このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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touch2





 「おとうさん、鹿とってきたよ」
 悟飯が獲物を頭上に持ち上げながらゆるやかに森の上空を飛んでいくと、父親が岩棚の上で手を振りながら笑った。
 「お、こりゃでけえな。すげえぞ悟飯。じゃあ帰ってメシにすっか」
 父親の獲物は大きめのなまずが数匹だ。それを蔓に通して肩に担ぐ。夕闇が迫ってくる中、親子の2つの影が北東の山地のほうへと冬の空を飛んでいった。

 修行の帰り、ピッコロと別れたあと帰途の途中で食材を探して持ち帰るのが、宇宙から帰ってきてからのこの親子の始めた習慣だった。父親が帰ってきて20日ほどになるが、悟飯は来るべき悲劇の未来に備えて修行するという新しい生活を始めていた。
 朝に家を出て、冬の寒さを避けて少し南下した荒涼とした土地(父親ははじめてヤムチャと出会ったあたりだなあと懐かしげに言っていた)で師匠であるピッコロと待ち合わせ、3人で修行をする。昼になれば母親が持たせてくれた弁当を親子で食べる。夕方の5時になれば修行は終わりだ。そのあとこうして食べ物を探して持ち帰って、母親に料理してもらう。食べたら風呂に入って、少し勉強して、子供部屋でひとり眠りにつく。2年前、カメハウスに行く前には想像もつかなかった生活だ。そして、父親を待っていたこの一年の間にも、こんな修行漬けの生活など予想もつかなかった。
 楽しいか、と問われれば楽しいと言える。大好きな父親と師匠につきっきりで教えを請う日々。でも、自分が本当に望むところではないというのは常に感じている。その後ろめたさを感じているように、父親は帰ってきてから常に優しかった。いろんな話をしてくれたし、なるべく一緒にいてくれる。でも、父親がそうするのは単に自分といて楽しいからだけじゃないのだ。それが目下、悟飯の胸を痛めていることだった。
 「あ、ほれ、見てみろ悟飯、雁の群れだぞ。側に寄ってみようぜ」
 舞空術の練習のために、帰りも行きもなるべく筋斗雲に頼らず自力で飛ぶようにしている。親子は揃って鍵になって飛ぶ雁の隊列に加わった。茜色に染まる翼が力強く北風を割って羽ばたいている。
 「おとうさん」
 「んー?」
 「おかあさんどうしてるかなあ」
 「…まあ、楽しんでるんじゃねえか?久しぶりに会う友達なんだろ」
 悟飯は父親の横顔を見た。残照に忍び込む紫の影が、父親の目元を暗く落とし込んで表情は判然としなかった。でも、その声の裏側に心の疲れが見えた。
 両親は宇宙から帰ってきてからと言うもの、折り合いがよくなかった。子供である自分の前では普通に振舞おうとしているようだけど、以前のように2人でいるときに笑わなくなった。前はたまにこちらが恥ずかしくなるくらい明るくじゃれあっていた2人なのに、それが全く無くなった。何日かに一度、父親は自分の子供部屋に一緒に寝ようと言って来る。それは多分望んで来たのでなくて、逃げ場を求めてきているのだ。
 どちらがより悪いと言うのでもない。双方の気持ちも察せられるだけに子供の自分には何とも口を出しようがない。母親は昨日から、郷里の友人の結婚式だとかで家を留守にしている。当初は自分も行く予定だったのだが父親が帰ってきて修行が始まったので残ることになった。それは別に出て行く口実ではなくて父親が帰ってくる前からの予定で他意はないことだ。でも5日間の予定で出かけていくとき、両親は双方ほっとしたような顔をして、なおかつなにか新たに傷ついたような顔をしていた。
 もし、母親がこのまま帰ってこなかったら。
 それは、悟飯と父親が口にできない恐れだった。だから、別に誰もいない家に帰る必要も本当はない、修行場に滞在していれば毎日の移動の時間も省けるのだけど、親子は毎日家に帰るのだった。母親の存在を感じるために。母親がひとりあの頃に守っていた家に、自分たちが残されるために。


