このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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 1


 むかし、女と寝てたことがある。カメハウスにいた頃に、ランチって女と。その前にはブルマと一緒に寝たこともあった。
 オラもガキだったから、その頃は女と眠ることなんてなんとも思ってなかった。
 いつだったかランチに、寝る前に何気なく「一緒に寝てたら、そのうち子供が出来ちまうんじゃねえのか」とか聞いてみたことがあった。よく覚えてないけど昼間のじっちゃんの勉強で、なんかそんな話をしてたんだと思う。
 ランチは笑って言ったっけ。「悟空さんが、もっと大人になって、大好きな女性と一緒に眠るようになったらそうなりますわよ」って。
 そうだな、今なら分かるよ。オラだってもうガキじゃないんだ。大人になって、そういう女を見つけてしまったんだ。






 2


 悟空はリビングのソファに腰かけ、壁にかかった真新しいカレンダーを見てため息をついた。新婚旅行から帰ってきて、まだ荷物もろくに片付いていないこの新居に引っ越してきたのが5日前のことだ。新居はかつて彼が一人で暮らしていた山のふもとに置いた。いくらなんでも山の上のほうで暮らすのはつらいと新妻が反対したのだった。
 そして彼女はこの桜の木のそばの小川の流れる土地を選んだ。僅かの花とピンクの蘂を残した葉桜が窓の外できらきらと綺麗だった。これまた真新しいものほしが桜のそばに立てられ、洗濯物が日差しを受けて翻っている。
 朝食後。片付けと洗濯の後、妻は買い物に出かけていた(何しろ新生活には細かいものがたくさん入用なのだが、彼女はすでに悟空がその購入に付き合ってくれることをあきらめている)。今日は朝から2人とも機嫌が悪かった。ゆうべ喧嘩してしまったのだ。
 喧嘩の原因がシーツの影でふわふわ揺れている。彼女の下着。それは今の彼にとってとてつもない壁だった。


 「いいじゃねえか」
 「やだっ」
 昨夜、彼らは寝台の上で言い合いをしていた。タイミングの悪いことに新婚旅行中さあこれからというところで(といってものんきなことに旅行が終わる間際になって)、新妻は月のものを迎えてしまった。それがこの晩から5日前のこと。
 キスなら、脱がさないなら、という条件でお預けを食ってるのだが、己の中にある激情に気づいてしまった18歳の男子にはなかなか厳しいものがあった。
 意外なことに彼は何をなすべきか、と言うことを知っている。子供の頃野山ですごして、動物の交わりを何回も目の当たりにしてきたし、過去に師匠たちが伝わらないなりにそれなりに教えた成果だった(教材に問題はあったが)。激情をおぼえた頃は混乱していてまだそれがうまくつながってなかったというだけの話で、何日も何日も悶々と悩まされるうちにそれがいきなり腑に落ちたのである。
 でも、「好きだ」というと、あの日覚えた殺意に似た衝動まで伝えてしまうようで、そしてそういうことをしてしまうきっかけになりそうで、思い込みとは分かっていても彼には口に出来なかった。それは、できることなら言わないで済まそうと思っている。後々までこのへんな決意は繰り返し喧嘩の議題になるのだったが。
 「もう終わってるじゃねえか」嗅覚の敏感な彼にはわかる。「もうほとんど血は出てねえんだろ」でも女性の生理についてはよく理解していない。デリカシーも。
 「な、な…」新妻は真っ赤になって毛布の中に隠れようとした。「そういうこといわねえでけろ、馬鹿!こっぱずかしい!それにまだ終わりきってないんだ、きたねえもん!」
 「きたねえなんて、オラ気にしねえから」あわてて毛布を引っ張って、何とか隠れさせまいとする。昨日まではなんとか辛抱したが、半端にお許しを得てるのが災いしてキスして抱きしめているうちに、ついに限界に至ったのである。
 「おらはするんだ!」あごに肘鉄が飛ぶ。「無理やりなんて、ひどい!悟空さの馬鹿あ!」
 丸まって毛布の中で泣き出してしまう。また彼女の必殺技、ダンゴムシである。
 「な、泣くなって。悪かった」地球一強い男も、どうにも妻の涙には弱い。すでに彼にとってこの世で一番怖いのは彼女の涙になっていた。
 それにここで機嫌を損なわれると、一生出来ないなんてことになりかねない。それは非常にまずい。そもそも一週間くらい待つさと言ってしまったのにそれを守らない自分が悪いのだ。素直に謝ろうと思ったが、うながしても強情に毛布から出てこない彼女に彼はいらだってしまった。新しく始まった生活で、彼もストレスを抱えていたのである。
 寝室から出て、リビングのじゅうたんの上で寝た。だからその夜を妻がどうしてたかは知らない。



