このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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time2






 彼女の長いまつげを、相手のかすかな吐息が揺らした。唇に、相手の同じ部位の熱がためらいがちに添えられる。長い指が、自分の耳元の髪の毛を分けて、何本かを絡ませて耳朶の上のほうをなぞる。
 たちまち彼女の、恥じらいに閉じられていた唇が甘やかに開かれて、その隙間から温かく湿ったものが分け入ってきた。さっき2人で使ったばかりの歯磨き粉のミントと塩の味がした。それは彼女の口の中を長い時間かけて探り、おもむろに去っていった。
 彼女は脳が痺れるようなこのいっとき、いつも思う。こうされていていいのだろうか、と思う。こんなにいいようにされてしまっていていいのだろうか、と思う。でもこんなの、尋ねるべき人もいない。そしてぼんやりと思う。ここまでされていて、まだ思う。この人は、自分のことを本当に好きなのだろうか、と。
 彼らが結婚した後に恋に落ちて3ヶ月。ここのところ彼女は、沼に落ちたように思考の陥穽に沈み込んでいた。


 唇が離れて、数秒の間があった。雲の切れ間から切れ切れに覗く月の光が、まぶたの裏に明滅する思考を照らし出しては闇に追いやっていく。しばらくして彼女は気づいた。いつもなら、すぐもう一段深い口付けが来るはずなのに、どうしたのだろう。

 
 ベッドに横たわった彼女が重いまつげを開くと、薄闇の中に手と膝をシーツについて上に覆いかぶさっている夫の怪訝そうな顔があった。
 「どうかしたんか」
 「なんで」
 「なんか、うまく言えねえけど。おめえ変だぞ、今日。ぼーっとしちまって」
 「…ごめん」
 彼女は素直に詫びた。でもなんでもないと頭を横に振ったあと、少し上空にある夫の頬に細い指を沿わせて微笑んだ。ぼーっとしてたのはここ数日も同じだけど、気づいてくれるだけ今日は上出来だ。でも、まだそれ以上は知らなくて良い。
 「やめとくか、今日は。なんかしんどそうだ」夫が彼女の上からどいて、タオルケットをかぶった。
 「やだ。してけろ」彼女は慌てて言った。言ってしまってから顔を赤くした。
 「そう言われるとなあ」夫が苦笑する。「…でも、今日も、昼間したし。いいや。やりすぎだよな」
 そうかもしれない。彼女も苦笑した。でもそれは夫ばかりの責任じゃない。自分だって、もう彼無しではいられない。
 口付けで沸きあがってきた欲望の熱が、皮膚の下でじんじんと聞こえない音を立てながら出口を求めている。下腹に、甘い痺れと焦燥感になってたまっていく。彼女は意を決して、夫のかぶったタオルケットの中に潜った。
 「…どした」
 しばらくして、喘ぎを押し殺した問いがタオルケットの中の闇の向こうでした。
 なんでもない、と、彼女は自由にならない唇の動きの中から答えた。いつしか…いや、ひと月ほど前に月のものでまともに相手をしてやれなかった頃に習い覚えたわざ。普段ならとても自分からはできないのに。でも、と彼女は思う。前には感じなかった嘔吐感をこらえながら。
 しばらく、できなくなるのなら。せめて、自分が与えてあげられる全てを。
 好き。
 好き。
 この快楽がなくても、どうか自分を好きでいて。

 いきなり、腕がタオルケットに突っ込まれてからだが勢いよく引き上げられた。あとはその腕に身をゆだねる。まだ服もろくに脱ぎきっていないうちに、下腹に熱いものが押し当てられ、体の中に進入してきた。

 切羽詰った彼の動きに、彼女は眉をひそめて願う。わかってる、望んだくせにこんなこと願うのは矛盾している。でも優しくしてほしい。もっと優しくしてほしい。
 だって、そこには、子供がいるかもしれないのだから。
 月のものが遅れて5日目の晩だった。









