このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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touch3





 秋の長雨も終わり、すっきりと晴れた久しぶりのいい日和だった。水溜りが、街の水路が、水色の天を映し出している。西の都の低所得者向けアパート街の周りは、治安が悪いとは言わないまでも微妙に裏寂れた旧市街だ。道路の整備もまめではなく、あちこちの道路の凹みや亀裂もなおざりのまま。歩道の石畳の上にも水溜りが不定期の列を作っている。
 ウーロンはそのひとつの前で顔をしかめた。標準的な人間の体格ならともかく、小さな背丈の、手足の短い自分にとってはこの水溜りも苦労の種だ。差別などは受けていないものの、比率として数少ない獣人は、圧倒的な数を誇るノーマルな人類に規格をあわせて作っているもろもろの設備で損をすることも多い。まあそんなものにいちいち腹を立てていては暮らしてもいけぬ。別に己がこのように産まれたことを卑下する気もないし結局生きていくにあたって重要なのは己の才覚と力である。困ることといえばせいぜい嫁の来手が少ないことくらいだ。
 水溜りをよけて旧市街を出た。休日のショッピング街は、都の娯楽を味わおうという人々で賑わっている。さまざまなストリートパフォーマンス、待ち合わせるカップル。屋台で菓子を買ってその辺でほおばる家族連れ。紅葉を始めたハナミズキの街路樹が眼に美しく、その赤色がますます街の活気を演出している。それを尻目にまずは本屋だ。
 今年になって彼は就職した。あの冒険のあと彼はカプセルコーポレーションの社長宅に住まい学校にも通わせてもらい、高校を出た後はしばらくバイトを転々としつつ居候を続けていた。カプセルコーポレーションに就職しようと言う気はなかったし、社長である家の主はそこのところを公私混同する人物でもなかったからだ。
 去年の夏だったか、居候先で多少の環境の変化が起きた。友人とその主が出て行ったのだ。一人残されたウーロンも身の振りを考えざるを得なかった。別に追い出されたわけではないけれど、まあそろそろ堅実に自立して生きようか、というところだ。もういい大人なのだから。あの小さな少年だった孫悟空ですら、働きはしないものの人の親をやってるのだし。もともと彼は安定志向だし、そういう自分が好きだった。自分は戦うものではないのだから。
 何冊かの小説の文庫本と、今の仕事に役立ちそうな会計の本を買って、一階のカフェで食後のコーヒーを楽しむ。彼はひとりで気ままにやるのも好きだった。凝り性でもあるし、趣味に没頭する生活も悪くない。会計の本の一章を読み終えて、改めてコーヒーをすすった。ざわざわと男女が、学生のグループが、周りのテラス席のテーブルのそばを騒がしく巡っていく。
 この後はどうしようか。映画でも見てから食料を買い出して帰ろうか。そう考えていると、テラス席のウッドデッキの手すりの向こうに見慣れた懐かしい人影を見つけた。その人物はカウンターでサンドイッチとオレンジジュースを注文し受け取り、空いている席を探してきょろきょろと店内を見渡している。
 一瞬迷ったが、ウーロンは呼んだ。
 「おーい、ブルマ!こっち、こっち!」
 その美女は振り返って目を瞬いた。「あらぁ、久しぶりねえ!」