 引越し最初の日は2人ともかたづけや買い物に必死で、小言は少なくてすんだのだけど、なにしろ彼女は小うるさいのである。
 悟空は、この家に越してきた翌日初めて修行に出かけ、帰ってきて明かりがともっていて、彼女が「おかえり」と迎えてくれた日の感動を忘れない。昔だって修行のときにランチが迎えていてくれたが、自分の好きな女であるチチが自分たちの家で自分だけを待っててくれる、という誇らしさは格別なものだった。
 なのにその感動をぶち壊すかのように、その日から毎日、帰るなりさっさと手を洗えだのつまみ食いするなだの食事の前に余計なものを食うなだの入りたくないのに修行で汚れているから先に風呂に入れだの、素直に風呂に入ったら入ったで入る時間が短いだの頭を洗ってないだのちゃんと体を拭けだの頭もドライヤーとやらで乾かせだの、とにかくやかましい。風呂から上がって裸でうろついたら真っ赤になって本気で怒って物を投げつけてきた。どうせ近々見ることになるからかまわないだろうにと真剣に彼は思っているのだが。
 彼女の用意する食事は本当に今まで食べたもののどれよりおいしいし自分を満たしてくれて、悟空はそれだけでも彼女と結婚してよかったとつくづく思っているのだけど、食べるときもいただきますをきちんととか食べ散らかすなとかよく噛んで食べろとか。修行に出ても何時までに帰ってこいとか。そして挙句の果てに一緒に寝るときも文句をつけられてはかなわない。好きなあまりにやってることなのだから、それぐらい好きにさせてくれたってと彼は思っていた。

 ゆうべなんてついに自分で自分を慰めてから寝てしまった。悟空だって健康な男子だから、神殿にいる間に第二次性徴を終えてそのくらいの事は知っているのである。もっとも彼の場合はチチに出会うまでそれが女性に向けられる衝動とは知らずに、時折現れるどうしようもない心身の変化と受け止めて処理していただけのことだ。サルなようでサルではなかった。自分から進んでその処理に伴う快楽に身を任せようとはしなかったのだった。
 でも妻から得られるものはけたが違う。唇を合わせて、抱き合っているだけで体と心の奥からどうしようもないものが湧いてくる。子供とかはどうでもいい。何とかしてこの女とつながりたい。つながって、もっと深いところを見てみたいと思う。そしたら、こんなお小言も忘れてきっともっともっと妻を好きになれるのに。


 誰もいない家にいてもしかたないので、悟空はソファから立ち上がって、家を後にした。戸締りなんてしていなかったが(そもそも落っことすからと鍵を預けられていなかった)、こんな田舎の家、よほどの暇人じゃなければ訪れるはずもなかった。
 チチが怒るかもな、と思ったがなんとなくどうでもいいやと言う気持ちだった。なんにせよまた怒られるのは怒られるのだ。修行する気も湧いてこないので、散歩でもしようと思った。






