このページはイラストレーターはるまきの、個人的なドラゴンボール版権小説置き場です。鳥山先生、集英社さんとは一切関係ございません。
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色欲





 1


 神に修行をつけてもらう。まるでおとぎ話のような話だが、もし実際にあるとすればこれ以上ない名誉だし世の武闘家の垂涎の的なことだろう。実際彼が神に修行をつけてもらっていると知っている連中は、驚愕と賞賛とをもって彼の噂をし、わずかばかりの嫉妬と大いなるライバル心を燃やしたものだ。
 しかし、彼にとって意に相異して神の修行ははじめ退屈に過ぎた。ひたすらの天上の青が広がる白亜の神殿。下界から遠く離れた、目を楽しませるものが少ない世界のことである。

 朝未明のうちに起きて適当に身支度をして食事をとり、重い装備をつけて広大な神殿の内部回廊ををランニング。不思議な力に守られた上のほうの庭園と居住空間はともかく、超高空にある神の神殿は基本的に身を切るように寒い。時には神の従者かつ彼の指南役について神殿の掃除や植物の世話を手伝わされる。
 薄すぎる空気に肺が悲鳴をあげるので、リストバンドしかつけてない最初の頃でも、これだけでも終わると鍛えた彼の体でも相当に疲れを覚えた。しかし彼にとってはこの後からがつらい。
 その後は神を加えて休憩がてらの勉強。テーマは色々。歴史や算術とかではなく人と生物のかかわりや世界の連関について少しの講義。時には神から哲学的な問いが投げかけられ、彼に思考を強いた。
 そして彼はそれに対して時に何週間と言う時間はかかっても自分なりの答えを提出しなければならなかった。小難しい言葉ではなく、彼の言葉で。最初のうちは彼は考えているふりをして曖昧にやり過ごそうとしたが、指南役にはその手は通用しない。それで彼は楽しみにしている体を動かす修行も取り上げられる罰をたびたび受けたので、しばらくするとしぶしぶではあるが問答に向き合うようになった。
 なぜ、自分は存在するのか。自分の自分たる意味。確固たる己の核。突きつけられた問いはそういった類のものだ。答えるたびに、より深淵に向けて問いは搦め手にあちらこちらに向けて飛びながら重みを増していく。
 彼は思考を言葉にするのが苦手だった。そもそも言葉で思考することが少なかった。時に紡ぎだそうとした答えは彼の心の琴線に至り、癇癪を起こさせた。指南役と神は、そういう時はそのまま受け流して別の課題を与え、後々彼にもう一度問うた。すると、彼は意外に素直に、彼なりに一人で考え続けたところを答えるのだった。
 昼飯を取ったら瞑想。まずは己に意識を集中し、己の「気」を意識させる。次に己を滅却し、世界との融合を図る。 
 瞑想の後は己の気をめぐらせ、操作する訓練。気を使って自らの体をコーティングし、外界から守る技術。己の気を瞬間的に爆発させる技術。さらに気を操り変形させ、自分の体を浮かべたりほかの物体をあやつったりする。勢いでふりまわすのではなく、例えば舞踏家の基本動作のようにごくゆっくりと、無駄のない動きで、確実に行うことが大事である。そしてここまできてやっと重い装備のままで指南役との組み手。その頃には日が暮れるので夕食をとって入浴し、しばらくの自由時間の後早い就寝。そんな一日だった。

 神が修行の第一段階として彼に要求したのは、徹底したおのれという存在への集中だった。この散漫な彼という存在を統一し、大きな「気」を核にした確固たるゆるぎない存在に練り上げるためには、思考を他人に頼る甘えを消し、彼に「おのれ」を意識させる必要があった。このような精神的な修行の理論と実践方法の一部は、例えばクリリンのいた多林寺などでは体系的に行われていることであるし、宗教的または理念的なものを重んじて自らを鍛えている、例えばナムや天津飯のような武道家ならごく自然に修行に取り入れていることである。
 彼がおのれを完全に滅却し、さらに気を練りこみ、修行の意味を理解できるようになるまでに半年あまり。横顔に大人びたものが混じり、手足が伸びはじめ、遅まきながら男性としての体の変化がはじまる。15歳から16歳、少年は青年へと変貌をはじめていた。

 第二段階として用意されたのは、他者を知ること。つまり他者の気の知覚である。瞑想と授業の時間が減らされ、心眼を開くための訓練が追加された。自分の気を絞り、はじめは視覚を奪い他の感覚を以って他者の行動を、次に存在を探り当てられるようにする。はじめは大きな動物。次に小さな動物。植物。さらには眼前のものだけではなく、離れた場所からも知覚できるように。
 ここに問答が加わった。五感で感じる表層的な情報。心で受け止める情報。他者が何をしようとしているか。さらには他者の気の流れをつかみ、そのものの性質、そのものの本質までをも言い表させる。それは彼の主観であるから必ずしも正解は無いが、指南役はなるべく多くの情報を彼に整理させ、的確に伝えるように求めた。
 やがて彼は世界にあまねく気を感じ取れるようになった。彼はそれを大きな喜びで受け取ったが、じきに彼の脳が多すぎる情報にたえきれなくなり、オーバーフローして彼を苦しめるようになった。
 ここでついに彼は音をあげた。そこで神はそんなに気を探るのがつらいというのなら、気のないところで好きなだけ格闘の訓練をするが良い、と彼を何もない広大な空間に放り込んだ。外界の時間で2時間を手前にして、中から助けを求める悲痛な叫びが上がりだした。今度はおのれだけしか感じられなくなったことで彼の自我が暴走を始めたのだ。ころあいを見て救出してから何日間かは彼は放心状態だったが、目に光を取り戻すと神も驚くほど落ち着いたまなざしの17歳の青年へと成長していた。幸いなのは彼の純粋さと健全さと天真爛漫さが失われなかったことである。
 神はその頃の彼を夏の伸びやかな樫の若木のようだと指南役に評した。神殿に来て一年半弱。