 帰ってしばらくして、電話が鳴った。
 「誰だった?電話」
 表で石を組んで、獲物を炙っていた父親がすすに汚れた顔を上げた。
 「おかあさんとおじいちゃんだったよ。あのね、おとうさん。あさっての日曜日のお休み、おじいちゃんところ行こうよ」
 「…なんで?」
 「あのね」悟飯は炊いてきた白飯(最近母親から炊き方を教わった)のどんぶりを差し出しながら、ことさらに明るい表情を作って見せた。「中の都の近くの町で雪祭りがその日にあるんだって。で、おじいちゃんの家のほうから行けば近いでしょう。みんなで見に行こうって、おじいちゃんがね」
 「へええ」
 「行こうよ、ね、おとうさん。移動遊園地とかも来るんだって。屋台もいっぱい出るよ。ボク久しぶりに遊園地も行きたいよ」
 「そうだな、よし、行くかあ」
 久しぶりの甘え声が功を奏したことに悟飯は顔を輝かせた。鹿の腿肉にかぶりつく父親もどことなく明るい顔をしている。きっと母親に会う口実ができたのが嬉しいのだ。そうに違いない。
 寒々と輝いていた冬の一等星たちが、急に嬉しげに瞬き始めたように感じられる。祖父が気を利かせてくれたこの提案に、悟飯は心底感謝した。土曜日の晩親子は筋斗雲でフライパン山を目指した。父親にしたら一瞬で行けるのだが、母親が瞬間移動をするのをいやがるからだ。

 「おうおう、よく来ただな、2人とも」
 城のホールで祖父が出迎えてくれた。正月以来だ。
 「おっす、おっちゃん」
 「おじいちゃん、もう来ちゃったよ」
 「いやいや構わねえだよ、すぐ晩飯にしようなあ。ここ最近ちゃんと食ってただか?今日多分もう来るんじゃねえかって、ご馳走の用意させてたからな。…どうした、悟空さ」
 祖父が、ご馳走の単語にも珍しく無関心で辺りを見回している父親を見て聞いた。
 「…あいつは?」
 「ああ、今日が例の友達の結婚式なんだべさ。2次会とかあるし、今日は別の友達の家に泊まってくるってよ」
 「そっか。よっしゃ、ご馳走ご馳走」
 そう笑って台所へと急ぐ父親の後姿を祖父と悟飯は見て微妙な顔を見合わせた。はしゃいでいるように見える背中がどこか痛々しい。母親は明日現地で合流する予定だと言うが、悟飯は急に不安になった。父親は平静で居られるのだろうか。悪いほうに転んだらどうしよう。





 
 息子の不安もわかる、と悟空は翌朝義父の運転するジェットフライヤーの中で居眠りしたふりをしつつ内心ため息をついた。自分でも情けないくらい妻に会うのが怖い。結婚してからだって、出産や病気で入院していたときを除けばこんなに長く妻が家を空けてよそに泊まっていたことなどないのだ。
 自分がいない間に決まってたことだと言うから、別に自分を避けて出て行ったのではないとわかっている。でも、自分がいないほうがやはり精神的に楽だと思われていたら。結婚式に出席するからには少しめかしこんで、昔の友達などに会っていたのだろう。その仲間内に男などいたのだろうか。料理の学校での友達だったと言うし、学校には男も多かったというからいるのかもしれない。懐かしくて話し込んで、仲良くなったりしたら。
 そこまで想像して心の中で首を振った。馬鹿な想像をするな。あるかないかわからないことで勝手に傷つくなんて愚の骨頂だ。
 でも、ないと誰が言える?
 そして、ちゃんと働く、優しい男をあいつが選んだら、自分は勝てるのか?
 あいつだけならまだマシだ。悟飯をもその男に奪われたら、自分はまた一人だ。