 ウーロンが近況を話しているうちに、彼女はあっというまに食べ終わった。もともと早食いだったが、仕事を始めるようになってからは忙しさに追われるようになってさらにそれに拍車がかかった。一緒に住んでいたときも、昼になって3人がのんびりと食事を楽しんでいるとばたばたと食堂に入ってきて、けたたましく喋りながらすばやく食事を済ませて一服し、資料に眼を通しながらさあっと去っていくのが常だった。
 「そう、楽しくやってるみたいね、よかったじゃない。仕事も順調そうでさ」
 改めてそう微笑む彼女を見た。今年の春出て行ってからこうしてゆっくり会うのは初めてのことだ。髪が伸びたな、と思う。青々としたつややかな髪は、その時は長めのショートだった。今は、セミロングでゆるくウェーブをかけている。今の西の都での流行である。おしゃれなところは相変わらずだ。でも、何か雰囲気が変わったように思う。珍しく緩やかなワンピースなど着込んで、この時期にしては割と厚着だ。
「まあな。そっちはどうだよ。また開発で忙しくしてるのか」
 「んー、ちょっと今は部署変わってるのよね、事務方のほうに」
 驚いた。この女が事務などやるなんて。眼を丸くしてると、彼女がかばんから何かを取り出した。あ、いつものタバコかな、と思っていると、それはガムだった。禁煙用の。
 「ああ、いま禁煙してんのよ。妊娠しちゃってね」ブルマが笑った。「あ、だれにも言っちゃだめよ?次みんなに会ったときに一斉に驚かしてやろうって思ってるんだから」
 「ええっ、…って、お前っ」
 「ヤムチャじゃないわよ、言っとくけど。教えてあげる」
 耳打ちされたウーロンは思わず席を蹴立てて立ち上がった。
 「だから、ちょっと身体に気を遣おうってね。まあ比較的楽だから回してもらったけど事務方もいい経験よ」
 ころころと笑う彼女の頬を、秋の美しい日差しが縁取っていた。





 社長夫人の趣味は園芸である。巨大な邸宅の一階の一角は彼女のために作られた日当たりのよい温室になっていて、そこからテラスへと、さらに庭へと花が咲き零れるように埋め尽くしている。季節は10月、そろそろ外の花木などは追い肥をしたり、剪定や接木をしたり植え替えをしたりして冬に備え始めないといけない。
 「4番の剪定ばさみをいただけるかしら?」
 夫人は後ろに忠実に控えたロボットを振り返って呼びかけた。かしこまりました、と、夫が特別にあつらえて作ってくれた彼女用の助手ロボットが、背中に背負った背負子から高枝切りバサミを取り出して差し出した。
 「ありがとう」
 ロボット相手とはいえ、彼女は彼らにもいつも礼を欠かさなかった。それは彼女の流儀でもあるし、彼女の夫の流儀でもある。生活のさまざまな面でこの家は彼らに大きく負うているのだから。食事も、掃除も、昔は一人娘の面倒だってみてもらってきた。ただ、仕事そのものには人の頭脳と手が入ったほうがよいという夫の信念、それに責任の所在の問題もあるから、会社にはロボットは導入していないのだったけど。
 秋を迎え、実をつけ始めたマルメロやコリンゴの甘酸っぱい香りが豊かに漂う。そのいくつかを高枝バサミで摘み取ってバスケットに入れた。花を生けるときのいいアクセントになるだろう。次は秋咲きの薔薇の手入れだ。見てもらおうと思えばロボットに庭の手入れを任せきることもできるけれど、彼女はなるべく自分の手を掛けるようにしている。ただ、もうそろそろ年齢的に腰をずっとかがめているのもつらいので、いつも庭の半分ほどは見てもらっている。
 軍手の手首のふちのほうで額の汗をぬぐった。風はだいぶ涼しくなってきたけれど、こう日和がいい日に日差しを受け続ければ暑くもなる。来週社員の家族を招いてのパーティがあるし、なるべく美しい状態の薔薇を保っておきたいものだと思いながらかがめていた腰を伸ばした。
 と、
 どおん、と言う音がして、本棟の居住区の一角が吹っ飛んだ。
 その音響にそちらのほうを見やると、壁の破片の中から一人の男が飛び出し、宙に浮いた。肩をいからせたその姿を見上げていると、眼が合った。それは眼をそらすようにして天を仰ぎ、東の空へと飛び去っていってしまった。

