このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
なお、このページには若干の性的表現が含まれます。
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time4






 「あ、白髪」
 「…んー?なんだべ…?今何時…?」
 「5時半」
 「なんだ、まだ早いじゃねえべか…もうちょっと」
 妻が布団の中で身体を横向きに丸めた。悟空はその後ろからくの字に身体を曲げて重なるように身体を寄せた。薄いピンクのパジャマに包まれた温かい柔らかな背中が再びたてかけた寝息にゆっくりと上下している。彼の顔の下で長いつややかな髪の毛がゆるゆると流れを描いて白いシーツに広がっている。
 家の上部のぐるりを巡る天窓は、夜から朝にかけては自動的にある程度の遮光がかかるようになっている。今は曇りガラスのように白くにごったそこからは、5月の朝の青空が淡く覗いている。菜園と物干しを臨む窓にかけられたカーテンの隙間から、金色の光が細く漏れこんでいる。
 悟空の指がゆっくりと妻の髪の毛を分けた。光に白くきらめく一筋があった。
 「あ、やっぱし。これ白髪だろ」
 
 しばらくの間の後、妻が跳ね起きた。
 「嘘っ」 
 「嘘じゃねえよ」真っ赤になってベッドから降りようとする妻の手首を捕まえて笑った。「見たもん。後ろ頭の真ん中らへんにさ。一本」
 「やだあ。抜いて!抜いてけろ、今!」
 「もーわかんなくなっちまった。根元の方ちょっとだけだったし」
 「探してっ」妻が頭を突き出してきた。
 「いいじゃんか。やだ、オラ抜かねえよ」
 「悟空さのケチっ。バカっ」
 「しかしおめえももうオバサンだなあ」
 
 その一言がまずかった!
 
 ばっちーん!


 「な、なにっ」
 その音に広いベッドの脇のほうで一緒に寝ていた次男坊がびっくりして飛び起きた。寝ぼけて状況が把握できずきょときょとしている子供を尻目に、寝室のドアがすさまじい勢いでばあん、と閉まった。
 「ってえ〜…」頬をさすりながら父親が情けない顔をしている。「いつぶりだよ、平手打ちなんて」
 「お、おとうさん、何があったの」
 「な、何があったんですか」時ならぬ騒音に眠りを妨げられた長男もおそるおそる様子を見に来た。
 「何でもねえよ。ちょっと怒らせちまった」
 「ちょっとって怒り方じゃないですよ」
 「ちょっともうオバサンだなーって言っただけなのによ」
 長男は肩を落とした。そりゃ怒る。特にここ一ヶ月余り、母親がどれだけ美容にご執心だったか目の当たりにしてきただけに。そりゃ怒るとも。
 「おとうさんみたく強くっても、おかあさんに叩かれたくらいで痛いの」次男坊が無邪気に父親の押さえている頬を指差しながら聞いた。
 「あー、オラ、チチといるときは気をほとんど絞ってるからなあ。そうでないと痛がるだろ、抱いたりしたらさ」
 長男は思わず真っ赤になった。多感な17歳に対する配慮など微塵もないのだ、この父親には!
 まあでも、まだこの人にはそういう自覚が身についてないのかもしれない、と努めて思うようにした。何せあの世から帰ってきてまだ3日。この人の中ではまだ自分は9歳の子供のままなのかもしれない。でもそろそろ考えてもらわないと。
 そういうことを言おうとしたのだが、父親は弟を連れてさっさと洗面に行ってしまった。苦笑して自分も寝室を出た。母親のご機嫌伺いに行かなければ。それは父親が長く不在の時から身についてしまった長男の不憫な習性なのだった。