 …そんなのは。
 

 「ほれ、あの町だべ」
 義父が振り返ってきた。息子が肩を叩いてきた。あわてて表情を繕って目を開ける。目の前の息子の顔を見てやたらとほっとした。抱きしめたい衝動をこらえる。
 会場の待ち合わせ場所に近いフライヤー降り場に着いて辺りを見回すと、見慣れない女と共に居る妻の姿を見つけた。あちらもこちらに気づいて、息子に手を振った。隣の友人と思しき女が、自分を見て興味深そうな、微妙な表情を浮かべた。
 不愉快な情けないような気持ちになった。きっと、聞いて知っているのだ。妻がさんざん愚痴ったのかもしれない。でも眼をそらしたらなんだか負けなような気がしたのでせいぜいにかっと笑って見せた。
 「旦那さんですね。はじめまして」
 「おう、チチのこと送ってきてくれたんだろ。サンキューな」
 「じゃあ私はもう行きます。元気でね、チチちゃん。またね」
 妻よりすこし年かさの友人は、あっさりと自分のフライヤーに乗って行ってしまった。でも、言外に自分に説教をしていったのを感じる。
 言われなくたってわかってる。
 降り始めた雪の中を、悟空は義父と息子の歩く先のほうへきびすを返した。後ろから友人を見送っていた妻が小走りについてきて、追い越して行った。悟空はダウンジャケットの上のマフラーに鼻面をうずめて、ポケットに手を突っ込んだ。手袋をしてもなお北の寒気が冷たく指を凍えさせる。



 小さな町のとおりの両脇に、また公園に、さまざまな雪像が並んでいる。軍がつくった巨大な城の像もあれば、さすが世界の中心に近いだけあって国王をかたどった像、かたや幼稚園児がつくったという稚拙な小さな動物の像、自由参加のサークルがつくった像。雪雲が厚くなり出してそこここに灯りがともされ、ぼんやりと美しいオレンジの光がとりどりの像を彩っている。
 真ん中の息子の手をそれぞれにとって、夫婦はそのような中を歩いた。息子がそうねだったのだった。そして、後ろから義父が静かににこやかににらみをきかせている。なんだか自分たちが芝居をしている役者のようだ、と悟空は感じた。でも、こうできることは素直に嬉しかった。
 こうして親子で外出し、こうやって手を繋いで歩くのも、ひどく久しぶりのことだ。最後は2年以上も昔のことだ。あの頃は少し背をかがめ気味にしなければ届きにくかった息子の手は、楽々とやすやすと自分の手を握り返してくる。その手のひらの感触はひどく変わった。手袋越しにでも、肉厚になってよく鍛えられているのが分かる。自分で獲物をしとめられるまでに、一人で生きていけるまでに逞しくなった手。周りの同じ年頃の男の子供と比べても、段違いに逞しく利発そうな自分の息子の姿に誇らしいものを感じた。でもそう育てたのは自分じゃなくて、悟飯自身でありピッコロだ。自分は何もしてあげてはいない。
 自分はまだいい。息子に元々こうなって欲しかったのだから。妻はどうだろう、この息子の姿に何を思うのだろう。
 「そろそろ展示も終わりだべな」
 妻が不意に言った。
 「どうするべチチ、そろそろお昼だな」
 「この会場の地図見たらちょっと先に食い物屋とかあるみてえだけど」
 がさがさとパンフレットを広げる横顔を、ぼた雪が横切る。
 「行こう、早く行かないと混むよ、きっと」
 息子が手を引いた。お子様ランチが久しぶりに食べたいだの、それとも寒いからグラタンのほうがいいかなだの、息子は明るく喋り続けている。さっきから何かしら話題を見つけては、しきりに自分たちに話しかけてくる。不憫だ、悪いと思う。宇宙から帰ってきたときもこの子は一言もうらみつらみを言わなかった。頭のいい、ものわかりのいい、気遣いのできる出来のいい息子が逆に哀れだった。
 本当に、自分のような男からなぜこんないい子供ができたのか不思議なくらいだ。それはとりもなおさず妻のおかげなのだろう。妻は息子に向かって、いつもと何も変わらない優しげな笑顔を向けている。彼女にとっては本当にこの息子は宝だ。彼女がどんなにこの子を愛しているか、それは生まれてからずっとそばで見せ付けられてきたことだ。文字通り自分の腹を痛めて産んだ子供は無条件に可愛いのだ、と思い知らされる。
 だけど、夫と妻と言う関係はそうではない。子供が間に居る分離れ難くはなっているけれど、基本的に好きで一緒に居るだけの関係である。そうでなくなったら、意味のないもの。むしろそれ以上のものが絡んでくるならそれは依存というやつなのだ。
 昼飯を食べながらそこまで考えて予想以上に自分で傷ついた。義父が会計をしている間トイレに入って個室で天井を仰ぐ。なら考えなければいいのだが、考えることをやめてはだめだ、というのが若い頃の修行で彼が叩き込まれたことだ。問題はどのように正しい方向に考えを持っていくかだ。無闇におっかながるのではなく、無闇に自分を貶めるのではなく、いかに建設的な方向に自分の精神を持っていくかということだ。
 でもさすがに考えすぎて頭の奥がじんじんと痛み出した。外の自販機で暖かい甘い飲み物でも買おう、と思った。幸い小銭がジャケットのポケットに入っている。しばらくは休憩しよう。もう考えすぎることに疲れた。余計なことを考えずに楽しめばいいではないか。