 「ありゃりゃ、またやっちまったか」
 広大な庭の端のほうで、犬たちとエアバイクで競争していた夫が後ろからやってきて同じように空を見上げた。
 「また重力室を直さないといけませんわね、あなた」
 「最近はだいぶん少なくなったと思ってたんだけどねえ」
 「あの方ご機嫌斜めでしたもの。ブルマさんが今朝例のことお伝えしてから」
 夫が灰色のひげを持ち上げて笑った。「まあいつかは伝えないといけないことだからねえ」
 「良かったじゃありませんの、直接ブルマさんにお怒りにならなかったんですもの。さあ、片付けに行きましょ、あなた」
 夫人も膝にまとわりついてきた犬たちを撫でながらころころと笑った。夫も同じように犬を撫でながらからからと笑った。この夫婦がそこらじゅうから拾ってきた犬は結構な数であるが、この家にはそれらにちゃんと去勢避妊をし、正しく養っていけるだけの能力と財力と大きな邸宅があった。たとえ凶暴な宇宙人のひとりごとき紛れ込んできたとて気にしないだけの懐の深さもあった。
 いささか鷹揚過ぎるようにすら見えるこの夫婦にも、それでもその宇宙人の子を一人娘が宿したということはそれなりの事件であった。あったけれどもとやかく言わないのが彼らで、それがこの世界のトップに輝く大企業の創業者夫婦の、一種の大物ぶりである。








冷たい空気を突っ切るようにしてベジータはひたすら飛んだ。西の都からひたすら真東へ。大河を越え、大湿地を抜け、荒涼とした高原、大陸中央の大山脈。登るにつれ気圧が耳を圧し、ぴりぴりとした風が頬の皮膚を切り付けんばかりに打った。時折雨雲を突きぬけ、その風は帯電した氷の粒になり、また雪にもなった。どれくらい東に向かって飛んでいただろう。
東の大海が地平線の向こうに見えてきた。西の都を出たときには昼前だった。それを東へ東へと猛スピードで飛んできたから、太陽は西の空に大きく傾き、もう1時間ほどで夕暮れにならんとする時間だった。
ベジータは上空で止まり、腕でもう片方の腕を抱くようにして震えた。雨雲を突き抜けてきて、タンクトップは軽く湿け、むき出しの腕が秋の午後の風に冷たかった。戦闘服なら耐寒耐熱もしっかりしているのに、最近はこのような原始的な繊維の服ばかり着てトレーニングしていた。いつもは外に訓練に出かけるときはそれなりに防寒も考えるけれど、今日は衝動的に飛び出してきてしまったものだからこんな軽装なのだ。憎憎しげに唇を噛んだ。とりあえず下に降りれば寒さもまだましだろう。

大海に近い山地帯に降り立ち、腹立ち紛れにその辺の動物を狩って生のままその肉にかぶりついた。朝も昼も食べずにひたすら重力室にこもっていたので、ひどく空腹だった。身体も疲労を訴えている。300倍の重力の名残が、骨をきしませている。
頬と手を血で汚して食事を終え、崖際の草地に寝転がった。憎らしいほど青い空だ。さまざまの星の空を見てきたが、このように純粋に青く透明なのは稀だ。煙ったような青緑であったり、黄ばんだ色であったり、赤かったりさまざまな星の空を見てきた。やはりこの星は高く売れるだろう、と思いかけて、鼻を鳴らした。もうそんな商売はないのだ。いや、やろうと思えばあの後釜を引き継いで自分にだって出来なくはないのかも知れない。顧客だって大抵は知っている。でももうその世界に戻る気はなかった。自分は今それどころではないのである。
ベジータは改めて青から目をはずすようにして目を硬くつぶった。視覚を閉じた感覚に、自分の口周りと手を汚した血のにおいと、胃の中を急激に巡る消化の働きが感じられる。消化したものはすばやくエネルギーとして変換され、戦闘の糧として蓄えられる。この星の人間より何倍も早く、効率的に。その体の働きすら、戦闘民族として進化を続けてきた種族の特長なのである。
ただ、その働きは最近鈍かった。いらつく思考が消化液の分泌を鈍らせている。彼は幼少に星を失ったときからずっといらつきと憎しみを唯一の友のようにして生きてきた人間であったが、今日それはとみに酷かった。原因は二つある。あの下級戦士の存在と、自らの子という存在の出現だ。
目を開けると、紅葉した木々の、黄色に色づいた枝が風に揺れていた。その黄色がかったオレンジと青が、午後の日差しを受けて輝くその金色の葉が、あの下級戦士を思い出させた。青い空が、初めて対峙した場所のそれとよく似ていた。