 彼が悟ったのは己と他者との関わりの重要性であり、それが第三段階の核である。己をたもちつつ他者と向き合い、世界の連関の中での卑小さと役割を認識させる。神は、親しいものとの交わりは固く禁じたが、時折彼を下界に下ろしもした。彼はそんなときに彼の宿敵の存在を改めて認識した。指南役と神は特に宿敵を倒すべし、と言うスローガンを掲げて彼に修行させたりはしてきていない。大事なのは目先にとらわれず己自身を高めることだからだ。彼にはもともとそのように正しく自らを鍛える素養があったが、先だってのように敵を倒すなどという目的に盲目的に邁進し達成してしまうと、えてして慢心や虚脱に陥り誤った道に堕ち易いものだ。

 ここに来てやっと格闘の訓練がメインになった。人智を超えたすばやい戦いの中で、己の気を操り、相手の気を感じ続け、ぶつけつづけるのはかなりの集中と精神力が必要である。臨機応変の対応。戦いの技術の向上。無駄のない動き。挑発やとっさの事態に激昂することなく、冷静に判断して確実に勝利に導かなければならない。装備に重さが追加され身体にもいっそうの負担を強いる。例の部屋で精神を徹底的に痛めつけられた彼だったが、この段階では神殿の機能を総動員し今度は身体をも時に死の危険にさらすほどの荒行が課せられた。カリン塔から残り少ない仙豆(ヤジロベーが食べてしまったのだが)が取り寄せられ、さらにその数を減らした。
 己と他者の知覚の訓練は基礎を反復しなおも続けられたが、この頃には彼は休憩がてらにそれを自主的にするようにすらなった。その基礎訓練にはもう指南役は問いを投げかける事はなかったが、代わりに課したのは、戦いについての問答である。その日の組み手の流れの分析。今までの戦いの反省。それらのとき折々においてなぜそのように判断したか。技を編み出したいきさつ。神から譲り渡された技についての考察。己が技をどのように使うべきと考えているか、どのように発展させるつもりなのか。それらを総合的に生かしての、できるだけ相手を緻密に思い浮かべながらの繰り返しのイメージトレーニング。それは彼本人には伝えなかったが、いずれ彼が自分から他の人間に戦いのわざを譲り分けるときに役立つことを見据えてのものだった。弟子に、あるいは彼自身の子孫に。

 修行を終える頃には、彼は神がいずれ後継者に、と考えるほどの人間になっていた。

 


 2


 神に認められ鍛え上げられ、神の座を蹴った男は、今とある小島の岩陰で頭を抱えていた。新妻と筋斗雲でドライブがてら訪れた火山島である。着くなり用足しにと離れて、やっと彼は人心地ついて小便をしながら深い息をついた。
 体調が悪いとかそういうのではない。ここに来るまでに極度の緊張が彼の全身を縛っていたのである。
 (ちくしょう、なんで筋斗雲にあいつを乗せるだけでこんなに緊張しなきゃいけないんだよ。なんか今日はおかしいぞ、このままじゃどうなっちまうんだよ、しっかりしろ)
 彼は心の中で毒づき水着をはきなおし、近くのせせらぎで手を洗うついでに冷たい水を顔に叩きつけて気合を入れなおし、新妻を待たせている浜辺に戻っていった。この島はかつてひとりで世界を巡っていたときに立ち寄ってしばらく滞在していたところで、その話をしたところ見てみたいと言うので来てみたのだった。

 
 新婚旅行先からやや離れたところにあるこの小さな島は、美しい砂浜とマングローブの林、ジャングルには多くの動植物をかかえる豊かな島だった。はるか昔は人が住んでいたらしく遺跡も残っているが、おもに島の西半分を襲った火山災害によって壊滅し今は人が住んでいない。筋斗雲では対岸まで小一時間ほどで着く距離だが絶海の孤島と呼んで差し支えない不便な島だからだ。
 
 ここにくるまでの一時間は、彼…悟空にとって軽い苦行だった。筋斗雲の後ろに新妻を乗せて飛んできたのだが、後ろからしがみつく彼女の指が彼の胸から腋にかけての敏感な部分に直にあたるので(水着を着てきていて上半身裸だから)、くすぐったいやらどきどきするやらでどうしようもなく体が緊張する。やめてもらおうかと思ったがこの手を離したら彼女が振り落とされるかもしれないと思ったし、なぜか言えなかった。それに背中には時折頬やら何やらやわらかいからだの部分やらが当てられる。彼はかつてなくした尻尾の辺りがむずむずして、そこをゆるく握られたような感じがした。何かものを言ったら変なことを口走りそうな気がする。それで彼は落ち着くために半分瞑想に近い状態になりながら飛んでいたのだが、そんなわけでほとんど何もしゃべらずにここまできてしまった。彼女も最初はしゃべりかけてきていたが、そのうちおとなしくしていた。悪いことをした、と思う。でも、あいつも悪い、と理不尽ながら思っているところもある。