 朝飯が出てきたので怒りレベル最高潮と言うわけでもないらしいので悟空はほっとした。いつも喧嘩になると彼は妻が食事を作ってくれるかどうかで機嫌を計る。お小言ですむくらいなら普通だ。もうちょっと上に行くと彼の分だけ質素になったり少なくなったりして、その上が飯抜きだ。しかしその上には表面上は普通に見えるけれど絶対に謝ることすら許してくれないラインと言うのがある。一度宇宙帰りにそれを長い期間されたときには本当に参った。それはもはや喧嘩と言うレベルではなくて夫婦の危機と言うやつだ。とりあえずそこまではまだいってない、とは思うのだが。
 子供たちを間に挟むと妻の機嫌と言うものは見えにくくて困る。1対1で向かい合ってたら顔を見てすぐわかる。すぐ機嫌を取ることもできる。でも子供たちの手前では彼女は第一に母親の顔を作るから、表面を取り繕おうとする。その下で静かに怒っているのだから怖い。かといってこちらが機嫌を取るのをおろそかにしては余計怒らせることになってしまう。とかく女と言うのは面倒くさいものだ。
 「いってきまあす」
 悟飯が学校に出かけていった。まじめな長男はあの武道会のあとですぐ学校に復帰した。いろいろ今は大変らしい。「金色の戦士」というやつだったことがばれたからだ。妻でさえもう少し休んでたら、と言ったのだが、まあ誰か会いたい人間でもいるのだろう。
 家族の身辺は悟飯に限らず微妙にざわざわしていた。悟空自身にしたっていきなり生き返ったのだから、昨日挨拶に回った村の人には相当驚かれた。それに村の人は悟空がセルと戦ったということもテレビで顔を見てなんとなく知っていたし、こないだの時だって脳裏に送りつけられた映像で(モロに悟空は普通の状態の顔で登場していたので)ブウと戦っていたことを知っている。悟天は顔も名前もわかってしまっている。どうもマスコミがいろいろ町の方で嗅ぎまわっているらしい、と村では噂になっていたが、まだたどり着かれてはいないし村の人たちも知らん振りをしていてくれる。かえって悟天の勇気をたまに褒めてくれるほどだ。それは有り難かった。
 しかしトランクスは身元がばれているだけに大変なのらしかった。学校にも行けない。カプセルコーポレーションとしてコメントなどはさせないという決定をしていたしそれは社員にも通達されていたが、口の軽いものなどから断片的に出る情報はワイドショーのネタになっていた。おかげで一家はどこかの別荘に引っ込んでしまった。はやくドラゴンボールが復活してみなの記憶を消してしまうことができたら、と思う。
 ワイドショー好きだった妻でさえ自分が帰ってきてからはテレビを見るのを避けるようになっている。難儀なことだ。クリリンから昨日電話で聞いたのだが自分たちが結婚した時も武道会があんなことになったものだから多少の波紋と言うか嗅ぎまわろうとする奴らはいたのらしい。コアな武道ファンにとっては悟空は名前は知られた存在だったし、武天老師の弟子であることも知られていたから探りを入れられたことも一度二度あったのだという。でも当時本当に悟空がどこにいってどう暮らしているのかわからなかったので答えようがなかったのだった。牛魔王に聞けばわかったのかもしれないけれど、新婚だし余計なことを知らせないほうがいいと言うので気を遣ってくれたらしい。
 世間と言うものは厄介である。ある意味どんな敵より恐ろしい。際限がない。

 「どうしようかなあ」
 電話を置いた妻が考え込んだ。今の電話は武道会の事務局からで、悟天が少年の部で準優勝した賞金の500万ゼニーを取りに来てください、というのだった。できれば悟天も一緒に。でも世間がこんなことになっているので余り妻としては悟天を人のいるようなところに連れて行きたくないのらしい。
 「いいじゃない、ボク行くよ。でないと貰えないんでしょ」
 「まあ母さんだけでもいいらしいけど。おらは一回武道会出てるから審判さんも知ってるし、悟空さと結婚したのだってわかってくれてるからなあ。今審判さんもそう電話で言ってただよ」
 「ああそっか、審判のおっちゃんか」
 「でもボク行きたい。そんで帰りになんかおもちゃ買って。ボクの賞金なんだから、ね、いいでしょ、おかあさあん」
 「仕方ねえだなあ、じゃあひとつだけだぞ?あとは母さんに預けてな。いろいろ今後のこともあるし、なんてったってよく食べるのがひとり帰ってきたんだから。ああ、悟天ちゃんは親孝行だなあ、こんな小さいうちからこんなに大金稼いでくれて」
 ちくりと刺された嫌味に悟空は苦笑した。結局悟空が留守番で、妻と次男坊がジェットフライヤーで出かけていった。自分が死んでる間に義父から小さいのをお下がりでひとつもらったのだという。悟天は一応変装のようなことをして行った。
 