 「次はねえ、コーヒーカップ!あれ!」
 「ありゃあ、またこりゃちっせえだなあ。おらじゃ身体が入らねえだぞ」
 「おっとうが乗れるのってほとんどねえべなあ。じゃあ悟飯ちゃん、おっかあと二人で乗ろうか」
 「おとうさんも。3人で乗るの」
 妻が自分を見て一瞬だけ傷ついたような顔を見せた。ほんの短い間だったが、目をそらして息子の手を引いて先に乗り場に並んでしまう。
 「じゃあおっちゃん、荷物頼むな。悪いな」その後ろにスチールの階段を踏んでつこうとした悟空の背中を、義父がそっと押した。
 「まあ、たまにはこういうのもいいもんだろ、悟空さ」
 「さみいけどな」論点のずれた答えを返して笑って見せた。
 そのように義父が大抵の乗り物に乗れなかったものだから、大抵は親子三人で乗り物を楽しんだ。義父が写真をたくさん撮ってくれた。移動遊園地にしてはたくさんの乗り物があるし面白いので、たくさんの子供づれが同じように遊んでいる。列に並んでいる間、周りのたくさんのそのような親子を悟空は観察した。はたから見たら自分たちもそのような幸せな家族に見えているのだろうか。そうならいい。そう装っているのだから。
 でもよく目を配っていると、必ずしも仲のいい夫婦ものばかりではない。かりかりと片方に怒ったり、子供を通してしか口をきかなかったり、互いに触れるのを避けあってたりするものもやはりいる。自分たちのように。世の中と言うのはうまくいかないものだ、でもその日々の中でみんなそれなりにやっているのだ。自分だけが愛情に飢えているのではない、そう考えれば多少慰められるような気がした。降り来る雪にうっすらベールのかかった風景の中、幸福も不幸もすべて混ぜ合わせのようにかすんでいる。その中ではしゃぐ子供たちの声のなんと尊いことだろう。
 「雪の影響のため、予定より早いですがあと30分ほど、4時にて当移動遊園地は閉園とさせていただきます」
 いくつものスピーカーから、不意にアナウンスが場内にこだました。あちこちから落胆と失望の声があがる。さすがに冷え込んできたし、多くの家族連れが帰り支度を始めた。場内は急速に潮が引くように音を失っていった。
 「どうする?オラたちももう帰るか」
 観覧車の列に並んでいた一家は相談した。でももうかなりいいところまで来ているのである。あと10分ほども並んだら乗れそうだ。観覧車はオープン式で大きめにつくってあるので、義父でも乗れそうなので寒い中我慢して長い間並んでいたのだ。
 「おらはせっかくだから乗りてえだなあ」
 足元が冷えるだろうから、と孫を抱えあげた義父が反対した。
 「そうだな、ここまで来たし。それにほら、前の人が今抜けたべ、思ったより早くいけそうだべ」
 そのとおりだった。5分でもうすぐ乗れるところまで来た。
 「じゃあ悟飯ちゃん、こっち、おっかあと乗ろう」
 「ボクおじいちゃんと二人で乗る。おじいちゃんずっとつまんなかっただろうから。ね、おじいちゃん」
 「おう、おらも悟飯と二人がええだ」
 ぎょっと夫婦は顔を見合わせた。そのうちにオープン式のほとんど檻のようなゴンドラが迫ってきて、係員に後ろから押されるように載せられた。がちゃんと鎖を渡す音がした。
