このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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晩秋






 山は、秋である。
 日ごろ住んでいる、ごつごつとした岩ばかりの急な断崖の続く上のほうから、ひとりの老人が下の山の山道へと降りてきた。
 松に絡まる蔦が赤く紅葉していて、老人の目を楽しませた。松の根元を探すと、きのこがいくばくか埋まっていたので、半分ほどを掘り返して肩に下げていた筵カバンの中に入れた。背負子をしょっているのに、そちらには入れなかった。
 森の方を見やると、猿がアケビの実をうまそうに食べているのが見えた。老人は木に登ってそれを分けてもらい、またかばんの中に入れた。ひとふさだけ、軽く拭いて背負子の上段に入れた。森を抜けて、平らかな土地に出て、やがて人の使う道に出て、小さな村に出た。

 市で、今取ってきたもの、そして背負子の下段に入っていたほかの山の幸を、いくばくかの米なり、タバコなり、布なりに交換してもらった。老人の持ってきたものは喜ばれた。中には貴重な高く売れるきのこも混じっていたからだ。
 老人は、一通り用事が終わると、早々に背負子を按配して背負いなおし、村を出た。村の入り口のポストにかつての師にあてた一通の手紙を投じた。そして、今来た道をのんびりと戻っていった。
 また、山に分け入ると、背負子の中から山猫の鳴くような声がした。老人は背負子を下ろし、汗を拭きながらふたを開けて中に呼びかけた。
 「悟空や、よく寝ていたのう。今、家に戻るところじゃからもうちっとおとなしゅうしておれよ」
 背負子の中で、頭に包帯を巻いた1歳手前ほどの赤ん坊が、きょとんと老人を見上げ、嬉しそうに手を伸ばした。尻の先では、猿のような長い尻尾が、機嫌よく揺れていた。



 老人が、この不思議な赤ん坊を見つけたのは今から三ヶ月ほど前のことである。そう、見つけたのである。他人から預かったとか譲ってもらったとかそういうのではない。おそらくは捨てられていたのであろう。
 ある初夏のあけがた、山の一隅で大きな岩の落ちるような大音響がしたので、日が昇ってから老人は音のした方角の竹やぶに分け入ってみた。彼も日ごろめったに分け入らないし、まして他のものが全く来ることもないような、ほとんど手付かずの土地である。その竹やぶをなぎ倒し、ひとつの白い卵のような物体が、クレーターの中に転がっているのが上の坂から見て取れた。
 「ほほう?」隕石だろうか、と彼は思った。なるほど、音響の正体はこれだったのか。
 
 納得してきびすを返しかけた耳に、泣き声が聞こえてきた。獣の声ではなく、人間の声。じっと目を凝らすと、白い卵の影で卵の殻がはがれ、そばに赤ん坊がひれ伏して泣いているのが見えた。彼は急いで下に下りた。まだところどころくすぶっている地面の上で、ぼさぼさの黒髪の、生後半年ほどの赤ん坊が泣いていたのだった。
 駆け寄ってだきあげる。親は。見渡しても、竹やぶを風が渡る葉ずれの音ばかり。
 よく見ると、赤ん坊には尻尾がついていた。「おやあ」掲げてまじまじと見上げた。「尻尾があるのう」妖怪か、と老人は思った。そういえば物語の中に、岩の卵から生まれて天地をしろ示す、いたずらものの猿の妖怪がいたっけ。名前は忘れてしまったが。
 親はこのあたりにはいないようだ。しばらくの後、老人は言った。「うちにくるか?」
 赤ん坊は手を伸ばして、老人の白い口ひげを思いもかけない力で引っ張ってきゃっきゃと笑った。
 「ようし、お前は今日から、このわし、孫悟飯の孫じゃ。よいな。そうじゃな、お前の名前は悟空。孫悟空じゃ。」
 こうして、天涯孤独の老人は、天涯孤独の赤ん坊と暮らすことになったのだった。






