このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
なお、このページには若干の性的表現が含まれます。
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残されたもの




 


 ブルマは、ずっと、運転しているフライヤーの中で無言だった。
 他の連中、亀仙人も、クリリンも、ヤムチャも、無言だった。
 無言のまま、南の小島で軽い挨拶とともに亀仙人とクリリンを下ろし、フライヤーの中は恋人であるヤムチャと、ブルマだけになった。
 しばらくは、やはり二人とも無言だった。宵闇が、世界を覆い始めていた。フライヤーのヘッドライトが、自動的についた。

 運転席のサイドボードには、彼女の気に入りの高級な紙巻タバコが封を切られぬまま置かれていた。いつしか覚えたタバコも、彼女の一時の慰めにすらならなかった。
 煙を吐き出すたびに、何かが決壊してしまいそうな気持ちすらしたから。
 やがて、まっすぐに前を見る彼女の頬に、不実な恋人のごつごつした優しい手のひらが両側から添えられた。

 「我慢、しなくていいよ」彼は言った。
 「なにが」憮然としながら、彼女はかすれそうな声で前を見たまま答えた。彼の手が伸び、運転を自動操縦に切り替えた。
 「強がるのはブルマらしいけどな」恋人は背後で優しく笑った。「泣きたいときには、泣けばいいさ」
 ブルマは、ひざを引き上げて、運転席にうずくまった。「バカよ。孫君はバカよ。むかしからバカだと思ってたけど、あんなにバカとは思わなかったわ!なぜ、すぐに生き返ってあげないの。なんで、家に帰ってあげないの。修行なんて、家でも出来るじゃない!なんで、すぐにピッコロから悟飯君を取り返しに行ってあげないの!」
 声は段々悲痛さを増した。
 「あまりにあまりだわ。なんで、やっと見つかった肉親と殺しあうの。宇宙人って何よ。何それ。何その三文SF小説みたいな話。そりゃむかしっから人間離れしたやつだったけどさ。私たちを滅ぼすために送り込まれたですって!?あの子が!?それこそなんの冗談よ!」
 恋人の指が、ブルマの青い柔らかいショートヘアをすいた。「かわいそうよ。あそこの夫婦が余りにかわいそうよ。幸せだったでしょうに。本当に、幸せだったでしょうに。」ブルマは、少女のように泣いていた。
 「俺たちに出来る事は、何もないよ。せめて、このもらってきたドラゴンボールで、ちゃんと1年後にあいつを生き返らせてやるだけさ」
 「あたしが、あたしがあのときちゃんと悟飯君をかばっていれば。ちゃんと捕まえていたら。悟飯君はせめて、あのアニキにつかまらずにすんだのに。あたしのせいよ。ピッコロが悟飯君をさらっていくときも自分可愛さに何も言えなかった。あたしが、あたしが」
 恋人はシート越しに彼女の体を抱きしめた。「ブルマは、何も悪くない。悪くないよ」
 助手席には、風呂敷に入った、3つのドラゴンボールが鈍い光を放っていた。そして、仲間たちを天界に導くための如意棒も。


 ドラゴンボールのあった家には、やつれた女が待っていた。かつてきちんと片付けられていただろう几帳面そうな部屋のそこここに、アルバムや子供の書いたもの、この家の主の着慣れた胴着などが散乱していた。友人とは言いながら、誰も今までこの彼の家を見たことがなかったが、そこに一面にあったものはこの家の5年間。よく子供の頃から見知った彼が、不器用ながらも自分たちの知らない間に確かに男として夫として父親としてつむぎだしていた、そんな幸福な家庭、の抜け殻だった。
 透けるように白い顔の、その家の妻は、説明にうながされるまま、無言で2つのドラゴンボールと夫が祖父から受け継いだ棒を彼らに託した。「殺してやりたい。殺してやりてえだ」妻はかすかにつぶやいていた。
 背後のテレビでは、かつて撮ったであろうホームビデオが、何も知らない無邪気な笑い声を再生し続けていた。