 3

 チチは厳しい。もともと彼女の性格自体が几帳面なのだが、彼女にはこの野生児をどうにかして教化しないと、と悲壮な使命感を負っているような気持ちがあった。なんとなく旅行中から予感してたことだったが、こんなのではまともに働きにいけると思えない。かといってこの桁外れた大食漢の食を支えるにはとても自分が働きに出る時間的余裕はない。今はまだ新婚だし、彼女の小遣いをためたのと(それでも結構な額だ)と持参金があるからそんなに焦らなくていいかとは思っているのだが、このままでは彼女の父親に援助してもらうという道しかなさげなのが情けなかったのである。一刻も早くそんな状況から脱出せねばならないとお小言に精を出している。おかげで結婚して2週間弱にして悟空はもう疲れていた。

 お小言を言われるたびに、悟空はむかしはこんなにうるさく言われたっけ、と考えた。師匠である亀仙人や居候だったランチ、時には友人であるクリリンにも、それなりにしつけのために何か言われていたように思う(神殿ではあまり行儀のことについてはうるさく言われなかったが、自分で考えるということについて厳しくしつけられた)。でもこんなにこたえただろうか。
 原因の半分は分かっている、むかし自分が祖父の言いつけを守らなくて悲しい顔をさせたとき余計に自分も悲しくなったように、自分がチチのことを祖父ほどに(種類は違えど)好きだから小言がこたえるのだと。彼女は小言を言ってるうちに泣き出すこともあったから、それがいつこぼれるかとはらはらして心臓に悪かった。小言を言われるたびに彼女から発せられる悲しみと苛立ちの気の弾丸が彼の胸を撃った。彼にはそれを遮蔽することも出来たが、目の前にしたいとおしい存在を無視するような事は出来なかった。
 あとは単にめんどくさいとかかったるいとかそういうことだ。しつけてくれる人を早くに亡くし、長年ひとりで勝手気ままに生きてきた根っからの野生児には行儀なんて全くどうでもいいことだったから。
 悟空はかつて自分が暮らした家の方に足を向けた。坂道が急だから筋斗雲のほうが楽なのだが、歩いて山を確認したかったのだ。




 (なつかしいな)
 山を歩くのは久しぶりだが、かつて狩りや修行で飛び回った山道を苦も無く探し当てることが出来た。かつて見知った動物たちはすでに代替わりしてるようだが、悟空が木の上に笑いかけると戸惑いながらも挨拶を返してきた。
 山は彼にとって庭であり家であった。春遅いこの山も、5月になり緑がにぎやかだ。あちこちで気が命としてあることの喜びにさんざめいている。世界だ。悟空は、はじめて世界にあまねく気を感じられるようになったときのあの感動を思い出した。
 二股の道に出た。右に行けば悟空が行水や洗濯や水汲みに使っていた滝つぼ。滝裏の洞窟は夏も気温が上がらず、肉を隠しておくのにいい。悟空は左に曲がり、かつて暮らした小屋の前に立った。6年前にカメハウスに行く前に荷物を取りにきてから初めてのことだ。