 子育ては困難を極めた。

 もともと老人は世捨て人であった。天下百芸の武術をおさめ、若い頃にはそれなりにその世界で名をはせたものの、40の不惑をこえ、50の知命にいたってそれまで長く仕えた武術の師の元を辞し、しばらくの放浪の後にこの誰も分け入らぬ山に一人住まうようになった。以来十年あまりをこの山で過ごしていた。
 老人には妻も子もなかった。つまり、子供を育てること自体が経験がなかった。
 貴重な米を煮て重湯を作り、手ずから与える。柔らかい果物を食べさせる。薪をたいて風呂に入れ、下の世話をする。幸いなのは赤ん坊が非常に丈夫であったことである。丈夫どころか、ひどい暴れ者であった。
 はいはいをはじめると、家具を押しのけてまでも進んで倒して上のものを壊す。手彫りのおもちゃなどを与えれば壁に打ちつけ、漆喰をはがすほどに壊す。おかげで、もともと上等とはいえなかった老人の庵は、あっというまにさらにひどい状態になった。老人の鍛えた体も、遠慮のない赤子の攻撃に、あざだらけになった。
 驚いたのは、ある満月の未明に、ひどくぐずるので名月を楽しみながら寝付かせようと外に連れ出したとき、むくむくと腕の中で大きな岩ほどの大猿に変わったことである。大猿はしばらくその辺の岩を投げ飛ばしたり木を引っこ抜いたりして暴れまくっていたが、じきに満月が山の端に消えるとあっというまにもとの赤ん坊の姿に戻ってしまった。
 老人は、正直大変な子を拾ってしまった、と思った。これでは本当に妖怪だ。自分がこの子を、せめて心だけでもまともにしてやらねば、とても山から出せたものではない。
 しかし、赤ん坊はじきにおとなしい子になった。1歳の手前のころ、うっかりと不注意でがけから落ちて頭を打ったときに、怪我がマシになるとぺろりと紙を剥がすようにその凶暴さが抜け落ちてしまったのである。

 それからは子育ては多少楽になった。はいはいの次につかまり立ち、次にひとり立ち。ほどなくその辺を尻尾を振りながらぺたぺたと駆け回るようになった。目を離すとすぐにどこかに行ってしまうので、たまに縄でつないでおきもした。子供の怪力は相変わらずだったが、言い聞かせればやめるようになってくれた。普通のものを食べるようになり、すくすくと大きくなった。2歳、3歳、4歳があっというまに過ぎていく。
 ことばを教える。覚えは意外と早かった。
 しつけをする。下のしつけ。自分で顔を洗い、行水をするなどの身の回りの基本的なしつけ。物を壊したりしてはいけないこと。木や草をむやみに抜いたり、動物をむやみにいじめてはいけないこと。嘘をついてはいけないこと。怠けてはいけないこと。つねに心根を正しく持つこと。あいさつをきちんとすること。男の子がやたらと泣かないこと。いつもニコニコと笑顔でいること。
 水汲みから始まり、まき割りの手伝い。ちょっとした掃除、洗濯を手伝わせるようにする。
 山に連れ出して、食べ物を探すのを手伝わせる。なるべく自分のそばから離れないように。きのこを取る。木の実を取る。食べられるもの、食べられないものを教える。たまに子供は適当にその辺のものを食べて、ひどい腹痛を起こした。それも知恵として身につく経験だ。
 木登りを教える。動物を見せる。危険でない動物、危険な動物。動物が他者を喰らうところもおそれずに見せた。この循環を知らずに山では暮らしていけない。老人は狩りにも子供をつき合わせるようになった。命を奪うことへのおそれ。自分の手を血に染めても、食べないと自分が飢える。それを理解して、だからこそありがたくそれをいただく敬虔な気持ち。
 
 子供は、たまに聞き分け悪いことを言って老人を困らせもしたが、老人は辛抱強く彼を育て続けた。子供は日々山を駆け回るようになり、自分ですすんで食べ物をとってくるようになった。
「じいちゃん、じいちゃん」
 5歳をすこし過ぎた子供が、にこにこと本当に嬉しそうに自分を呼ぶ。足元にまとわりつき、背中を抱きしめてくれる。そんな時、老人は、妖怪だろうが、本当にこの子を拾ってよかったと思うのだ。子供は、間違いなく良い子になってくれたと思う。
 老人も、にっこりして抱き返す。「どうした、悟空や」
 間違いなく、彼らは本当の祖父と孫のようであった。すでに子供には、自身が捨てられていた子だと言うことを教えていたが、子供も、老人も、いまやそんな事はどうでもよかったのだった。