 2

「なあ、これどうやって撮るんだ?スイッチここでいいのか?」
「お父さん、OK!はやくこっち、こっちきて。ろうそく消すよ、ボク」
「よーし、早く消そうぜ!あー、すげえうまそうだ、このケーキ。オラはやく食べたいぞ」
「本当に悟空さは仕方ねえだ。ほら、ろうそく消す前に、もう一度ビデオに向かって笑うだ、三人でな」


 ある天気のいい午後。物置にしまってあったものの整理をするだ、と言われたので、9歳の悟飯は朝から母親を手伝い、アルバムだのなんだのを居間のじゅうたんの上で整理していた。几帳面な母親らしく多くはちゃんとラベリングされていたが、そうでないものもまれにあるし、機械音痴の彼女がうっかりと上から息子に頼まれた番組や他の映像を重ねてしまったビデオなどもあったので、そういうものをテレビに写して確認しながらやっていた。アルバムに写真をちゃんとしまいなおし、足りなければ台紙を増やし、日付を書き入れる。悟飯はそういう細かい作業が嫌いではなかったし、今はもう居ない人の笑顔があふれるその雑多なものを時には笑顔で、時には感慨を以ってたどっていった。
 最近買った新しいビデオカメラと、初めてうちに来た編集機器。悟飯は映像が細切れになってしまったものはあとで編集して、ちゃんとしたものに焼きなおすつもりである。

 「あら、ブルマさんの飛行機だ」
 母親が物干しのそばで空を見上げて声をあげた。「悟飯ちゃん、ブルマさんが来たべ。トランクス君も一緒だな。降りてきたらちょっと休憩して、みんなでお茶にするだ」

 「でね、トランクスったらせっかく作ったのに野菜スープを嫌がるし、無理に食べさそうとしたら、ブッて吐き出したりして困っちゃうわ。一回あいつの顔に吐き出したときは傑作だったけどね。茹蛸のようになって怒って口をパクパクさせていたけど、しばらくしてすごすご顔を拭いてため息ついてんのよ。情けない顔をしておかしいったらなかったわ。でもねえ、そろそろこの子も反抗期なのかしらねえ」
 ブルマは母親の用意した温かいジャスミンティーと、甘い揚げ菓子をつまみながらしきりに話をしている。母親はうんうんと笑顔でうなずき、時には一緒に考え、育児書を持ち出してきてはブルマと調べ物をし、助言を与えたりしている。
 彼女の家は遠い。最速の飛行機でも半日はゆうにかかる距離だ。でも彼女は割りと頻繁にこの家を訪れるようになっていた。今は自動操縦があるし、その間息子と遊んでいればいいから、悟飯が思ってるほどは来るのはしんどくないのだと言う。でも西の都にだっていわゆるママ友くらいいるだろうに。
 「だあって、あたしセレブですもん」以前に聞いたとき彼女は嫌味なくからからと笑った。「セレブづきあいはめんどくさいわ。やれどこのブランドのベビー服を買っただの、どこの病院でいくらかけて出産しただの、どこの幼稚園に通わせるだの、お稽古事は何にするだの。普通のママさんたちのいる公園とかにも行ってみたけど、あたしは有名でこんなに美人ですからね。おっかながってよって来やしないのよ。ここに来ると気楽よ、チチさんはたよりになるし優しいし。やっぱサイヤ人妻はサイヤ人妻同士よ。チチさんはあたしより4つも下なのに、頼り切ってるのもおかしいけどね」
 「ほんとだなあ」それはおらが所帯じみてるといいたいのけ、とふざけてにらんで見せながら、母親はそのとき笑った。「あんな馬鹿宇宙人を相手にできるのは、この世でおらたちくらいのもんだべ」
 「ほんとよ。来るのなんて苦にならないわ。あたしたち、そういう仲のおともだちですもん」
 悟飯は、ベジータが彼女と子供をもうけてくれて、本当に良かったと思っている。

 
 