 だが、その緊張はとりあえず杞憂のものだった。
 「で?その時はどうしたんだべか?」
 「おお、あの時は大変だったなあ。あの山にはそりゃでっかい恐竜みてえな鳥が居てな…」
 来る前に買っておいた大量の昼の弁当を食べた後、浜辺を歩きながら求められるまま悟空は昔の話をした。彼女は離れていた間のこと、特に亀仙流の修行や、ピッコロ大魔王が現れた前の大会までの、世界を巡っての修行について聞きたがった。神の修行についてはあまり興味を示さないようだった。悟空が話の流れでピッコロの名を出すと泣くのをこらえたように不機嫌そうに黙り込んでしまったので、察してそちらの方の話はしないようにした。彼女にとってピッコロとの生死をかけた死闘はまだほんのこの間の生々しすぎる恐怖であり、その親でありもともとのものである方の大魔王にもやはり悟空を殺そうとしたということで憎しみと恐怖を抱いているようだった。
 悟空の方も、その頃…世界を巡っていた頃は思い出の尽きないことばかりで、話すことはたくさんあった。亀仙流の修行の内容。逆に彼女に牛魔王が課した修行のことを聞いたりもした。
 彼女と最初に会ってのちの冒険のこと。神龍のでっかかったこと。最初の天下一武道会。レッドリボンとの戦い。カリン塔のこと。仲間たちとの冒険。祖父のこと。再会して自分が泣いてしまったこと。筋斗雲を禁じて旅にでて、世界がめちゃくちゃ広いということを知ったこと。いろんな土地のこと。暑い土地、寒い土地。食べ物がおいしかったところ、逆に何もなくて飢えそうになったこと。世界のいろんな不思議。時に好意を受けて泊まらせてもらった家での出会い。険しい山、荒れた海。いろんな動物たちのこと。
 浜辺を歩いたり、岩場に座ったり、木陰に座ったり、たまにお茶やおやつをはさみながら、悟空はこれほど一度にしゃべったのは生まれて初めてだというくらいしゃべった。彼女も嬉しそうに相槌を打ち、時には質問をし、それで?それで?と続きをせかした。

 彼はとても嬉しい、と思った。
 こんなに自分の話をするのは、親友であるクリリンにもないことだ。クリリンと悟空は、過去を話すより、目の前の課題に一緒に挑むライバルであり同士だからだ。気になるのは未来のこと。相手の動向。遠くから願うのは次に会ったとき相手ももっと強くなっていること。だからこんな話はしない。
 しかしこの女、チチには今まで心の中に蓄えてあった宝物を見せてしまった。照れくさいが、逆に宝物が増えたような気持ちだ。もっと話してあげたい。もっと彼女の喜ぶ顔が見たい。そんな気持ちになってついついへたくそながらも言葉を重ねてしまう。

 「世界ってほんとにおもしれえ。あの時ブルマに会わなかったら一生オラはあの山にいたかも知れねえ。だからオラブルマにはほんとに感謝してるんだ」
 一通り話して、こう一区切りをつけたとき、だから悟空はさっきまでの緊張もすっかり忘れ、とても満たされた気持ちだった。心の奥を見せ、ほんとに家族になったような充実感があった。
 昼過ぎくらいにこの島に着いたのに、もう太陽がだいぶ西の方に傾いている。あれほど晴れていた空の向こうの水平線に黒い雲がもくもくとわいている。悟空はスコールが来るんだな、とのんきに空を見ていた。
 
 「…」ところが、椰子の群生の陰で三角に両膝を立てて彼の隣に座っていた妻が無言のままだ。てっきり、「そりゃよかっただな!ブルマさんはありがたい人だ」などと満面の笑みで賛同してくれると思ったのに。悟空は急に全身から汗が出てくるような気がした。なぜ。ついさっきまで本当に嬉しそうに自分の話を聴いてくれていたのに。




 3


 悟空は恐る恐る横目で傍らの彼女を見た。
 小花模様を散らした清楚な水色のワンピースの水着の上に、繊細な白い糸のすかし編みの、長袖の大きめのパーカーを羽織っているのがとても綺麗だった。おろされたパーカーの向こう側に隠れた首筋の上のほうで、緩やかに白いリボンで束ねられたつややかな黒い髪。その上に影を投げかけている大きなつばの麦藁帽子がすこしうつむいて、角度的に顔の上のほうを隠してしまっている。
 三角座りしたふくらはぎの流れ落ちるような曲線の滑らかさ。その先のほうでビーチサンダルの鼻緒を挟み込んでいる、少し砂のついた華奢な長い足の指。すねの上におかれている、パーカーの長い袖からのぞいた細い手指の先には、結婚式でしてもらったというマニキュアの儚げなピンクと、その上に少し置かれたきらきらした石がまだ残って光っていた。麦藁帽子の影の下で、やわらかそうな色の良い小さな唇が少し尖り、その下のすべらかな鎖骨と、さらに下に続く曲線があるか無しかの風に揺れるすかし編みの陰を受けながら白く輝いている。

