このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 「おめえ、またニオイ変えただろ」
 夕食後の時間、リビングのソファでドラマを見ていて不意にそう声がかかったのでチチははっ、と現実に引き戻された。9時過ぎ。

 息子の悟飯は『いつもは』この時間は大体風呂に入って、そのあと軽く読書をしてから眠りに入る。『いつもは』この1時間はチチの自由時間だった。大体は気に入りのドラマを見たり、それを見ながら主婦向け雑誌をめくったりして過ごす。『ながら』はレシピブックにスクラップしたりであったり、編み物になったり、枝毛の手入れになったり、ペディキュアを塗ってみたり、服の毛玉とりになったりする。息子が気が向けばそこに加わってくる。ドラマが終われば、チチが次に風呂に入って、最後に風呂掃除をして(賢い主婦は日々たまる汚れを一晩だって放置したりしないのだ)から彼女も眠りにつくのだった。
 子供を持つ母親にとって、『自由』とは多くの場合『ひとりで気ままに使えるまとまった時間』である。それは貴重なものだ。この家では、この時間帯が暗黙のうちに母親の楽しみにしてるドラマの時間、と言うラベルをつけて親子の間で確保されていた。まあ、ホントはチチだって最近のドラマは大して面白くない、と思っているし、半ば惰性で見ているのだ。ただ電気代と、自由時間確保のための言い訳作りをはかりにかけて、後者のほうが彼女にとって大事なのでとりあえずチャンネルを合わせている、そんな感じだった。


 チチはぱちぱちと眼を瞬かせた。ドラマのOPが終わった。CMの時間だ。
 リビングを見渡すと、足元にあるじゅうたんの、キッチン側の端のほうで、風呂上りの頭をわしわしと拭きながら『いつもは』この場にいない男が立っていた。
 「おめえのシャンプーがさ」
 「あ、ああ」
 「なんかみかんみたいなニオイになってた」男が、今髪を拭いていたタオルを鼻に近づけてすんすんと嗅いでいる。「前は、なんかおめえのは、りんごみたいな花のにおいだっただろ」
 「あっ、勝手に使っただな、おらのシャンプー!高かったんだぞ、あれ!」
 「だってオラの前使ってたのなかったんだ。悟飯の使ってるのを昨日は借りたけど、やっぱ匂いが気にいらねえ」男が顔をしかめる。
 「…わかっただよ。明日前と同じの買ってきとくだよ」チチは言って、CMが終わったので再び目線をテレビに戻した。


 ちょっとリビングに沈黙が落ちた。男が、…それは、昨日2年半ぶりにこの家に帰ってきた放蕩亭主だったのだが…ソファの足元のじゅうたんに、ソファを背中につけてすわりこんだ。ソファには座らなかった。
 「あのさ」夫が口を開いた。
 「そんな格好でいると風邪をひくだぞ」チチはさえぎるように言った。夫は年の瀬の寒い時期にもかかわらず、上半身裸で下は下着だけだった。しかも風呂前に穿いてたのをまた着ていた。きたない、とチチは文句をつけた。
 「だって替えが出てなかったじゃねえか、昨日みたいに」
 「脱衣所の棚にあるじゃねえか」
 「ああ、あの新しい棚か。新しいパンツとか入れてあるのか、ちょっと見てくる」夫が立ち上がって息子が風呂にはいっている脇にある脱衣所を見に行き、すぐに戻ってきた。「オラの入ってねえ」
 そうだった。昨日場所を作って入れておかないと、と思って忘れていた。いや、どっちかというとそんな小さな手間でもやりたくなかった、のだろうか。それは手が痛いからだ、とチチは心の中で言い訳をした。
 昨日ぶっ飛ばされてぶつけた腕がまだ痛い。折れては無かったからもう今日になっておおげさな包帯は取っているものの、湿布をしていた。おかげで彼女の腕からはひどく年寄りじみたメントール臭がしていた。
 下着とパジャマが必要だ。しかしそんなの寝室にあるから探せ、とも言えなかった。夫がいない間に、クローゼットの中は収納家具を増やして大分配置換えをしたからだ。こないだ衣替えのついでに大変な手間をかけてそうしたのに、ひっくり返されてはかなわない。この夫は服をたたんでしまうということを知らないのだ。チチはソファを立って寝室に向かった。