 ブルマは、ジャスミン茶のいい香りにうっとりしながら、向かいの居間でトランクスの面倒をみながら作業の続きをしている悟飯を見た。1歳に足りないトランクスだが、早くも覚えた一人歩きであちこちうろつき回り、写真をばらまいたり、しきりに悟飯の邪魔をしているようだ。しかし悟飯は辛抱強く相手をしてやっている。
 「写真、片付けちゃうの?…それとも、捨てちゃうつもりなの」ブルマはつぶやいた。
 「片付けるだけだ。捨てはしねえだよ。これから先新しいのをいれるところが無くなっちまうからな。少し整理してるんだべ。…心配しなくても、あのひとの写真はちゃんと寝室の写真立てにたくさんあるだよ」
 ブルマは安心した。
 「あらあら、トランクスったら。ちょっと止めてくるわ。迷惑をかけてごめんなさいね」
 立ち上がりかけたブルマをチチは笑ってひきとめた。「いいんだ、あれくらい。あれくらいで怒ってちゃこの先大変だからな。少しは慣れておかねえと」
 「あは、そうねえ。ちょっとは慣れておかないとねえ。またしょっちゅう連れてくるわ。またチチさんも都にきてよね。今度は一緒にベビー用品の店とか回りましょう」
 ブルマは、傍らに立った友人の、大きく膨らんだ腹をいとおしげに見た。男の子だと教えてくれていた。生まれたら、きっと、トランクスのいい友人になってくれるだろう。

 
 ブルマは最初、彼女が永遠に夫を失ったとき、かける言葉すら見つからなかった。一度、彼女が夫を失ったときには、まだ「一年後には生き返るんだから」と慰めの言いようもあった。でも、今回は何が言えただろう?
 ブルマは恐れた。また、彼女が壊れるのではないかと。ひょっとしたら、あとを追いはしないかと。棺の中に何もない葬式の際に、黒い服に黒い髪をきちっとひっ詰めて、絵に描いたような美しい未亡人を体現しながら、彼女は泣きはらした目を伏せて、どこかうつろな眼差しで、ぼうっと息子や死んだものの仲間である自分たちを見つめていた。
 分かっていた。自分が、なんとなく彼女に抱いていた反発、おそれ。なるべく遠ざかっていたい、そんな風にすら思っていた。それはあの日壊れた彼女を見たからだ。彼女が、それこそ、はたの者が見れば引くほど、狂おしいほどに家族に愛情をぶつけていたからだ。表面上にはそれは彼女の息子にだけ向けられたものだったけれど。
 彼女は、たしかに、あの馬鹿な少年も、男にして、身がちぎれるほどに愛していたのである。だから、また壊れてしまうことをブルマは恐れた。
 でも彼女は、数日すると、ブルマが思ってたよりすんなりと現実を受け入れた。あるいは覚悟していたことだったのだろう。何か言われていたのかもしれない。それはブルマの立ち入ることが出来ない、夫婦二人だけの領域だったけど。
 幽鬼のように白い顔をしていた、少女の面差しを多く残していた娘はもういない。彼女の横顔は、20代を半ばも過ぎた、まぎれもなく強い母親だった。
 しばらくして、ブルマは、死んだ男の子供が、生まれてくるのだと教えてもらった。仲間たちは、表面上「あいつもやるなあ」とふざけながら、それを心から大切なものとして喜んだ。彼女を大事にするようになった。
 彼女と、その長男と、生まれてくる子供は、大切なこの世の宝だから。自分たちが大好きだったあの男の大事にした宝だから。