 ある昼下がり、老人がのんびりと小屋の前でタバコをふかしていると、子供が別棟の物置からひとつの宝珠と、鞘に入った棒を引っ張り出してきた。
 「じいちゃん、これなんだ?」小さな手に持って差し出している。
 「ああ、こんなものよく見つけてきたのう」
 「物置で遊んでたら、箱の下のほうに入ってたんだ」
 「この珠は、昔わしがこの山に入る前に、あるところで偶然見つけたのじゃよ」老人は、それまでなるべく子供に外の世界の話をしないようにしていた。
 「あるところ?」
 「山の外じゃよ」しまったな、と思いながら老人は答えた。ここは本当に山深いところで、見渡す限り周囲にも同じ形の山が並んでいる。高いところに登っても、外の世界はほとんど見えない。ごく赤ん坊のころに何度か一緒に山を降りた事はあるが、2,3歳のころにはすでに、もし大猿にばけたときのことを思って家に隠して留守番をさせるようにしていた。最近は子供に果実集めなどに行かせている間に、そっとひとり山を下りて用をたすようにしていたのだった。
 ふうん、と子供は首をかしげた。そと、についてよく理解できないようであった。「でもきれいだなあ。星が4つ中に入ってるんだな」子供はうっとりと日にすかしてそれを見た。子供の両手のひらに余るほどの大きさのオレンジの水晶の中に、美しい力の波のようなものがたゆたい、赤い美しい星が4つ中心で群れて明滅している。
 「そうじゃのう、きれいじゃのう。あまりきれいなんで、大事にしまいこんだままわすれておったわい。欲しいか、悟空」
 「うん」
 「お前がいい子でおおきくなったら、そのうちやろうな。それまでたんすの上にでも飾っておこう」
 わあい、と子供は飛び上がった。飛び上がったところで、もう片方の手に持っていた棒の存在を思い出した。
 「じいちゃん、こっちは?」
 「これは如意棒といって、自分の意のままにのびる不思議な棒なのじゃよ」老人は鞘から抜いて、くるくると棒を回し、いくつか演武の型を取って見せた。そして、腋に構えて、棒に命じた。「伸びろ、如意棒!」
 赤い棒がおもむろにすばやく伸び、目の前にあった岩をつきさして打ち砕いた。
 「すっげえええええええ!」しばらくポカーンとしたあと、子供は手を打ち合わせた。「じいちゃん、かっこいい!」老人は得意げにひげをしごいた。「すごい棒じゃろう」
 「ううん、そうじゃなくて、じいちゃんがすげえ。何だ今の動き。くるくるって、ばしって」
 「あれは武術の型のひとつじゃよ」老人は教えた。「朝早く、わしがいつも練習しておるじゃろう。もっともお前は寝てたか」
 「ぶじゅつ、ってゆうのか。じいちゃん、オラもそれやってみたい」
 老人は子供を見てちょっと考えた。子供はきらきらした目で一生懸命こっちを見ている。そうだ、もう教えてもいいかもしれない。武術を通じて、自らを鍛え、より正しい道に進んでくれれば。
 「そうじゃな、いいじゃろう。でも修行は厳しいぞ。それとお前が最近サボっている手習いの方もちゃんとやらねばいかん」
 うえ、と子供は肩をおとした。じっと座って物を書く手習いは嫌いだったから。「でも、ぶじゅつやりてえ。じいちゃん、オラやるよ。頑張る!」
 子供は武道家としての第一歩を踏み出した。