 椅子も何もないゴンドラが、ゆっくりと上空に上がっていく。大きなこの観覧車は、一周5分もするのだ、とさっき息子が言っていた。ゆっくりすぎはしないか。
 後ろのゴンドラにも義父と息子が乗り込んだ。隣の妻がその様子を途方にくれたような顔で見下ろしている。風がびゅう、と吹いて妻の頭の上の耳あて付きのニット帽をあおった。それをかぶるために今日は妻は髪を下ろして、昔のように後ろで縛っていた。
 「あぶねえ」
 飛ばされそうになった帽子を、後ろから頭頂に押さえつけた。
 「…ありがと」
 小声で礼を言われた。だんだんと登って、4分の1のところくらいまで来た。回りの雪像の高さを超えて、視界が開けてきた。薄墨色に染まった空から、ひっきりなしに雪が落ちてくる。オレンジの明かりが下界に沈み込んで、幻想的な景色をつくっていた。
 「…あのさ」
 「…」
 妻は無言だった。左に並んで手すりを握ってその横顔を見る。マフラーに埋めた唇がきゅっと引き結ばれている。睫毛に雪がついて溶けていくのが涙のように見えて胸が苦しくなった。いつも、一緒の部屋で眠るときに背中合わせに彼女の押し殺した涙を感じていた。気づかないふりをしていたけれど。
 手すりを握る、自分に近い側の左手が、赤く冷気に染まっているのにふと気づいた。右手は赤いミトンをしているのに。
 「手袋、どうしたんだ」
 「ジェットコースターのときどっかに落としちまった」
 「つめてえだろ」
 妻が横に首を振った。なんて強情なんだろう。無言でコートの上からその手首をつかんで、自分の水色のダウンのポケットに押し込んだ。戦闘並みにすばやくやったので妻は一瞬ぽかんとして、やっと何をされたのかわかって睨み付けてきて眉を逆立てた。その表情に胸が痛んだ。痛んだ胸に、今日心臓病の薬を家に置き忘れたことに気がついて冷や汗が出た。
 そうだ。自分はいつ倒れてもおかしくないのだ。いやだ、こんなままで死にたくはない。胸は心痛に痛んだだけだったが、噴出した焦りをこらえるように、悟空は噛み付くように妻を睨み付けた。そのようなとげとげしいものではあったが、夫婦は久しぶりにまともに視線を合わせたのだった。
 「怒鳴るなよ。悟飯がびっくりする」ぱくぱくとものを言いたげにしていた妻に先に低い声で釘をさした。「仲良くしなきゃ、あいつの今日の努力が台無しだろ」
 右隣であきらめたように首がうなだれた。その横顔を見る。うつむいた表情は伺えないが頬が染まっているのはわかる。ゴンドラはそろそろ頂上に差し掛かる。あと2分半。2分半で何ができる。隣に昇ってきたゴンドラには義父と息子がいる。でも努めてそちらは見ないようにした。多分見られているだろうな、と言うのは心眼でわかってはいたけれど。
 「おとなしくしろって」
 「…」
 ポケットの中で抵抗する手を捕まえた。自分の黒い薄手の手袋の向こうに彼女の細い冷たい指が暴れている。なぜ自分はこんなものをつけているのだろう、と無性に腹が立った。素肌で触れ合いたいのに!
 束縛を離れた彼女の手の爪が急に手袋越しに手の甲をつねり上げてきた。
 「つねりたいんなら、手袋脱がせよ」
 低く言った。妻がちょっとの間の後、勢いよくポケットの中で手袋を剥ぎ取った。そしてぎゅうっとつねりあげた。