 もともと小屋は祖父が自分を拾う前に暮らしていた家の物置だった。悟空も小さい頃は本棟の方で暮らしていたが、化け物がそちらを祖父もろとも壊してしまった。破壊を免れて残った家具をこちらに運びいれ、一人で暮らしていたのである。瓦礫は悟空が祖父を埋める際に出来るだけ一緒に埋めてしまった。破壊のあとを見ているのがつらかったからだ。
 小屋は彼の記憶にあるよりずっと小さかった。入り口に手をかけ、扉を開く。本当に何も無い、真っ暗なすまいだった。
 (うへ、すっげー埃)
 布団も、たんすの中のものも、たんすの上の「じいちゃん」も今はない。衣類や布団はカメハウスに持っていってしまった。
 埃をざっと払った寝台に横になり、悟空は留守にした歳月を思った。自分にとってこの山を出ていた日々はかけがえの無いものだった。自分が強くなっていくのがとてつもなく楽しく、世界を知るのがとてつもなく楽しかった。
 次に彼はここで一人で暮らした日々を思った。それもそれなりに楽しい日々だった。祖父を失った痛みはときどき彼を泣かせたが、誰に干渉されること無く獲物をとり、体を鍛え、日々野山で遊びまわった。
 (オラだって、一人でちゃんと暮らしてたんだ)
 獲物をとり、自分の世話を焼き、家の面倒を見て暮らしてきた。冬が来そうになれば熊をとり、かつて祖父がしていたのの見よう見まねで毛皮を作った。冬はどうしたって獲物や実りがなくなってしまうから、木の実を干したり肉をいぶして食べ物を蓄え小屋のそばに埋め、寒い日には日ごろ割っていた薪をたき、体を温めるために汁を作った。具をちぎり入れてゆでっぱなしにしたようなもので、とても料理と呼べるものではなかったけれど。寒くて外にでれなくてどうしようもなく暇なときには、寝台であるだけかぶって暖をとりながら、祖父が手習いに使った絵本を読んだりもしていたのである。祖父は行儀を教えるのは足らなかったかもしれないが、彼に読み書きも含め生きるためのすべを最低限教えてから逝った。悟空は祖父に今もとても感謝している。
 嵐が来れば屋根を直すために大工仕事もし、不快になれば滝で行水もし洗濯もし、怪我をすれば薬草を加工して使い、ごくたまには家の中を掃いたり拭いたりした。着の身着のままだったが祖父がいつだったか大きめの服を何着か下の村であつらえてくれたのが残っていたので、背が伸びてつんつるてんになれば衣装がえもした。おかげでブルマと会ったときの悟空はそうひどい格好をしていなくてすんだわけだ。なんにせよ、彼の生活にそれで特に不足はなかった。
 だから、暮らすにおいて自分はそんなにチチから責められるほどでもないはずだ、と悟空は思う。いっそ、また一人でここで暮らそうか。

 でも、それはできない。ずっと一緒にと約束したばかりだ。この間自分でも、ずっと夫婦でいようと決意したばかりではないか。
 一度決意したことには彼は誠実だった。祖父にも教えられた。男が一度言ったことを簡単に変えるものではないと。

 それに、そんな理屈より前に、わかっている。もう、彼女を自ら手放すことなんて不可能だ。


 悟空は小屋を出た。少し寝てしまったので、昼を回っていた。
 彼女は帰ってきただろうか。
 帰ろうかとも思ったが、まだそんな気になれない。筋斗雲を呼び、ゆっくり目のスピードで南に向かった。
 なんとなく、カメハウスを見たくなったのである。





