このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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water





 は、と気づいたときには倒れていた。ぬるい水がいきなりからだを打った。目に飛び込んできたのはひたすらの青と夏の強さの容赦のない日差しだった。


 「うわ、ぶはっ」水がのどに浸入してきた。大方は飲んだがいくばくかが気管に侵入してきて、悟空は思い切りむせた。体中に浮いていた冷たいような熱いような汗がじわじわと今浴びせかけられた水と交じり合ってごく薄い塩水になっていく。咳はおさまったがからだに力が入らない。のどの奥がひゅうひゅう言っているのを、頭を白い石畳に横たえながらじっと感じていた。
 また倒れちまったのか。彼は唇をかんだ。


 「起きろ、もっと水を飲め」
 無表情な声が降ってきた。悟空は重たいからだを持ち上げて座り、漆黒の腕が突き出した、象とねずみの彫刻が施された水差しを手にとって、その注ぎ口を口に突っ込んでごくごくと飲んだ。少し塩味のする水が甘露のようにのどになだれ込んでいく。
 「空気が薄いから気をつけろといっただろう。深く呼吸をして水をたくさん摂れ。でないと命に関わる。ここに来てもう一ヶ月になるのにまだ覚えられないか」
 悟空は首を横に振った。
 「大体瞑想をサボって勝手にランニングなどしているからだ。罰として明日は朝から神殿の掃除だ。わかったな。落ち着いたら瞑想をしていろ」

 神の従者である、当面の悟空の師匠が背中を向けて去っていった。
 くやしい。
 くやしい。
 まだしびれる手足を、ぼうっとして脈打つこめかみを震わせながら悟空は体を引きずって、庭園のやしの葉陰に移動した。そしてからだを起こして結跏した。目を半眼にする。 まつげの向こうに、組んだ指の上をさらさらとしたやしの葉の縞模様を映した光が何度も往復している。
 できるだけ深く吸う。深く吐く。腹筋を使って。でも、それすらも焦る肺の動きに思い通りにならない。
 のどがびくびくと震えてもっと空気を欲しがっている。でも、ここで思うさまに呼吸をしてしまうと、余計に苦しいことになる。それがこの一ヶ月で悟空が学んだことだった。


 自分がこんなに思うとおりにならないなんて。からだを思い切り動かして、鍛えたいのに、通常の人間のすることすら儘ならないのだ。自分がひどく小さなものになってしまったような気持ちすらする。
 頭ががんがんと痛くなってきた。
 下に降りたい。濃い空気を吸いたい。下の世界の緑の香りを感じたい。
 懐かしい人たちは、ちゃんと命を再び得ただろうか。どうしているだろう。あの小島の家で、楽しく過ごしているだろうか。今は、どんな修行をしているのだろう。また、あの牛乳配達などをしているのだろうか。
 朝、配達を終えると、1本いつも牛乳が余った。少し温くなったその牛乳のビンを箱から取り出し、ふたを爪であけて、のどに流し込む。そして、親友…いつの間にか、そう呼ぶにはばからなくなった修行仲間…と、顔を見合わせて笑う。そのほのかに甘くて幸せな味。唇の上についた白いものを指差しあって笑ったっけ。

 還りたい、な。

 悟空はそっと唇を引き締めた。きらきらした葉の光が、少しにじんだ。3年後にはきっとまた会えるだろう。あの大会にみんな来るだろう。会うのは、その時だ。
 でも、3年後なんて、今の自分にしたら、途方もなく遠い。あっというまにひと月が何の進歩もないまま過ぎてしまった。あと、この時間の35回の繰り返し。本当に、自分は強くなれるのだろうか。




 そのとき。頭の中に、不意に老人の声がした。
 「疲れたなら、今日はもう修行は終えるか」




 「冗談言うなよ神様」
 かすれた声で言い放ち、首を振ってもう一回大きく息を吸って長く吐いた。

 ここであきらめたら、きっと、親友は3年後自分にがっかりする。今帰って嬉しがってくれると思うか?
 負けるものか。あの厳しい修行の時だって、最初は2人で重い甲羅を引きずって、全然思い通りにならないからだに四苦八苦していたではないか。それだって、いつの間にかどうにかなったのだ。きっと、今回だって、どうにかなる。

 強くなろうぜ。強くなってやる。
 あの頃、2人で励ましあった言葉を、なんどでも思い出そう。そして、自分を無にして、その中に水のように染み込ませてしまおう。




 からだを揺すって、結跏をしなおした。一回瞬きをして、視界をクリアにして、またうっすらと半眼にした。
 悟空の、それまで石畳の上でぴくぴくと動いていた尻尾の先端がぱたりと落ちた。
 さっと、汗の引いた額についた髪を風がなでた。頭痛はもうない。
 己の中心に向かった透明な意識が、さらさらと世界に融けていこうとしている。昨日より、たしかな感覚。



 悟空は最後に少し唇の中で笑って、無になった。さっき飲み干した水が、心とからだを潤して、ゆっくりと彼の中で世界の流れとなってめぐり始めた。






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