1
白い。何もない白。なにも、何も存在しない白。なにも、何も聞こえない。何も感じられない。
何がある。何もない。何かあってくれ。誰か居てくれ。誰か声をかけてくれ。
あつい。熱くて寒い。体が熱くて寒い。太陽も何もないのに。風も何もないのに。
彼は、歩き続けていた。のどがひりひりと焼け付いて痛い。ひどい飢えが襲う。もう5日、いやそれ以上、このひどく体の重たい白い中をさまよっている。
何もない白の中に存在するのは、ただ自分の色だけ。手のひらを見る。血が流れている。何度も何度も、床を打ち付けて、床を掘ろうとあがいて、爪が割れて指先が血にまみれている。
この世に、たった一人だけ。自分は、この世に一人だけ。
いやだ。置いていかないでくれ。
置いていかないでくれ。じいちゃん。じいちゃん!
彼はひざを突いて全身を震わせて絶叫を発した。以前に飲み干した致命の毒のようなひどい苦しみが、魂の底から止め処も泣く湧き出て全身をめぐり続ける。
なぜ、じぶんはここにいる?なぜ、生きなくてはならない?何のために生きている?誰に必要とされている?
本当の親に捨てられた、小さなおろかな自分を。
のどが枯れるほどの絶叫の後、彼は顔から床に突っ伏した。額が切れて、白い床を汚した。彼のあふれる涙が、それに混じった。
しかし、床を汚す赤も、すぐにさらさらと周りから白に侵食されて消えていくのだ。
何も、ない。消えていく。自分も、いつか。なにもなくなってしまう。何も残らない。
いやだ。生きたい。生きて、外の、誰かに会いたい。生きて、空を見たい。生きて、何かを感じたい。生きて、何かを残したい。
せめて、あそこに帰り着かなくては。あの小さな白い小屋に。のどを潤して、空腹を満たして、布団に飛び込まなくては。そして、柔らかい布で体をくるんで。
彼は、嗚咽を漏らしながら、虫のように体を引きずって、進みだした。
誰か。誰か。
オラを、大事だと、抱きしめてくれ。
彼は、薄い灰色の闇の中で、涙に濡れた黒い瞳を開いた。薄い乾いた空気が、ひび割れた唇から彼ののどにゆっくりと侵入してきた。
目をしばたたいて、そっとため息をつく。昔見慣れた白い部屋の寝台の、天井の不思議な生き物の模様が、うずくまって彼を見つめていた。
そうか。
あの頃の夢を見たのか。
彼はゆっくりと首を傾け、隣の寝台に眠っている少年を見た。眠りの中で彼の全身を縛っていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。
そっと起き上がりそばに寄り、少年の跳ね除けている毛布をかけなおしてやった。いとおしげに、額に手を置いてなでてやった。よく眠っている。彼は微笑んだ。
よかった。うなされて、起こしてはかわいそうだ。
大丈夫。オラはひとりじゃない。あの頃と違う。チチのおかげで、悟飯、お前がいる。
彼は寝室を出て、外の世界を見つめた。あの時と同じ、何もない白い世界。
精神と時の部屋。
彼が、かつて神の修行で絶後の苦しみを味わった、異次元である。
2
悟飯は、子供の頃から、この自分の父親は何を考えているのだろう、と思うことが多かった。母親にしょっちゅう同じことをしかられ、ぺこぺこ謝ってばかり。他愛もない、悟飯でも内容が分かるような教育番組の言葉を、真剣に子供の自分に尋ねたりする無知さ。悟飯は毎日、「悟飯ちゃんは、ちゃんとお勉強をしてえらい学者さんになるだ。父さんみたいに、何も考えてないような大人になってはだめだ」といわれながら育った。なので、一時期、本当にこの父親はバカなのではないか、と思っていたこともあった。一度、母親にそのようなことを言ったらこっぴどく彼女にしかられたのだけど。
だが、悟飯は長じてくるにつれて、父親は本当はとてもものを考えてる人なんじゃないか、と思うようになってきた。
ほんの小さい頃。毎日森に散歩に連れて行ってくれて、色々の動物や植物を見せてくれた大好きな自分の父親。父親は、よく自分に、若い頃回ったと言う世界中の面白い話をしてくれた。たくさんのたくさんの動物のこと、植物のこと、その他世界の不思議なこと。
野原にねっころがって、世界をいっぱいに2人で感じる。悟飯の、父親ほどではないけど鋭敏な感覚に、世界の気配がいっぱいに広がる。父親は武術は教えてくれなかったが、悟飯に広い世界を開いてくれた。勉強も教えてくれなかったが、何を学びたいかと言う道筋を与えてくれた。たまに世界の大切なことを教えてくれた。生き物を愛する悟飯を、父親は誰よりも理解してくれた。悟飯は、後に戦いに放り込まれたとき、自分が気を早く操れるようになったのは、父親のおかげもあると思っている。
父親は、たまに、母さんには内緒だぞと、自分がどれだけ彼女を好きかと言うことをそっと教えてくれたりもした。
悟飯は母親の抱っこも大好きだけど、父親の抱っこも大好きだった。泣き虫だった子供の彼を、父親は胡坐の上に乗せて抱きしめながら、ゆっくり揺らしながら良くあやしてくれた。