 4

 時差があるので、1,2時間ほどしか飛んでないが、カメハウスはもう夕方だった。
 ここも久しぶりだな、と悟空は思った。彼が実際にカメハウスで暮らしたのはほとんどがこの南洋の孤島ではなくてもっと大きな隣の島だったが。ピンクに塗られた壁の木材が、夕日を受けてもっと茜色に染まっている。
 「だれもいねえのかな」懐かしい気配が無い。「おーい、じっちゃーん、クリリーン」
 呼ばわってしばらくしてから二階のほうで意外な顔がのぞいた。
 「なんだ、てめえか」豊かな金髪をかきあげながら、ひらひらと手を振る。「今爺とハゲとカメならいないぜ、こないだの続きでずっと西の都に遊びにいってるんだ。今日までっつってたから、もう帰ってくると思うがな」
 「ランチ?」悟空はびっくりした。彼の知っているこの女はおとなしく留守番などしてる柄じゃなかったからである。普段はおとなしいのに、金髪になると即座に逃げ出そうとするような奴だったはずだ。
 「おれは昼寝してたんだよ。なんなら勝手にあがって待っとけや」
 そこで悟空は久しぶりにカメハウスの中に上がった。ここもレッドリボンとの戦いのとき以来だったと思うから、もう5年以上来ていないのだった。中はあまり変わらない、亀仙人の気に入りのエアロビポスターなどはそのままである。多少クリリンのものが増えたな、と思った。
 電気のスイッチはどこだったっけ。手探りであかりをつける。つけるとなんとなく自分の知っていた頃がよみがえったようで懐かしく思った。この卓で一緒に食事をした半年。
 不意に電話が二階で鳴った。しばらく鳴り続けていたがランチが出たらしい。しばらく上で話し声がした後ランチが上から降りてきた。
 「やつらは今日もカプセルコーポレーションに泊まるんだとよ。今日はそんなわけで帰ってこねえわ。あ、お前が来てるの言い忘れちまった」
 「なあんだ」がっかりした。「つまんねえの。ところでおめえは行かなかったのかよ」
 「まあ奴さん世界一の大富豪だから盗みが出来るんなら行ってもいいけど、一応奴らのダチだからそういうことするわけにもいかねえしな、つまんねえよ。それにおれはあの女とはこないだ武道会であって話したところだからな。だから先に帰ってきたのさ」
 「へえ、おめえ割といいやつだったんだな」
 「ほっとけよ」ランチは鼻を鳴らし、冷蔵庫からビールを取り出した。そこで、目当てのものがいないのに腰を上げようとしない悟空に気づいた。
 「なんだ、かえらねえのか」
 「うーん、オラ別にそんなにじっちゃんやクリリンに会いたいと思ってきたわけじゃねえんだよな、おめえが言うようにこないだ会ったしさ。なんとなくこの家が見たくなったんだよ」悟空はなんとなく気恥ずかしかったがコーヒーテーブルの前で胡坐をかきつつ正直に言った。
 「…嫁さん待ってんだろ」こっちのランチもあの時いたのである。「かわいい嫁さんだったじゃねえか。おりゃびっくりしちまったぜ。まさかお前みてえなものしらずのガキが結婚だなんて、お前らが雲に乗って行ってしまった後もそりゃもちきりだった」流しでグラスにビールを注ぎながら背中越しにランチは言った。
 悟空はしばらく黙った後で言った。「オラってそんなにものしらずのガキかなあ」
 ランチは振り返って悟空を見て、もうひとつグラスにビールを注いだ。


 
 苦手なビールだったけど、むしゃくしゃしてたのもあって注がれるまま何杯か一気にいってしまった。酒を飲むのは苦手だが下戸と言うほどでもない。
 「要するに、嫁さんと喧嘩しておん出されたわけだ」
 ランチがニヤニヤしながら卓の向かいで言った。彼女は下着姿である。チチとの格好の差に多少面食らったが、ブルマだって自分の前ではわりと平気で下着みたいな格好でうろうろしてた気がするし、ひょっとしてチチの方が特殊な女なのかもしれない、と悟空は思うようにした。相手がチチでなければ別に欲情などしない。
 ランチがそれを見て、身持ちの固いやつだとその盲目的な熱愛振りを心の中で賞賛してるなんて知りもしない。もっともランチだって、こんなガキを相手にしようなんてさらさら思ってないのだが。
 「別におん出されてなんかねえよ、オラが勝手にここに来たんだ、後でちゃんと帰るさ」
 「大してちがわねえよ」ランチは夕焼けの終わった外の海に目をやりながらグラスをあおった。「お前は自分勝手だからな。おれだって散々自分勝手に生きてきたけどさ、こうして人と一緒に暮らすとなったらそれなりに奴らに気を使ってやってるもん」
 「それが髪の毛拭けだのちゃんと食べろだのそういうことなのかよ」悟空は自分が酔ってるな、と自覚してきた。ついつい小言が多くて困るということを言ってしまったのはそのためだった。やらせてくれないまではさすがに言わなかった。
 「そうだな、まあおれだってちゃんとやれてないことも多いけど、互いが快適に生きる上での気配り、ってやつ」
 「おめえもじっちゃんたちとうまくやろうとしてるのか」
 「それなりにな」ランチがまた悟空のグラスにビールを注いだ。結婚式のときに注がれたら飲むのが礼儀だ、と口うるさく教えられていた悟空は素直にそれを飲んだ。