 クローゼットのルーパードアを開けて、上のほうを見上げる。ハンガーの棒が渡ってない部分に、このあいだ一面に収納ケースを入れてこまごまとしたものなどを入れるようにした。使っていない洋服のとりあえずの保管であったり、あまり必要としないよそ行きの服であったりは上段のあまり触らないところにまとめたのだ。夫の服もそこいらへんに入れておいた。上段から2段目の部分。大して服を持ってないのでそれだけでまとまってしまった。本当に不必要ならカプセルにでもしまえばいいのだけど、そこまではできなかったのが自分でも情けないところだった。
 普通に手を伸ばして、下着だのパジャマだのを入れておいたほうの収納ケースを引き出しごと取り出そうとしたが、上のほうに手を上げると肩と腕が痛んだ。一端腕を下ろしてうらめしげに見上げた後、もう一回手を伸ばした。その手のそばに、後ろから大きな手が添えられた。
 「呼べよ」
 すぐ背後から声がした。チチの心臓は跳ね上がった。頭のすぐ後ろに、夫の裸の胸板があって、風呂上りの熱を帯びてひどくあつかった。
 震えるな。震えるな。
 顔に朱がのぼる。
 「おめえの頭もみかんのニオイがする」夫がため息混じりにささやいてきた。「チチ、あのな」夫の唇が数本の自分の髪の毛を分けて頭のまとめ髪のつけねに沿おうとした。じわり、と周りの空間がせまくなるのを感じた。
 「はやくおろしてけろ!腕痛いんだから!」チチはあわてて語気強く命令した。夫がはっとして、ケースを棚から引っこ抜いて床におろした。そこから下着とパジャマをあさって、半ば投げつけるように手渡した。なにかまだいいたそうにしていた夫が、傷ついたような眼を向けた。チチは見ない振りをして言った。「ケースはそのまま置いといてけろ。あしたあっちの棚に中身入れておくから。さっさと脱衣所で着替えて歯磨きしてくるだ」
 こくん、と子供のようにうなずいて、夫が寝室から出て行った。脱衣所に行く前に、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでいる気配がする。
 チチは大きな息をついた。そして、鏡台の引き出しを空けて、いつぞやもらったシャンプーの試供品をいくつか取り出した。とりあえず、甘い花の香りを選ぶ。エプロンのポケットに突っ込んだ。
 同じニオイをまとっていることが、なんだか悔しくてならなかった。勝手にニオイをかぐな、と怒鳴りつけたかった。でもそれはあまりに理不尽だ。理不尽な自分に、吐き気がした。でも、もっと勝手で理不尽なのはあっちのほうなのだ。


 リビングにもどると、ドラマはもう半分以上が終わっていた。自由な時間を台無しにされたような気がして、余計に腹立たしい気持ちになった。脱衣所から出てきた夫が「もう寝る」と寝室に引っ込んでいった。宇宙ボケかなんだか知らないが、ここ2日ほど家に帰ると眠そうにしていた。勝手にするがいい。
 「おかあさん、あがったよ」息子も続いて脱衣所から出てきて、チチの顔を見てなにかを察したのか小首をかしげた。はっとして、チチは完璧な笑顔を作った。「そっか。じゃあ母さんもはいろっかな。おやすみ、悟飯ちゃん。あったかくして寝るだぞ」
 子供を部屋に見送ってふと見ると、シンクに、さっき夫がのんだ牛乳のグラスがゆすがずに置いてあった。また腹立たしい気持ちになって、チチは水道をひねった。