 翌日、昼。

 彼女はかばんの中から取り出した小さなスケジュール帳とずっとにらめっこをしていた。ショッピングモールのアーケードのついた中庭は、フードコートも兼ねていて、昼時多くの家族連れでにぎわっている。平日とはいえ学校は夏休み。天井の白色ガラスを潜り抜けたやわらかな夏の日差しが、中庭に植えられた百日紅の愉しげな桃色をすかしてこの場に満ちている。でも、彼女の思考はまた泥のように重くうずまいていた。

 最近カレンダーを見てばかりだ、と彼女は自分に嘆息する。
 とりあえず、まだ医者には行っていない。今日で6日目。3日前からどうもおかしい、と思い始めた。そこから毎日、今日来なかったら、今日来なかったら、とそんなことばかり思っている。でも、今日来るのでは、来るのでは、と思ってもいるのだ。実際どっちでもおかしくないのだけど、自分がホントはどちらが良いのか、どちらを望んでいるのか、と自分をなじりたくなる。
 日付を気にしてばかりの自分に呆れもする。まだ一週間も遅れていないのだから、気にしすぎなのかもしれない、と思う。実際気にしすぎると別に何もなくても余計遅れることもあるのだから。でも、頭の中で指折り数えることをやめられない。ぼうっとしているように夫から見えるのはそれでだ。実際なんとなくの熱っぽさに頭がうまく回っていない、と言うのもあるのだけれど。
 彼女は一人、ひじを太ももについて固いベンチの上でため息をついた。そこに食事後用足しに行っていた夫が手のしずくを振り払いながら戻ってきた。
 「おーい」
 何にも悩みのなさそうな無邪気な顔で、人垣を掻き分けてこちらに向かってくる。彼女は笑顔を返して、スケジュール帳をかばんの中にしまった。さあ、はやいところ買い物だ。そう、何もかもあの買い物をしてから考えれば良い。そして確かめるのだ。今日はそのために来たのだから。

 とりあえずその前に、まずは、夫の服を買ってしまおう。それが彼女が夫をつき合わせた口実なのだから。2人は3Fに向かった。ここにはすでに何回か来た事はあるのだけど、夫はいまだにエスカレーターというやつが苦手で、乗りづらそうにしている。
 「そのくらいすぐタイミングはかれるんじゃねえべか」エスカレーターの上で彼女はくすくすと笑った。
 「だって階段が動くんだぜ。変な感じじゃねえか。あの動く階段の筋をさ、じっと見てるとわけ判らなくなってくんだよ」ちょっと顔を赤くしながら、夫が頬を掻いた。後ろのカップルがどこの田舎ものだ、と言う感じで笑いをこらえている。そんなやつらを横目に、彼女は彼の腕に腕を絡めた。いいのだ。山出しの田舎者だろうが、そちらの男よりはよっぽど素敵な人だから。
 夫はこうして町に出るのは余り好きではないけれど、彼女は彼をこうして連れ出すのは好きだ。こうして周りと比較すると改めて思うのだが、夫は結構見栄えがする。頭はどうしたってぼさぼさのままでこれ以上どうしようもないのだけど、まだ幼げなところを残した顔は軽く引き締まってどこか涼やかで、鍛え抜かれた身体はそれだけで人目を引く。実際、振り向く人も多いのだ。しかし彼女は自分もその振り返る視線の対象であるところは気づいていない。己の容姿に無頓着と言う点では2人は似たもの夫婦だった。
 今日の彼女は短めの東洋風の翠色の半袖のワンピースに緩めの濃いグレーのスパッツ。髪は下で縛って大きめの髪留めで上のほうにねじって止めつけている。夫は、チャコールグレーの七分袖のTシャツに濃い目のインディゴのジーンズと言うなんのひねりもない格好だったが、シンプルなだけに精悍な体つきがよく分かった。これは夫の選定と言うか、彼女が支度しているうちにいつの間にか引っ張り出して着ていたものだ。毎晩修行から帰ってきてから、普通の格好に着替えるように散々言い含めた成果、年がら年中あの山吹の胴着を着たきり雀、という風にはならなくなった。夜にはさらに、自主的にパジャマにも着替えるようになった。3ヶ月と言う時間は、着実に夫に「普通の生活」を浸透させつつある。そして、だんだん夫の好みと言うものも見えてきた。
 「これは?」
 彼女は2枚の色違いのヘンリーネックのTシャツを、天井まであるジーンズの棚をぼさっと見上げている夫に向かって掲げた。
 「青っぽい方」夫がちょっと考えた後に、指差してきた。
 「わかった」
 暖色よりは寒色、それも青系が好きだ。無彩色よりは茶系。無彩色の中では白。あまりぴっちりした服は好きではない。襟ぐりも割とあいた方が好きだ。胴着のようにゆったりしたのが身体になじんでいるらしい。
 夫はボタンは苦手だ。彼女の着ている服のボタンをはずすのもいつも難儀していて、力加減を誤ってボタンを飛ばしてしまうこともしばしばだ。でもこればかりは慣れてもらわないといけない。幼児じゃないのだから、それくらいはできるようになってもらわないと、いつか背広など着れないではないか。
 あと数着カゴに選定した夫の服を放り込んで、それを確認させる。試着するように言うのだけれど、それは嫌がる。常人より筋肉がついているのだから、ひょっとしたらきついかもしれないからと説得して、パンツだけは試着させた。店員を呼んで、裾を見てもらう。当の本人である夫はあからさまに暇だなあ、という感じで盛大にあくびなどをしている。彼女がにらむと、あくびを引っ込めて口をもごもごさせた。
 全く、どうにかならないものか、この買い物嫌いは。今は通信販売だってあるにはあるけれど、やはり服は見て触って買った方がいい。それに彼女だって男性ものの服など結婚するまで選んだこともないのだから、いきなり適当に買ってこいとか言われても困るのだ。一度本当に適当に買ってきたら、肌触りがいやだだのきついだの散々言われたので、こうしてつき合わせているのではないか。まあ大体夫の身体に合う服の緩やかさとか、求めている肌触りなども把握できてはきていたけれど。
 「じゃあこれで買ってきてけろ」
 夫に何枚かのお札を渡した。
 「えー、またオラが払ってくるのかよ」
 顔をしかめる夫に言う。「社会勉強だべ。レジの前に下着とかも2、3枚選んでな。あそこにあるから」
 夫はしぶしぶジーンズのポケットに札を突っ込んで下着売り場の方に去っていった。