 その冷たい爪。その冷たい指。柔らかい汗ばんだ手のひら。

 どんなに痛くされたって、触れさせてくれるならそれでもかまわない。

 「…いてえ」
 前髪を風になぶらせながら、そう顔をしかめた。こぼれそうになるものをこらえるために。
 「嘘吐き。こんなの痛いわけねえべ」
 「いてえよ」
 「嘘」
 「ほんとだって」
 手が緩んだ。その指を、そっとつまむようにして指でなぞった。引っかかれるかと思ったが妻は意外にもおとなしくされるままにしていた。指紋の一本一本を、掌紋の一本一本を確かめるようにそっと人差し指の腹で、親指の腹でなぞる。指紋をかみ合わせるように。手の指の間を、手首の付け根を、すべらかな手の甲を。そっと慈しむように、ゆっくりと。
 不意に妻がびくっと身を振るわせた。感じているのだ。細い指が時折のけぞる。2人ともの掌が熱くなってきた。横目で妻を見る。うつむいたままで彼女は視線は合わさないが、唇を震わせて頬を赤くしているのはわかった。白い息の塊が、マフラーの周りにふわふわと雲を作っている。自分のマフラーの周りにも同じように。
 そのように、睦みあうからだのように手を絡ませながら、前を向いたまま低くささやいた。
 「オラは、おめえのこといやじゃねえ。亀仙人のじっちゃんが言ったことなんて気にすんな」
 はっとしたように妻が顔を上げてこちらを見た。今、心を読んだのだ。読んだことは言わなかった。妻は息子から聞いたのだ、と解釈したようだった。
 「…帰ってくるだろ?」手を止めて、顔は前を向いたまま、横目で見つめて、問う。横は向けなかった。向き直ったとたん、抱きしめてどこかにさらってしまいたくなりそうだったから。
 「…おらは、悟空さとは違う。ちゃんと帰る。でも…まだ、今日は。約束もあるし」
 「待ってるから」
 ポケットの中で、彼女の手がぎゅっとこぶしを作った。それを、そっと上から包み込んだ。
 「どれだけ、待ったと」
 「だから、待つよ。泣くな。悟飯が心配する」
 「泣いてねえっ」
 振り払うようにしてポケットから手が出て行った。下界が近い。妻はそっぽを向いて憮然とした表情をしている。本当になんて強情なんだろうか。嘆息しながら、うつむいた。読んだものが心を蝕んでいく。読んだことを激しく後悔した。自分の居ない間のこの女の心がこんなにひどいものだったとは思っていなかった。義父からいっとき精神を病んでいたとは聞いていたけれど。…甘かった。自分は何もわかっていなかったのだ…!
 青ざめた頬に、雪がひたひたと張り付いた。
 「…悟空さ…?」
 がたがたと終点近くになってゴンドラが音を立て始めた。ぼんやりとした眼を瞬いて下を見ると、妻が気遣わしげなまなざしを向けてきていた。その顔に正気に返った。


 久しぶりに見るようなその素直に優しい顔に、ゆるゆると笑顔を見せながらおぼつかない脚でゴンドラを降りた。
 彼女の絶望。彼女の愛憎。彼女の自他への苛立ち、憎しみ。でも、それと同じだけ自分は愛されている。
 絡まりきったこの感情をほぐさなければ。それは自分にとってはひどく難問だ。でも大丈夫、勇気はまだある。さっき充電したから。

 この女が触れることを許してくれるなら、それだけで自分は力を出すことができるのだ。
 思い知った事実を改めて胸の中にしまって、悟空は続いてゴンドラを降りてきた息子に笑いかけた。
 待っててくれ。もうすぐ、お前に心配かけないようにしてみせるから。そう胸の中で誓いながら。


 夕暮れちかい、暗いひとけの引いた通りを、荒い足つきでさきさきと、ずかずかと歩いていく妻の茶色のコートの後姿。
 オレンジの明かりがその姿を照らし出している。彼は知っている。その歩調は、彼女の照れたときのクセなのだと。
 息子の手を握って、悟空はその影を大股で追いかけた。後ろから義父が雪を大きく蹴散らしどこか嬉しげな足音で追いかけてくるのを感じながら。






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