 翌日。週末。
 
 痛みのひいてきた腕で車を運転して、チチはひとり、家から結構はなれた少し大きな町のショッピングモールに来ていた。そこそこまとまった買い物をしようという時には大体ここに来る。ここで揃わなければ前は東の都にまで行っていたものだが、東の都は壊滅しいま再建中なのだった。でもおそらく、往時の賑わいはあの地には戻ってこないだろう。都を失ったことで、東地区は全体的にさらに寂れていたが、年の瀬近くのこの時期、年末の買い物をする人でショッピングモールは混雑していた。
 一階のスーパーで、2年半前夫が使っていたシャンプーを探したが、廃盤になっていた。なので、あきらめて先に毛糸だの本だのを上の階で買った。そしてさらに上のほうの雑貨屋に向かう。
 店に入ると、蜜蝋のろうそくがともっていて、そこからほのかに冬らしいシナモンのようなにおいがした。チチはほっと息をついた。自分は普段はここで自分用の石鹸やシャンプー、リンス、化粧水や乳液を買う。天然ハーブを調合していろいろな商品にして扱う店なのだ。
 「奥さん、お久しぶりです」なじみの店員が声をかけてきた。ちょっといろいろ見てますから、と荷物を預けてチチは店内を巡った。店内には3,4人別の客がいる。シャンプーのコーナーで、いろいろと匂いを試す。


 夫は、鼻がいいので匂いにうるさかった。人工的な香料が苦手なのらしかった。生活にはほとんどこだわりと言うものを見せない人だったが、匂い、あと服の手触りには敏感だった。昨日もそうだが、例えば髪形を変えても化粧をしても見掛けではほとんど気づかないくせに、なにか香水みたいなものをつけたり、石鹸やシャンプーを変えるとすぐに指摘してくる。髪形よりも、美容院で使ったシャンプーとかヘアスプレーの匂いに反応するといった具合だった。
 化粧品の人工的な匂いにもうるさかったし、見た目を褒めてもらえないのが馬鹿馬鹿しいので、チチはあまり家では化粧をしなかった。普段つけているのはこの店で買う基礎化粧品だけである。さすがに今日のようにちょっと出かけようと言うときには軽く化粧をする。だって、自分はもう世に言うお肌の曲がり角の年齢を過ぎたのだから。

 夫の前に使っていたシャンプーは、結婚して3,4年かけていろいろ試した挙句、ようやく夫の納得する匂いと値段の折り合いがついた一品だった。聞けば12の歳までシャンプーなるものの存在を知らなかったくせに、妙なこだわりを見せるものだ。まあ結婚してからシャンプーをしろ、と口うるさく言ってるのが自分である以上、協力してやるのが筋と言うものだろう。シャンプーをしなくなられてもいやだ。しなければしないでまったく平気な人なのだから。
 石鹸は大体結婚以来同じ、香料のあまり入っていない手作り物を使っていてそれでかまわないようだった。いざとなればそれで髪も洗えば済む話なのだが、あのぼさぼさ頭をさらに石鹸の素洗いでぎしぎしのごわごわにするのもどうかと思う。頭といえばたまには床屋にでも行って欲しいものだと思うが、どういうわけだかあの頭は伸びもしないし、ちょっと戯れにはさみを入れてみても気づけばすぐ元に戻ってるのである。今にして考えればまあ宇宙人だからな、と思うのだけど、気づいた当時はそれはびっくりしたものだった。あと、ひげが生えてこないらしいのもおどろかされた。まあ手間がかからないのでいいといえばいいのだけど。

 とりあえず、前に使ってたのと出来るだけ似た香りのシャンプーを記憶を頼りに探してみる。セージをベースに、少しミントとシトラスを混ぜたような全体的にさわやかな控えめな匂い。なかなか思うようなものが無い。探しているうちに昨日無断で使われた今の自分のマンダリン系のシャンプーをうっかり試してしまって、ゆうべのことを思い出してだんだん腹が立ってきた。
 そうだ、自分は怒っていたのだ。なのになんでこんな一生懸命さがしてやっているのだ。ここの品だって結構買えば高いというのに。あんな男、前のような割安なもので十分じゃないか。

