このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 明るい笑い声を響かせながら、樹から樹へ。枝から岩へ。体重をかけて松の枝をしならせ、その少年は軽々と空中に舞い遊ぶ。
 きぃーっ。きぃーっ。茶色とオレンジの毛皮を持つ尾長の猿たちが続いて飛び跳ねる。大きなの、小さなの。この春に生まれた子供たちは母猿の胸にしっかりとしがみついて。
 その一匹がうっかりと手を滑らせ、ポロリと空に投げ出された。少年が、あわてて岩を蹴り、がけの途中で小猿をキャッチした。ああ、危なかった、と汗を拭きながら、空中でタイミングを計り「尾を伸ばした」。がけの途中に生えている木に引っかかる。母猿があわてて岩を伝ってそこまで降りてきて、キイキイと礼を述べた。がけ上では猿の群れがきゃっきゃと喜んで踊っている。少年はそれを見て指差してケタケタと笑った。
 母猿に小猿を手渡す。母猿が小猿を毛の抜けた赤い乳房の胸に押し付ける。
 少年は笑った。ちゃんと母ちゃんにつかまってねえとダメじゃねえか、と。その顔に秋の落日のオレンジの光がさっと差した。猿たちがねぐらへ帰っていく。天の一隅には細い白い三日月がじっと松の枝の向こうに身を潜めていた。

 じゃあな、バイバイ。

 少年はそう呼びかけて、大きく手を振った。
 そして、ひとりきりの彼のねぐらに戻っていく。冷たい風が彼の火照った頬を刺す。また、枝から枝へ。険しいがけからがけへ。
 と、ぼろくなってきた靴が岩の隙間からはずれ、少年はさっきの小猿のように空に投げ出された。下はごつごつと岩場だらけの川。でもなに、こんなの大したことじゃない。 手ごろな枝があった。さっきのように、伸ばす。伸ばそうとする。
 顔から血の気が引いた。伸びない?伸びない!なぜ!
 ふと見ると、尾がなくなっている。なんで。どこに!
 空中で尻の辺りを必死で撫で回す。なんでないんだ!あせる瞳に、沈みかけたオレンジの光が目いっぱいに映りこんだ。


 


 少年が、心の中に墜落してきた。男は、目を見開き、はぅ、などと息を漏らして横たわっていた頭を少しおののかせた。
 と、夢の中のように目いっぱいのオレンジの光が瞳の中になだれ込んできた。思わずうわ、と目の前に腕をかざした。かざした腕が太かったので自分で驚いた。目の前には4つの星の入った珠があった。それが、窓から入った夕方の西陽を受けていっぱいの光を部屋にあふれさせているのだった。



 男は、今までじゅうたんの上で眠っていた。4つの星の珠と、他にとりどりの数の星を宿した同じような珠が6つあって、それらも同じようにじゅうたんの上に身を横たえるようにして転がっていた。男は横たわったまま指を伸ばして、まぶしくないところに珠の位置を按配した。まぶしさが消えて、ほうっと息をついた。
 男はそのまま、4つの星の珠をそっと片手で包むようにして転がした。手の内から、りぃん、りぃん、と天から下る鐘の音のような、人には聞こえない音がしている。それは、7つの珠が巡り会って呼び交わす声だった。男はしばらくその響きを楽しんでいた。明日、無事に戦いが終わり人の願いをかなえれば別れる、それまでのひと時の逢瀬の歌。りいん、りいんと。


 それに重なるように、丸い屋根のはるか上の天のどこかで、かあお、かあお、と烏が声をあげた。
 りいん、りいん。
 かあお、かあお。
 示し合わせたように、哀しいような声で、歌いあう。


 男は、心の中から静かにわいてきたものから身を守るように、裸のからだを包んでいた白いシャリ感のある大きなタオルケットの中でそっと身を丸くした。男はそっと目と耳を家の中に巡らせた。
 ひとり。家には、自分ひとり。
 夕方の金色の日差しが、彼の伏せ気味の長めのまつげにそっと影を落とした。

 「なにか」を思い出すから、男は、こういう夕方が嫌いだった。目の前の4つの星の珠の姿が、余計にそれを募らせる。




 そこで、男はそれを振り払うために、後ろの球にまつわる、15年ほども前の冒険について考えようと試みた。


 冒険の思い出はいつだって、いきなり目の前に現れた勝気なじゃじゃ馬の娘の顔から始まる。娘はあっというまに、自分がなんとなく踏み越えられずにいた、山とそうでないところの垣根を白いバイクで蹴散らし、自分を途方もない世界に連れ出したのだった。

 男は思い出す。彼女の背中に捕まって、このような夕焼けを見ながら、それでもはじめて見るものばかりの世界に、どきどきと胸をとどろかせてぽかんと口を開けていたあのときの自分を。はじめて見る世界はバイクに乗っていたせいもあるけれど、とんでもないスピードと鮮烈な音と、鮮やかな色を持って少年の胸になだれ込んできた。山に囲まれない広い空。その下を流れる大きな川。そこにかかった、ひとが作り上げた石の橋。夏の刈り入れ間近の小麦の植わった金色の畑。牛が草を食む農場。低地に住まう鳥たち。柔らかな人間の感触。
 なんて、世界は大きいんだろう!なんて、自分は小さな世界にいたんだろう!
 ああ、なぜ、自分は今まであんな小さな山でじっとしていられたんだろう!