 一瞬、おそれも緊張も忘れて、悟空は見入る。
 ゆうべ、こいつを抱きかかえたときには、小鹿みたいだ、と思った。今朝は、花みたいだ、と思った。でも、こいつは人間だ。そして女なんだなあ。そんでもって、綺麗だ。
 今、どんな顔をしてるんだろう。何を考えてるんだろう。こっち向いて、さっきみたいに笑顔を見せてくれたらいいのに。

 彼女の指が、すねの上で少し動いた。その動きに、はっとわれに返って、ついでにさっき雲に乗っていたとき自分の素肌の胸や腹にこの指が沿っていたときの感触を思い出してぶるっとした。なんだか今見ていたのも急に疚しいような気分になったのだが、できるだけ何気ない風を装って「チチ?」と呼びかけながら麦わらの下を覗き込んでみた。
 麦わらの濃い影の下で、彼女の長いまつげがゆっくりと伏せられて揺れ、影の下で顔全体がまるで色をなくしたかのように沈んでいるのが見えた。一瞬、彼女が気をなくした人形のようになった気がして、悟空はぞっとした。

 と、不意にチチがわれに帰りにっこりと悟空を見上げて言った。その顔には表面上はなんの曇りもないように見えた。
 「ほんと、今悟空さとおらがこうしているのもブルマさんのおかげだ。感謝せねばなんねえな」言いながら砂を払って立ち上がって歩き出した。「上のほうに行こ。おらもこの島の遺跡っての見てみたいだ」
 「…ほんとに、そう思ってんのか?」後から立ち上がりながら悟空は彼女を目で追い何気なく言った。
 「なんで?」チチが背中の向こう側で笑った。「おらだって遺跡見てみたいだよ?悟空さの話面白かったもん」
 「いや、そっちじゃなくて」そっちじゃなくて。その前の。「おめえ、今本当には笑ってない気がした」
 チチの動きが一瞬とまった。しかしすぐ快活に笑われた。「やだなあ悟空さ」
 悟空はそれでもそれが本当に笑ってる声に聞こえなかった。彼女は先さき行くので顔が見えないままだ。なので食い下がる。「でもおめえ」2人はやし林に足を踏み入れた。こっちだか?とチチは無邪気そうな声を出して2mほど先をすたすた歩いていく。
 「ま、待てってば」悟空はあわててチチの肩を捕まえようとした。ところがチチは急にスピードアップしてジャングルに続く茂みの方に入って行ってしまう。「待てって。遺跡はジャングルの中なんだ。こんなカッコじゃ行くの無理だって」それはほんとのことだ。こんな素足に毛が生えたような足元では根っこに脚をとられてしまうし、歩きにくくてかなわない。何しろこのジャングルには毒蛇だって毒アリだってうようよいるのだ。それにこんなほとんど脚が丸見えの格好では、ヒルだの害虫だのにやられ放題だ。
 「あん、しつこい蚊だな」と木の向こうで声がした。
 言わんこっちゃない。「ホラ見ろ」追いつくと、チチは拗ねた顔で立ち止まっていた。
 「な、ジャングルは無理だ。奥に行けば蚊なんてもっとわんさかいるぞ。もっとへんな虫だっていっぱいいる。おめえの嫌いな蛇だっている。オラも苦労したんだから」悟空は軽くため息をついて、諭すようにチチの頭をぽんぽんとはたいてやった。「そんなに行きたかったらまたいつか連れてきてやるから」

 「もういい。かゆいー…帽子も髪の毛も引っかかったし、散々だ」チチが子供のような情けない声を出した。
 思わず笑って見下ろしてみると、彼女がリボンの解けて少し乱れた髪を気にしながら、胸元の左のふくらみの水着際と、太腿の付け根あたりのぎりぎりのところを痒くて耐えられない、といった感じに盛んに指でなぞっている。爪で引っかいて酷くはしないようにしてるようだったが。彼女は恥ずかしがりのくせに、一度着てしまえば割とこのような格好に頓着がないところがあった。幼い頃これと大差ない格好で毎日過ごしていたからだろう。
 そのきわどい辺りをまともにばっちり見てしまった悟空の頬は、いきなり火を噴いたように熱くなった。
 そこに彼女が恥ずかしそうに言った。「さっき。悟空さがおトイレに行ったのってあの岩の陰の辺りだか」うろうろ歩き回っているうちに、結構出発点に近いあたりに戻っていたのである。
 「な、なんで」悟空は思いっきり挙動不振になった。目線があちこちさまよう。「えっと、あー。そうだな。連れてってやるよ。なんで」ぎこちなく手を引いて歩き出そうとした。しかし彼女はその手を振り払って、真っ赤な顔で怒鳴った。「おらだって我慢してたんだ!こっ恥ずかしい、もう場所は分かったから着いてこないで、さっき食べてた所で待っててけろ!」


