中でも悟飯に一目置いているのだった。
 「何やってんですか、みんなして」
 「うちのクラスが今年は卒業を仕切るのよ。うちの学校は式も全部学生がするからね。今年の春のは悟飯くんも見たでしょう?」2年の冒頭に編入してきた彼にイレーザが教えた。「その後の謝恩会もだし、卒業式前のプロム…ダンスパーティもそうよ。であたしとシャプナーが実行委員長ってわけよ。2月末が式だからね、今日分担が決まったのよ。進学組は受験もあるしそのときのお楽しみよ、あたしたち就職決まったので頑張って用意するから」イレーザはもうOLとして就職が決まっている。地元の気楽な中小企業だ。なんとなく流れでそのまま合流し、1階のカフェでみんなでお茶にした。
 「ちょっとちょっと、ビーデル」
 「なによ」
 「悟飯くん、メガネつくったんだ。かっこいいじゃない。似合ってるわねえ」
 「さっき買ったのよ…見立ててとか言ってたけどさっさと決めちゃって。よほど気に入ったのね、アレ」
 選んだのは明るいイエローグレイの太目のセルフレーム。ちょっと派手すぎはしないかと思ったが、思いのほかよく似合っている。それをかけた彼は少し向こうの席で、シャプナーや他の男子と楽しげに談笑している。少し鋭かった目のラインが程よく隠れて、穏やかで知的な、大人びた印象が目立つようになった。実際次の春には彼は級友に先んじて本当の歳として20歳になるのだ。
 「惚れ直したんじゃないのぉ」別の女子からビーデルにニヤニヤと野次が飛んできた。
 「ば、ばかね」
 「ところであんたたち、どこまで行ってるのぉ?クラスも離れてあまり会えないしこの際聞いておこうかなぁー?」
 「ビーデルと悟飯くんはまだよ」イレーザがフレーバーコーヒーのクリームを舐めながらけろっと言ってのけた。「ね、ビーデル?」
 「な、何言うのイレーザっ」
 「ほんとのことじゃない。真面目よねえ。プラトニックよねえ」
 「うっそぉ」
 「ホント?ホントなんだ?もう一年以上たつのに」
 「晩生(おくて)ねえ、悟飯くんって」
 真面目な子の多い進学組と違い、就職組はませた女子も多い。化粧もばっちり、彼氏もちも多い。みんなもういっぱしの大人のつもりなのだ。真っ赤になってわたわたしているビーデルに、向こうから彼が遅くなるからもう帰る、と声をかけてきた。母親も心配だから、と。みなに冷やかされながら2人は席を後にした。彼が彼女の手を引きながら。