「痛くない、痛くない。悟飯、なあ悟飯。男がそんなに簡単に泣いちゃダメなんだぞ」
毎日のように繰り返されるそんな慰めの中で、一回悟飯が問うたことがあった。
「なんで男の子だけ泣いちゃダメなの」しゃくりあげ続ける彼の額を、優しく優しく大きな手のひらが撫でる。
「男はな、誰かを守ってやるもんだ。そういうときに、自分もつらくて泣いてちゃ、悟飯が守りたい奴は安心できないだろ?男なら、ゆったり笑ってなきゃな」
父さんは、母さんを守ってやろうと決めたから、泣いたりしないんだ。おめえを守ってやろうって決めたから、泣いたりしないんだ。おめえたちがこの世界にいるから、この世界が大好きだ。強く、強くなって、絶対守ってやる。
母さんには、なんか恥ずかしくて言えないんだ。だから、これはオラと悟飯の男同士の秘密だぞ。父親はそういって照れくさそうに笑った。
父親は、本当に、自分のことも、そして母親のことも愛している、と悟飯はよく分かっていた。だから、父親が後に長く不在にしてもかなり落ち着いて信じていられた。母親にはひた隠しの中に怒りと悲しみとあきらめの影がかわるがわる浮かんでいたが、悟飯はなるべく笑顔を絶やさないように明るく彼女に接した。父親のかわりに、母親を守っているために。
その父親は、白い小屋の階段に腰掛けて、ずっと何日も考えにふけっている。
一度なぜかと問うてみたが、「考えることも修行のひとつなんだ。オラが神様に修行つけてもらったときはそりゃ毎日何かを考えさせられたもんだ。だからオラはしばらくちょっとそうしてるから、悟飯は自分で修行をしておけ」と父親は言った。
息子である自分のことを忘れてるのではないようだ。たまに目が合うと、おう、と手を上げてくれるし、熱中して遠くに行き過ぎると声をかけてくれる。
おとうさんは、一体何を考えているんだろう。
しばらくして、その答えとして修行の方法が父親から提案され、彼らは新たに共に修行に取り組んだ。言うほど時間はない。限られた時間の中で出来るだけあの敵を倒せるほどに強くならなければ未来は崩れてしまうのだ。
父親とだけで過ごす一年。師であるピッコロとかつて生活したよりもっと長く、二人きりで過ごす時間が着々と過ぎていった。
父親はピッコロに比べ優しい師ではあったが、求めるものはそれ以上に厳しかった。悟飯は改めて父親がこんなに物を考えて戦闘をしていたのか、と驚かされることがたびたびあった。人造人間に会う前の修行でも、もっぱらピッコロを立てているのか、口頭的な指導は任せっきりなことが多かったからである。
修行の合間の生活の中でも、父親は意外とちゃんと生活をしていた。毎日毎日交替ごうたいに、食事を用意し片付ける係(といっても本当に大したものがないし2人とも料理は出来ないのだが)と、風呂を用意する係をどっちかやる。たまにそれぞれのものを洗濯。たまに一緒に掃除。この分担を提案したのも父親である。
しばしばどちらかが怪我をするが、互いで手当てをしあった。たまに父親は「帰ったときに勉強をすっかり忘れてたら母さんが気の毒だから、出来そうなのはたまには思い出しとけよ」とすら言った。母親がいないので行儀にはさほど構わなかった。男同士の、くだけた生活である。悟飯は楽しかった。
そんな月日もあっという間に流れていった。修行は父親曰く順調に終わりを迎えようとしていた。
3
「いよいよもうすぐこの部屋から出られるんですね」
悟飯が小屋の壁にかかった複雑な時計を見あげた。部屋での時間であと1時間半ほど。この部屋に入っている間に、背丈は3センチ以上も増え、子供っぽかった四肢がしなやかに少年っぽく伸びはじめている。すっかり身についた金色の髪が柔らかな光を放つ。
「ああ、そんでもって、外にでればあいつとの戦いだ」悟空は外を見晴らす、土間のスツールに腰掛けながら息子を見上げた。
「その前にピッコロさんたちもこの部屋に入るかもしれないんですよ」ちゃんと綺麗にしておかないと、と几帳面な息子はその辺を拭いたりしている。こういう律儀なところは母親であるチチに似たなあ、と悟空は思った。悟空も手伝おうとしたが、お父さんは休んでてください、と座らされた。師匠扱いと言うことですっかり板についてしまった敬語がどこか寂しくもあった。
「ベジータとトランクスもこの部屋に一緒に一年も居たんだよなあ。今考えたら変な感じだな」
「トランクスさんも大変だったでしょうね」
「あいつは意地悪だからな。ちょっとは親子らしく仲良くやればいいのに。あー、でもそれよりさ、オラはやく母さんの料理が食べてえなあ」悟空は天井を仰いで情けない声をあげた。本当に、彼女の料理を腹いっぱい食べたい。この一年ろくなものを食べていないのだもの。なにより、はやく彼女の顔が見たい。彼女に触れたい。
「ボクはカレーが食べたいです。チキンカレー。にんじんを花にしてあるの」