なぜ超えられぬ。あんな者に、なぜ自分は及ばない。
幾度も、幾百度も、いや千も万も繰り返した血を吐くような問いがまた噴出した。あの男が、王族ではないにしろまだ貴族出身などならこんなに憎くはなかったかもしれない。なのに、よりによって星に差し向けられたような最下層の戦士だったなんて。
サイヤ人というのは徹底した階級主義である。そして格差社会である。強大な力を持つ男は強大な力をもつ女と交配してその力を保ち、社会的地位の基盤とする。下級戦士は、強大な力を持つ女を奪い取ることもできぬから、同じ程度、またはさらに弱い力の子孫しか生む事はできぬ。下級戦士はそして大概最前線で戦い治療も優先順位が低くなるから、死線からの復活によって力を得る間もなく短命のまま死んでいく。まれに死を乗り越えて力をつけるものもいるが、どのみち貴族との壁を越えるのは難しかった。差別によって上級の軍の職につくのは難しく、前線暮らしなのは変わらなかったからだ。ある程度強くなれば、死の危険性も減る。すれば、劇的に力をつける機会も少なくなると言う道理だ。
貴族は前線には出ないが、士官学校などで徹底的に地位を維持するだけの戦闘力を身につけさせられる。自分も王族として幼い頃から英才教育を施された。幼少の頃に星が滅ぼされて結局その戦闘民族としての文明も費えたわけだが。
3年前までに残ったサイヤ人は、あの下級戦士を含めたったの4人だった。多くの下級戦士の赤子が星に送り込まれたはずだが、消息をたどってみたもののほとんどが死亡していた。もっとも、星に赤子を送るなどと言う手法はよほど僻地の星に対しての保険というか、どうせ役にも立たぬものを有効に使えるかもしれないという一種の博打のようなもので、うまくやっていれば儲けもの、という程度のことである。大した戦闘力もない赤子であるし、自活の能力もないし飢えて死ぬことも多い。着陸の場所が悪ければその時点でお陀仏である。
また、大人のサイヤ人たちも、悪いことに(今から思えば狙ったのかも知れぬが)滅ぼされたのが年に一度の民族としての祭典の時期だったので、ほとんどが死んでしまった。他の星を攻めていた下級戦士は当時もう少しいたのだが、結局20年以上の歳月のうちにほとんどが消えてしまったのだった。あの男の、惰弱な兄を除いては。
なんにせよ、自分は、今、そのような最底辺のものに一敗地にまみれ、命を助けられ、絶望的な屈辱を舐めさせられているという事実は変わらない。

一度だけ見た、金色の姿がまぶたにまた蘇って、激しく頭を振った。そしていまひとりの、その金色の姿を持つ少年のことも。
幼少の頃から乳母に、母に、父王に伝え聞かされてきた伝説の戦士。千年にひとりの伝説の存在。まともに育ったサイヤ人なら誰しも一度は伝え聞き憧れる存在。どんな戦闘力の壁をも越えるもの。
穏やかで純粋な、という条件が自分を拒むのか。
こんなに穏やかに、このような原始的な星で、周囲に適応してやって暮らしているではないか。
こんなに純粋に力を求めているではないか。
何が足りない。300倍もの重力を克服して、まだ何が足りないのだ。