 「飛べばすぐだし送ってくれなくてもよかったのに」
 送られるとは言いながら、ジェットフライヤーの運転席で操縦桿を握りながら悟飯は助手席の彼女に言った。暗い空からは雪が落ちてきている。車と同時に飛行機の免許も取ったので、これも練習だから、と運転させてもらっているのだ。
 傍らの彼女は無言で年号集などめくっている。なんとなく不機嫌そうだ。何かまずかっただろうか、と悟飯は内心びくびくしている。付き合いだして1年少し、恐妻家の父親の血を引いてか、彼は彼女に弱かった。もともと気の強い娘だし、自分が世間からずれてて女心もよく分からないのをなじられることも多い。父親よりはそれでもだいぶんうまくやってるとは思うのだが、やはり自分は普通ではないのかもな、とたまに思ったりしないでもない。
 それでも悟飯はこれも父親と、母親にも似てとても根が楽天的な性格だったから、それが自分の生まれとか育ちに起因すると思ってうじうじしたりはしないのだった。実際悟飯は自分自身だけに関することで悩み苦しんだ事はほとんどなかった。苦しむのは人についてのことばかり。父親が死んだ後も苦しんだのはひたすらに母親と弟を思ってのことだった。彼女が考えているほどに彼は自身の出自や育ちを悪い風に意識してはいなかったのである。それは幼少の頃「普通の」同年代のともだちが周りにほとんどいなかったせいもあるだろう。悟飯の俗世の知識の源はおもにテレビドラマや小説などだが、それらの主人公も結構な境遇を背負ってる場合が多かったのでそんなものだろうと思っていたところもある。
 機密性の悪い小型のジェットフライヤーの車中は寒かった。外の雪混じりの風が、ボディの隙間から時折鋭い音を立てて中に入り込んでくる。足元に暖房を入れてはいたが二人の息は白かった。
 「ね、ビーデルさん」
 「いいのよ、送りついでにおばさんのお見舞いもしたいから」
 「もう大丈夫だよ、かあさんは」
 「いいのよ」
 ぴしゃりと言った後、彼女が再び年号集に視線を落とした。少しの間の後、悟飯は手元で自動操縦に切り替え、そっとその顔を…途中で抵抗があったが優しく無理やりに…上げさせ、その唇にみずからの唇をそっと落とした。作ったばかりのメガネを邪魔にしながら。
 「…なに、いきなり」
 「何怒ってんの」年号集を取り上げながら低めの声で悟飯は聞いた。その声に顔の下で彼女が赤くなって唇を震わせた。去年の夏より伸ばして、耳の下の長さで整えている柔らかな猫ッ毛をそっと撫でると、彼女のブーツを履いた足が足場を外れてステップの途中に揺らめいた。フライヤーはまだ飛んでいる。吹き付けて鋭い笛のような音を立てる風の中に、かすかに彼女の甘いため息が混じった。
 「だって」地上…東の海を臨む険しい山の一角に下ろされたフライヤーの中で、彼女が泣きそうな声でそっとささやくように漏らした。「悟飯くんはいいわよ。大人よ。勉強もできるし、そりゃこの時期にも余裕綽々でしょうよ」
 彼女を抱きかかえながら、悟飯はだまってその言葉を聴いていた。
 「でもあたしは違うのよ。今日大学を見て余計そう思ったわ。受かるかどうかわかんない」
 「そんなことないよ」
 「今だって一生懸命勉強しているわ。でもわかんないんだもの、どれだけやればいいのか」
 それは新設校ゆえのあだだった。学力の目安がはっきり示されていないのだ。落ちるかもしれない、と不安を漏らす彼女に、落ちたって、と言った一言に彼女が頭を振った。そんなのパパに申し訳ないと。悟飯はまた無言で彼女を抱きしめた。

 彼女は、付き合いだして分かったことだったが、想像以上に繊細で扱いの難しい娘だった。父親のことをまず恥じている。その感情がまず悟飯には理解しがたかった。自分が多少なりと両親に感じないこともないと言う程度のその感情を、彼女は想像できないくらいに強く持っているのだった。それは母親を亡くしてからいろいろな女の人と遊びまわっている父親に娘が感じるにはごく自然なことだったけれど、その上結局は彼女の父親は虚構の、虚勢の、ひどい言い方をすれば口先三寸で世の中を渡っている人間なのである。彼女は付き合いだしてから何度も悟飯の家には来たことがあるが、特に彼の父親に対してはいつもなにかしら肩身が狭そうに、すまなそうにしている。見ていてどこか可哀想になるほどに。だから悟飯は自分からは最近は家に誘うことはほとんどなかったのだが、彼女は逆にそれを悲しがるのだ。あなたの境遇の中に私を入れてくれない、と言うような理屈で。彼女は彼女の父親のことを憎んではいない、むしろ愛しているのだけど、それゆえに苦しむのである。
 武道をしているものとして心根の強さは十分持っているのだけど、そのまっすぐさゆえに彼女は彼女の置かれている状況のどこか理不尽なありがたさを許容できないのだ。まっすぐ自分の力量を推し量れるからこそ、それ以外の部分で自分が過大に評価されるのが我慢ならないのである。普段は彼女は気丈に一線を引いてそれと向き合っているように見える。が、時折このように心を持て余してしまう。前はその鬱屈を悪人退治で晴らしていた節があるが、最近は受験もあるし付き合いで忙しくなってその機会もかなり減ってしまった。
 厚遇を腹立たしくもありがたく思えばこそ、自らをそれにふさわしいものと高め続けなければならないと思い込んでいる。だから、彼女のために父親が用意した進学先に、自分の実力が及ばないことが恐ろしいのだろう。
 「それに、落ちたら、あたし一緒にいたいからってあなたをあの大学に誘ったのに申し訳ないわ」
 「僕は気にしないよ」
 「あなたはもっといいところに行けるのに」
 「もともと家を離れるのはいやだったから、サタンシティに大学ができてほんとに有難いんだから」
 「警官なんて大学行かなくてもなれるのに、あたしが我侭言ったからみんなに迷惑が」
 「もう言うなよ。大丈夫。落ちたって、一緒にいるから。サタンさんも、僕が何も言わせやしないよ。それこそ戦ってでも」
 濡れた青い水晶のような眼が、悟飯のメガネの奥の黒い瞳をひたり、と捉えた。ガラス越しなのが惜しくなって、悟飯はそれを取って今一度、恋人の頬に手を添えた。狭いフライヤーのシートの、不自由な空間の中で彼女が精一杯に厚い二人のコート越しにしがみついてきた。コートの表面はしんしんと冷たい。体温を感じられるのは互いの頬と唇だけだった。