 「…おめえもじっちゃんたちを家族と思ってんのか」
 悟空は意外な目でランチを見た。なんとなくこちらの彼女にも親近感が沸いた。そういえばこちらの彼女とこんなに話すのは初めてのことだった。こいつも丸くなったんだな、と妙におかしくなって笑った。ランチは飲みながら鼻にしわを寄せてみせた。 

 「おれのことはいいんだよ」ランチはどん、と卓にグラスを置きじろりと悟空を見た。「おれもたまにお前を見てただけだけどよ」切ったサラミを口に入れる。「お前はここで長く暮らそうと思ってなかっただろう。表面には出さなかったが、本当は独りで暮らすほうが気楽だと思ってただろ。だからだろうけど、屈託がないから他のやつとは仲良くなれてたけど、快適に過ごそうとは思ってなかった」
 「かいてき」なんだか胸を衝かれた気になって、もう一度悟空はそのことばを口の中で転がしてみた。ランチはそれを言葉を知らないのと思ったらしい。
 「気持ちよくうまく回るようにってことだよ、ものしらず」
 手を伸ばすと、ランチはサラミをいくつか手のひらに放り込んでくれた。「嫁はお前によくしてくれるだろう、綺麗に掃除して食い物を用意して、綺麗に洗濯してくれるだろ。おまえがつまんないことで風邪引いたりしないで健康で長生きできるように、汚い部屋でものがどこにいったか分からなくて困らないように、建物がすぐぼろくなって不快な思いをさせたりしないように、美味い物を食べて満足してもらえるように、くさくないいい匂いの服で過ごして欲しいと思って頑張ってるわけだ。泣かせるねえ」
 悟空は黙った。ランチが横目でそれを見ながら続ける。「ここの場合さ。『あっち』は住まわせてもらってる恩義もあるしなるべくここにいたいと思って、ここの連中とこの家を大事に長持ちするようにしてやろうとしてる。ここの連中はそれに対して当然と思ったりしないで感謝してくれるしたまにはあいつらから協力してくれるし無駄な手間を増やさないようにしてる。それでうまく回ってるんだ。おれはうちのことなんて真っ平だからやらないけど、まあせめてつまらないことで怒鳴ったりしないようにしてやってるのさ。それが快適ってもんだ。
 だが、世の中にはそれが嫁さんの仕事でやって当然、当たり前だっていう男も多い。女がほかのことをしたいのにそれをやってろと無理強いする男も多い。そういう傲慢な男は嫁さんに逃げられることも多いもんさ」
 どうやらランチの意識は以前に比べて統合してきていて、表に出ているほうが何をしているかくらいはわかっているようだった。
 「『あっち』は別にここの連中に対して惚れてるわけじゃないけど、ここの連中が好きなんだ。だから掃除だの洗濯だのめんどくさい事もいやいやじゃなくやってやってる。お前の嫁はお前に惚れてるからもっと一生懸命やってやってる。でもお前が乗ってこないから不機嫌なんだろうぜ」
 「オラだって言うこと聞いてやってるんだけどな」悟空がサラミをかみながら不平を述べた。ランチはため息をついて勢いよく悟空の頭を上からはたいた。
 「えらそーに。言うこと聞いてやってるってのがすでにえらそうだ」
 「いてえ」油断してたのか素直に殴られてしまった。口からサラミの破片がじゅうたんにこぼれて、もったいないとあわてて拾って食べている。ランチはそんな様子を見て、チチになおさら同情したい気分になった。きたねえよと叱った後でさらに言ってやった。
 「お前が働いて稼ぎでもあるんならともかく、なんにも食い扶持かせいでないんだろ。嫁はそんなお前の面倒を見るというありがたいことをしてくれるんだから、ちょっとの小言くらいで愚痴愚痴ぬかすな。男の甲斐性ってもんがねえ」
 そっかー?と悟空が気の抜けた声を出した。彼のためなのだろうか。家事をしない彼女は旅行の間に見てはいるが、彼女の場合ああいうことが好きで、悟空がいなくてもちゃんとやりそうな気がした。そういうことをろれつの回らなくなってきた口で悟空は言った。
 「まあそういう女もいる」ランチはなぜか自嘲気味に笑った。そしてタバコに火をつけてふかした。
 くせえ、と悟空が顔をしかめた。タバコは祖父も亀仙人も吸っていて慣れてはいたが、久しぶりだったので煙かった。悪い、とランチは灰皿にタバコを押し付けた。悟空はやっぱりこいつも丸くなった、と思う。
 ランチは卓に頬杖を突いて遠くを見ていたが、しばらくして不機嫌そうに言った。