 罰として留守番に残された悟空はリビングのじゅうたんに昨日から置いてあるアルバムの山の一冊を手に取った。そこには彼の知らない7年間がある。帰ったその日から家族はその隔絶を埋めるために努力をしていた。主に悟天と悟空の間で。
 世間のどのうちでもそうであるように、2人目だからと言うので悟天の写真はひとり目よりは少なかった。悟飯のときは悟空もわりと舞い上がってみずから写真を撮りまくっていたので(失敗もかなりあるのだけど)枚数だけはたくさんある。悟空はその頃の自分の撮った写真を別のアルバムをめくって見た。あの小さな赤ん坊があんなに大きくなるとは、と思うと今更ながら時の流れに感慨を抱いた。この7年彼は時の流れない世界にいたのだったから。
 それと同じように、このアルバムの中にいる悟天もこれから大きくなっていく。悟飯のそばで見てやることができなかった少年期を歩いていく。悟飯にせよ悟天にせよ、自分は子供の成長をちゃんと見守れていないのだ、と考えると自分がずいぶん子供に対して、言い方はおかしいが不孝をしている気分になった。チチが自分が死ぬ前によく言っていたように父親失格と烙印されても仕方ない。祖父も自分を遺して死んだときはこのような気持ちだったのだろうか。
 リビングの窓の外を見ると、故郷の山の方は雲がかさをかぶってしっとりと湿気に曇っている。もうすぐ長雨の季節だ。その前にはまた墓参りにでも行かなければならないな、と悟空はぼんやり思った。
 あの世で祖父のことを探しはしたのだけれど、すでにあちらにはいなかった。どこかで、新しい生命として楽しくやっていればいいと思う。悟空は悟飯が生まれた頃、この子が祖父の生まれ変わりであれば、と思っていたこともあったけれど、今はそうでなければいいと思う。自分が死に追いやった祖父を、次の生涯でも自分のために苦労させるだなんて気の毒ではないか。
 でもアルバムを見ていると、自分がいない間それなりに楽しくやっていたようだったので悟空はなんとはなしにホッとした。単にそんな場面が写真に残っていないだけだとわかってはいるけれど、泣いてばかりいられてはこちらだって哀しい。自分はそもそもこの家族が楽しく生きていけるように死んだというのもあるのだから。不遜ではあるけれど、死んだばかりの頃は残してきたものたちをやはり泣き暮らさせてしまうのではないか、と思って悟空も胸を痛めていたのだった。その頃のことについては妻も長男も話そうとしなかったし無理に聞くことでもない。
 ただ、残してきた者たちが自分を必要としないように心を砕いて作ってきた環境に、自分がすんなりと違和感なく入り込んでいけるか、というのが今の彼の課題である。やはり会話の端々やらなにやらに、自分がいちいち説明してもらわないとわからないところがある。子供たちの好き嫌い。好きになってきたもの、嫌いになったもの。庭の移り変わり、家具の配置、新しく買ったもの、なくなったもの。そういうちょっとした生活の段差。前にも2年以上家を留守にしていたことがあるけれど、やはり7年、しかも家族が増えているというのは大きいものなのだ。
 まあ、ゆっくりのんびりやるさ。
 こちらにだって、まだほとんど話していない7年間と言うものがあるのだ。