 「で、おめえはまた長い時間かけて服見るんだろ」
 会計を済ませて店を出て、夫が釣りを差し出しながらぼやく。
 「んだ」
 「オラ、つきあっとかなきゃなんねえか」
 彼女は首を振った。今日は、それ以外にも夫に内緒で買わないといけないものがある。むしろそれがメインなのだ。「いいだよ、今日は。お小遣いあげるから、適当にそのへんぶらぶらしてくるがええだ。3時にあの、下の大きな時計のところで待ち合わせな。今日時計持ってきてるだろ」
 「わかった。3時な」
 小銭が彼女の手のひらから落ちそうになって、慌てて手を包んできた夫が、怪訝そうな顔をした。
 「なんだべ」
 「…なんか、おめえ、熱ねえか。昨日からなんとなく思ってたけど」
 彼女は一瞬、内心動揺した。「んなこたねえだ。気のせいだべ」
 「…そっか?一人で大丈夫か」
 「大丈夫だべ」
 目をそらして急いで釣りを財布にしまい終えると、いきなりその腕を捕まれた。
 「やっぱ一緒に行く」
 「いいだよ!」
 思わず語気荒く拒否してしまった彼女に、夫が驚いたような顔をして、ついで困惑にその眉を曇らせたあと、ゆっくりと逆立てた。
 「いつも一緒につきあえっての、そっちじゃねえか。なんだよ。オラがせっかく」
 数秒の沈黙が落ちた。エスカレーター前のホールは、人の波がざわざわと潮騒のようにとどまることなく、人の声が塩辛く苦い海水のように気まずさの中にあふれかえってくる。
 夫が手を離した。彼女の手が、ゆらん、と弧を描いて落ちた。
 「…ごめん。でも、一人で買いてえものが」
 「いい。3時な」
 夫がきびすを返して、先に下りのエスカレーターに乗った。さっきよりはスムーズに。それを少し見送ってから、彼女もエスカレーターを1Fまで降りた。