 3

 閨(ねや)の中で、彼女はいつも誇らしかった。
 薄闇の中で、彼のいつもは子供のような瞳が、男の色を帯びて、自分を見つめてくる。世界を守るために日々鍛えている腕が、時にためらいがちに、時に強引に、自分をかき抱く。求めてくる。体を預けてくる。体を預けさせられる。
 いつも無邪気に笑っている唇が、自分の唇に重ね続けられる。自分の名前を呼ぶ。いろんな声で。時にあえぎ声が混じる。愛の言葉はめったに漏らさなかったが、彼はこうするとき、いつも彼女の名前を呼び続ける。彼女はその声がとても好きだ。
 不器用な指が、優しく優しく彼女の体をなでる。いとおしげに。強引に。こちらもなで返す。体を、唇で、舌でなぞる。時に吸い付き、軽く歯形を残す。だんだん、切羽詰ってくる。
 愛して。もっと愛して。もっと。
 体を貫かれる。えも言われぬ快楽の波。ぶつけ合う身体。彼は、他の誰も見たことのない顔で、時に苦悶のような、時に恍惚とした表情を浮かべている。長い時間、こちらの頭がどうにかなりそうな快楽を与えてくれる。彼女の体を知り尽くしている動き。どこがいいか。どこが弱いか。どこをどう触れば喜ぶか。嫌がるか。時々あらたな彼女の反応を、ポイントを探り当て、彼はおかしそうに笑った。翻弄されるたびに、彼女は自分が彼の操り人形になった気すらする。少し悔しい。
 終えた跡には、それでも、誇らしさが彼女の胸を満たす。彼の指先が、彼女のつややかに長い黒髪を、何度も何度もなでる。その指が、やがて止まり、幸福な眠りにつく。
 彼がこうしてくれるのは、自分ひとり。彼のこんな顔を知っているのは、自分ひとり。誰も知らない、誰にも知られてはいけないこと。
 自分たち二人だけの大切な秘密。



 「あ。」
 彼女は布団の中で白い首をのけぞらせた。「悟空さ。悟空さ。」熱を帯びた、小さい声が上がる。「あ、だめ。きて。悟空さ」
 布団の端が強く握り締められた。

 しばらく、荒い息が、ひとりの寝台のシーツに吸い込まれ続ける。彼女を今までさいなんでいた幻の男の表情が、引いていくからだの内側の波とともに急速にうせていく。彼女は、変に冷静な目でそれを見送る。指の汚れを拭い、少しの罪悪感の混ざった、長い息をつく。
 彼女はしばらくじっと闇を見詰めていたが、やがて寝台を降りて子供部屋に向かった。子供部屋では息子二人が太平楽に眠り込んでいる。




 16の長男。7つになった次男坊。
 長男はきちんと寝相よくベッドで眠っている。ベッドの下に、最近読んでいる長編SF小説の文庫が落ちていた。彼女はそれをそっと拾い、サイドテーブルにおいてやった。
 ここ2,3年で急に背が伸び、亡くなった夫の服のお下がりをきるようにもなった。最近になってちゃんと服を買い足しもした。そろそろ学校に通わせるつもりだからだ。今まで彼は自主的に勉強をしながら、弟の面倒を父親の代わりになってよく見てくれた。おかげで次男坊も手がかからない年頃になった。
 いよいよ、次の朝は初登校だ。春になって新学期なのだからちょうどいい契機だ。うまくなじむといいんだけど。
 小さい頃、塾では泣き虫が過ぎて、尻尾があるのも災いしてか、あまり友達も居なかった。今度は、普通の男の子として、学校生活を楽しんでもらいたいと思う。自分だってほんの短い間しか学校には行っていないが(小学校には行かず、14のときに料理学校に1年ほど行ってその後は武道の修行をしていたのだが)、それなりに楽しい思い出だった。この子にもいい思い出を作ってほしい。
 机の上の真新しいかばんの上に、明日着ていく服が彼の手できちっとたたまれ、その上にオレンジの星の描かれたバッジが乗せられている。