 集中が切れて、もうとりあえず試供品を一そろいもらって店を出た。この店は試供品をケチらずにくれるところがいいところである。夫もこの中から勝手に試して適当なものをみつければいいのだ。あと自分用に少し新しいバラの香りの化粧水を手の甲で試して選んで買った。もうすぐ新しい年が来る。気分転換をしたかった。
 トイレに入ると、生理が始まっていた。ああ、と嘆息する。でもちょっとこのイライラに理由がついた気がしてほっとした。いつも生理前はなんとなく不安定になる。むやみにいらいらしていたのではない。これは生理という、自分ではどうしようもない体の作用のせいなのだ、という言い訳ができた。それに、これで、もし求められても断る材料ができた気がして、それにもほっとしたのだった。
 1階の、誰もいない休憩コーナーで紙コップのミルクティーを買って、ベンチでゆっくりと口にする。そこから見える冬枯れた裏庭に、椿が咲いていた。ガラス越しにぽかぽかとした日差しが差し込んで気持ちがいい。生理通が始まってきていたが、ミルクティーと日差しで体があっためられて、まだひどくは無かった。さっさとあと食料品の買い物を済ませて帰ろう。年内にはまたあの子をつれて服でも買いに来なければ。そのときに年末の支度を整えよう。今日の晩御飯はなんにしようか。




 そんなことを考えてぼうっと眼をとじていると、いきなり目の前が暗くなった。雲でもさしたのかな、と思いながら目を開けると、そこにはさっきまで腹を立てていた対象であるところの夫が立っていた。
 チチは仰天した。夫はぼろぼろでどろどろの胴着を着て、頭をかきながら自分に声をかけてきた。「あのさあ、汚しちまったんだけど。替えの胴着ってどこにあるんだ」
 「な、な、ど、どっから来ただ!いつの間に!」
 「瞬間移動してきた」夫がこともなげにとんでもない単語を吐いたのでチチはさらにびっくりした。「しゅ、しゅんかんいどう!?アニメとかでよく超能力者がつかうような、あれだか!?」
 「ああ。言ってなかったっけ。おぼえてきた」
 「どこで!?」
 「ヤードラットって星で。便利だろ」けろりと夫が笑いながら言った。
 「勝手にそんなとんでもねえ技覚えてくるでねえよ!どんだけ人間離れすれば気がすむんだ!」チチは怒鳴った。怒鳴ったあと、スペースに響いたのにびっくりしてあわてて声を潜めた。「帰ってこねえと思ってたら、そんなへんな技を修行してたんだな。おらのことなんか忘れて、夢中で修行してたんだ」そっぽを向いて自嘲気味につぶやく。そこに、思いもかけず冷ややかなような声が降ってきた。
 「忘れるもんか」
 は、と顔を上げると、その額に、夫の胸が押し付けられた。頭を腕で抱きすくめられたのだった。夫の鼻と唇が、つむじに触れていた。

 「…何するだ。こぼれるだ。あぶない」
 顔が熱い。紙コップを持っていないほうの手で胸板をそっと押し返した。でも揺らぎもしない。
 「いい匂いがする」
 「さっき、香りの店にいたからだべ」なお、押し返す。紙コップを持っているほうの手が震えた。
 「いや、チチ自身が、さ」
 「今生理だもん、いいにおいじゃねえ。離してけろ」
 「そだな、血のにおいするな。でもチチの匂いだ」
 そこまで言ったところで、廊下のほうをこちらに家族連れがわいわいと近づいてくる声がした。夫がぱっと手を離した。「胴着、勝手に探すからな!」そういうと、ふっとかき消えるようにいなくなってしまった。



 なんだったんだろう、今のは。
 白昼夢、だったんだろうか。




 
 親子連れが休憩コーナーに入ってきた。ひとりきり残されたチチは、出来るだけなんでもない顔で、さめかけたミルクティーをすすった。唇が、まだ、さっき感じた夫の体の匂いに震えていた。狂おしいほどに懐かしい、その匂いに。







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