 悟空の心臓は暴走し、足元に落とした目以外の全身の感覚が一気に岩陰に消えていくチチに集中してしまう。常人では聞こえないような遠くの葉ずれの音。気配。いつもより倍は自分の聴覚や嗅覚が鋭敏になった気がする。
 悟空はなお真っ赤になった後、真っ青になった。やべえ。そんな、それはやべえ。知れたらぶん殴られる。それどころじゃすまねえかも。
 大体なんでいまさらこんなに気になるんだ。今までだってすぐ隣の部屋で風呂いったりとか色々してたじゃねえか!
 さっきから暗さを増していた空から雨粒が落ち始め、頭の上のほうの木の葉をたたき出した。急に恐ろしくなり、あわてて浜に下りようと走り出した。 (ちくしょう、こんなところですんなよ!)自分だってさっきしていたのに勝手なものである。目にはちらちらとさっきの白い肌がフラッシュバックしている。
 悟空は、自分自身が形を変えているのがわかった。神殿にいる間におぼえた体の変化。たまに突き上げてきた、原因の分からない得体の知れない衝動。そんなものは自分で簡単にどうにでも処理することが出来た。それをなぜチチを前にするとこんなに我慢のきかないほど感じなければならないのか。行きに感じていたのもこれだったのだ。昨日だって感じたときもあった。でも、こんなにこれが彼女のせいだと自覚してしまったら、これから折に触れもっと気になるようになってしまうではないか。これからずっとそばにいるのに、翻弄され続けて自分がどうにかなってしまうではないか!

 悟空は浜に下りて落ち着こうとして深呼吸をしながら空を仰いだ。ただのスコールと思ってたが大気の流れがひどく不安定だ。荒れるかもしれない。チチがそこに戻ってきた。今日はもうお開きにするしかない。
 



 4


 雨が降り、風が出てくる中を筋斗雲はひた駆けた。飛ばすので後ろに乗せると危ないし、それでもって行きのように胸や腋に抱きつかれては今度こそ悟空には自分を制御できる自信がなかった。そこでチチを前側に座らせたのだが、これも失敗だった。後ろから彼女の胸元を覗き込んで谷間が見える角度になるし、ちょうど鼻の前にある帽子を脱いだ濡れた髪からは甘いシャンプーのにおいと、その中に横たわる心地いい彼女のにおいがする。我慢が出来なくなりそうだった彼は、雨がひどいからと言い訳をしてパーカーをすっぽりかぶらせ、前をきっちり合わせさせた。その後ろから肩を抱いて支えたかったのだが、密着するとまだおさまろうとしない自分自身をさとられてしまう。微妙に奇妙に距離を置いた姿勢になった。チチは、じっと黙っていた。顔は伺えなかった。でも、明らかに機嫌が悪い、と言う気配を発していた。
 悟空は気配を読む事は出来ても、後に使うような読心術はまだこの段階では習得していない。気が読めたってこいつに対しては何の役にもたたない、と悟空は唇をかんだ。何を考えてるのか分からない。なんで途中から急に機嫌が悪くなったのだろう。それまではとても機嫌が良かったのに。あんなに楽しそうに笑ってくれていたのに。


 それに、様子が変だ。なんだか自分から離れたがっている。 そういえば、今日はこいつから引っ付いてこなかった。ずっと手を後ろで組んで歩いてた。
 本当は、何か言い訳して抱きしめてしまいたい。昨日分かっている、他のやつらを見て知っている。夫婦なんだからそうしていいし、むしろその方がこいつにとって嬉しいのだと。でも、とても出来ない。
 なんで昨日は、あんなに何も考えずにひっつけたんだろう。いっそそのままのほうが良かったのに。昨夜こいつがあんなことするからだ。頬にあんなことしてきて、好きとか言うからだ。だから、自分も変になって、こいつに嫌われちまいそうになるんじゃねえか。そんなのいやだ。だって。

 
 夕暮れ近いのと筋斗雲より速く広がっている黒雲のせいで、滞在している土地もひどく暗かった。海に降りそぼる雨を分けて、特別この辺でも海に突出した彼らのコテージのテラスが見えてきた。悟空はあわてて急制動をかけた。雲は危うくコテージの壁にぶつかりそうになったが、テラスの少し上空で止まった。
 ぶつかりそうになって思わず庇うように抱きしめてしまった。雲が止まって、慌てて離れて先に下りた。彼女にだって降りられない高さじゃないはずだ。
 「どうした、早く降りてこいよ」いらだって口調が乱暴になっている自分を自覚しながら、悟空は雲の上に呼びかけた。「早く入らないと風邪引いちまうじゃねえか」
 テラス窓を開ける。部屋に雨が吹き込み始める。外壁のライトが点滅してつき、遠雷が聞こえ出した。なのに、彼女は一向に降りてこない。
 「チチ!」半分怒鳴るように呼ぶと、チチはびくっと体を震わせて、急に顔を覆って泣き出した。

 悟空は吃驚して、舞空術で舞い上がってそばに寄った。そして、なるべく優しい声音を使って呼んでみた。

 「どうした、チチ。なんで泣く」
 「だって」嗚咽の下から小さな声がした。「悟空さ、おらのこと怒ってる。行きからずっと。おらのこと嫌いになったんだ」
 また吃驚した。「なんでそんなこと言うんだ」そんなことあるはずないではないか。だって自分は。
 「だって、悟空さ。行きからおらのこと邪魔にしてる。触られるの嫌がってる。黙りこくって全然楽しそうじゃねえ。悟空さはブルマさんをお嫁さんにしたほうがいいだ」
 「はぁ!?」なぜここにブルマがでてくるのか悟空にはわけが分からない。「なんで。ブルマは関係ないだろ。とにかく降りろ」
 悟空は彼女の二の腕をつかんで、自分の方へ引っ張りおろそうとした。