眉根に深く皺を刻み、横向きになって身を縮めるように丸くなって深く息を吐き出した。呼吸と共にいっとき思考を切ろうというように。しばらくの後にゆるゆると息を肺に入れると、同時に身体に感覚が戻ってきて、そこにひとつの気の知覚が忍び込んできた。思わず身体を起こす。
この気は。
今しも考えていたあの男のものではないか。それも割りと近くに。
そういえば、この東の山地あたりにあれは居を構えていたはずだ。それは知っていたから、いつも訓練に出かけるときもこのあたりは避けていたのではなかったか。
己の失態にベジータは舌打ちした。だからといってこの場所から逃げるのも癪だった。
思案の後、彼はゆっくりと飛行を始めた。しばらく行くと、眼下にひとつの無人のカプセルハウスが見えた。あの憎い男のにおいがする。初めて見るそれは情けないほどに小さい、粗末で素朴な家だった。もっとも彼の今のすまいに比べればどんな家だってそう見えるのだろうが。下級戦士には似合いの家だ、とひとつ上空で唇を曲げて冷笑し、また、今度は気配を殺して飛び始めた。
やがて、ひとつの中規模の町が見えてきた。ひとつの商業施設が見えた。目立たぬところでその付近に下りて、中に入った。
あれはこんなところで何をしているのだろうか。訓練をするでもなく。
それより自分は何をしているのだろうか。賑わうエントランスの、やたらと人間のいる空間をすり抜けるように歩きながら考える。ポケットに深く手を入れながら。裸足のまま飛び出してきた、小柄の、殺気めいた雰囲気を発しながらうつむき加減に歩く男に、周りの人間は思わず人垣を分けるように道を譲ったが、そんなものは眼にも入らなかった。

おそらく、あの男が持っている、「穏やかさ」を見てみたいのだ、と、彼は自分の中で結論付けた。結局のところ自分にとってあの男はいくさばのうちでしかあいまみえた事はない。それも、延べの時間にして考えたらこの星での半日にすら満たない。
他の、あの男の仲間が知っているような「日常」や、「無邪気な少年のような顔」はほとんど知らないのである。かつて一緒に住んでいた男や猫や豚、そしてあの女はことあるごとにそのことを話した。子供の頃のあの男のことを。しかし自分にとっては元からあれは子を持つほどの歳を取ったひとりの成年の男、厳しい顔を持つ戦士である。噂に上るようなその顔を、見てみたかった。



「よし、じゃあこれにするか」
耳がその声をとらえた。反射的に陰に隠れた。建物の反対側の、外に面した、自転車やバイクを売る一角だった。
「ボクはこれ!おかあさん、いい?」
「ん、決まっただか?わかった、それとそれな。じゃあ店員さん、これでお願いしますだ」
「あ、すぐ乗るから。あそこの公園で練習して帰ろうな、悟飯」
2台の自転車を前に、家族が楽しげに笑っている姿が見えた。女が金を支払い終えると、男と子供が笑った。
「わあ、ボクの自転車だ」
「オラも買ってもらっちまってわりいな、チチ」
「いいんだ、おらもたまには乗りてえもの。おらと悟空さの自転車だぞ、それは。大事に扱ってけろな。まあ、もう8つだし、自転車のひとつも乗ったことなかったら将来恥かくこともあるかも知れねえもんな」
「じゃあ、おとうさん、公園行こう!」
「オラそういや自転車乗るの自体初めてだなあ。でもすぐ乗れるよな、こんなの。チチ、帰りはオラたちこれに乗って帰るからな」
「わかっただ。おらはあと薬と食料品と買って車で帰るから。じゃあな、気ぃつけるだぞ!」
女が手を振って見送る先に歩く親子。あの男と、その息子。仲良く自転車を押して、楽しげに話しながら歩く姿。やがてすぐ近くの公園に着くと、並んで自転車にまたがってこぎ出し始めた。男はちょっとふらついたものの、すぐにバランスを取り戻してまっすぐ、そして曲がりながら走り出した。秋の金色の光を浴び、風を切って、無邪気に笑いながら。傍らの、曲がり際に足をついてしまった息子を励ましながら。
金木犀の甘く幸福めいた香りが周囲に満ちている。女は眼を細めてしばらくそれを見守っていたが、きびすを返して建物の方、自分のいる方へ向かってきた。一瞬ひるんだが、覚えていないのかまったく意に介さぬ様子で歩み去った。
覚えていなくても当然か、と思い至った。龍を呼び出したときに1度2度あの子供のそばにいるのを遠くから見かけただけだ。まともに顔をあわせたこともないのだから。
あれが、あの男の妻。
あの男が抱いている女。
後姿を観察する。つややかなまっすぐな黒髪が、彼の母妃によく似ている、と思った。細身の、でも鍛えられた肢体。白いうなじ。無駄のない動き。それらもよく似ていた。
女はエントランスに面する薬局でなにやら包帯だの湿布だのを買い、そこで買った飲み物を手に歩いている。
ベジータはひとつ公園の親子を見やり、次いで女の向かった方へ歩いていった。