 彼女は目を転じ、隣のベッドで寝ている次男の、腹からめくれ上がっているパジャマを整え、ちゃんと布団をかけなおしてやった。寝返りを打つ顔を見て微笑む。その顔は、彼女の愛した男の子供の頃に瓜二つだった。
 彼女は、妊娠2ヶ月でこの子の存在に気づいたとき、一瞬おろすことを考えた。でもそんな考えはすぐに消えた。本当に、産んでよかったと思う。
 長じるに連れ、この子が亡くなった夫にはっきりと似てくるにしたがって、彼女はこの子を夫のように育ててやろうと願うようになった。武術も教えてやった。夫がかつてしていた金色の髪になれるこの子を見て驚いた。夫の使ってたわざの多少を教えてやったりもした。この子が、もっともっと夫にそっくりになってくれれば。そう思いもした。
 でも、やはりこの子は孫悟天と言う一人の人格だった。夫ではない。夫そのもののようにあらねばと強制する事は、かつてこの子の兄に強いたことより、もっと残酷なことだ。夫のようにならなくてもいい、夫と違う人生の形を歩んでもいい。むしろそうして、もっともっと、長生きして幸せになって欲しい。
 子供部屋から出て用を足し、暗いリビングのソファにひざをかかえて座って、隠してあった弱い酒を口にし、テレビをつけて音量を絞って見るともなく日付の変わった深夜のテレビ番組を眺めた。

 

 結婚してから自分は汚れてしまった、とチチは思う。筋斗雲に乗れなくなった自分に気づいたのはいつのことだったろう。何も知らずに恋していた小さな純粋な少女は自分の中に掻き消え、かわりにさまざまの欲が、生活の段階で自分を蝕んでいった。お金がほしい。働いてもらいたい。わが子にえらくなって欲しい。彼自身だけでいいから生活に困らないほど、何も不足しないほどの能力を身につけて欲しい。ほかの者をおしのけてでも。
 なぜ、自分だけこんなに苦労しているのだろう。このひとがもっとしっかりしていれば、自分は何も知らない、平和な無知なかわいい専業主婦でいられたかもしれない。そう思うと、憎らしくなって、つい夫に八つ当たりを繰り返した。
 でも、夫は、そんな汚れた自分も受け止め、愛してくれた。最後には、働くと約束もしてくれた。それはかなわないまま逝ってしまったけれど。

 チチは、テレビの声にふと顔を上げた。

 「この森にも、十年後には、この種から生まれた新たな木が大きく育つのです。そして、日差しをうけて影をつくり、下生えの植物を守り、動物たちを守り、さらに豊かな森を形成していくことでしょう」
 テレビの中には、若葉をいっぱいに広げて木漏れ日をきらきらと投げかける大樹の映像が、美しく映し出されている。

 チチは微笑んだ。
 もう「あの日」から十年かな、悟空さ。おらは、あの頃は予想もしていなかった未来だけど、それなりに幸せだ。
 悟空さは、いまどうしてる?
 心の中で呼びかけたあと、チチは飲み物を片付け、テレビを消し、今度は安寧な眠りにつくために寝室に向かった。






 4

 その日。

 チチは、戯れに、あの世ってどんなところ?とたずねてみた。夫がナメック星から帰ったばかりの頃だった。
 ピッコロは、気を利かせているのか知らないが、長い不在だったことにいらだっていたこの家の妻を慮ってか、ちょくちょく悟飯を預かり、夫と二人の時間を作ってくれることがあった。それで、まあ、仲直りのようなこともできたわけである。
 話を聴けば、そんなに思ってたよりもひどい世界ではないようだったのでチチはなんとなく安心した。でも、死んでしまえばやはり残されたものは死者とは会えない。言葉を交わすことも出来ない。それを思うとやはりもうこの人が死ぬのはいやだな、と思った。
 
 2人きりの夕食を食べながら、彼女は何気ない風を装ってきいてみた。
 「おらが死んだら、泣く?」
 夫は飯をかきこみながら、さも当たり前だ、と言う風にうなずいた。「そりゃ泣くさ。バカなこと聞くなよ」
 「悟空さは、死んでる間、おらのことを見守ってくれていた?」
 「んー」茶を飲みながら少し小首をかしげた。「死んじまったら、こっちの世界の事はわからねえんだよ。だから無理だな」
 チチはがっかりした。そういう答えがほしいんじゃないんだけどな、と思って唇を曲げた。
 