 アルバムを閉じる前に、一枚の写真が目に付いた。珍しく妻単独でうつっている一枚の写真だった。それを取り出して、改めてソファに寝転がってまじまじと見た。
 悟天を妊娠している間なのか、大きな腹を抱えて今自分がいるソファに腰掛けている。まだ前髪があって、肩流しの三つ編みにしていた。自分がこんな写真を撮った覚えはないから悟飯が撮ったのだろう。
 悟空はやはり7年と言うのは大きい、と思った。いつも悟空が歳月を感じるのは、妻の髪の毛がひとつの指標だったから。
 まだ怒っているのだろうか。このままではまた長いことさせてもらえないかもしれない、と思って眉を曲げる。帰ってからと言うものまだ夫婦は肌を重ねていなかった。こっちは7年間女の影もなくやってきたというのに。ただ一日だけ帰る、と決めたときも、どれほど妻に触れるのを楽しみにしていたことだろう。
 こればかりはのんびりしてはいられない。いったん考え出すと、自分でも恥ずかしくなるくらい妄想が止まらなくなった。まるで新婚の頃初夜をお預けさせられていた頃のような気分である。幸い家には自分ひとりだ、さてどうしよう。
 「わーん、おとうさーん!」
 「うわあっ」
 間一髪だった。いきなり玄関から飛び込んできた次男坊を真っ赤になって振り返った。始める前でよかった、そんなところを見られては父親としての威厳失墜である。なにより妻には見られたくない。
 「おとうさん、あのね」
 「な、なんだ、悟天」飛びついてきた悟天をソファに寝転んだ身体でうけとめたのだが、妙なことになっているものに気づかれそうだったので慌てて頭上に抱き上げた。「お帰り、…あれ、母さんは?」
 「あのね」
 慌てている悟天をなだめて話を聞くと、賞金をもらって帰りに南の都のデパートに寄ったときに悟天に気づかれてしまったのらしい。南の都には武道会を見に行った人も結構いたものだから。別にあからさまに迫害されたりはしなかったのだが人が集まってきたしすぐそばのテレビ局からも人がきたので逃げてきたのだという。
 「で母さんは」
 「ボクだけ先に帰りなさいって」
 「馬鹿っ」怖い顔をした父親におもちゃの箱を抱えた悟天がびくっと身体を縮こまらせた。「だからって母さん置いてきちゃだめだろ。母さんは飛べもしねえのに」
 「だってえ。ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい」 
 「泣くな。わかった、父さんちょっと瞬間移動で迎えに行ってくる。おめえはここにいろよ!おめえの気を感じてまた帰ってくるからな!」




 ブルマよりは探しやすいがそれでも久しぶりに探る妻の気はひどく捕まえづらい。やっと見つけて飛んだのだが、目の前には見知らぬ格好の女がたたずんでいた。
 「あ、あれっ」
 悟空は周りを見渡した。どこかの繁華街の裏路地である。そして目の前にいるのは、胸の開いた丈の短いワンピースを着て大きなスカーフを巻き、髪を下ろしてサングラスをかけた黒髪の女だった。
 「ご、悟空さ!?」
 「えっ」
 「あ、まずい。隠してけろ」
 いきなり身体を引き寄せられてその陰に身を潜められた。後ろの通りの方をカメラを担いだどこかの記者と思しき数人が駆けていくのがわかった。悟空は背中の感覚でそのさまをみはりながら、目の前に密着してきた女を観察した。なるほど、これは妻だ。妻の匂いがするし、肩にさげたどこかの紙袋には今朝着ていった服が入っている。しかしなんだってこんなブルマみたいな格好をしているのだろうか。
 それよりそんな露出の多い格好で密着してこられては困るのだけど。悟空はだんだんまた妙な気分になってきた。見下ろす位置にある胸の谷間がかすかに汗をにじませている。そこから立ち上るどこか花のような妻の体臭。頭を肩口に寄せて目だけ向こうをうかがっている。その変わらず華奢な顎の感触。自分の足の間に割り込んでくる白い生脚。
 「もう誰もこねえみてえだぞ。なんだおめえ、何でそんな格好」やつらが行ってしまったので、そんな疚しい気持ちを気取られまいと悟空は慌てて聞いた。
 「変装だべ、変装。急いで買った割に結構いいコーディネートだべ?」妻が笑った。「いやあ、でも自分がドラマの主人公かなんかになったみてえで結構面白かっただよ。逃げるの自体はそんなに大変でもなかっただ、まだまだおらもそのへんの男よりはよっぽど走るの速いもんな」
 「一瞬誰かと思った。間違えたかと」
 「ふふん、おらもまだいけてるだろ」そこまで言って妻が思い出したかのように眉を寄せた。「まあオバサンはオバサンだけど?」
 「ごめん、悪かった。あ、ちょっと待ってな、ちょっといてえぞ」離れようとする妻の肩を抱いて悟空はその頭の黒髪を分けて一本引っこ抜いた。
 「痛っ」
 「ほれ、抜けた。今朝言ってたやつ。ほれ、これでもうオバサンじゃねえや」
 妻の目がこげ茶色のサングラスの中で笑った。その目に彼の中の残された理性がじわりと音を立てて溶けた。サングラスをそっと取って、7年ぶりにキスをした。軽く、次に深く。
 「や、こんなとこで」しばらくの後、妙なところに伸びだした手をはたきながら壁に押し付けられた妻が白いのどを上げた。
 「おめえがそんなカッコしてるから悪いんだ」
 「で、でも駄目。悟天ちゃんは、悟天ちゃんは無事だべか」
 「ああ、大丈夫だ。家で待ってるさ」妻の弱点である耳に唇を寄せながら答える。
 「じゃあおらたちも早く帰らねえと」妻のヒールが足元の空き瓶に当たってかつん、と音を立てた。
 「やだ。家じゃできねえもん。あいつが邪魔でさ。だから、…あ、なんだ、ちょうどいいじゃねえか。よし、入ってこーぜ」
 悟空は妻の手を引いて通りの向かいのホテルへと歩き出した。妻は真っ赤になってしばらく入り口でぎゃーぎゃー文句を言っていたのだけれど結局は折れた。