 子供の修行がはじまった。
 朝早くおきて、体を整える体操。そしてまずは、腰を落とす、カンフーの基本姿勢。一時間でも、二時間でも耐えられるような揺るぎのない姿勢がつくれないことには話は始まらない。子供は嫌がったが、これは全ての基礎で、あだおろそかにする事は出来ない。足腰は強かったので、割と早く身につけることができた。次は重心の移動を練習し、そして脚運びである歩法を徹底的に教え込む。前後左右に、体勢を崩さずに移動する。次に攻撃のための大きく踏み込む方法。防御のための脚裁き。敵を惑わすための動き。自分の間合いの把握。そして間合いをいかに素早く有利なものにし相手に踏み込むか。一通り終われば、スピードを上げたり、下げたりして繰り返し行う。

 歩法ののちは、基本的な筋肉の基礎訓練をして朝の修行は終わる。あとは野山を駆け巡り、獲物を探すことが自然に筋力を養ってくれる。如意棒を与えたことで子供は多少大きな動物にあっても安全になったし、動きの訓練のおかげで危険に対処するのが容易になった。動物の動きも、大いに武術の参考になるものだ。

 季節が巡る。
 打撃を教え始める。拍・撃・切手(手刀)の基本的な打法。足元が留守にならないように、最初はみっちりと型として教え込む。同時に防御の練習。相手が打ってきたときに、最小限の脚裁きでよけられなかった場合の四肢を使った受け流し方。そして脚捌きが安定して余裕ができたら蹴りを交える。最初は隙を見ての脚払い。相手が体勢を崩したなどの機に叩き込む蹴り。蹴りの種類。重心の安定を怠ってはいけない。

 老人は厳しかったが、うまく出来たら心からほめ、それが子供を心から喜ばせた。そしていよいよ子供は修行に精を出すのだった。
 そして子供の上達は早かった。それは一般的な『子供は覚えが早い』というものを超えている。武芸百般を若くしておさめた老人にすら、子供の吸収の速さはまさに天性のものに思えた。もともと力が強かったので打撃に威力があったし、スピードもかなりのものだ。対峙したときの隙を見抜きそれに対処するセンスは異常なものがあった。
 一通りの基本的な流派の動きをマスターした後には、次はわざと老人が別の流派を模して相手をする。子供はそれに対処し吸収する。武器はあまり使うものではないが、如意棒を操るための基本的な棒術、杖術を教えた。 
 子供は武術に夢中だった。寝るときにでも、ふと見ると「ああきて、こうきたら、こう返して」と手わざの練習をし、時間を見つけては進んでトレーニングをした。繰り返される歩法の訓練のために靴はあっというまに磨り減り、老人は彼の修行中にたびたび下の村で服と靴をあつらえなおした。
 そして大事なのは技術だけではなくて、武の心構えである。何のために武術をおさめるのか。敵を打ち倒すためではない。自らを整え、さらに高めるためである。もっともっと強く、生きていくために。そう、子供ひとりになっても。


 2,3年たつころには、子供はこの歳にしていっぱしの武芸者だった。
 そして、老人には、確実な老いが忍び寄っていた。






 「じいちゃん、世の中にはおんなと言うものがいるのか」と、部屋の床に置いた卓の前で子供が手習いの本を見ながらたずねた。ほんの宵のうち、だいぶん丸い月の光が部屋を明るく照らし、手元のランプをたせば読み物に困りはしない。かまどをかねた暖炉では薪も燃えて、ちらちらと明るい光を投げかけている。もう冬が近い。
 「ふん?」老人が本を覗き込むと、女を意味する文字を指差していた。「おんなってなんだ?動物のなまえか?」
 「おんなと言うのは、なんと言うかなあ、わしらのように男ではないものじゃよ」老人は寝台に腰掛けてなんともあいまいな説明をした。「人間のオスを男と言うように、人間のメスを女と呼ぶのじゃ。動物ではメスのほうが強い場合もあるが、人間の女は基本的にやさしく弱くかよわいものじゃ。だから、だからもしお前が女に会うことがあったら、やさしくしてやらんといかんぞ」
 「いつか、会うことがあるのかな?」子供は首をかしげた。「オラ、人間といわれても、じいちゃんしか知らないもんな」
 「いつか、会うこともあるさ。前に都の話をしたじゃろう。そこでは大勢の男や女が自動車や飛行機といった乗り物に乗って暮らしているのじゃよ。悟空、お前は会いたいと思うかな?」
 「んー、よくわかんないな。想像もつかねえよ」
 子供の顔を映す明かりは、強がりなどではなく本当にそうこの子が思っているのをうつしだしている。素直な、あけっぴろげな、獣の子供のような瞳。