 そして、案内板を見て、薬局に向かった。もう、一刻も早く何もかもはっきりさせたかった。このつまらない煩悶の原因である不確定要素を取り除くために。
 夫は、いい加減に見えるけれど、理由のはっきりしていないことと、筋の通ってないことは嫌いだった。彼女には彼女なりの筋がある。でも、それは夫には理解できない。それが、いつもこの夫婦をすれ違わせる。新婚当初に比べて減ってきたものの、週に2,3度は彼らはこうしてぶつかる。それは常人の常識と、無垢なるものの誠意と合理性のせめぎあいだ。そのたびに彼女は心のうちにかすかに罪悪感を蓄えざるを得ない。自分が屁理屈をこねるだけの身勝手な人間のようで。夫を常識の前に妥協させるたびに、何か綺麗なものを汚す気がして。ずっと後に彼女は蓄え続けた罪悪感の飽和に苦しむことになる。
 でも、それが許される、と今思うのは、夫が自分を好きで妥協を選ぶのだと思えるからだ。夫は自分に向けて好きだ、と明言する事はついぞなかったのだけれど、しばしばそのように大事だから彼女に従う、と言ってくれていたから。それは誇らしいことだった。
 だから。はっきりさせて、ちゃんと筋を立てて説明したら、きっとあのひとはわかってくれる、と彼女は唇をそっと噛んだ。あのひとは無知ではあるけれど、馬鹿ではないのだから。






 混み合うトイレの中で3分を待つのは長かった。検査薬をみつめる。1分を過ぎる頃から結果は目に見え始めていた。2分目にはくっきりとわかった。でも、変に生真面目な彼女は3分をきちんと待たずにいられなかった。もしかしたら、消えてしまうのではないかと。
 3分。彼女は、水を流してトイレの個室を出た。証拠物件は、鼻のいい夫に気づかれないように厳重に包んでかばんの奥にしまった。手洗いで自分の顔をちょっと見つめた。3分の間に、腹が据わっていた。






 彼女は腕時計を確認する。今、午後の1時半。3時までに、たくさんまわるべきところはある。本屋。手芸屋。ハーブの店。服も見なければ。あと食料も。身体は熱っぽく重いが、心は嘘のように軽くなっていた。むしろ、浮き立ちすぎるほどに。アーケードから漏れ来る夏の日差しが、視界の中できらきらふわふわとして、彼女の心の中でだんだん喜びとなって蓄えられてくる。買い物を急いで終えた彼女は、本一冊を残して、大量の荷物をカプセルパッケージングサービスに預けた。受け取って、腕時計を見て、1階の大時計へと急ぐ。
 3時の10分前、彼女はさっき座っていたベンチに陣取って、本を広げた。巻末には、簡単な懐妊期のタイムスケジュールが載っている。彼女はまたその日付とにらめっこをする。でも、今度はまったく意味合いが違った。今までは、過去の月のもののことばかり計算していた。今は、8ヶ月先の未来のこと、そしてそれ以降のまだ不確かな未来のことだ。いつ、自分は母親と言うものになるのだろう、と指を折る。
 それは、たぶん次の桜の季節のこと。男と女、どちらだろう。それもはっきりしないのに、生まれてから後のことをいろいろ想像するのもどこか滑稽な気がする。生まれてすぐの事はあまり想像がつかなかった。思うのは、ある程度大きくなって、自分と夫の膝にまとわりつくであろう姿。
 そのように母親と言うものになったら、そこから自分はずっと、一生、そのものにならなければならない。夫に恋をする18の少女というだけではいられない。同時に、あの夫も、自分を思ってくれる19の青年と言うだけではいられない。ずっと一生、父親と言うものでいつづけなければならない。そこにのしかかってくるのは人間一人の生命だ。自分のことについてはもう腹が据わった。自分だって望んでいたことなのだから。でも、あちらは?