 ところがチチは抵抗して引っ張り返してきた。
 「だって、悟空さ。ブルマさんの事話すとき楽しそうでねえか。大事な人なんだろ。いっぱい一緒に冒険してきて、大事な人なんだろ」
 「ブルマは関係ねえよ。話すの自体が楽しかったんだ。それにオラの嫁はおめえじゃねえか!だけど、オラだって、今日はおめえに嫌われたかと思った、急に…ああ、わけわかんねえっ」暴れるのを落ち着かせようと彼は彼女の肩を反対の手でつかむ。
 「何言うだ、おらは!…」チチの唇が震えた。「悟空さのことが好きだ!今から証拠を見せてやる。だから悟空さも、おらのことを嫁だって思ってる証拠を見せるだ!」

 叫んだ後、ぎゅっと目を閉じて彼女は自分の唇を悟空の唇に押し当てた。
 悟空は一瞬目を見開いた後、ゆっくりと目を半分伏せて、隙間を閉じるように唇を合わせなおした。

 唇の端から、涙と雨粒の混じった少し塩味のぬるいしずくが、口の中に入ってきた。
 さっきまで感じていたひどい衝動の一部が、淡やかに溶けて、遠いところで何か大事なものになるような気がした。




 ああ、そうだ。むかし、じっちゃんの勉強で習ったことある。
 これがきす、ってやつか。


 悪くねえな。


 ひどくどきどきして、柄にもなく自分の体が震えるのが分かった。でも彼女の左肩に添えている自分の右指と、彼女の右の二の腕をつかんでいる自分の左手は出来るだけ震えないようにと願った。
 なぜ震えるのだろう。恐ろしい?違う、あえて言うなら、武者震いのような。この世で一番強いやつに対峙しているときのような。
 そう、この女は自分にとって世界で一番強い。かないっこない。でも、挑まずにおられない。いつか征服したい。

 唇をゆるゆると離し、うっすらと目を開けて彼女を盗み見る。眼前に彼女の白い額があった。そーっと目を落とすと、長い睫毛が赤い頬と瞼の上で伏せられて震えている。そのさらに下で、今口付けた部分を隠すように、内側に覆いこんで引き結ばれた彼女の唇があった。彼は一瞬自分が白い兎を追い詰めた山犬か何かになったように思った。雷の唸りをきいて、ますますそんな気分になった。

 そうだ。こっちだって見せてやらなければならない。


 肩に置いていた指を首の筋から頬骨にすべり上げ、腕にあった指で唇をこじ開けた。「ん、」かすかにうめきが漏れて息が流れ出し、彼の耳元をとおりぬけた。全身が痺れそうな感覚に危うく声を上げそうになったが、それを隠すように唇に吸い付いた。
 二回目のキスは、自分がどうにかなってしまうんじゃないかと思った。胸が締め付けられるのと、全身で彼女を感じようとするのと、先ほどにまさる震え。わけのわからない押し寄せてくる焦り。
 彼女の両手が上がって、かすかに抵抗しようとして彼の鎖骨を押さえ、あきらめたように、助けを求めるようにそのまま軽く爪を立てたとき、無様にも彼はバランスを失って空を踏むのを忘れ、下に落ちてしりもちを着いてしまった。

 彼は慌てて立ち上がりながら呆然とまだ雲の上にいるチチを見あげた。雲はゆっくりとテラスの床すれすれまで降りてきた。壁についた明かりが、彼女の顔を赤く彩っている。激しい風に乱れた髪の中で、彼女はへたりこみながら熱に浮かされたような見たこともないような顔でぼんやりとこちらを見あげていた。何か、得体の知れないものに取り付かれたような目。でも、自分もそんな目をしている。
 肌を痛いほどたたき出した雨が、自分の新しい感情のつぶてのように思えた。
 「早く、こっちこい!」余裕も失って、思わず、両手を差し伸べて大きな声を上げてしまった。はじかれたように彼女が立ち上がった。刹那、一閃の光。

 


 長い悲鳴を上げて、彼の手をとって胸に飛び込むべき相手は、びしょびしょのまま寝室の布団の中に飛び込んでしまった。
 「…へ?」哀れな悟空は、彼女と自分の手を交互に見て、顎を落とした。なんだ。なんだってんだ。さっき舞空術をしくじったのも相俟って、自分がとんでもないバカになった気がした。もともと彼は自身をバカと思っているのだが、神殿でせっかく鍛えた精神が全部無駄になった気すらした。
 気を取り直して、いきなりダンゴムシになってしまったチチに歩み寄り、「ど、どうしたってんだよ、いきなり?」自分でも気の抜けた声だなあ、と思いながら聞いた。 
 「か、かみなり。ほらまたっ」布団の中からか細く震えた声。「はあ?」悟空は後ろを振り返った。ああ、確かに盛大にぴしゃーんぴしゃーんと親の敵のように海を打ち付けている。一発目はちょうど今までいた島の山頂あたりに落ちたのだった。かなり遠いのに、なんでこんなにこわいのか。
 「こわいものはこわいんだっ」彼女は悲鳴をあげ続ける。
 だめだ。これでは続きどころではない。悟空は彼女に聞こえないように鼻で大きなため息をつき、窓を閉め、せめて光が届きにくいように部屋中のカーテンやブラインドを閉めてやった。それから、ダンゴムシの傍に寝っころがり、腕を上に回してぽんぽんと何度も何度もあやすように長いこと叩いてやっていた。雷は自分たちの近くを通り過ぎ(なだめるのが大変だった)、2時間ほどかけて海の反対側へ去っていった。悟空はその間神を呪いたい気分であった。神には下界の天候など関係ないとは分かっていたけれど。神も飛んだとばっちりである。