 台所に置かれたラジオが、ニュースを流し始めた。
 「王のこの計画は、十年後の実施を目標に、有識者を交え検討の後に次の年度から本格的に始動することになります。キングキャッスルの議会はこの決定を受けて…」
 「十年後か」食べ終わって、腹をさすりながら不意に夫が言った。「なんか、予想もつかねえな。オラたち、十年後って何してるだろうな」
 「きっと、もっともっと幸せだべ」チチは自分に言い聞かせるようにダイニングの椅子に腰掛けたままそう言った。「そうだな」夫も微笑んだ。
 「あ、思い出した」急に声をあげた。「界王様にたのめば、たった一回だけだけど、あの世からでもほんの少しの時間だけこの世のことを見ることが出来るんだ。少しなら話も出来るんだぜ」
 「へえ」チチは座ったまま皿を重ねながら気のなさそうにこたえた。そんなこと言われても、まるで現実味のないことのように感じられたからだ。
 
 「なあ、片付けは後でいいからさ、ちょっと外でないか」夫が天窓を指差して笑った。「星が綺麗だぞ」

 そこで2人は突っかけ履きをして外にでた。手をつないで家の丸い屋根の上にある、満天の春の星を仰いだ。
 「まだちょっと寒いだな」
 「だな。でも綺麗だな」
 「もう少ししたら庭の桜も咲くだろうかな。綺麗な夜桜になるだ。そしたら、みんなでお花見をするだ」
 4月頭のこの時期とはいえ、山地のこの辺りはまだ夜になると冷える。桜もまだつぼみのままだ。

 夫が、チチを見て、少し黙ったあと、言った。
 「あのさ。もし、オラがまたそのうち死んじまっても。」
 何を言い出すのか。チチは傍らの夫の顔を見上げた。家の明かりが、真剣にこちらを見ているそのひとを彩っていた。
 ありえない話ではなかった。『ほんとうの歴史』では、彼は、そのうち心臓病を発病して帰らぬ人になるはずだったから。

 「死んじまっても、オラ、今日から十年後、界王さまに頼んで、こっちの様子見るよ。で、話をしよう」
 チチは押し黙った。

 「…おらは、いいだ。話はしなくて。それより、悟飯ちゃんを見て話してやってくれ。おめえに死なれてはあの子だってつらい。そんな貴重な時間、おらにはもったいないだ。そのころはおらだっておばさんだ。いきなり見られては恥ずかしいだ。だからいい」
 「そんな」
 「いいだな、悟飯ちゃんと話してやってくれな」
 半分意地になってるのを自覚しながら、チチは夫に言い聞かせた。彼は不承不承うなずいた。うなずいたあと、また、あ。と声をあげた。
 「そういや、オラ一日生き返れるんだった。すっかり忘れてたけど。占いババに頼んでさ。じいちゃんにもそれで会えたんだった。いやー、すっかり忘れてた」嬉しそうにつないでるチチの手を振り回す。「オラ、おめえに会いに帰ってくるよ」
 「いいだよ」チチは顔をしかめた。
 「なんで」手が止まって、傷ついた顔をみせた。「おめえ、オラに会いたくねえのかよ」
 「会いたくないわけねえだ。でも、また会ったら、たった一日で帰るのに」
 そこまで言うとチチはうつむいて涙をこらえた。
 離れがたくなってしまうではないか。悟飯を置いて、ついて行きたいと思ってしまうかもしれないではないか。
 夫も黙った。言いたい事を察したようだった。


 でも、チチの顔を上げさせると、夫はにっこりと笑って言った。
 「それでも、いつか帰ってくるからな」




 悟飯が、初登校の翌日の夕方、息を切らして帰ってきて、夕食の席でひとつの知らせをもたらした。びっくりするような嬉しい知らせだった。
 夕食の後、チチはふと居間のカレンダーを見上げて、あ、と声をあげ、指折り数えた。
 そうか。今日だった。あの人は、ちゃんと約束を守ってくれたんだ。

 はやく会いたい。早く、あの世から帰ってきて欲しい。たとえ一日だけだって、かまわないから。また、自分の名前を呼んで、抱きしめて欲しい。
 待っている。待ちきれないけど、本当にくるその日を、指折り数えて待っている。一生懸命待っているから。






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