 あのひとはどう思うだろう。喜んでくれるだろうか。いや、意味が分からずぽかんとするかもしれない。彼女は考えこんだ。

 何度か頭の中でシミュレーションしてみた。どっちもあるような気がした。でも、伝えてみなければわからない。彼女は夢見がちな割に、こういうところではひどく現実的だった。それは、長年夢見ては裏切られ続けた少女時代の代償だった。
 それに実際、あの夫は実際伝えてみないとまったくわからないところも多々ある。意外なことを知ってたりするし、意外なところに興味を示したりする。再会して初めて抱いた印象とは逆に、自分を想うようになってくれてからの夫はとても優しかった。わかっている、さっきだって、自分を心配してくれたのだ。買い物と言うひどくつまらない作業に付き合ってまで、自分を気遣ってくれようとしたのだ。あとでちゃんと謝らなければならない。そのような彼は、彼女がかつて思い描いていたよりも、はるかに優しく頼もしい人に思える。それに気づくたび、彼女はこの上まだ夫に惹かれていく自分を自覚せずにいられない。
 結婚してからの3ヶ月は、そのように長年の少女時代に彼女が思い描いてきた夫と言う人についての、人物像の再構築だった。それは夫を知ること。それは時に落胆を伴うけれど、とても心ときめく作業である。知れば知るほど、夫と言う存在がいとおしかった。そしてその作業はまだまだ途なかばだ。
 だから、夫については今ひとりで考えても詮無いことだし、なんにせよ彼にだってあの行為の帰結がわかっていてしていたことなのだから受け入れてもらわなければならない。どうしたってそうしてもらう。むしろ心配は、そのように夫を知るのもまだ途中で、心がはちきれそうなほど大変な作業なのに、自分の中にまた大きな愛の対象を抱えることだった。ちゃんと自分は、夫が満足するほどに愛情を注いでいけるのだろうか。2人は、このまま愛情を保っていけるのだろうか。


 「あ、いたいた」
 遠くで夫の声がした。目をめぐらせると、建物の総合エントランスの方に、意外な人影が見えた。
 「あの綺麗なおねえちゃんが、お兄ちゃんのお嫁さん?」
 「ああ、そうだぞ」
 「やるねえ、にいちゃん」
 「いいだろ」
 夫が笑いながら、こちらの方に近づいてくるのが見えた。その両手には、男の子と女の子の兄妹だろうか、二人のよその子供をぶらさげていた。彼女は目をしばたたいた。それは見たことのない意外な光景だった。
 彼女の手前のフードコートのあたりで、兄妹は夫の腕からはなれ、手を振って食べ物の店の列に並んでいった。
 「よう」
 何事もなかったかのように、夫が無邪気な笑いを見せた。
 「どうしたんだべ、今の子達は?」
 立ち上がりながら彼女は尋ねた。
 「うん。暇だったから、オラ隣の公園行ってたんだよな。で、あいつらがボール投げしててすっぽ抜けたの拾ってやって、一緒に遊んでたんだ。近所に住んでて、よく2人で遊びに来てるんだとさ」
 「そっか」
 彼女は微笑んだ。
 その頬を滑って、額に夫の手のひらが添えられた。もう大丈夫なのか、と聞いてくる瞳は、曇りなく自分への心配を映し出している。彼女はうなずいてそのまま顔を伏せた。背後にブックカバーの掛けられた本を後ろ手に隠したまま。
 胸が締め付けられる。その瞳がいつも彼女を許させる。胸が苦しいくらいに、悔しいくらいに好きだ、と思うのはこういう時だ。時に憎らしくなるくらいの夫の純粋を、それでも彼女は限りなく愛している。大丈夫、そうかすかに答えると、夫はそれならいい、よかった、と笑って、彼女の頭を小さい子にするようになでた。普段は子供のようなくせに、夫は彼女にこうするのが好きだった。彼女も、夫にそうされるのが好きだったので、おとなしくなでられていた。
 そのとき、背後の大きなからくり時計が、大音量のにぎやかな音楽とともに3時を告げて、夫がびっくりして頭から手を離した。ショッピングモール名物である時計の人形のパレードが始まったのだ。すると、下のほうから、いきなり声がした。さっきの兄妹だ。
 「おにいちゃん、肩車してよ。よく見たいの」
 4,5歳くらいの妹が無邪気に夫のジーンズをつまんでいる。一瞬照れくさそうにして、おう、と夫が笑った。そばにいた、妹より2,3歳としかさの兄ももろとも、夫は2人の子供を肩の上に担ぎ上げ、2人がはしゃいだ声をあげる。兄の方が、妹とそろいのくすんだ金髪を揺らしながら、照れくさそうに彼女を見下ろしてきた。
 彼女は寄せてくる人並みと音の洪水のなか、そっと彼らに向けて笑い返した。自分たち夫婦とは、似ても似つかない子供たち。でも、そこにあるのは、確かに夫婦にとっての未来の姿の映し絵。
 その幻影をきらめく光の中にもっとはっきりと見ようと目を眇める彼女に、夫が笑いかけてくる。そのまなざしが、なにより確かな未来への道をつなぐ。
 伝える決心がついた。このあと、すぐに病院に行って、そのあとに。