 でも、布団の上からこのピーピー泣くダンゴムシを抱きしめながら、彼はそれでもあの新しい感情に翻弄されていた。
 (好きだ。オラお前が好きだ)
 口には出せない。いっそ顔が見られなくて幸いだと思った。顔を見て伝えた瞬間、自分が今度こそ本当にどうなるか分からなかった。だってどうしたらこの感情と、欲望が満足するのかがわからないから。おぼろげに判るのは、それがHなことに属するということ。でも具体的にどうすればいいのかわからなかった。本当に自分が山犬のように彼女の体を引き裂いてしまうような気持ちすらする。さもなくばこの腕で抱き潰してしまいたい。ひとつになるまで。
 (好きなんだ)
 優しくしてやりたい。でもそれにも増してめちゃくちゃにもしてしまいたい。彼はきつく唇をかんだ。自分の中にある嗜虐性に絶望的な気分にすらなった。彼はこのとき忘れていたが、この日は満月だった。ずっと後に彼はこの日を思いだして、このときの行き過ぎた衝動は自分の血によるものかもしれないな、と思った。

 雷が去った後、彼女も叫びつかれたのかおとなしくなってそのまま寝入ってしまったが、彼はしばらく煩悶としていた。そっと包みを解き、顔を見たのが悪かった。
 真っ暗な中何度も唇を近づけてはやめ近づけてはやめを繰り返し、しまいに寝台の端で何もかぶらずに寝てしまった。
 (もう絶対、あっちからしてって言うまできすなんかしてやらねえ。絶対。絶対それまで好きだなんて悟られもするもんか)
 支離滅裂。やつあたりにも似た悲壮な覚悟。罪作りな新妻は、何も知らずに布団を抱きしめて眠っている。

 カーテンの向こう、雲のベールを脱ぎ散らしながら、満月があざ笑うような光を投げかけている。
 雷は長く消されていたことについての、月の精一杯の復讐のようでもあった。





 5 


 明けて、いよいよ、明日にはチェックアウトして引越しと言う日の朝。

 「どうした、チチ」
 先に起きていてシャワーを浴びた夫が、トイレに立った後よろよろと寝台に呻きながらうずくまる彼女を見て驚いた声を上げた。
 「ちょっと、おなかが痛いだよ」チチは下腹部を押さえて眉をひそめながら残念そうに言った。月のものが来てしまったのだ。彼女は初日が一番重い。これでは初夜も何もしばらくお預けだ。いろいろあって周期が狂ってしまったのだ。
 「大丈夫か、何か悪いもの食ったか」
 「悟空さじゃあるまいし」頭も痛い。ゆうべは雷のせいであまりよく眠れなかった。本当に雷はダメなのだ。子供じゃあるまいし、と思ってたのにあんなぎゃーぎゃー騒いでしまうなんて情けない。せっかくこれからというところだったのに!彼女は盛大に雷を呪ってきつく目を閉じた。
 「どれ」
 いきなり近づいてきた手が彼女の今押さえていた下腹のあたりに添えられた。
 「ぎ…」

 ぎゃあああああー!

 「な、なんて声耳元で出すんだよ、オラ耳がいいから鼓膜が破れるかと思った!ちょっと腹押さえてやっただけじゃねえか」
 「い、いきなりなんてところ触るんだ、バカっ、悟空さのバカっ」真っ赤になって寝台のはしの方で荒い息をつく。長い彼の指が触れてはいけないところに触れてしまいそうだった。
 「血のにおいもするしなあ、医者行った方がいいんじゃねえのか」
 (鈍感!)さらに赤くなりながら縮こまる。
 「熱は」
 額に指が伸びた。チチは思わず顔を上げた。手は繋いで知っていたのに、思ったより細い、ごつごつした冷たい指だった。(昔聞いただな、手の冷たい人は心があったかいとか…)ふと思い出しているうちに、顔が近づいておでことおでこがくっつけられた。「熱はねえな」
 おでこをつけたまま向けてくる無邪気な笑顔に、胸が破裂しそうになった。チチはシーツの上で触れ合ってた指を握って目を閉じて、かすかに唇を差し出した。いいのか、とかすかに聞こえた。しばらくのためらいの後唇が恐る恐る向こうから重ねられた。もう一度。確かめるように。
 初めてじゃないのに、怖がり。そう思いながらも、自分だって怖がりだ、と思う。
 壁についていた彼の片手がすべりおち、彼女をかき抱いた。

  (あったかーい…)
 彼が両腕で抱きなおし、落ち着く体勢を見つけようとせかせかと動くのにも身を委ねきった。唇が離れ、ふと目が合った。彼女はやわらかく笑った。昨日の憑かれたような切羽詰ったキスではなく、とてつもない充足感だったから。
 夫は睨むように目を細めて、彼女の頭を胸元に強く押し当てた。彼女は彼の肩甲骨をつかむようにして抱きしめ返した。
 
 すき。
 悟空さ。すき。
 泣きたいほどの幸せ。やっと、気持ちがひとつになったような安堵感。
 カーテンを閉め切って薄暗い室内で、外の明るい日差しが彼の背中に漏れこみきらきらしてるのが綺麗だ、と思った。
 彼女はうっとりと瞳を閉じて、ため息をついた。