他の階で女は少し買い物をして、やがて屋上の庭園へと至った。別の一角の屋上遊園地やペットショップは小さな子供づれで賑わい、庭園から少しはなれた園芸のコーナーにも種や苗を選ぶものなどがいたが、小さな温室を擁するこの一角はひとけも疎らで静かだった。平和な夕方の日差しが、花木の間に満ちている。
金木犀と銀木犀の生垣のそばのベンチに、女は腰を下ろしてボトルの飲み物に口をつける。生垣の陰からその様子を見やっていると、不意に女が声を発した。
「何者だ、おめえ。ずっとおらのこと尾けてきてただろ」
気づかれていたか。なるほど、この星の並の女よりはできるというわけだ。
鼻を軽く鳴らして、生垣の入り口から歩み寄った。姿を見せると、女が怪訝そうに記憶を探るような顔をした。
「貴様が、カカロットの妻か」
その言葉を聞いて女がまた記憶を探った。一瞬のちに、丸く黒い眼をいっぱいに見開いた。

 「おめえ…!」

 女は予想に反して騒ぎ立てたりはしなかった。かわりに座ったままぎゅっと見上げて睨み付けてきた。形のよい眉をいからせて、赤く薄く紅をさした唇を引き結び、白い頬を高潮させて。吹く風が、長い黒い横髪をさらさらと分けてその頬を横切らせる。前髪を分けて、日差しを綺麗に受ける広い額を見え隠れさせている。空が茜色を帯びて、美しく女を縁取っていた。そう、悔しいが女は美しかった。あの男には惜しいほどに。
 この女を、あいつは夜毎抱いて、子まで成したのだ、と思うと、なにやら嫉妬めいたものが胸の中にあわ立ち始めた。この女があの男を独占していることに対してなのか、あの男がこの女を得ていることに対してなのか判別もつかない黒い感情。自分の子を宿したあの女に比べれば、と言うような蔑視の気持ちも混じっている。そう思って立場は対等、いやそれ以上だと精神を立て直そうとしたが、なおも湧いてくるのは何かしらの敗北感だった。

  この女はもちろん知っているのだろう、自分があの男の敵であったことを。瀕死にまで追いやったことを。ベジータの手の中に、あの時拳の内に握りこんだあの男の体の感触が蘇ってきた。骨をきしませ、砕く響き。あの時愉しまず一息に握りつぶしておけばよかったものを!裸足でざらざらとした石畳を踏んでいる、その冷たい心地悪さが足元から立ち上ってきて思わず唇を噛んだ。
 あの男が死んだら、この女はどのような顔をするのだろう。サイヤ人は連れ合いが戦いで死んだとて、表向きには悲しみを見せないのが常である。でも地球人は違うようだ。泣くのだろうか、苦しむのだろうか。
 あの、自分のそばにいる生意気な女が、時折見せる涙のように。それを思った同時に、白い衝動が脳裏に閃いた。
 あの男が愛でる女を、自分が奪い取ってやったら、あの男はどうするだろう。嘆き苦しむだろうか。
 いや、いまここでこの女を殺せば、どうするだろう…!