 せかして雲を飛ばしてもらい、着いた先が病院だとわかったとき、夫は不安そうな顔をした。でも、着いた先の看板が何を意味するのかは分かっていなかった。夫は外で待っているから、早く帰って来い、と言った。はじめて入る「産婦人科」は、意外にもそれほど恐ろしくはなかった。
 待たされたのは待たされたが、診察はあっけないほどすぐ終わった。表に出ると、夏の夕暮れの残照が、看板にもたれかかって紅と白のオシロイバナの植わった石積みの上で居眠りをしている子供のような夫の顔を彩っている。
 今確認した事実は、やはりまだなんだかこの人にはそぐわない気がする。18と19では、さすがに若すぎたかもしれない。自分も、夫も。しかし彼女は、夫を揺り起こした。ぼうっとしている夫に、いきなり、その事実を告げた。
 やはり、答えは意外なものだった。「ああ、わかった、なるほど」というわけのわからないものだった。なんでもなんとなくそんな気がしていたのだという。なんだか何かがそばにいるような。彼女は肩を落とした。なんだったんだ、この数日のこのひとりだけでの気苦労は。本当にこの人は何を考えているかわからない。まあ、一応喜んでくれたのはくれたのでそれでよしとすることにした。この人の唐変木さにいちいち腹を立てていてはおなかの子供にも悪いだろう。彼女が夫を常識で侵食するのと同じに、彼女の生真面目さもまた夫のよい意味での無神経さで侵食されている。それは善し悪しだけど、彼女は実はそれに大きく精神的に救われているのである。

 帰途の雲の上、彼女は背後の夫の温もりの中、さっきの、時計台の前でのことを思い出す。
 きっと大丈夫。あの時、彼女はそう思った。この人は、いい父親になれるかもしれない。どうか、それが現実のものであるように。
 願いながら、彼女は、熱っぽくだるい身体をかすかに倒して、彼女の夫にゆだねた。ゆっくりと流れる、8月の夕暮れの一等星を振り仰ぐ。かすかに汗ばんだその白い額に張り付いた前髪を、夫の指が払った。父親と母親になった若い夫婦は、そっと笑いあった。
 また、彼女は思った。きっと大丈夫と。2人は、このように目を見交わして、微笑んでいける。この先に、どんな無理解が、二人を阻もうとも。どんな妥協が二人を蝕もうとも。それは越えていける。そう信じていよう。そして、このひとを愛していよう。



 眼下に、8ヵ月後に新しい声が加わることになるであろう場所が見えてきていた。夫が、ゆっくりと雲をそこに向けておろしていく。彼女の火照った頬の上で、柔らかな夜風がふわりと踊った。その唇は、希望に自然にまるく笑みをかたちどる。そこにたどり着いた安堵に。2人で帰りつけた安堵に。
 
 そこはもうすっかりとなじんだ、彼らの愛する家。
 これまでの二人の甘い閨。
 でも、これからは二人で変えていこう。親子三人にとっての暖かいねぐらに。







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