 男は運命論者じゃなかったが、ただひとつ運命と言うものがあるならば、それはあのときの出会いだ、と思っている。彼女は口は悪く、めっぽう気が強く、理不尽で、こずるく、体力がなく、何を考えているかわからないまったく世話の焼ける人間だったが、頼りになる存在だった。これはなにか、と聞けばすらすらと教えてくれた。なぜそうなるのか、と聞けば、呆れながらもちゃんと答えを与えてくれた。彼女は男にとっての「世界への門」に他ならなかった。

 ひょっとしたら、彼女と連れ添うという選択肢もあったのかもしれない、とふと男は考える。

 どこかにあるという多くの未来では、そんな世界もあるのかもしれない。でも、彼女は、今ここに生きる男にとっては、知恵の権化のような、他の人間とは違ってある意味一種神聖な別格のものであって、過去にも未来にもまったくそのような対象にはなりえないのだった。おとなになった今、ひとりの異性としての目で見れば、確かに彼女はいい女になったと思うのだけれど。
 そう、そんなもしもの世界を考えるのは、詮無いことだ。なのに、ふとそんな気になるのは、なぜなのだろう。夕方のせいなのだろうか。珍しく、家にひとりいるからなのだろうか。




 かあお。
 ひとつ声を残し、烏が男の故郷の山のほうに去っていった。
 一つ一つの珠を見やる。そのひとつひとつに、男が大事に思っている出会いがある。3つの星の珠に師匠の老人。6つの星の珠に、皮肉屋の子豚。7つの星の珠に、今連れ添っている女の幼い面影。




 まぶたの裏に、その頃の彼女の細い幼げなからだを思い出し、男は微笑んだ。あの頃は、自分もあの娘も、何も知らなかった。本当に、男と女の何たるかも何も知らない子供だった。さっきまで交し合っていた悦びも何も知らない、無邪気な子供だった。
 そう、もうひとつ運命があるとしたら、それはあの約束だろう、と男は思う。彼女が男に開いて見せたのは、まったく違う角度からの鮮烈でやさしい世界だった。思うようにならなくて、理不尽で、胸が締め付けられて、息がつまるほどに神聖で尊い、世界の側面だった。
 あまりの胸苦しさに、なぜこんな気持ちを知ってしまったのか、と後悔することすらあった。子供のままで何も知らずにいれば、と思うこともあった。彼女とめあって、男は自分がおとなになったのだ、とはじめて自覚したのだった。自分が何のために成長するかと言うことも。
 今も深く考える度に、その胸苦しさはいや増すばかりだ。むしろ歳を追う毎に。


 
 彼女は、どこに行ったのだろう。
 自分をひとり置いたまま。
 タオルケットとじゅうたんからは汗の香りがしている。さっき2人で必死になってこすり混じり合わせた、自分と彼女の汗と体液の香り。そのほかにもいろいろの香りがした。その奥に、10年、しみこんできたさまざまの生活の香りがした。






 とりあえず、男は風呂に入ることにした。
 西陽の入る風呂場はほんのり暖かく、タイルは金色に輝いている。窓の隙間から、涼しい風が外の木の葉を揺らしたあとにそっと遠慮がちに忍び込んできた。
 風呂は少し冷めていた。彼女が浸かったあとのようだった。それが、彼女の体温のようで逆に心地よかった。
 水面に、長い柔らかな毛髪が一本浮いていたのを見つけて、そっと指に絡ませる。ざわざわと外の木が音を立てている。風呂場のどこかで、天井から落ちてきた水滴がぴちゃん、とかすかな音を立てた。

 いーち。にーぃ。さーん。

 耳の奥に、幼い頃の息子が、風呂の中で毎日彼女の胸の前で数えていた声がよみがえる。声を合わせて数える彼女。そして自分。
 ざわざわと、湿気を帯びた風の音。はやく流れる薄い雲の断片たち。またどこかで烏が泣き出す、そんな平凡な5月の夕暮れ。

 なぜ、こんなに、今日はいろんなことを思い出すのだろう。

 男は木でできた大きな浴槽の中で思考を切って、ひざを抱えてそっとうずくまった。









 ぱちり。かすかな音がして、まわりが明るくなった。
 「何してるんだべ」
 顔を上げると、窓の外は日没後の紫で、空けておいた風呂場のドアの向こうで彼女が笑っていた。
 「暗いところで。寝ちまってたんだか?おらな、村の人にニワトリをつぶしたの貰ってきてただ。街のほうにも行ったけど、やっぱりもういよいよ明日となっちゃどこのスーパーとかもやってねえんだもん」

 男は、返事もせず、脱衣かごを整えている彼女の横顔を見つめた。水をざばざばとこぼして立ち上がり、ドアに歩み寄ってバスタオルを受け取り背中にかけると、硬いような声でつぶやいた。顔は、いつものように、出来るだけ無邪気に笑わせたままで。


 「どこにも行くなよな、もう」
 彼女がちょっと笑った後、一呼吸ののち、ゆっくりと目を細めてうなずいた。そして、そっとささやくように言った。
 「やっぱり、黒髪のほうがええだ」


 2人はどちらからともなく、深く口付けを交わした。濡れたままの手が顔に添えられ、彼女の白いのどに長い水の痕を伝わせていった。







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