 「ちゅうわけだからあ、悟飯、悟天の面倒頼むな」
 帰ってくるなりかかってきた電話に長男はまた赤くなった。まったく本当にこの父親は多感な17歳に対する配慮と言うものがない。どこの世界に今母親とホテルにいるから今日は帰らないかもしれないと電話をかけてくる父親がいるのだろう。母親が後ろでそれについて怒っている声がしているがじゃれあっているようにしか聴こえない。
 「にいちゃん、おとうさん何て?」
 「あー、おとうさんはおかあさんとデートしてくるから、明日の朝まで帰らないって」
 「ボクのこと怒ってるのかなあ」
 まあある意味怒ってるとは思うが、と悟飯は苦笑した。「大丈夫だよ。明日の朝になったらけろっとして帰ってくるって。そしたらまた遊んでもらいな」
 「うん」
 「さあて、じゃあ今日はにいちゃんが晩飯作るか。なにがいい、悟天?」





 「な、悟飯がいれば大丈夫だって」
 「だからって」いかがわしい安いホテルの一室で妻が唇を尖らせた。「どうせならもっといいところがよかっただ。こんなとこじゃなくて」
 「新婚旅行のときみたいな?」そもそも結婚してからほとんど旅行にも行かなかった夫婦なので、悟空はそこしかまともな宿を知らなかった。
 「んだなあ」
 「今度また行こうぜ」
 「あんな高いところ」
 「あー、オラそんで武道会を選んで帰ったのになあ。優勝したらおめえに賞金やれると思ってさ。そしたら結婚して一銭も稼いでないとか言われなくてすむだろ?結局結婚した武道会の賞金も貰わずじまいだったし」
 妻がちょっと目を瞬いたあと、悟空の裸の胸に頬をこすりつけて笑った。その頭をゆっくり撫でた。さらさらと昔のように髪が指の間で流れる。変わったのは前髪が伸びたこと。その長さは子供たちを必死に育ててくれた年月の証だ。その有り難さがまた彼の胸を締め付ける。
 誰か他の男を見つけるという選択肢もあっただろう。でも、いつか会いに帰ってくるという約束を信じて待っていた、とさっき言っていた。あんな不確かな約束のために。
 だから、たとえオバサンになろうが、プリプリでなかろうが。

 「愛してるぞ」
 夜更け、何回目かの後、渇いたのどの奥でかすかにささやいた声に、妻が閉じかけていた瞳をゆっくり笑わせた。
 「7年たって悟空さは口がうまくなっただな」
 一度きりだからな。そう言って、悟空は手元のパネルで照明を落とした。7年ぶりの満足でこの上なく幸福な眠りに落ちるために。








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