 老人は笑ってタバコに火をつけた。そろそろ下の村に連れて行ってもかまわないかもしれない。そう思いながら煙を吸い込むなり、大きなせきを何回もした。
 「大丈夫か、じいちゃん」
 子供が駆け寄って、背中をさすってくれる。大丈夫、というと、子供の小さな、でもまめだらけの手が、老人のかさかさのしわだらけの手に添えられた。よかった、と子供は笑った。
 最近よく咳がでる。まだ体調を崩しはしないものの、気をつけないと、と老人は思っていた。もう冬が来る。風邪をひいてはこじらせるかもしれない。
 自分ももう70の歳をとっくに過ぎた、と老人は考える。師匠が特別のすべを得て長生きしているようには、老人自身は長生きではない。いつまで生きられるか、それは恐れなどではなく、強がりなどではなく、誰にもわからないことだ。この幸せな年月の間にだって、ひょっとしたら災害に襲われて死んだかもしれないし、ひょっとしたらつまらない事故で死んだかもしれない。この子ががけから落ちて生死の線をさまよったように。
 幸いなことに、ここまで生きてきてこの子をここまで大きくすることが出来た。ありがたいことだ。ちかぢか、師にふたたび手紙を書かなければいけないかもしれない。自分より長生きが約束されたあの人に、もしものときのことを頼むために。

 「悟空よ、あの珠を持っておいで」
 「たんすの上のあれのこと?わかった」素直に手の上に乗せて、隣に戻ってきて手渡してくれる。
 「ありがとう。悟空、これは、わしがもしいなくなったらお前が持っておくといい。形見と言うやつじゃ」老人は子供に手渡し返しながら言った。
 「いなくなる?」子供は、繰り返した後に、くちのなかでもう一度つぶやいて、しばらくすると見る見るうちに目に涙をためた。その涙に、珠が反射したオレンジの光がきらきらと映っていた。子供は、口をへの字に踏ん張って、じっと老人を見つめた。「どっか、いっちゃうの?」
 「まだまだ先の話じゃよ」老人は安心させるように笑って、子供の頭をなでた。「思いついて忘れないうちに言っておこうと思っただけじゃ。遠い先のことじゃ。こんなきれいな珠、そうそうお前にでもやれんわい。ほれほれ、男の子がそう簡単に泣くもんじゃないぞ」
 「オラ、泣いてねえよ。男だもんな。強いんだからな」子供は涙を飲み込んで笑った。その晩は、子供は老人の体をぎゅっと抱きしめて眠った。




 翌晩、風の吹く寒い夜。
 老人は、軒下に吊って干していた柿を背負子に入れていた。明日、冬の支度のために、村に下りるつもりだった。背負子の中には、昼にしたためた、かつての師への手紙が入っていた。
 厚い雲の隙間から、途切れ途切れに月の光が老人の背中を照らしている。

 明日、村に行って。この手紙を出して。また、ひとつき後にでも、あやつを伴って、返事が来ていないか、郵便局を訪ねてみよう。ことによればその後師に引き合わせるために長い旅に出ることになるかもしれない。
 初めての村だ。びっくりするだろう。また、いろいろなことを教えてやらねばな。

 老人がそう思っていたとき、中から寝ていた子供が眠そうな声で呼びかけた。
 「じっちゃん、何してるんだ?オラ、しょんべん…」
 老人が戸口にいたため、扉が開けられないのらしかった。「おお、すまんすまん、すぐ開けるよ」老人が扉を開けた瞬間、さっと雲を割って、背後が明るくなった。
 目の前の子供の瞳が、その光をいっぱいに映していた。

 しまった。今日は、満月か。
 老人はあわてて扉を閉めた。扉の向こうで、不吉なみしみしと言う音がはじまった。







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