 「でもそういう女だからこそ、日ごろ一生懸命やってる上によりお前のためにって神経使ってんだから疲れるだろうよ。なのに当のお前はちゃんと整えたのを台無しにする。そりゃ腹立たしいさ。お前も嫁と一緒にいたいなら、できることでいいからあわせてやれ。無駄な手間を増やしてやるな。たまにはここの連中みたく手伝ってやれ。それが長く一緒に暮らすコツなんだからよ」
 会話が止まった。悟空は赤い顔で仰向いてじっと天井を見て何か考え込んでいる。冷蔵庫にはまだビールがあるが、ランチはもう取り出すのはやめにした。代わりにひとりで砂浜に下りて改めてタバコをふかした。外はもうすっかり暗く、満天の星だった。

 しゃべりすぎちまったかな、とランチは思った。柄にも無い説教をしたのはここの連中に対してもついぞ無いことだった。逆にいつも顔をつき合わせていないから言えることだったのかもしれない。
 あるいはこいつがあんまりにあけっぴろげのガキすぎるからだ。そんなガキが嫁さんをねえ。やはり可笑しくなって、煙を吐きながら忍び笑いをした。
 なあ。と中から間延びした声がした。
 「おめえのもともとの家族はなにしてんだよ」
 ほらきた。だからしゃべりすぎるのはやめておけばよかったのだ。
 「…小言にうるせえ、とか怒鳴ってばかりいたから、うまくいかなくなっておんだされたのさ。今日のお前みたいに自分からおんでてきたつもりだったけどな」
 そっか、とまた声がして、ランチはまたタバコを長くふかした。いっぺん帰ればいいのに、と眠そうな小さな声。「お前こそもう帰れ!」苦笑しながら彼女は怒鳴った。




 ふらふらと雲に乗り込んだ悟空を、玄関先で見ながらランチが言った。
 「大丈夫かよ、海に落ちるんじゃねえぞ」
 「平気さ」筋斗雲は行き先さえ分かっていれば、寝てたってちゃんと送り届けてくれる。
 「これに懲りたら、しばらくくるんじゃねえぞ。あいつらだって会って話せば結局は酒入りさ。嫁さんと仲良くやんな」
 サンキュ、と笑って行こうとした悟空を待った、とランチがとめた。「会いたがってるやつがいる」

 奥に引っ込んだところで盛大なくしゃみがして、出てきたのは体にいそいでシーツを巻きつけた藍色の髪の、おとなしい方のランチだった。
 武道会の最初にちょっと見かけたけど、まともに顔をあわせるのは、こっちは本当に久しぶりだった。ここに彼がいた時より、目元が大人っぽく、もっと優しくなっていた。
 「こんばんわ、悟空さん。お話しするのは久しぶりですわね」ランチが目を細めて笑った。「お嫁さんをもらったんですってね。今日は私はあまり話せなかったけど、お会いできて嬉しかったです」
 「久しぶり」悟空も雲の上から笑い返した。「懐かしいな、ほんとに。よく一緒に寝てたよな。元気でよかった」
 「いやですわ、今思えば恥ずかしいですわね、一緒に寝てたなんて。あんな小さな子供だった悟空さんがこんなに大きくなって、この間は本当にびっくりしましたわ。どきどきしてしまいます」
 二人は笑った。
 