 「どうしただ、何する気だ、なんもしねえのか」
 女が低い声で言った。その声に我に帰った。
 「…何もせん。ただ、どんな女かと思っただけだ」
 「なんだ」
 「もういい、俺と会ったことはカカロットには言うな」
 女は頷いた。と同時に、あの男の気配が近づいてくるのがわかって、ベジータは急ぎ足に気配を殺しながらその場を去った。赤と黄色の鶏頭の、白サルビアを交えた花壇を蹴立て。女が非難がましくその様を見送ってるのがわかった。少し離れた、女からの死角に入ったところで、後ろから声がした。
 「チチ、ここにいたんか」
 「…なしただ、悟空さ」
 「いや、なんか今…気のせいかな。あ、そうそう、小腹が減ってきたからさ、なんか買う金くれ」
 「はいはい」
 見たくない気持ちがしたが、振り返って陰から男女を見た。札を一枚財布から出して女が手渡し、男がそれをポケットに突っ込んでいる。
 「心配性だなあ、悟空さは」
 女は座ったままひとつ微笑んで、まだ少し震えているような身体を男に寄せた。男がかがみこみ、女のすべらかな頬をその無骨な指でなぞり、女の唇に自らの微笑んだそれを軽く寄せた。思わず眼をそらして拳を握った。しかしなおも背中に感じる、笑いあって腕を組んで屋上から去っていく男女の気配。その充実した、満ち足りた気配。
 この上もなく幸福そうなあの顔…!



 西へと飛んだ。今度はひたすらに西へと。夕暮れの暖かい茜色、天の金色の輝きから逃げるように。金木犀の幸福な甘い香から逃げるように。逃げている己が途方もなく悔しかった。さっき食べたものを嘔吐きそうなほどの激情が襲ってきた。
 違う。そんな顔は違う。
 そんな顔をするな。自分に出来ない、そんな顔をするな。
 そんな幸福を味わうな。守るべきものを持つな。
 そんなのは、いまや寄る辺無きわれわれには相応しくないのに…!

 怒涛が脳を圧した。猛烈に吹雪く山脈が眼前に迫ってきた。白い雪肌が迫ってくる。あの、生意気な女の腕のように。
 寄る辺無き?
 ならば、なぜあの女を抱いた?
 違う。子など成したかったのではない。戯れだ。挑みかかってくるあの眼をどうにかしたかっただけだ。
 温かさなど欲したわけではない。
 穏やかに暮らすことなど真に欲したわけではない。試してみただけだ。自分に足りないかもしれない、と思って、試してみただけだ。
 なのに…!

 流星となって彼は谷に突っ込んだ。薄い大気が、肺を極端に酷使した。こめかみがギリギリと締め付けられた。心臓がばくばくと跳ねるように轟いている。斃れ伏した氷河に積もる白いものが、身体を覆っていく。身体を冷気と麻痺で塗り替えようとしている。突っ込んだ衝撃が、氷河をきしませ、ごろごろと言う不吉な音を発している。
 一瞬の意識の隔絶の後、細胞が塗り替えられた。同時に大音響と共に、山の一角が白い波濤を吹いた。金色の光と共に。








 社長夫人が途中になっていた庭の薔薇の手入れをしていると、生垣の一隅に突如花びらを蹴立てて降り立ったものがあった。
 立ち上がってスカートを調え、ゆっくりとした歩調で回りこみ、薄いオレンジの花弁の散る中に立っていたものにそっと呼びかけた。

 「ベジータちゃん、お帰りなさい」
 翡翠の眼が、夫人を無表情に見やって、一言問うた。2人は、この家の中では最も多く言葉を交わしていた間柄だった。主に一方的に、男の食事時に夫人が話しかけるのだったけれど。

  「あの女は、どこだ」

  「ブルマさんは、まだお出かけ中よ」
 「…ならいい。俺は、行く」
 夫人は、いつも微笑みに細めている目を少し開いて、青い瞳でその金色の男を見た。思った。物語の中の茨の王のようだと。無残に裸足で踏みしめている薔薇の蔓。散らばっている原種に近い小さな白い薔薇の花弁が、男が発する金色の闘気を受けてさらさらと石畳を流れていた。
 「…たまには、会いに来てやってちょうだいな。あの子にも、産まれてくる赤ちゃんにも」
 金色の男は何も答えず、水色の空に吸い込まれるようにして消えていった。

 夫人は、石畳の上でその姿をじっと見送っていた。長いまつげの植わった目尻から、ひとしずくの、透明な涙が流れ出して消えた。
 唇が、祈りのような言葉をそっとつむいだ。



 この家に暮らすもの、去ったもの、来たるものの、幸福を願って。
 それは、見守るもの、母親としての、ひたすらな一心の願いだった。







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