 初めて唇を重ねたのは去年の夏のことだった。2回目のデートだっただろうか、と悟飯は思い返す。絵に描いたようなスタンダードさで、遊園地でのデート、閉園間際に。真面目な彼はとりあえず恋愛において踏むべき段取りというものをかたくななまでに守ってきたし、彼女もそのような真面目な人間だったから、彼らはそれこそ賞をもらうようなさわやか高校生カップルと言う奴を今までやってきたのだった。でもその縛りももうすぐ消える。もう世間的にも18、父親と母親が結婚をした歳にまでなった。すでにいつとは決めていないが、互いに将来のことまで考えている。互いはもうそのように、この人とならと思い為すような絆の深さなのだ、と少なくとも彼は信じている。たとえどんなに彼女の苦しみにこのように向き合おうともだ。それは悟飯的には、強くなったものとしての一種の責務なのだ。昔父親が宇宙一になって帰ってきて、母親の悲しみや苛立ちにまっすぐに向き合って受け入れたように。
 「好きだよ」
 彼が彼の父親と違うのは、その気持ちを素直に口にできるところだった。そのおかげで、彼女はずいぶん救われている。この2人の場合、むしろ好きだと素直に口にできないのは彼女の方だった。自らを繕おうとする分恥ずかしがりなのだ。その恥ずかしがる彼女の熱を貪るように、悟飯は彼女の唇に、頬に、首筋に一心に手を、己のそれを擦り付けた。彼だって18、いや19の男だから、もちろん彼女を求める気持ちはないではないのだから。


 今日買ったメガネはそれに対しての一種の枷だった。油断して受験に失敗したりしないようにという一種の武装。早く一緒になるには、どうしても自分が早く研究者として身を立てて彼女を、できれば実家の家族をも養えるようにならなければならない。その勉学へ向けての決意の表れだった。
 「だから、受験が終わって、少なくとも僕が受かったら」
 しばらくの後、すっかりと熱のこもったコックピット内にため息交じりの声が静かにした。暗さを増した空から降り注ぐ雪がフロントガラスの上に白くうっすらと積もり始めている。後ろの森から、猛禽がばさばさと飛び立って次々と墨色の海へと飛び立っていくのが見えた。東の海はもうすっかりと暗い。
 暗闇の中、着衣を微妙に乱した彼女がそっと微笑んで頷いた。「そうね…私も受かったら、ご褒美ね」
 「最後までたっぷりと」
 「いやぁね」くすくすと彼女が着衣を直しながら笑った。「こんなことしてるなんて知ったら、おばさん吃驚するわねきっと…さあ、遅くなったし、早く行きましょうか」





 操縦桿を握って我が家に向かいながら、悟飯はくすりと笑った。そういえば、母親に言われたあの一言から、自分は彼女を意識し始めたのだっけ。
 
 早く春になればいい。彼女のぬくもりを心置きなく、余すところなくわがものにしてしまいたい。
 そして早く、彼女と心置きなく一緒に暮らせるようになるように。

 
 
 胸ポケットに入れていた黄色のメガネを改めてかけた。彼女が、似合っているわよ、と言ってくれた。笑い返して、家で待っているだろう家族の反応を二人で想像しあう。
 そんなささやかなことが、あの一人荒野に暮らした日々からしたら全て夢のようで。父親を失って悲しみにくれていた日々からしたらまるで夢のようで。
 それこそ、今は夢のように幸せな日々で。
  




 本当にあの時、生き抜いてよかったと、彼は…悟飯は、毎日、それこそ毎日、心の底から思う。
 出自も育ちもさまざまの過去の悲しみも、全ては今の幸せを感じるための布石のひとつ。
 大人に足を踏み入れたばかりの彼はまだはっきりとは知らない。そのことを知っているものこそが本当に強く、またおとななのだということを。






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