 「じゃあ、オラ、あいつ待ってるだろうから帰るよ。またな」
 「ええ。お幸せに。奥さんを大事にしてあげてくださいね。頑張って」ランチがにっこりと微笑んで手を振った。
 「おめえら、オラの姉ちゃんみたいだな」悟空も笑って手を振った。嬉しいです、とランチは言ってくれた。悟空も嬉しかった。「あっちにもそういっといてくれな」
 「多分聞いてますわ」


 雲が舞い上がって北の空に去った。ランチはつぶやいた。
 「ありがとう。あの子に会わせてくださって。それに私に合わせてくださっていて。私も、あなたのために、あなたのあの方を探しに行きますわ」


 実際には悟空とランチが会ったのはこれが最後だった。






 5

 
 帰った頃には、日が落ちていた。家には明かりがともり、桜のそばの洗濯物は取り込まれていた。
 筋斗雲から降りた悟空は大声で呼ばわった。「ただいまー、チチ、ただいまー」
 妻がびっくりして扉を開けた。「んまあ、酔っ払ってるんだべか!」その頭にしなだれかかった。妻は悲鳴を上げた。何とか支えた妻に、悟空は言った。
 「おかえり、は?」
 「お、お帰り」
 「ん。」悟空は嬉しそうに笑った。「手ぇ洗ってくらあ。今日は修行してねえからそんな汚れてねえぞ」
 洗面所に向かう悟空の背中を怪訝そうに見ながらチチは言った。「ご飯すぐできるだよ!」



 酔っ払ってるので普段よりペースは遅いが、悟空はよく食べた。
 「じゃあ、カメハウスで飲んできたってか。新婚早々難儀なだんな様だべ」
 食後に彼女が入れてくれた茶を飲みながら悟空はうなずいた。それ以上は黙っていたのでランチと差しで飲んだ事はチチは知らない。もっとも知ったらまた怒り出すだろう。
 「ごっそさん」悟空は伸びをしながら立ち上がった。「おそまつさま」チチは皿を片付け始めた。「あーオラ眠い、もう先に寝る。今日は修行してないから風呂はいい、中で寝ちまいそうだ」
 ほんとに眠い。今日はいっぱいものを考えた。人ともたくさんしゃべったから。でもこうして酒飲んで話すのもたまには悪くない。
 あしたは、言われたとおりもうちょっとチチにうまく接してやろう。
 そう思いながら、寝室へ歩いていこうとしたとき。

 「なんだ、寝ちまうのか…せっかく、もうしてもいいと思っただに」
 流しの音に紛れるようにかすかに消え入るようにつぶやく声に、悟空は全身で振り向いた。一気に眠気が覚めた。

 「いいって、もういいのかっ」
 「う…うん」洗い物でびしょびしょの右手を捕まれたまま、チチは真っ赤になってうつむいた。「ずっと…またせてたけど」
 「よしっ」チチは殺気に似たものを感じた。何でそんなに耳がいいんだと怒鳴りたいような気分になったがそれは黙っておいた。彼女は彼女なりに最近彼にヒステリックに小言を言いすぎていたことを反省していたのである。「で、でもお風呂はいってな」あっという間に夫は風呂場に走っていった。「ちゃんと洗うだぞ!」
 夕食前待ってる間に磨き上げた体を自分で抱きしめ、チチはそっと息をついた。今晩が彼女にとって一世一代の大勝負なのだ。

 
 湯船に鼻までつかりながら、悟空もまた高鳴りを抑えられずにいた。
 どうやって彼女を喜ばせてやろうか。どうやって彼女の気持ちに報いてやろうか。
 それは今晩のことだけじゃなくて、夜のことだけじゃなくて、彼女とのこれからの長い人生全部。
 もう、彼にとって他のどこも帰るべき場所ではなく、彼女のいる場所こそが彼の家だ。




 うまくいかないことも多いと思うけど、オラ「夫婦」から逃げ出したりしねえ。
 だから、チチならかまわないから、ずっとオラのそばにいてくれ。








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