まだまだ子供っぽい物言いに悟空は笑った。「オラは豚の丸焼きだなあ。あれはうまいけど大変だから手伝ってやらねえとな」
「あと野菜炒めも!から揚げ。かぼちゃの煮たの。それに胡麻団子」
「たけのことしいたけの一杯入った中華まんもな」
「そういえば」小甕に移した水で雑巾を洗って絞り終え、干しながら息子が笑った。「ボクピッコロさんに最初に荒野にほうり出された夜に、おかあさんの中華まんが食べたいって言って泣いたんですよね」
悟空は唇をそっと引き締めた。
あの自分の兄との戦いに敗れ、自分が死に、この息子を戦いに投じたのが4つのとき。今は、外界の世界では9歳。この部屋にいる時間をたせば10歳。
自分が守ると、あんなに思っていたのに。命に代えても、守ると思っていたのに。
なんて、自分は幼い頃から、長いこと、そして、まだこんなに幼い息子を戦わせてきたことだろう。
「悟飯」彼は息子を呼んだ。「その髪、まただいぶ伸びてきたなあ。また父さんが切ってやるよ。ちょっと来い」
「え、でも髪の毛で床が汚れちゃいますよ」
「だいじょぶ、外に落とせばすぐ消えてなくなるさ。外に椅子もってこい」
「さ、超化解いて座れ」悟空は引き出しから取り出してきた櫛とはさみをカチャカチャ言わせて、ひょうきんに言った。「さー、やるぞ」
「上手に切ってくださいね、お父さん」本当は母親の方が上手だから外に出てから彼女にやってもらったほうがありがたかったが、息子は素直に椅子に座った。超化をとくと、逆立っていた毛が黒く変わり襟足にこぼれた。ちょっと櫛ですいてやり、襟足をざくざく切っていく。
サイヤ人の髪はほとんど変化することがない。変化するこの子の髪は、地球人であるいとしい女譲りの性質。だけど、このぴんぴんとはねて強い髪は、自分譲りのものだ。
自分は、この子が生まれた時から、何があっても生きていけるように、この子を強くしてやりたいとずっと思っていた。誰よりも強く生きて欲しいと願い、だから、自分の持つ技を教えてあげたいとずっと思っていた。
戦いに出させたくないと言い張る妻と喧嘩になったこともある。なんで分かってくれないんだと、腹を立てたこともある。彼女の気持ちを分かった振りをして妥協を得、ごまかしながらも一緒に戦いに出ることを喜んでいた。彼女をごまかせたのは、ずっと自分がこの子を守り続けられると思っていたからだ。そこには、宇宙一になったという驕り、超サイヤ人になったという驕りがなかったと言い切れない。
今になってみて分かる。自分は愚かだった。自分勝手だった。まだこの子は、自分が山を出たときにも満たないほどに幼いのに。嫉妬していたのかもしれない。こんなに幼いのに、はるかにその歳の自分を超える強さを持っていたこの子に。自分の子がこんなに強いと、見せびらかしたかったのかもしれない。
緑色に変化している悟空の目に涙が浮かび、一滴だけぽろりとこぼれた。
それがわかっても、だから、なおさら、この子を戦わせずにはいられない。あの女のために。悟飯、おまえ自身の楽しい未来を守るために。
死んでしまっては何もかもおしまいなんだ。
ごめん。悟飯。父さん、弱くてごめんな。必死に修行したのに、オラは、いつの間にかオラを追い越したお前に追いつくことが出来なかった。
追い抜いてもらおうと思ってたけど、出来るなら追いつきたかった。お前を無駄に傷つけないよう、出来るなら、自分ひとりですむよう。追いつき続けようと思ったのに。結局は、完全体になったときに達するだろうあいつにも及ばなかった。
だから、オラ、精一杯お前を強くしてやった。チチも許してくれたから。お前が生まれた日、あんなに強く願った事はかなえられたと思う。
バカな父さんを許してくれな。
「さあ終わった」悟空は悟飯の頭を、首筋を、背中をパンパンとはたき、残った毛を落としてやった。
「ありがとう、お父さん」悟飯は、座ったまま振り返って微笑んだ。悟空は、後ろから息子の体に手を回し、昔小さい頃よくあやしてやったように、体を椅子ごと揺らした。できるだけ、なんでもないように。息子は声を上げて笑った。
「悟飯、戦いで、どんなにつらいことがあっても泣くんじゃねえぞ。男の子なんだからな」
「昔言われましたね」悟飯は覚えていた。「男は何かを守るんだから、泣いちゃダメだって。ボク泣きません、頑張ってこの世界を守りましょう」
自分が強くなりたいという望みよりも、この子は、ずっと世界を救う義務のために戦ってきた。
願わくば、それがもう最後であるように。また、この部屋に入ることがないように。この部屋に一人で入って、あんな絶望を味わうことがないように。
オラが居なくなっても、悟飯、お前は残る。この地上に、残り続けてくれ。そして、母さんを、守ってやってくれ。
あとがき・もくじ(ブログ)
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