 そのまま夢心地の中をただよっていると、夫の腹の虫が盛大に鳴った。そういえば昨夜は食べてないから。思わず噴出して気が抜けたが、意外にも夫はそのままチチを押し倒しにかかってきた。昨夜の彼の悲壮な覚悟はあっさり解禁されてしまったのだった。
「えっ、えっ、やだ、悟空さ」
「なんで」声が熱っぽい。そのまま覆いかぶさってきたのでチチはパニックを起こした。できないのに!「まるでオラ熱出したみてえだ、すげー熱い」
「で、でも今、おら」声が震える。
「新婚旅行ってのはこういうことをするんだろ、他の奴らも物陰でしてたぞ。ホントはオラだって昨夜我慢するの大変だったんだ」だったらその時すればいいのに何で急に今に限って!そりゃ自分が雷におっかながって震えててそれどころじゃなかったんだろうけど!
 言いかけた唇にまた唇が重なる。口の中にゆっくりと分け入りながら、チチの耳や顎の辺りをそっと指で撫でてくる。右手はすでに胸のふくらみに到っている。チチは危うく思考を放棄しそうになったが、首筋を辿りだした唇が小声で呟くのを聞いてしまった。
 「女ってヘンなの。何でいきなり股から血ぃ出してんだろ」


 「な、なにすんだよっ、急に頭殴ることねえだろ、そんなにHなことするのがやだったんかよっ」
 体の上で悟空が頭を抱えた。思いっきり拳骨で殴ってやったのだ。
 「ち、違うっ!やじゃねえ!ヘンなこと言うからだ!デリカシーなさすぎだべ!」
 「ほんとの事じゃん、においで分かるぞ。それに独り言だったのにっ」
 「思っても普通言わねえだ!それにだからこれ以上ダメなんだ!」
 チチは体の下から逃れようとあがいたが、体を押し付けられてしまう。
 「だってもうオラ」チチの太もものつけねに硬くて熱いものが押し付けられた。2人とも顔がいっそう真っ赤になった。「なんかもうどうしたらいいかよくわかんねえけど、おめえをどうにかしねえとおさまらねえよ」
 チチは心底自分がなさけなくなった。これだって密かにに待ちに待ったことなのに、いざと言うときに受け止めてあげられないなんて。思わず涙が零れてしまう。
 「だって、だって生理なんだもん、仕方ねえじゃねえだか。おらだってなりたくてなったわけじゃねえのに」
 夫が慌てて体を起こした。「な、泣くなよ。せーりってなんだよ」
 知らねえのか!チチは吃驚して泣き止んだ。まさかここまで物知らずだったとは。それにまさかと思うがこの先どうしたいのか自分でも分かってないようなことを言ってた気がする。いい歳した男が!

 チチは起き上がり、軽くため息をついてから諭してやった。
 「こーいう血が出るのがせーりだべ。大人の女は月に一回こういう風になるんだ。その時は…え…Hなことはしちゃいけねえんだ」
 「…どのくらい」寝台の上に胡坐をかいてうつむいた夫が上目遣いで聞いてきた。
 「1週間もあれば出なくなるだ」なんでこんな説明をしてるのか馬鹿馬鹿しくなってきた。でもそれ以上に口を尖らせて俯いて拗ねている彼女の夫が可愛らしく見えてきた。まるでお預けを食らった大型犬の子供のようだ。
「だから一週間したら。その。していいだ」恥ずかしいながらも思わず慰めてしまう。「キスならそれまでだってしてもいいだ。部屋でなら。さっきまでくらいなら抱き合ってもかまわねえ、でも服脱がして続きしたりはゴメンな」
 「一週間後?」顔を上げた夫が真剣にチチを見た。
 「うん」
 「きすはしたっていいんだな?脱がさなきゃいいんだな?」真剣この上ない。
 「う…うん」
 「わかった。わりかったな」ほっと気が抜けた顔を見せて背中を向け寝台を降りながら夫が笑った。「オラ我慢する。一週間くらいな。おめえはそばにいるんだから」実はかなりやせ我慢している。「すまねえ、腹痛いって言ってたのに。動くのつらいのか?」
 「ううん、起きれるだ。でも今は外にでるのはしんどいだな。朝はルームサービスでも頼むべ。部屋に朝飯持ってきてもらおうな。まってて、すぐ電話するだ」
 「お、やったあ!よーし、早く早く!」
 ほっとしながらチチは夫を見た。もういつもの無邪気なこの人だ。ほっとすると同時に今更震えが襲ってきた。俯いてシーツを握り締め、おさめようとしていると、優しい声がした。
 「…どした?また腹痛いのか」
 「ち、違う…おら、ちょっと、怖かった」ぽろっと言ってしまった。「びっくりした。こわかっただ。でも、嬉しかった」
 「…」真顔になった後ちょっとはにかみながら、夫がチチの手を引いて寝台からおろした。「…オラも」呟いた声は彼女にはよく聞こえなかった。


 神に選ばれた男は盛大に欠伸をした。電話をしている後姿の、背中から腰のラインを盗み見ながら、今晩も眠れなさそうだな、と頭をかいた。正直、大嫌いだった瞑想の修行に、これほど感謝した事はなかった。






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